四 - 3

 二人で合計六つの膳を運び終わると、蛟竜の肉がどかりと盛られた大皿を持って岩魚が現れた。それを丁寧に切り分け、皿に取り分け始める。


「芹と里芋に蛟竜の肉か。今日は豪勢だなあ」


 車座に置かれたそれぞれの膳に肉の皿を置いて周りながら、岩魚が熊雪を見上げた。


「あいつらか? わしは知らんぞ」


 熊雪が肩をすくめる。

 良清と窮青のことだろう。そういえば、膳を運ぶ内、あの場所からもいつの間にかいなくなっていた。


「ま、腹が減ったら来るだろう。冷める前に食っちまおうや」


 熊雪は椀の代わりに丼の乗った膳の前にあぐらをかいた。椀を器用に掴み、豆を口へと放り込む。

 俺も恐る恐ると椀を手にした。これも罠なんじゃないか、なんてまだ警戒しようとする気持ちは、立ち上る湯気をほんの僅か嗅いだだけで消し飛ばされた。


 急かす腹をなだめながらも豆を一口含んだ。小ぶりで萎びた豆粒がぐずぐずとくずれ、ほのかな苦味と豆臭い風味が口一杯に広がった。もう我慢できず、一気にかきこむ。豆がこれほど美味いと思ったのは初めてだった。

 要一も熊雪の隣に座り、口をもぐもぐ動かしている。岩魚も無表情のまま、俺と要一の間に座った。


「どうだ、旨いだろう」


 熊雪が笑って俺を見下ろす。


「この汚え器はなんとかなんねえのか。砂が混ざり込んでやがるぞ」

「綺麗に洗ってやることができんのだ。寺の井戸からも、もう澄んだ水が湧かなくなっておってな」

「何のための器だかわかんねえな」

「ちょっとくらい我慢しろ。器で食べるのが人間だ。それを忘れたら、何のために生きているのかまで見失ってしまうぞ」


 熊雪が訳知り顔で見下ろしてくる。


「わしはな、こうした細かなことまで忘れないでいることが、わしらがわしらでいるために必要なことなんじゃないかと思うんだ。人という器を忘れさえしなければ、きっと、人は人のままでいられる」


 熊雪が一人頷く。

 何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 そんなことより、俺が気にかかっているのは入り口に近い二つの膳だった。その二つには誰も手を付けていなかった。窮青と良清のものなんだろう。あいつらがこのまま戻ってこなかったら、黙って貰っちまうとするか。芹を噛みしだきながら思った。

 膳のひときわ大きな皿には蛟竜の肉がどかりと据えられている。赤茶色に焼けた皮には一定の間隔で切れ目が入っていて、弾けたイボからこぼれる濁った脂がその隙間へ吸い込まれていく。あんな化け物にこれほど食欲をそそられるというのは、なんとも不思議な気持ちだった。


「ほれ、遠慮なんかせんで好きなだけ食え。まだまだ沢山あるんだからな」


 熊雪が大胆に肉を掴み取ると、分厚い歯で引きむしって食べ始めた。垂れた肉汁があごひげをどろどろと濡らす。堪らず俺も手を伸ばした。

 一切れ口の中に放り込むと、泥の塊のような脂肪が舌を覆った。噛めば噛むほど濃厚な脂が滲み出てきて、まるで沼の汚泥を一息に呷ったようだった。もはや旨いのかどうかも分からない脂の沼に溺れながら、こいつを辛い酒で流せたら最高なんだがなあと思う。


 岩魚は肉には一切手を出さず、豆一粒、芹の根一筋を味わうように噛み締めている。

 どうやら熊雪とは対照的に禁欲的な男であるらしい。


「どうだ、わしの倒した蛟竜は。美味いだろうが。どうか綺麗に食べてやってくれ」


 肉も少なくなってきた頃、熊雪が自慢気に声を張り上げた。


「右腕が振るえた頃はなあ、この程度の化け物、ほんの一捻りだったんだぞ。野盗だろうが狒々だろうが一目見るだけで震え上がったもんよ。――だがそれも、あれが起きるまでのことでな。おっ、要一。気になるか? よし、話してやろう」


 なにやら語り始める熊雪に、岩魚がまたかという顔をする。


「ある日のことだ。宿場の主人にちょっとした喧嘩をふっかけられた。そんなに自信があるなら大太羅の塚まで行ってみろとな。何か証拠を持ち帰ってくれば、向こう一年は酒代はタダって条件だった。二つ返事で応じたよ」


