四 - 1
カビ臭い布団の臭い。薄闇に格子天井の雨染みが浮き出て見えた。
それをぼうっと眺めている内、我に返り、飛び起きる。
見覚えのない広間だった。布団を十枚は敷けそうな広さの板張り。
布団を押しのけた左腕に激痛が走り、思わず顔をしかめる。
いつの間にか黒い衣を着せられている。袖を捲ると、腕には包帯が巻かれていた。茶と黄色のまだらになっていて、鼻を近づけるとすっぱい臭いがした。
荷袋は枕元に置かれていた。ハッとして中を確認してみると、銭は無事そこにあった。
重い安堵の息が漏れる。銭を失くしたんじゃあ、俺が無事でも意味がない。
まだ一枚膜がかかったような頭に、爪を振りかざす飯炊釜が思い浮かぶ。
そうだ。あの化け物に殺されかけたんだ。それから――
その後のことがよく思い出せない。
立ち上がると床板が強く軋んだ。暗がりでも床の修繕跡が目立った。剥き出しの土壁は所々に穴が空いている。上の方には、かつて漆喰が塗られていた跡が残っていた。
広間の奥には、黒塗りの祭壇が埋め込まれている。金目のものは無い。木彫りの像が一つ置かれているだけだった。
腕ほどの大きさの像だった。手に取ってみると、ぬるりとした質感が指に吸い付く。何が彫られているのか確認しようとするのだが、どうにも明かりの加減ではっきりとしない。どのみち、金とは無縁だろう。そっと元に戻しておく。
開け放たれている雨戸の外から、赤く夕日が差し込んでいた。
広間から出ると、建物を囲うようにして外廊下があり、それを跨いだ先には庭先へ下りる小さな木造階段がある。さほど広くない庭の向こうには、茅葺き屋根の古びた門が、連なる石塀に挟まれて建っていた。庭に下りて振り返ると、入り口の上部には扁額が掛かっていたが、薄汚れていてなんと書かれているかは分からなかった。
やはり見覚えのない場所だった。お堂のようだということしか分からない。建物自体は手入れが行き届いているようだが……。
「おっ、目を覚ましたか」
胴間声と共に、ずんと軽い地響きがした。辺りに影が落ちる。
振り返ると、傍らに褐色の大男が立っていた。その巨体が俺の上にひさしを作っている。
まとった黒い衣の左側ははだけており、その胸元から、はち切れんばかりの筋肉が覗いている。そこから更に怒張し膨れ上がった左腕は、荒縄を何十本もねじり合わせ、無理やりまとめ上げたかのような格好をしていた。皮下で膨れ上がった筋繊維があちらこちらで不自然な瘤を作り上げ、岩のような拳骨で地面を突いて前傾した体を支えている。左足も同様で、隆々とした筋肉の塊が地を踏む様は樫の大木のようだった。
巨人のものを無理やり取り付けたような左半身。だが右の半身はそれとは対照的だった。
衣の右側はそこに体がないかのように潰れている。右袖は固く結ばれており、本来そこから覗くはずの右腕は襟元から出ていた。
それは枯れ枝のように黒く干乾びており、幾度も捻れ曲がった挙げ句、救いを求めるように天に伸びていた。右足も似たような様子であるらしく、袖と同じく結ばれた裾の不自然な膨らみだけが辛うじてその存在を示している。
「そんなにジロジロ見るな。照れるだろうが」
異常に盛り上がった僧帽筋の下で禿頭が、うははと笑った。
なんだこいつ――
逃げるには距離が近すぎた。戦おうにも体躯が違いすぎる。
そろっと後退りする俺を、男は顔の半分を占める左目で睨み下ろす。引き攣れた傷口みたいな右目。太い鼻柱に分厚い唇と、顎全体を覆う髭。顔の右側は黒ずみ縮んでいる。
「おっと、まだ事情が飲み込めんとみえるな。お前から説明してやってくれんか」
男が背中に声をかけると、男の肩からひょこりと顔を出すものがあった。
要一だった。
それを見た途端、頭に蘇る光景があった。
飯炊釜が振るう爪が迫る瞬間――
轟音と共に胡桃が叩き潰されるような音が響いた。
体が飛び上がるほどの地響きと同時に、顔面に泥と生暖かい液体が飛んでくる。
恐る恐る目を開き、ぬめる液体を拭い去ると、眼の前には、赤褐色でこぶだらけの太い丸太が突き立っていた。
訳も分からず、ただぽかんと口を開ける。足元で呻き声がした。
丸太の下から棒きれみたいなものが一つ突き出て、ゆらゆら揺れていた。その先端には三本の鋭い爪が生えている。腕はひしゃげてでたらめに折れ曲がり、あちらこちらから皮を突き破って折れた骨が頭を出していた。周りには黒く分厚い破片が幾つも転がっている。その幾つかには歯がついていた。
二本の腕はやがて巡り合うようにして組み合った。しばらくの間、指を絡め合わせ、祈るように痙攣をしていたが、やがて泥の中に落ちると動かなくなった。
「うはははは。危ない所だったなあ、おい」
頭の上から胴間声が響いた。
丸太が持ち上がり、その向こうから黒衣を纏う巨体が姿を現した。
――助かった、のか?
