三 - 1

 首筋に鋭い痛みが走る。気取られぬよう、財布をすり取る要領で素早くはたくと、手のひら大の蚊が潰れた。指の隙間から血と黒い体液が混ざって糸を引く。もう何匹目だ。


 また挑発するかのように耳元を羽音が掠めた。汗の臭いに引き寄せられて、そこいら中から集まって来ているんだろう。距離を取って様子を伺っては隙を見て血を抜いていく。俺のやり方とよく似てやがる。

 背後からピシャリと肌を叩く音がする。肩越しに振り返ると、乳色の霧の中に小さな影がある。ほっと息を吐く。ここまで来て、はぐれちまったんじゃあ笑えない。


 それにしてもこの霧の濃さには困ったもんだ。ほんの一間先ですら見えやしない。

 湿地に差し掛かってしばらくの内はなんとなくけぶる程度だったのが、今やこれだ。どちらを見ても白いもやに包まれていて、どこをどう歩いているのかすら全く分からない。

 かろうじて見える足元にはゆるい泥と黒い草、あとはせいぜい痩せた木が剥き出しの根を泥濘に突っ込んでいるくらいだ。案内代わりに渡されていた平たく長い石の板も、埋もれてしまったのか、或いは俺達が道をそれてしまったのか、しばらく見ていない。


 ――そう。気づけば道に迷っていた。


 見るものに代わり映えがないせいで、同じところをぐるぐる回っているような気さえした。それでも立ち止まるわけにはいかない。早い内に寝床と水を見つけなくてはならない。


 畜生。こんなことなら林にあった池の水を飲んでおくべきだった。気色の悪い虫が湧いてやがったが、襤褸でしてでも飲んどきゃよかったんだ。


 乾きを誤魔化そうと小石を口の中で転がしてみても、もう唾液も出なかった。

 暑かった。霧が幾らか日を遮ってくれているが、それが却って蒸すようだった。足元も悪く一歩踏み出すごとに体力が奪われる。うっかりゆるい泥に足を突っ込まないよう気を張っていなくちゃならない。目の前を酔っ払いそうなほど濁った霧が覆っている。それを吸い込みながら歩く。足を飲む泥が下品な音を立てる。それにしても、嗚呼、暑い――。


 頭が朦朧としている。脳みそにまで霧がかかったようだ。湿った泥の臭い。もつれる足。首筋に垂れる汗。頬に痛み。押し付ける手の隙間から蚊が逃れていく。


 疲労のせいか、また白瓜しらうりのことを考え始めている。いつもの癖だ。


 あの繊維状の皮膚が織りなすしなやかな肌。ほのかな甘みを帯びた体臭は、口にしたこともない果実を思わせる。そして、この世でたった一つの、俺に向けられる笑顔。


 最後に会ったのはいつだったろう。銭で困ったりしてないだろうか。


 餓鬼のころから何度も見た顔が、声が、繰り返し頭に浮かんでは消えていく。

 やがて乳白色の霧の濃淡までもが女の顔に見えてくる。始めはぼんやりと。次第にはっきり。すぐ鼻先に、薄い膜に押し付けたみたいに顔が浮かび上がってくる。目を閉じ微笑む白瓜の顔。目は細く切れ長で、鼻先がつんと上を向いている。ふわりと甘い香り――。


「また盗ってきたのかい」


 頭で声がした。


「そんな暮らし、もう止めちまいな。まともな商売が一番だよ」


 嗚呼。懐かしい。最後に会ったときにはこんな説教食らったっけなあ。本当に口うるさい女だ。今更真っ当に生きられるわけがないのによ。


「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。このままじゃあ、あんたいつか叩き殺されるよ」


 霧が思考に応じるように揺らぐ。

 俺と他の野郎どもとでさほどの違いがあるわけでもねえだろ。せいぜい、くすねるか殺すかって程度のことじゃねえか。


「屁理屈を言うんじゃないよ。そんなのが人からものを奪う道理になるもんかい。飯だってろくに食えないこんな世でさ。あんたみたいなのがいるから、子供を捕まえて銭をこさえようって馬鹿がいなくならないんだよ」