 熊雪が俺と要一の顔を交互に見る。


「その時分はわしもまだ若くてな。自分より強いやつなんてこの世にはおらんと思っておった。ちょっとした物見遊山のつもりで旅に出たんだが、塚をひと目見たところで雷獣に出くわしてな」


 熊雪が黒く干からびた右腕をさすった。


「要一、雷獣を知っておるか? 嵐の夜に遠くの空が明滅するだろう。ぐるぐる喉を鳴らして、輝くぎざぎざの触手を伸ばす……」

「そりゃあ、ただの遠雷だ」


 思わず言葉を差し挟んだ。熊雪が待ってましたとばかりに弁を振るい始める。


「もちろんただの遠雷のときだってあるとも。わしが見たのは違うがな。雷獣には幾重にも枝分かれした稲妻みたいな足が何本も生えておってな、それで踊るように地面を蹴って移動するのだ。猫や鼠に似てるって話も聞いたが、わしが見たのは狼だったな」


 黒衣の右肩の辺りを太い指が何度も撫でた。


「えらく近くで雷が鳴ると思って見上げると、真っ黒い狼に似た化け物が浮いておったのだ。まるで傘を広げたみたいに大きな体を広げて涎を垂らし、今まさに食いかかってくるところだった。咄嗟に飛び退きながら腕を振るったんだが遅かった。わしの拳が奴の鼻先に触れると同時に右肩が焼けるように痛んでな。見ると奴の足が一本突き刺さっておった。そのまま転がるように逃げ帰ったよ。奴もよほど驚いたのか、追っては来んかった。傷はすぐに手当をしたんだがもう駄目でな。その日を境にわしの半身は見ての通りだ」

「そんな化け物の話は聞いたことがねえな」

「おう、それじゃあ一つ賭けるか」


 岩魚が喉を唸らせる。


「いいじゃないか少しくらい。今度会うまでに何か証拠になるものを持ってきてやる。その時は酒をたらふく奢ってもらうぞ。もしできなけりゃあその逆だ」

「いいんだな。今の言葉忘れんなよ」

「それはこっちの台詞だ。要一、しっかり覚えておけよ」


 豪放に笑う熊雪に、要一がこくりと頷いた。


「よおし、頼んだぞ」

熊雪が要一に笑いかけた。要一がまた頷き返す。太い人差し指が要一の頭をなでつける。いつものように無表情だが、不思議と嬉しそうに見えた。


「なんだあ、要一。全然食べてないじゃないか。そんなことじゃあ大きくなれんぞ。この先、いつでも食事が取れるとは限らんのだ。食べられる時にしっかり食べておけ」


 要一は俯き、豆を箸でつまむと、小さく開けた口の中へそれを押し込み、咀嚼し始めた。たったそれだけを食うことすら大儀だとでも言いたげな、とろ臭い動作だった。


「なあ、おい。まだその餓鬼をどこかへ連れて回るつもりなのか。こいつを使ってお前らは一体何をやろうとしているんだ」


 熊雪が岩魚の顔を見る。豆を噛み締めながら岩魚が一つ頷いた。


「そうだな。お前に教えんわけにはいかんだろう。どの道いつかは知ることになるしな」


 熊雪はあごを拭うと居住まいを正した。


「わしらには、なさねばならんことがある。要一と共にな。――近頃、頭がおかしくなった者が増えている事には気づいておるだろう。お前の話に出た洞戒や、捻斉のこともそうだ。世に肉体の変容がもたらされてから数百年。人間の体は好き勝手に変容し、いよいよ心すらまともに保てなくなりつつある。それに伴い増える化け物……」

「前置きはいいからさっさと本題に入れよ」

「――いいだろう。単刀直入に言おう。わしらはこの世から、この忌々しい肉体変容、いわゆる〈変異〉を消し去ろうとしておる。心からも体からも人の形を失った者達を救ってやらねばならんのだ」