息をつくと同時に再び世界が反転した。
何が起きたのか考えようにも、痛みのせいでどうにもならなかった。
視界がどんどん暗く狭くなっていった。
薄れゆく意識の中には、倒れた俺を覗き込む要一の姿があった。
大男と要一。丸太のような腕。
そうか。あの化け物をぶちのめしたのは――
「ようやっと飲み込めてきたか? とりあえずだな、そんなところでぼけっとしとらんで付いてこい。皆に会わせてやる」
男は背を向け、強靭な足で飛び跳ねるようにして歩き出した。まだなんだかよくわからないまま、俺もその後に続いた。
男が釜の化け物をぶっ潰したのはわかった。それで、どうして俺はここにいる。
まさか、単に傷ついた俺を助けましたってわけじゃねえだろうよ。前におんなじような目にあったときは、有り金も食料も全部取られちまったんだったよな。
――だが、今回は荷が無事だ。
少なくとも、銭はまるっと残ってやがる。なぜだ?
ひとまず危険はなさそうだが……。
腕の目玉達は全く反応していないし、殺すならとっくにそうしているはずだ。
また面倒に巻き込まれるのか?
とにかく、やばそうな雰囲気が臭ってきやがったら、とっとと逃げられるようにしておかねえと。
庭の地べたは冷たく固く、小石が少なかった。どうやら人が住みついてからそれなりに経つようだ。一帯は土塀に囲まれていた。裏手は切り立った岸壁になっていて、土塀はその岩壁に繋がる形でコの字型に築かれていた。土塀は古びており、あちらこちらが崩れている。隙間を埋めるように岩や材木が積まれてはいるが、まだ塀としての役割をなしているかどうかは怪しい。
「――それで、ああ、どこまで話したかな」
大男が要一に向かって胴間声を張り上げる。着地する度にずしんと地べたが揺れた。
「おお、そうだ。蛟竜の奴を沼から引きずり出すところまでだったな」
片足男が大声で笑った。
「
耳を疑った。
あの蛟竜をぶん殴った? 一発だって?
だが、男の体格には十分な説得力もあった。こいつにかかれば、人だろうが化け物だろうが一撃で叩き潰されてしまうことだろう。
「汚咬をぶちのめして、さあ帰るかというところで塚が叫びおったのだ。今回のはちぃとばかし大きかったろう。流石のわしもくらっときてな。倒すのがもう少し遅れていたら危なかったかもしれんな」
男が豪快に笑う。
「そこへお前がやってきたのだったな。驚いたぞ。なんせ臼蟹と洞戒が連れてくる筈の小僧が目の前にいるのだからな。話に聞いた通りの体をしているのだからなおさらだ。おっと、配慮の足らん言い方だったか。許してくれ」
大きな体を反らし、また、うははは、と笑い声を上げる。
だんだん何が起きているのか見えてきた。
「そういうことだったのか……」
「そうだ。そういうことだ」片足の男が振り返る。「小僧がしきりに袖を引っ張るものだから見に行ってみれば、お前が小便をちびっておったというわけだ。あとは分かるな」
釜を叩き潰し、気を失った俺を担いでここに連れてきたってわけか。
なるほど、かろうじて命を拾ったらしい。
またいつもみたいに要一が考えなしに動いたんだろう。おそらくは、霧の晴れた沼地の奥にこの男の影を見て、助けを求めに行ったんだ。その男が偶然、他人を助けるようなふやけた野郎だったのか。えらく運のいいことだが、まあ、なんだっていい。俺が生きているならそれで構わない。
「こうして生きていられるのは小僧とこの熊雪(ゆうせつ)のおかげだと心に刻みつけておけ」
男がまた豪快に笑った。
いや、待てよ。ということは、だ……。
ぼやけた頭の中で、一つ一つの事柄が少しずつ噛み合い始めていた。
もう一度振り返ると、夕日に染まるお堂と山門が佇んでいた。
嗚呼、やっぱりそうだ。
思わず大声を出しそうになる。
ここが小平寺なんだ――
だから、この男、俺を助け出した上に、金も取らずに手当までしたんだ。だから、要一は助けを求めることができたんだ。蟹坊主から、この男の風体を事前に教わっていたから。
自然と口角が持ち上がってくる。
やっぱり俺はツイてる。死にかけたと思ったらいきなりあがりに到着だ。
ここ最近、妙に運がいい。思い返せば蟹坊主どもから銭を奪ったあの日からだ。
