四 - 2

 本堂をたった二基の行灯が照らしている。


 岩魚と呼ばれた男は声を発さず、身振りだけで座って衣を脱ぐよう指示した。言われた通りにすると、まず両腕の包帯を注意深く確認し、それから身体全体を検めた。異常がなさそうだと判断したのか、最後に慣れた手付きで胸に包帯を巻き始めた。


 つるりとした頭が明かりを照り返している。頭髪だけでなく、眉もひげも生えていない。極端に左右に離れた両目は、常に丸く見開かれている。鼻梁は無く、縦長の穴が顔の中央に二つあるだけだ。への字型の口は耳の下まで裂けている。

 包帯を巻くいずれの指先も奇妙に白く、銛のように尖っている。不吉な乳白色でざらつくそれらには、鋭い返しまでついている。変容の果てに飛び出した骨だろうか。そんな指を起用に扱い、岩魚は手早く包帯を巻いていく。


 時折、指先が肌や傷をかすめ、ちくちくと痛んだ。その度に岩魚がぱくりと口を開く。その正確な意味は分からないが、すまんとか我慢しろとかそんなところだろう。

 ぱくりと覗く口の中には尖った歯が並び、中央に横たわる鉛色の舌も先端が鋭く尖っている。口内は傷だらけだった。口を利かないのは、この舌と歯が理由だろうか。


「おう、済んだか」


 熊雪が這いつくばるようにして入り口をくぐる。


「それじゃあ、もう飯にしちまおう。悪いが小僧は準備を手伝ってくれんか。お前の方はそれが整うまで、わしに全部説明するんだ」


 ――いいな。熊雪が握りこぶしみたいな目玉で俺を見下ろす。

 岩魚が立ち上がり要一に手招きをすると外廊下へと出ていった。熊雪がでかい足を器用に曲げ、どすりと胡座をかいた。


 要一が出ていくのを確認してから、熊雪にこれまでのことを説明してやった。

 もちろん、俺の生業についての詳細は伏せ、臼蟹と洞戒の財布は前金として正式に貰ったことにしておいた。要一から聞いている話と辻褄が合わなくなったときは、適当に嘘を並べて有耶無耶にしてやるつもりだった。

 だが、意外というべきか熊雪は全く疑う様子をみせなかった。

 要一はこいつらに対しても口を利かず、名前すら名乗っていないらしい。どういうつもりか分からないが俺からすれば好都合だった。


「話は分かった。まずは二人の仕事を引き継ぎ、要一を無事連れてきてくれたことに感謝する。臼蟹からは聞いとらんようだが、お前は大切な仕事をやり遂げたのだ」


 熊雪が深々と頭を下げる。

 俺は曖昧に返事を返した。早く銭の話をしたかった。


「それでだな、臼蟹が約束したという報酬の件だが、あー、お前の名前はなんだったかな」


 名前なんて俺には――

 と、答えかけ、危ういところで踏みとどまった。

 名前が無いなんて言っちまえば、日陰者だとわざわざ教えてやることになる。そうなりゃあ、足元を見られ二束三文で、はい、さよなら、なんてことにもなりかねない。だが、咄嗟に名前なんて思いつくはずもない。

 熊雪が怪訝そうに片眉を上げた。まずい。


「――ああ、名前か。名前はだな、ああ、そのお――ちょ、鳥吾だ」


 頭の底からぽこりと浮かび上がってきたのは、あのとき蟹坊主がよこした名前だった。


「そうか、鳥吾、鳥吾か。あのなあ、鳥吾よ、報酬のことなんだが――」


 野太い指が禿頭をぼりぼりと掻いた。


「悪いがそんなものはありゃあせんのだ」


 大きな目玉が上目遣いに俺を見る。


「……何だって?」


「見ての通り、ここは貧しい寺だ。元々蓄えておった多少の金も臼蟹と洞戒の路銀に費やしてしまってな。礼をしたいのは山々なのだが、わしらにも余裕が無いのだ」

「――ふざけんな! 俺が一体何のためにここまで苦労してきたと思ってるんだ!」

「そう大きな声を出すな。悪かったと言っているだろう。わしにも臼蟹がどういうつもりでそんな話をしたのか分からんのだ。あの路銀の意味を理解しとらんはずがないしな。少しでよければ、ほれ、わしの銭をやろう」