 真っ直ぐ俺の目を見て熊雪が言った。


「細かいことは省くが、それを実現するために、わしらは大太羅の塚へと向かう」


 想像を越えた答えに、しばらく考えが追いつかなかった。

 ようやく意味を飲み込むと、今度はこらえきれない笑いの波が押し寄せてきた。唇の端がひくつくのを我慢できない。


「そうかそうか、分かった分かった。〈変異〉を消し去りたいっていうなら、そりゃ大太羅の塚を目指さねえとな。清い体の餓鬼も忘れちゃならねえ。それで、塚に辿り着いたらそいつは一体何をしてくれるんだ? なあ、おい、教えてくれよ。神聖な肉体でしか執り行えない儀式があるのか? 裸になって踊ってやれば俺たちの体も新品になるのか?」


 言葉を重ねる内、我慢しきれなくなって、俺は腹が千切れるかと思うほど笑った。

 熊雪も岩魚も冷ややかな目で俺を見ていた。


「順番に説明してやる。だからもう笑うのを止めろ」


 多少怒気を孕んだ熊雪の声。少しばかり背筋が寒くなった。

 胸に手を当て、何とか笑いを落ち着ける。


「はるか昔、この世のありとあらゆる生物を生み出した偉大な存在があった。獣も虫も植物も、もちろん人も、そのお方が産み出したのだ」


 ここまではいいな、と熊雪が話を区切る。この段階でもう笑いがぶり返しそうだったが、それをなんとか誤魔化し、続きを促した。


「いわば、全生命の創造主であるそのお方は、この世の全てを作り終えた後、長い長い眠りにつかれた。横たわる体には土や砂埃が堆積し、やがて塚状に盛り上がった。それが大太羅の塚だ。その名の通り、わしらの創造主――大太羅様の眠っておられる塚なのだ」

「へえ、そいつはえらいな。感動もんだ」


 俺の軽口を聞き流し、熊雪は続ける。


「しかし、役目を終えた今もなお、塚からはその力が溢れ出ておる。鳴き声や叫び声と呼ばれるのがそれだ。力が撒き散らされる限りは、あらゆる生物の体に必要以上の肉体変容が起こり続ける。それを止めねばならん」

「何を信じていようがあんたらの自由だけどよ。そんな話が正しいって根拠は一体どこにあるんだ。そいつが俺達を作り出したなんて話はどこのどいつが教えてくれたんだい」

腐飯ふいいという千里眼と予見の力を持つ老婆がおってな。それが見たのだ」


「――千里眼だって?」


 今度こそ堪えきれず、破裂するかと思うほど笑った。床を蹴り叩き、膳をひっくり返す勢いで笑い続ける俺を、三人は黙って眺めていた。

 それがようやく収まりかけた頃、岩魚がふいに席を立ち、茶色い塊を抱えてきた。壁際の祭壇に置かれていた木彫りの像だった。


「それは昔、とある上人様が彫ったものでな。大太羅様のお姿なのだそうだ」


 それは俺が目覚めたときに手に取ったあの像だった。

 行灯の明かりが、頭の天辺から薄絹をまとった女の姿を照らし出していた。

 ねっとりとした衣の流れや細かな襞まで精巧に彫られており、濡れているのではと錯覚するほど滑らかに磨かれていた。衣の内に隠れているせいか手や足は彫られていない。そのくせ、腰やら尻やら胸やらを覆う布地の曲線は繊細に作られていた。

 薄絹を被っているせいか肝心の顔立ちははっきりしない。辛うじて、曖昧に微笑みを浮かべていることだけが分かる。


「数十年は前になろう。上人様は、大太羅の塚に眠る偉大な存在の元を訪れ、三日三晩寝ずの問答を交わされたのだ」

「はあ、そいつは大層、徳のたかあいお話なんだろうけどよ。塚にそんなもんが眠ってて、しかもお話までしてくれるってんなら、その時点で体に変容を起こすのを止めてもらえばよかったんじゃねえのか」

「それができなかったのだ。大太羅様は長い長い眠りの果てに、我々人間が元々どのような姿だったのかを忘れておられた。我らを蝕む変容を止め、人間を元の姿に戻して貰うには、基となる形を示す必要があったのだ」


 なるほど。何となく話が見えてきた。


「その六鶴ろっかくという上人様は、腐飯の千里眼の力で、赤間あかまという村に世を救う人間が存在することを見つけ出した。捜索を続けた結果、我々が赤間村と要一を探し当てたというわけだ」


 それでこの餓鬼を担ぎ上げているってわけか。こんなの、とろくさいだけの役立たずだってのに。馬鹿馬鹿しい。その上、よくわからねえジジイの戯言の為に、危険も顧みず塚まで向かおうってんだからご苦労な事だ。