とにかく大事なのは、今、銭の流れに俺の命が乗っかってるってことだ。懐に入った、この唸るほどの銭が俺の命を運んでくれてる。こんなときは、銭の行きたい方に身を任せてりゃあ全て安泰だ。この上、更に報酬まで乗っかるとなりゃあ……。
「何をニヤついとるんだ」熊雪が呆れた顔で振り返る。「向こうの焚き火だ。付いて来い」
太い腕が示す先に二つの炎があった。
漂ってきた煙が目を刺した。腕の目玉達も鬱陶しそうに瞼を閉じる。
手前の炎はコの字型に積まれた岩の中央、土を一段掘り下げた中で燃えていた。
その上には先端を槍状に尖らせた数本の竹が水平に渡されている。岩のような質感の巨大な花のようなものが串刺しにされ、炙り焼かれていた。
大きく開かれた口内には俺の頭ほどの歯。イボだらけの表皮がパリパリに焼かれ、滴る脂が落ちる度に炎が大きく上がった。じゅっと音を立てて煙が上がる。
「こいつはすげえな。蛟竜の丸焼きか」
熊雪は俺の言葉を無視し、もう一方の、奥の炎へと向かう。
脂の焼ける香ばしい臭いに紛れて、気分の悪くなる臭いが鼻を突いた。
すぐに分かった。あの臭いだ。鼻を摘んで熊雪の後に続いた。
奥の炎は、丸焼きのそれと比べてかなり穏やかなものだった。火勢こそあるが、炎の揺らぎが少なく、どこかしんと冷えていた。
平たい岩の上に並べられた薪が燃えている。その上でむしろの被せられた何かが焼かれている。炎に煽られめくれ上がったその端から、太い足が二つ覗いた。
やっぱりな。これは人の焼ける臭いだ。
炎の傍らには、手を合わせる男が一人。熊雪はそちらへと近づいていく。
「さっき塚が鳴いたでしょ。あれで駄目になっちゃったんだ」
ふいに耳元で声がした。
飛び退き振り返ると、痩せぎすで目のぎょろぎょろした男が立っていた。歯を見せ、やっ、と手を挙げるのは、あの夜、焚き火のそばにいた良清とかいう男だった。
「どうしてお前がここに……」
「なんだあ。もう面識があるのか」
熊雪が振り返った。
「あはは。まあ、ちょっとね」
良清がへらへらと応じる。
そうか。こいつらに面識があるなら頷ける。
あの捻斉って野郎が要一の体に興味を持った理由。
ありゃきっと、ここに連れ帰ろうと思ってたんだ。要一の目的地がこの寺だって知っていたんなら、ここ坊主どもに見せようとするのが自然だろう。
そのせいでこっちはかえって面倒に巻き込まれちまったわけだが、文句を言おうにも当の捻斉の姿が見当たらない。
「――これ、暴れて手がつけられなくなっちゃってさ。僕と窮青で殺したんだ」
ふいに良清が息のかかるほど顔を近づけ、ささやくような声で笑った。
むしろがぬらりと波打った。むっと嫌な空気が流れてくる。
「臭い。臭いよね」
「……ああ。死体の焼ける臭いってのは何度嗅いでも慣れるもんじゃねえな」
「違うよお。そうじゃなくてさあ」良清が甲高い声を上げた。「臭いっていうのは君のことだよお。なんだかおしっこみたいな臭いがするじゃない」
良清はぬっと顔を近づけると鼻を摘み、ひあひあと喉を鳴らして笑った。
――何だ、こいつ。
気味の悪さに思わずもう一歩後ずさる。
俺たちの間を割るように、一陣の風が吹いた。べろりとむしろが捲れる。
その下から太鼓腹の巨漢が現れた。腹には大小無数の穴が穿たれている。
こいつは確か――。
「大変だったんだ。捻斉あんちゃんはすごく強いからさ」
なんでもない口調で良清が首を鳴らす。
「窮青もかなり強いけど、ほら、あの鎌って大ぶりじゃない。誰かが足止めしてないと当たらないんだよね。その足止めができる捻斉あんちゃんが正気を失ってるんだから、そりゃあもう大変だよね。血みどろだよ。どうにか二人がかりでとどめを刺してさ……」
くちゃくちゃと唇が動く。
そうか、あの大男はやっぱりあそこで駄目になっちまったのか。
塚の鳴き声の影響を受け続けると、どこかでああなると聞いたことがある。蟹坊主のそばで倒れていた洞戒ってやつも多分そうだ。時期はそれぞれで、早いものもあれば遅いものもあるという。
捻斉とかいう男、あれだけしっかりものを言っていた人間が、たった一発の鳴き声でああなるものなのか。もっと予兆のようなものがあると思っていた。だったら、俺も次で駄目になっちまうかもしれねえってことだろ。ぞわりと自然、身が揺れた。
