三 - 3
「いちいち立ち止まるんじゃねえ」
ぐん、と首の荒縄が引かれた。つんのめるように前に出る。
いつの間にかまた、
いつものように陽は高く、いつものように喉が乾いていた。
首に食い込む荒縄に手をやると、触れた箇所がひりひりした。また皮膚が破れているんだろう。滲んだ血を指先ですくい、こっそり舐めると少しだけ口の中が潤った。
早く終われ。早く終われ。
風で白の灰が舞う。縄を掴む隆々とした腕を見ながらいつもの呪文を唱える。
男の背には袋状に変容した皮肉。痩せた顔がぎょろつく目で振り返る。粘つく黒い歯をなぞる舌。隣には白瓜の白い肌。汗を流すこともできていない。
夢だってことは、わかっていた。
それなのに、こみ上げる吐き気を感じているのが、荒野を歩く俺なのか、それとも眠っている俺なのか区別がつかない。
灰で埋め尽くされた荒野の只中、ぽつんと赤銅色の捻れた木が立っている。
ほら、あの根本で白瓜が倒れるんだ。
白瓜が吐き戻すような咳をする。目が合うと、人目を忍ばせるような頷きを返してくる。
こいつもいま、俺と同じように夢を見ているんじゃないかと思えてくる。
少しだけ丸く盛り上がった丘が近づく。赤銅の木はその上に生えている。
丘を登る痩せぎすの足に、灰が蹴り落とされてくる。
覚めろ。覚めろ――。
首筋を焼く日が痛い。
糞野郎が俺を見て笑う。はじめはにやにやと。やがて歯を剥き出して。
嗚呼、この野郎。全部わかってやがるんだ。
俺がこれを夢だと信じているってことを。
実際は夢なんかじゃねえってことを。
だって、見ろよ。こんなにあっさり赤銅の木を通り過ぎちまう。
息を飲み、白瓜に視線を投げる。
白瓜が微かにほほえみ、木の根元、ぱたりと倒れ込む。
割れるような頭痛に目を覚ます。
幸いな事にまだ日は沈んでいなかった。
頭を押さえながら体を起こすと、途端に内臓がしごき上げられるような感覚に襲われた。地面に手を付き
両腕の眼窩の中で目玉達が握りつぶされたみたいに痛んだ。全ての瞼が見開かれ、温かい涙が腕を伝い落ちていく。
口元を拭って両腕に目をやる。変化はすぐに見つかった。
左の上腕、肩の近くに小さな切れ込みが入っていた。焼きごてを押し当てられたような激痛と共に、体の内側が溶けて作り直されていくのを感じる。
畜生。昨日の今日だっていうのによお。
思わず舌打ちする。
全部、あの音のせいだ。頭ん中をぐちゃぐちゃに掻き回しやがる。
あれが何なのか俺には分からない。誰もが「塚が鳴く」とか「塚が叫ぶ」と表現するところをみると、原因は
身も心もぐしゃぐしゃになった人間が集まっているだとか、塚を一目見ただけで体が鼻紙みたいに丸まっちまっただとか、山のように巨大な化け物が棲み着いているだとかな。
体が歪んじまう原因だっていうのもその一つだろう。
俺にしてみりゃ、そんなことはどうだっていい。噂は噂でしかない。この目で見て、肌で感じたこと以外は無いも同然だからな。目にしたこともない塚とやらが、本当に人の体を変容させていようが、俺には関係ない。
だが原因がなんであれ、この不定期に訪れる気絶と目眩、それから痛みの伴う体の変容だけは我慢ならない。そのせいで幾度死にかけたか分からないし、地べたがぐるぐる回ってたんじゃ足元の銭すら拾えやしない。
とりあえず、今はとっととあの馬鹿を起こしちまわねえと。
地面に手を付き立ち上がる。突き刺すような頭痛がこめかみにまだこびりついていた。
あれだけ漂っていた濃霧は煙草の紫煙ほども残さず消え去っていた。僅かに漂う残滓が、橙に燃える日の光をぼんやり遮っている。
すっかり見通しの良くなった湿原には、朽ちかけたぼろ小屋以外に目立つものは何も無かった。あちこちに生える腋毛のような黒い草。葉のない捻れた木々。あとは泥濘から顔を出す足の無い虫くらいだ。
突風が全て吹き飛ばしていったのか、或いは蛟竜も気を失ったのか。どちらにせよ、寺を探すなら今をおいてない。
葉っぱをほじくり返していた辺りに要一は横たわっていた。血の気のない肌。ひっくり返った荷物。泥のくぼみに溜まったゲロ。大丈夫だろうとは思いつつ、屈み込んで首筋に手を当てると、きちんと脈はある。気を失っているだけだ。
――何だよ。何も特別なことなんかない。生まれつき体がおかしいってだけの餓鬼だ。〈変異〉してないってだけで、ちゃんとあの音にも影響を受けてやがる。
「おい、起きろ。もう行くぞ」
丸い頬を何度か叩いてやると、もそりと体を動かし目を開いた。
要一はしばらく泥だらけの指で目を擦っていたかと思うと、はっとした様子で体のあちこちに目をやったり触ったりし始めた。それは体に変化が出たか確かめる、俺達の仕草とおんなじだった。それがなんとも言えず癪に障った。
「なんだ、そりゃあ。お前、俺に対する当てつけか。化け物になってないか確認しないと不安ですってか」
足の裏で側頭部を強く押す。小さな体が泥の中にぶっ倒れた。
「そんなことしてる暇があったら、とっとと荷物をまとめちまえ」