 俺からすれば、あの木彫りの像も含めた全てが、お偉い上人様とやらが信者集めの為にでっち上げた与太にしか聞こえなかった。ちらっと聞いただけでも妙なところが幾つもある。それをほじくってやりたいという衝動に駆られたが、なんとなく気が咎めてやめた。


「そんなに上手くいくもんかねえ」

「ああ。間違いなくな」


 機嫌を損ねないよう選んだ言葉を真に受け、熊雪が笑って頷いた。


「何と言っても創造主なのだからな。いまでもわしらのことを気にかけておられるに違いない。苦しみから解き放たれたいと願えば必ず叶えて下さる」


「――えぇ、それは困るなあ」


 本堂の入り口に良清と窮青が立っていた。良清の顔面は黒い汁やら血やらが乾きかけていて、どろどろになっていた。その中で、目玉が不気味に輝いている。


「この世から〈変異〉が無くなっちゃったらさ、僕なんて簡単に殺されちゃうじゃない。困る人の事もちゃんと考えてほしいなあ」


 喉から絞り出すような、不気味な笑い声。


「あのさ、やろうとしてることが逆だと思うんだよね。治してもらうんじゃなくて、もっといっぱいばら撒いてもらえばいいじゃない。みんな同じくらいぐちゃぐちゃになればさ、強いも弱いもなくなると思わない? その方がきっと楽しいよ」

「またおかしなことを考えおって……。そんな事をしたら一体どうなるか分かっておるのか。外を見てみろ。人間も我を見失い、日々化け物は数を増しておる。これ以上、〈変異〉が広まってしまったら、間違いなくこの世は終わる」

「だから弱いままでいろっていうわけ?」


 黒く濡れた顔貌を、行灯の明かりがちろちろ舐めている。


「あんた、やっぱり何も分かってないよ」


 肌に薄ら寒いものを感じた。腕の目が静かに瞼を閉じる。

 そっと後ずさろうとした瞬間、窮青が跳躍した。同時に、ぽおんと間の抜けた音が響く。

 すぐさま飛び退こうとする熊雪、その足に黒のもやがまとわりついた。

 なぜか、くたりと膝を折る熊雪の眼前で窮青が身を翻す。熊雪の足から血しぶきが飛んだ。体勢を崩した熊雪は左腕を床についてたたらを踏むと、ずしんと仰向けに倒れ込んだ。膝のところで切断された足が、静かに崩れ落ちる。