「そんなもんで済むか馬鹿野郎! 見ろ! この袋と同じだけの銭が貰えるって話だったんだ! こんなちろっとばかしじゃ、猿酒ましらざけ一杯にもなりゃしねえじゃねえか」

「何をそんなに怒ることがある。まだそんなに残っておるではないか」

「途中でフケたって手元に残る金なんて報酬の内には入らねえんだよ! 畜生! タダ働きだと分かってりゃあ、あんな餓鬼連れて来たりしなかったのによお」

「もういい。もう分かった。少し黙っとれ」


 熊雪は目をつぶると大きな溜息をついた。


「お前はずいぶん欲が深いとみえる。きっと臼蟹はお前のそれを見抜いたのだろうな。報酬があると言えば、要一を無事送り届けるだろうと考えたのだ。あいつは人を見るのが上手かったからなあ」


 熊雪が遠くを見つめて口を閉ざした。

 臼蟹が死ぬ間際に見せた強い眼差しが脳裏を過ぎった。


 そうか。それであの野郎、最期の最期までじっと俺の様子を伺ってやがったのか。きちんと俺が手のひらの上で踊っているか確認してやがったんだ。やけに要一の値打ちを強調するようなあの話し方だってそうだ。

 全てが計算の上だったんだ。畜生。してやられたって訳か。


「そう気を落とすな。あいつも死にものぐるいだったんだ。命の次に大事な金をぶちこんだ大勝負に、お前は負けたというだけのことだ」

「そりゃ馬鹿にしてんのか? それとも慰めてるつもりか? そんな言葉聞かせるくらいなら銭をよこしな」

「面白い奴だ。無い袖は振れんが、代わりに一つ助言をしてやろう」


 熊雪は大声を上げて笑うと、眉を持ち上げ顔を寄せる。


「いいか。お前のような奴は、保って精々あと三年、悪けりゃ一年程度であの世行きだ。人様の懐に手を突っ込むような生き方じゃあ、ろくな死に方もできんだろう」


 なんでこいつ、そんなことを――。

 行灯の明かりに照らされた大きな目玉が睨み下ろす。


「図星のようだな。お前の様子を見ておれば大方の想像はつく。銭で利用されるだけの事を臼蟹の前でやったんだろうとな」


 熊雪が唇を歪めた。嗚呼、畜生。鎌かけやがったのか。


「……ああ、そうさ。だったらどうしたっていうんだ。どうやって飯を食おうが俺の勝手だろう。言っとくが、死んでも銭は返さねえぞ」

「返してもらう気なんて元からない。その銭はお前がやり遂げた仕事に対する報酬だ。わしはお前を心配して言っとるんだ」


 わからんか。熊雪が顎を引いて俺を見る。


「どいつもこいつもうるせえなあ。俺の勝手だって言ってるだろう」

「いいか。お前のような奴は腐る程見てきた。あっさりくたばるところもな。盗みの腕がいくら達者でも、必ず顔は知れていくものだ。そのうち顔を見られただけで叩き殺されるようになる。誰もが生きるのに必死なんだ。こそ泥を憐れむ奴など、どこにもおらん」


 俺の目を真っ直ぐに見て、諭すような口調で熊雪は語った。

 ――そんな生き方もう止めちまいなよ。

 白瓜がいつだか言った言葉が頭に蘇る。


「そんな事言ったって仕方がねえじゃねえか。他にどうすりゃいいって言うんだ。何をやったって、結局、強い奴が全部持っていっちまうじゃねえかよ」

「満足に飯さえ食えれば文句はないだろう。必要以上に稼ごうとしなければ、そう難しいことはない。――おお、そうだ。お前さえ良ければここで暮らさんか。なに、心配いらん。当面は畑の面倒さえ見ていてくれればいい」


 熊雪は唇の左側を持ち上げてみせる。どうやら微笑んでいるつもりらしい。

 思いもしない言葉だった。そんな馬鹿な提案を受けたのは、生まれて初めてだった。


「ああ、畑と言っても蝗の心配はせずともよいぞ。変わった豆を育てておってな。ある筋から譲ってもらったものだ。若芽の内から枯れ草にしか見えんせいか、蝗も食おうとせんのだ。味は今ひとつだが腹は膨れる。こいつが広まってくれさえすれば、諍いは少なくなると思わんか。――あ、おい。まだ人に言うんじゃないぞ」