要一はよろよろと泥まみれの体を起こし、荷物を触り始めた。
俺は沼無花果の実を幾つかもいで懐に放り込むと、振り返りもせず歩き出した。
だが、ほんの数歩踏み出したところで、再び目眩に襲われた。今度のは立っていられないくらい強烈だった。地面が頭の上をぐるりと通り過ぎ、豪快に泥の中にひっくり返った。
身を起こそうとするのだが、渦を巻くような目眩が邪魔をしてそれすらままならない。
小豆色の泥濘が回っていた。立ち上がろうとしてはまた、体が泥に吸い寄せられる。
ずず、ず……。
奇妙な音がした。
焦点の合わない視界の端、黒く丸いものが泥の上を動いていた。
それは無人の小屋の端から姿を見せると、ゆっくり俺の方へと近づいてくる。
あの飯炊釜だ。
胃液をこぼしながらうっすらと思った。
ふいに、それがついと宙に飛び上がった。俺をめがけて黒い塊が落下してくる。うめき、身を捩ると、かろうじてかわしたその場に、どち、と音を立てて釜が落ちた。
喉から短く息が漏れる。それに紛れて声がした。声は釜の内からしていた。くぐもった、はっきりしない声だった。暗い釜の内に反響するせいだ。それでも、そのぼやりと湯気が上がるような声には苛立ちが含まれているのが分かった。
釜の中から、ぞろりと黒いものが生えてくる。それが髪の毛なのだと気づく間もなく、黒をかき分け骨ばった腕が伸びて出る。それぞれ三本きりの指には、その細さに見合わぬ大ぶりで鋭い爪。それが空を掻くように踊ったかと思うと、泥の中から何かを拾い上げた。
ハッと懐に手をやったがもう遅かった。
三本の指には、俺が落とした無花果の実が握られていた。
「……嗚呼、こりゃ……してやらんにゃいけんの」
無花果の実が握りつぶされ、指の隙間から黒い飛沫が飛んだ。毛の中から更に二本の腕が生えて出る。
腕の目玉がまばたきをし始めた。やばいのは分かっていた。だが、まだ体が言うことを聞かなかった。立ち上がるのを諦め、泥を掻くようにして後ずさる。
飛び跳ねるようにして釜が追ってくる。振り回される黒い毛と三本の腕。
泡立った汁が釜の縁から滴り落ちる。ぷんと涎の臭いが立った。
釜はやはり歪んでいた。特に涎が伝う釜の下部はそれが顕著で、奇妙にぎざぎざしていた。釜が間近に迫ると、それが四角や三角の粒が並んでできていることにまで目がいく。所々欠けたそれらは、どう見ても人の歯としか思えない形をしていた。
こいつは釜なんかじゃないんだ。〈変異〉した頭蓋骨だ。
内部に収まる目や鼻や口がどうなっているのかは見えずとも、それらが狂気に歪んでいることなど明らかだった。あの家で一人暮らす内、頭の内側一杯に歪んだものが溜まり、遂に吹きこぼれちまったんだ。
宙を舞う釜。振るわれる大爪が足元の泥を
「……しん……んじゃ……わしん……わしんじゃ……わしんじゃ……わしんじゃ」
体中からとめどなく汗が吹き出てくる。ゾッとするような冷たさが死を予感させた。
無理矢理立ち上がろうとしてひっくり返る。もう一度試すが駄目だった。目眩と吐き気が邪魔をする。後ずさるのでやっとだった。
回らない頭がぎくしゃくと生き残る手段を探り始める。
そうだ。全部あの餓鬼のせいにしちまおう。それしかない。
浮かんだ名案に思わず顔がほころびかける。
ところが、口を開きかけたその時。渦を巻く視界の彼方、よたつきながら走り去ろうとする要一の姿が見えた。
あの恩知らずが、ふざけやがって。俺を囮にして逃げる気だ!
蛟竜の霧は晴れているし、その上やばそうな化け物は俺が引き受けている。腹は満たされ、目的地がこの近くにあるとなれば、逃げるには絶好の機会ってわけだ。
畜生! こんなことなら、嘘でも、もっといい顔をしておいてやるべきだった。そうすりゃ、俺を置いてとんずらこいちまおうなんて考えたりしなかったはずなんだ。
「――お、おい、あいつだ! あいつがよお」
くわん、と音を立てて釜が飛び上がったかと思うと、要一を指差した俺の腕に鋭く爪を振るった。ぶつりと嫌な感触があった。燃えるような痛みが走る。喉から女のような悲鳴が漏れた。
両の目から涙がこぼれ落ちる。深く裂けた左腕は赤黒く濡れ、めくれ上がった肉の切れ目で潰れた目玉は白濁した汁を垂らしている。股の辺りがダルくなって、腿を温かい小便が伝っていった。身を捩り後ずさろうとする俺の頭上に、くわん、と釜が飛び上がる。
嗚呼、俺はここで死ぬんだ。
抗うことなんてできやしない実感としての死が目の前に横たわっていた。目に見えない氷のような腕が背中から差し入れられ、腰骨を引き抜いていくのを感じた。
目に映る全てが色褪せて見えた。濁った空も、赤く燃える太陽も、黒い泥濘も、白い肌も。全てが嘘のようだった。小便で濡れた衣だけが徐々に冷えて現実を知らせていた。
爪が鋭く振り下ろされる。
後退る腕が泥の中を滑った。
咄嗟に両腕で頭を覆うが、すでに死を描く曲線が眼前に迫っていた。
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