「はは、いいでしょこれ。捻斉あんちゃんからもらったんだ」


 良清は首から何やら赤黒いものを下げ、襤褸の腹側にしまい込んでいる。


 捻斉の腹鼓だった。


 その穴ぼこだらけの表面をぽこんと一つ叩くと、熊雪にまとわりついていた黒いもやが袋の中に戻っていく。


「話し合ったんだ。やっぱりあんたらとは一緒にやれない。殺して奪うほうがずっと楽だし。もう捻斉あんちゃんも文句言わないしね」


 窮青が軽々と着地する。衣の腰の辺りから垂れ下がる大鎌が大きく揺れた。

 唸り声を上げ飛びかかろうとする岩魚を鎌が素早く牽制する。

 間合いを伺い合う二人。俺は全く警戒されていないようで、良清も窮青も背を向けたままだった。気づかれぬよう、更に少し後に下がる。


「自分が何をしているか分かっているのか」


 熊雪が左腕で体を支え起き上がった。寸断された膝から、だぼだぼと血液がこぼれる。


「もちろん。無自覚に僕達を殺そうとする分からず屋を始末してるのさ」


 ひあひあひあと笑い声に揺れる良清の背中。俺は出口に目を向けた。


 二人はまだあちらに神経を割いている。とんずらこくなら今をおいてない。頭の中では半鐘が打ち鳴らされ、腕の目玉達も早く逃げろと騒いでいた。

 良清の体越しに熊雪と目が合う。巨大な目玉が出口の方へと視線を送り、逃げろと言いたげに俺を睨んだ。

 そんなことはとっくに分かっていた。機会を逃せば命に関わるってことも。だけど、どうしても体が動かなかった。

 有り金全てに賭けて、恐怖のせいなんかじゃなかった。逃げ出せる状況にあるのなら怖がっている場合じゃないってことくらい、身をもって学んでいた。

 恐怖以外の何かが、俺の体を磔にしていた。


「誰からも襲われないという点だけ見れば、そんな世の在り方も一つなのかもしれん」


 熊雪が左腕で這うようにして少しずつ窮青との間合いを詰める。


「だが、行き過ぎた変容は必ず精神を歪ませる。その果てには何があるかをお前も知っているだろう。まさか自分だけはそうならないと考えているわけではあるまいな」


 熊雪が急かすように俺を睨んだ。


「そんなの何でもないよ。だって体の〈変異〉が消えちゃったら、僕の残りの人生なんて、ずうっと奪われる側になっちゃうんだから。それと比べればずっとマシでしょ」


 良清が急にこちらを振り返る。


「ねえ、君なら分かるはずだよね。君からは僕と同じにおいがするんだ」

「……頭がいかれてまで生き延びたいとは思わねえな」

「えー、ホントかなあ。君のその痩せっぽちな体から目玉が消えたらどうなるかって考えたことある? きっと、あっという間に殺されちゃうよ」


 良清がにやにやと顔を近づける。


「そうか、わかった! とびきり強い〈変異〉を貰えばいいんだよ。僕達だけ特別にさ。そしたら、どんな奴だって殺せて、好きなだけお金も食べ物も手に入るよね。君もそうなってみたいと思わない?」


 笑顔は確信に満ちていた。

 勝手に同類扱いされたことに腹が立った。だが、言っていることの意味もわかる。正直にいえば、そっちのほうが魅力的だとすら思えた。こそこそスリなんてやる必要のない、一発ぶん殴るだけで金も食い物も巻き上げられる〈変異〉が、もし手に入ったら――。


「どうしたのさ。いらないならいらないって言ってごらんよ」


 勝ち誇った顔の良清。その背後で、熊雪が左腕を床に突き、そっと身を起こしかけていた。切断された足からは今も血が溢れ出ている。浮き出た汗が伝い落ちる。奥歯を固く噛み締めた顔は真っ赤に染まっている。


 あいつ、まだ何かやる気だ。大人しくしてりゃいいのによ。


「僕らはこれが終わったら塚へ向かうよ。その何とかっていう偉いお坊さんを騙すか脅すればいいんでしょ。どうするの? 君も来たけりゃ来たっていいんだよ」


 ――嗚呼、畜生。また道が分かれてやがる。


 寺の坊主どもは住処と飯を約束すると言った。金とは無縁だが、正直それも悪くねえ。


 一方、こいつらと行けば強い〈変異〉が手に入るかもしれない。気に食わねえ連中だし、嘘か本当かも分からねえ。だが、もしも本当なら、これまでとは比べ物にならねえ暮らしが待っている。銭にも飯にも困らねえ。その上、誰も恐れなくていい毎日が待ってる。

 かろうじて生き延びるだけの虫けらのような日々が頭をよぎる。奥歯が鳴った。


 ――ああ、くそう。実は、お、俺もよお。


 こいつらの仲間になるのなんざ簡単だ。後ろでなにか企む熊雪のことを、たった一言伝えてやればいい。


「お、おい、お前――」


 口を開きかけたところで、良清の体越しにあの巨大な瞳と目があった。決死の覚悟に震える視線。思わず目をそらそうとした瞬間、熊雪がにやりと笑った。目玉が再び、出口を示した。


 頭の奥で、ざらりと何かが溶ける音がした。


「――おい、きゅ、窮青とかいったな。お前の考えを聞かせろ!」


 窮青が、気だるげにしっぽを揺らした。


「お前は本当に上手くいくと思ってるのか? こんな貧弱な〈変異〉でよ。毒にまみれただけの痩せぎすと、ぶん回すしか能のねえ大鎌なんかで、本当に大太羅の塚まで行けると思ってんのかよ!」


 窮青が眉間に小さくしわを寄せ、ちら、とこちらに目を向けた。


 瞬間、熊雪が跳んだ。あの巨大な左腕を床に突き、逆立ちするように自らの体を持ち上げると、その巨体からは想像もつかない身軽さで蜻蛉をきっていた。特大の筆を振るったかのように血液がほとばしる。飛び跳ねた勢いそのままに、堅く握りしめた拳を窮青に振り下ろした。