「おい、良清」熊雪が振り返る。「兄貴が死んだんだぞ。悲しくないのか」
「もうお別れは済ませたからね。窮青がとどめを刺す時にさ」
良清が応じる。
「僕が足を押さえてたんだ。窮青が鎌で胸をぶっ刺してさ。あんちゃんの体がどんどん冷たくなっていって……。ああ、もうお別れなんだと思ったら悲しくて悲しくて。いっぱい涙が出てきたよ」
言葉とは裏腹に淡々と良清が言った。その表情からも感情を読み取ることができなかった。
「だけどそれももう終わったことだよね。だって死んじゃったんだから」
「そんな言い方はないだろう。死んでしまっても捻斉はいなくなったわけじゃない。あいつの事を思い出してみろ。胸を吹き抜ける風の中に温かく感じるものがあるだろう。あいつは今でもそこにおる」
「何いってんの?」良清が鼻を鳴らし、口角を歪める。「捻斉あんちゃんは胸の中にいるの? それともそこで燃えてるの? 胸とか頭にあんちゃんがいるなら、死体に手を合わせるのはどうして? そんな無駄なことするくらいなら、みんなで肉を食べてあげたほうがずっと良いと思うけどなあ」
「馬鹿者。兄弟の肉を食う奴がどこにおる」
「兄弟だからこそ、僕たちの糧になった方が喜ぶんじゃないのかなあ。ただ燃やしたって無駄になるだけでしょ。ほら、魂っていうのが本当にあるなら、食べてあげたほうが僕の中に残りそうな気がしない?」
良清が自分の胸を押さえる。
「何を馬鹿な……。荼毘に付すのに無駄もなにもない。これは捻斉に払う最後の敬意なのだぞ。野ざらしにされ、獣や化け物に食い散らかされる野盗連中とは違うという……」
「僕たちと獣や化け物はそんなに違うものなの? 彼らを下に見れるほど僕らはそんなに立派なの? そもそも化け物の肉なら食べてもいいけど、人間は駄目っていうのが僕、よくわからないんだよね」
「お前またそんなことを……」
「ああ、はいはい。もう分かったからさ」
良清が首をにやにやと首を掻きながら振り返った。
「ごめんね。僕っていつもこんなでさ。あんまり話が合わないみたい」
ぶつりと潰れたできものから黒い汁が飛んだ。
「人の死とか、痛みとかさ。――あ。それ、まだ治ってなかったんだ。痛い?」
良清が俺の胸元を指差す。
釣られて視線を落とすのと、良清が素早く手を伸ばすのはほとんど同時だった。焚き火のときと同じ、走り回る鼠でも捕らえるかのような、妙に殺気立った動きだった。
「――良清!」
熊雪の怒号が轟いた。黒い指先が、飛び退く俺の胸に触れる寸前、目の前を巨大で分厚いものが凄まじい勢いで通り過ぎていった。巨大な蚊でも破裂したかのような音と、その奥で小さく、ぎゃ、と叫びが上がった。ごう、と吹き抜ける突風が顔面を強く打つ。
熊雪が回転し終えた独楽のようによろめき、ずしりと地面に倒れ込んだ。左手は黒い汁でべっとりと濡れていた。良清は石壁のあたりまで弾き飛ばされ、そのまま地べたに倒れ込むと、動かなくなった。
どこからか窮青が現れ、良清の傍らへと歩み寄る。慌てる様子はなく、だるそうに屈み込むと良清の顔色を伺い、こちらに視線を送る。黄色い眼光が恨みがましく瞬いた。
「触られなかっただろうな」
熊雪が地面に腕を突き、体を起こす。
「できものから黒い汁が噴き出ておっただろう。ありゃ猛毒だ。傷口から入れば、半日も保たずに内側から溶け落ちるぞ」
ぞっとして傷口を見る。――が、一見して黒が付着している箇所は無さそうだった。
「あいつは時折、戯れ半分でこういうことをするんだ。当人には全く悪気が無いからたちが悪い。またきつく言っておかねばならんな」
やれやれといった調子で熊雪が呟いた。
助かったと思った直後、また死にかけた。汗で冷えた肌を鳥肌が覆っていく。
「岩魚よ、すまんが毒のかかった箇所がないか確認してやってくれんか。ついでに胸の傷に包帯もな。わしは手を洗わねばならん」
荼毘に付された死体のそばで、手を合わせ、もごもごと口を動かしていた坊主がこちらを見た。名の通り、魚のような顔をした男だった。
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