 熊雪が目を輝かせて語る。豆の話なんか頭に入ってこなかった。脳みそが勝手に荒れ寺での暮らしを想像し始めていた。

 確かに飯が食えて水が飲めれば最低限の暮らしはできる。化け物に襲われない寝床を探す必要も、一口の水すら買えない銭の為に袋叩きにされる心配もなくなる。熊雪がいる限り、少々の野盗や化け物の心配は不要だろう。それほど悪くない話にも思える。


 ――だが、そんな暮らしが俺にできるだろうか。そんなまともな生き方が。


 いつの間にか熊雪の言葉を信じかけていることに気づいた。

 危ないところだ。甘い言葉には必ず裏がある。餓鬼の頃に何度も騙されてきたのを忘れるところだった。


「そんな胡散臭い話には乗れねえな。俺がここで厄介になったとして、あんたに一体何の得があるんだ。……そうか、分かったぞ。お前、やっぱりこの路銀が惜しいんだろ。俺がここに留まれば、銭は実質返ってくるわけだからな。そうはいくか馬鹿野郎」

「金なんかどうでもいいと言っとるだろうに。損得の話ではないのだ。わしにはどうも、臼蟹がお前に真っ当な暮らしをさせたがっているような気がしてな」


 熊雪は深く息を吐いた。


「良清も窮青も捻斉も初めはそうだった。あいつらは元々、兄弟三人で野盗まがいのことをしておったのだがな。臼蟹が長い時間かけて説得し、ここへ連れてきたのだ。どうしても信用出来ないのであれば、銭を使い果たしてから考えればいい。いつでも飯くらいは食わせてやる」


 熊雪は太い指であごひげを掻いた。

 臼蟹といいこいつといい、寺を寝床にしたがる奴は胡散臭い約束を取り付けたがるものらしい。だが下手に信じちゃいけない。痛い目を見るのは他でもない俺なんだ。報酬の話だって嘘だったじゃないか。

 だが拭い落とそうとしても、熊雪の言葉は頭に焼き付き離れようとしなかった。頭が勝手に受け入れようとするせいで、胸の奥までが熱く焼けるのだった。


「まあ、とりあえずだな、飯だけでも食っていけ。お前も見ただろ、わしらだけじゃあ食いきれないほどの肉があるんだ」

「言われなくてもそうするよ」


 機を窺っていたかのように要一と岩魚が戻ってきた。

 膳には薄汚れた椀と小皿が一つずつ乗っていた。椀の中では歪んだ豆がほんの少し炊かれて湯気を立てている。小皿には湯がいた草と小さな芋が少し。草と芋は沼の小屋で要一がほじくり返していたものとよく似ていた。

 たったこれっぽっちでも、温かい飯を食うのは久しぶりだった。腹が大きな音で鳴った。


 早速手を付けようとすると、ぴしゃりと頭を叩かれた。

 顔をあげると岩魚がそばに立っていて、要一が出ていく廊下を指差した。飯を食いたきゃ手伝えと言いたいらしい。一つ舌打ちして立ち上がった。


 建物に沿う形で外廊下を曲がる。補修されてはいるものの、古い建物の割に床板はしっかりしていた。裏手の崖のそばには本来庫裏くりとつながっていたはずの渡り廊下があった。こちらは柱がひしゃげ、落ちた板葺き屋根に押しつぶされていた。

 その手前で廊下が外に向かって傾き潰れている。崩れた板材の作る緩やかな傾斜を下りた先には、ひとまずという感じで庫裏まで木の板が渡されていた。

 泥にまみれた板に一歩踏み出すと、案の定、足の裏が冷たく濡れた。


 これなら地べたを歩いたって同じじゃねえか。


 溜息を落としていると、ふと奇妙な音を耳にした。


 焚き火が並んでいた辺りだった。


 夜の帳が落ちた中、火勢を残しているのは蛟竜の焼かれていた竈の炎だけで、捻斉が火葬されていた辺りは闇に包まれていた。

 その暗がりの中、揺らぐ竈の炎が二つの背を淡く照らし出していた。


 一方は首筋の出来物を神経質に掻きむしりながら。


 もう一方はいらいらと尾を揺らしながら。


 火の絶えた火葬跡に手を伸ばしては、何かを口に運んでいる。こりこり、みちみちと何か噛みしだくような音が響いた。その合間に囁き笑う声がする。


 背中を冷たいものが伝った。


 俺は目をそらし庫裏へと向かった。

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