 拳が体を捉える寸前、窮青が素早く脇へ跳んだ。轟音を上げて床が砕け散り、飛び散る破片に窮青が怯む。その隙に岩魚が流れるように背後へ回り、鋭く踏み出し貫手を放った。

 銛状の指先がまさに窮青の体を捉えようとした瞬間。

 ――大鎌の如き尾がしなった。


 岩魚の腕が宙を飛んだ。膨れた腹が斜に裂け、内臓がぼそりとこぼれ落ちた。岩魚は膝を付き、大きな目をさらに大きく見開くと、魚のように口を開いたり閉じたりさせた。

 窮青が悠々と振り返る。指先でツツと鎌を撫でると、大きく振って血を払った。


「危ない危ない。こんなのに気を取られて窮青が死んじゃうところだったよ」


 良清がわざとらしく額から汗を拭うふりをする。


「落ち着こう。一人ずつ確実に殺していけばいいんだ」


 熊雪は床を突き破った腕を引き抜こうとしていた。だが、崩れた木材が拳を噛んでいるらしく、足を失くした体では上手く引っ張り出せない様子だった。

 俺は熊雪のそばまで駆け寄り、腕に手をかけ引っ張った。逃げもせず、どうしてそんなことをし始めてしまったのか、自分でも全く分からなかった。


「あらら、岩魚さん。内臓からお豆がこぼれてるよ。悲しい最期だね」


 窮青の尻尾が鞭のように振るわれる。熊雪の怒号が虚しく響いた。

 岩魚の首が勢いよく胴を離れ、壁際にぼたりと落ちて転がった。


 それと同時、蛙を踏み殺したような声がした。


 何故か窮青の体が雷に打たれたように硬直していた。顔面を両手で押さえ、しばらく体を震わせていたかと思うと、そのまま床に倒れ込んだ。


 一拍遅れて岩魚の体がどうと倒れる。

 それきり何も起こらなかった。後には血液の滴る音と、俺達の荒い息遣いだけが残った。


「――窮青!」


 良清が思い出したように倒れた体へと駆け寄っていく。

 何が起きたか分からぬまま、俺と熊雪は床から腕を引き抜いた。


「おっ、お前ぇ!」


 目と鼻から黒い汁を垂らしながら良清が振り返る。有無を言わさず熊雪がその体を力強く払いのけた。勢いよく弾き飛ばされ壁に激突すると、ぎゃっ、と声を上げ、良清は動かなくなった。

 熊雪は一つ息を吐き、左腕だけで窮青の傍らまで這い寄った。その体を熊雪が仰向けにひっくり返す。思わずぎょっとした。


 窮青の左目があった箇所には、血に塗れた何かが深く食い込んでいた。

 それはなにやら鉛色をしていて、ずたずたに裂けた断面がだらりと垂れていた。


「岩魚の舌だ。首を落とされる寸前に噛み切って飛ばしたのだろう」


 熊雪が窮青の頭を何度か指先で押す。窮青は残った方の目を半端に開いたまま、もう動かなかった。


「馬鹿者が。わしらがどれだけお前を……」


 熊雪が重い息を吐きうなだれる。俺も安堵の息を吐いた。

 熊雪はぐったりした様子で今度は良清の様子を伺い、どうやらまだ息があることを確認すると、再び息を吐き出す。それからゆっくりと自らの帯を解き、左足の付け根を縛り始めた。俺は黙ってそれを眺めていた。


