三 - 2

 霧の中に佇む建物らしき影を見つけた時、安堵と不安の入り混じった溜息が漏れた。もうそこにあるものを信じられなくなっていた。


 また幻じゃねえだろうな。


 俺は頬を挟むようにして叩きながら影へと向かった。


 姿を現したのは古びた木造の平屋だった。


 平屋と言ってもごく小さなもので、ほとんど小屋に近い。元はしっかりした作りだったんだろうが、柱も壁板も水気を吸って黒ずみ、どう見ても腐りかけている。

 恐る恐る近づき、カビた雨戸に触れた。湿った木の感触。カビの臭いがする。

 隣で要一も同じように雨戸をつついていた。今度はどうやら本物のようだ。


 じっと耳を傾けるが、人の気配はない。

 足音を忍ばせ、そっと戸口に向かう。中を伺うが、やはり誰の姿もない。


 ただ、土間に――。


 土間に、ごろりと何か黒いものが落ちていた。


 飯炊釜だった。飯炊釜が、伏せた格好で落ちている。


 釜に手を伸ばしかけ、やっぱりやめた。

 いじらないほうが良い気がした。


 釜は要一が丸まってようやく入れるかどうかというほどの大きさだった。何者かが隠れている可能性はあまりないように思えた。それでもなんとなく薄気味悪い。よく見れば、釜の形もどことなく歪なようにも感じる。


 土間に置かれた水がめには、たっぷりと澄んだ水が汲まれていた。

 乾ききった喉が音を立てずに上下する。

 恐る恐る柄杓ですくい、そっと口に含んでみる。今朝方汲んだばかりのような新鮮さだった。たった一口飲んだだけで目が覚めた。乾いた喉を心ゆくまで潤し、竹の水筒いっぱいに水を注ぐ。これだけ喉を湿らせることができたのはいつぶりだろう。


 もう一度、喉を鳴らして水を飲み下す。そこで、ふと思う。


 この水は一体誰が、どこから汲んだんだろう。


 ふいに背中で音がした。


 飛び上がるように振り返る。だが、変わらずそこには飯炊釜があるだけだった。

 位置が変わっているわけではない。向きが変わっているわけでも、おそらくない。


 じゃあ、今のは何だったんだ。


 金属を擦るようなあの音は。


 腕の目玉は何も言わない。それでも何か、言葉にし辛い居心地の悪さを感じた。

 いずれにせよ、早く家を出たほうがいいだろう。水を汲んだ人物、この家の家主が、いつ帰ってくるかもわからないのだから。


「おい――」


 柄杓を手にし、水瓶に差し入れる要一に声をかけようとした瞬間、背後で、ずず、と音がした。何か重いものが地面を擦る音だった。


 もう振り返ることすらしなかった。

 まだ水を飲み続けようとする要一の襟ぐりを引っ張り、俺は家を飛び出た。


 霧がまだ濃く漂っていた。流石に、再びこの濃霧の中へと飛び込む気にはなれない。ひとまず足元を見ながら、家の外壁に沿ってぐるりと回る。


 背中に何度も注意を向け、耳を澄ますが、何か追ってきている様子はなかった。

 腕の目玉とも目を合わすが、何も知らせてくる様子はない。


 家のすぐ裏手には、井戸がぽつりとあった。


 驚くべきことに、その周りには黒々とした植物が生えている。

 井戸の傍らには沼無花果の木が腕を広げ、水滴に似た黒い実を幾つも滴らせていた。その足元には背の低い葉っぱがごちゃごちゃ生えている。小さな白い花を咲かせた細かい草やら、大きな扇状の葉やらが生えている。


 蝗にやられていないのが不思議だった。奴ら、雑草だろうが果実だろうが、色さえついてりゃなんだって根こそぎ攫い上げていくっていうのに。


 ――もしかしたら、この霧に守られているのかもしれないな。


 なんとなく、そんなことを思った。


 そばに佇んでいた要一が荷物を下ろし、静かにかがみ込む。何をするのかと思えば、井戸の周りの草を引き抜き、千切りしては荷物へと収めていく。食えるものなんだろうか。

 よく見れば、草は種類ごとに分かれて規則正しく生えているようにも見えた。おそらく、家主が植えたものなのかもしれない。


 要一の傍ら、沼無花果の実を手に乗せてみて、再び強い不安に駆られた。辺りに目をやるが、家陰には変わらず濃霧がかかっているだけで、怪しげな様子はない。


「おい、なんだかここはくせえ。いつでも出れるようにしておけ」


 要一はこちらを見ようともしない。草やその根を荷袋につめている。その頭を足先で小突きながら、沼無花果の太った実をみつめる。思わず涎が溢れ出てくる。


 これだけ蛟竜の霧が濃いんだ。まあ、少しぐらいならいいだろう。


 誘惑に従い、沼無花果にかぶりつく。じゃりじゃりとした果肉の奥、胃酸と唾液を混ぜたような甘酸っぱさに、微かな青臭い香りがした。頭の奥が甘く痺れた。

 焦る指で無花果をもう幾つか引っ掴むと、井戸の反対側へと回った。


 石積みの小さな井戸は赤紫色の苔に覆われていた。屋形も滑車も無く、朽ちかけた蓋だけが乗せられている。足元には片側にだけ桶の残された釣瓶が落ちていた。


 そういえば、要一の野郎、ちゃんと水筒は一杯にしたのか?


 これだけは流石に確認しておかねえと。もし水が足りなくなってぶっ倒れでもしたら、あんな体を俺がおぶる羽目になる。終点が近いとはいえ油断は禁物だ。


「おい、水は汲んだのか」


 霧が覆った無花果の陰を目で追うのだが、要一は出てこない。


「おい」鼻先から汗が垂れた。


 まばたきすらよこさない腕の目玉を祈るような気持ちで撫で付ける。

 不気味でならなかった。濃いばかりの霧も。あの飯炊釜も。手つかずの水も食料も――。


 家主はどこへ行ったんだ。


 そもそも、この地がこんな状態になってしまったというのに、あんな湿気で腐れた家に住み続け、泥に作物をこさえてまで同じ生活を続けようとしていることが妙だ。

 やっぱり、早々にここを立ち去ったほうが良いだろう。地滑りを起こす寸前の崖を見ているかのような気分だった。こういう直感を無視すると、大抵ろくな目にあわない。


 そうと決めたら早いほうがいい。


「おい! さっさとこっちへ来て水を汲め。それが済んだらもう出るぞ」


 そう声をかけた瞬間――。


 巨大な釣り鐘を打ち鳴らしたかのような音が響いた。


 反射的に耳を塞いで屈み込んだ。そんな事したってどうにもならないことは分かっているのに体が勝手に反応してしまう。鼓膜が激しく振動し、巨人の手のひらみたいな分厚い音の波が脳みそを揺さぶる。猛烈な吐き気に、食べたばかりの無花果を吐き散らかす。


 糞野郎。よりにもよってこんな時に――。


 泥の中に倒れ込む。音を追って突風が吹き抜け、俺の体を撫でていく。

 吐き気と激しい頭痛。酷いめまいで上も下も分からない。

 ただ、脂ぎった白い霧が風で鋭く切り分けられていくのが見えた。

 それと共に、意識も千切れ飛んでいった。

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