「――どうして逃げなかった。何度も合図しただろう」

 熊雪が止血の手を止めぬままこちらを見る。


「うるせえな。あいつの話にも一理あると思ったんだよ」

 熊雪が、ほおう、と顎を上げる。


「それじゃ、なおさらどうしてわしの手助けなんかしたんだ。わざとらしく窮青の気まで引いておったろう」

「あいつと一緒になるのが急に嫌になっただけだ。俺は一人が性に合ってるんだよ」

「うははは、そいつは格好をつけすぎだろう。なんだ、怖気づいたのか」

「違う。ビビったわけじゃない。ただ……」


「ただ、なんだ」


 熊雪が手を止める。

 巨大な目に頭の中を覗き込まれている気分だった。


「……俺だけ逃げるのは、なんだか悪いような気がしたんだ」


 少しの間があって「ほお、そうか」と大きな瞳が俺を見た。どこか嬉しそうな顔だった。


「それはなあ、鳥吾。お前も人間だということだよ。分かるか」


 少し考え、首を振った。


「今は理解できずとも、必ず分かる日がくる」


 釈然としない俺を前に熊雪は何度も頷いた。

 隅の暗がりから要一が姿を現した。どうやら影に上手く身を隠していたらしい。


「おお、無事だったか。怪我は無いか。よく見せろ。ああ、よし。大丈夫そうだな」


 要一は熊雪の言葉に何度か頷いて応じた後、静かにうなだれ、切断された足を見つめた。

 要一の頬を雫がつうっと伝った。熊雪はその頭を大きな指先でそっと撫でた。


「そんな顔をするな。よく見ておれ」


 熊雪が赤黒い顔を更に真っ赤に染めていきんだ。足の筋肉がみしみしと音を立てて膨張し、切断面から溢れる血が堰き止めたかのようにピタリと止まった。


「この程度の傷、なんでもないわい。こうしておればじきに治る。これまでだってそうだった。わしはまだ死なん。……ああ、死なんとも。だから要一よ、もう泣くな」


 乾いた笑い声は本堂によく響いた。どこか芯が無く、冷えた笑い声だった。

 要一は何度も目元を拭い、そして何度も繰り返し頷いた。


「だけどな、要一。少しばかり休憩が必要のようだ。悪いが一緒に行ってやることはできそうにない」


 声が震える。いつからか唇からは血の気が失せていた。

 要一がもう一度頷いた。潤んだ瞳に行灯の明かりが煌めいていた。


「お前に苦労をかけることだけが心残りだ。結局、何もしてやることができなかったな。重荷を背負ってやることも、足になってやることも、守ってやることもできんかった」


 熊雪は瞼を何度もしばたたかせて大粒の涙をひとつこぼした。要一は大きく首を振ると、熊雪の胸元に抱きついた。


「――なあ、鳥吾。頼みがある」


 大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見る。思わず足先に目を逸らした。

 あの時の臼蟹の眼差しとよく似ていた。心の中の柔らかな部分を見透かされているような気持ちになった。


骨喰ほねばみまでで良い。要一を連れて行ってはくれんか。六鶴殿はそこにおられる。なあに、心配せんでも、わしもすぐに追いつくさ」


 熊雪が力なく笑った。


 咄嗟に答えることができなかった。


 一銭の金にもならない頼み事なんて引き受けたくなかった。だが、それを断ることを躊躇しているのも確かだった。なぜそんな風に思うのか自分でもよく分からなかった。


「……そうか、分かった。やはり金か」


 いつまで経っても返事をしない俺を見て、熊雪が静かに頷いた。決して責めるような口調ではなかった。ただ、憐れむような眼差しだけが光っていた。


「……まあ、そうだな」


「好きなものを持っていけと言いたいところだが、もうここには何も残っておらんだろうなあ」


 熊雪が俯き、呟いた。


「そうか。行ってはくれんか……。しかしなあ、鳥吾。もうじき銭なんて何の役にも立たなくなると思うぞ」

「そんな訳あるかよ。銭は銭だろ。腐りゃしねえし、畑なんかこさえるより何倍も……」

「もう、どの人間もギリギリいっぱいで生きておるだろう。正気を保つのに精一杯だ。近い内に必ずそれが崩れる日が来る」

「そんなこと分からねえじゃねえか。なんでそんなことが……」

「なあ、鳥吾。そうなりゃあ、お前、銭なんてただの骨クズだ。そんなもん、せこせこ集めとらんでパッと使ってしまえ。それには骨喰なんかうってつけだと思わんか」

「なあ、おい。聞いてんのかよ」


 熊雪が血走った目玉を細めた。


「頼んだぞ、鳥吾。お前だって人間なんだ……。ここいらで一つくらい……人間の……」


 ぼそぼそ言葉を落とすと、熊雪はがっくりとうなだれた。

 要一が体を揺すっても、それきりもう何も言わなかった。

 あの太く逞しい左腕も、ふやけた材木のように床に垂れていた。


 小さな背を丸め、鼻をすする要一の隣で、俺はただ立ち尽くしていた。言い知れぬ衝撃が体を貫き、鳩尾に大きな穴を空けていった。


 共に飯を食った人間が死んだ。

 ただそれだけの話だ。


 たったそれだけのことなのに、どうしてこんな気持ちになる。

 それが何故なのか、やはり言葉にはできなかった。

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