 またその話か。もういいだろ。俺はこうやってしか生きらんねえんだよ。どこの餓鬼が売られようが殺されようが知るもんかよ。


「頼むからもうそんなこと言うのはよしてくれよ。あたしらにとっちゃあ、他人事じゃあないだろう」


 白瓜が揺らめく。


「あたしは心配して言ってやってんだよ。あんたの代わりなんていやしないんだからさ。あたしにはあんたしかいないんだ」


 白瓜が寂しそうに笑った。


「ほら、いつまでもそんな汚いところに突っ立ってないで。こっちへ上がんなよ」


 微笑みを残し、白瓜は霧の奥へと溶けていった。それと共にあの芳香も遠のいていく。


 おい、待ってくれよ――。


 追う足は自然と早くなった。泥から足を引き抜く度にふくらはぎが悲鳴を上げた。乳汁に脂でも溶いたかのような霧が体にまとわりついてくる。頭のどこかで警鐘が鳴らされていたがそんなことはもうどうだってよかった。なんたって白瓜がそこにいるんだから。とにかく暑くて疲れていた。何もかも放り出して、柔らかい体に全てを預けてしまいたかった。よろけるように足を出す。目の前を手で払うと、一瞬、霧に溶ける白い背中が見えた気がした。思わず手を差し伸ばす。


 瞬間、ばしりと痺れるような痛みが走った。


 我に返り腕を見ると、数十個の目玉達がばちばちとまばたきを繰り返していた。

 目の前には、脂っこい霧があるばかりで白瓜の姿なんてどこにもなかった。


 背筋に冷たい汗が流れた。


 むず痒いような違和感を覚え足元を見る。今しがた踏み出した左足が膝下辺りまで泥に飲み込まれていた。驚いて、残った右足で踏ん張ろうとするのだが、ねばねばした泥が絡んで引き抜くことができない。危うく体制を崩しかけるのをなんとか耐える。


 何が起きているのかさっぱり分からなかった。


 白瓜は一体どこに消えた。まさかこの泥沼の奥に――


「白瓜!」


 大声で呼びかけるが返事はない。微かに、霧が揺れただけだった。しん、と耳を打つ静寂が鼓動を早くさせる。もう一度、と大きく息を吸い込んだところで、おかしいことに気がついた。


 あいつがこんなところにいるはずがないじゃないか。


 ほっと息を吐く。が、同時に釈然としない思いも渦を巻く。

 それじゃ、さっきのは何だ。

 疲れのせいで夢でも見ていたってのか。

 悩もうにも辺りを覆う白の中に答えは見つけられそうもなかった。


 まだもやの晴れない頭を抱えつつ、ひとまず足を引き抜きにかかった。

 霧のせいで一目では分かりづらいが、ここから先は水気の多い泥が堆積している様子だった。それが、しっかりと足を食らい込んでいる。幸運にも沼の外に残った右足で踏ん張ってみるのだが、飲まれた足はびくともしない。

 両手を足にかけ、引っ張り上げようとしたそのとき、傍らでだぶりと大きな音がした。


 すぐ右隣、要一が腰まで泥に浸かっていた。


「お、おい!」


 思わず怒鳴りつけるが、それでも要一は足を止めない。自分が泥に身を突っ込んでいることなど全く気づかぬ様子で、前へ進もうともがき続ける。こんな泥沼の果てに大切なものでも見つけたかのように。


 膝をつき、体勢を崩さないよう注意しながら要一の肩を掴む。それでも要一は前を見たまま、振り返ろうともしない。前に進もうにも、実際には沈んでいくばかりなのに、もがくのをやめようともしない。我に返るまでは俺もああしていたんだろうか。


背筋を悪寒が走った。


 ――嗚呼、まさかよ。こいつはあのとき聞いた話とは関係ねえよな。


 あたまにいつだか聞かされた与太話が思い浮かぶ。

 要一はまだ沼の奥を見つめたまま先へと進もうとする。霧の向こうには三角形をした大きな岩陰が見えるだけで他には何もない。


 そうだ、痛みを……。


 爪先で首筋を軽くつねってやると、要一は体を大きくびくりと震わせ、ようやく恐る恐るとこちらを振り返った。肩を掴んで引っ張り、顎で沼から出るよう示す。

 要一は少しの間目を泳がせていたが、すぐに小さく頷き返した。誰に教わったのか、泥に体を浮かせると器用に向きを変え、ゆっくり泳ぐようにして戻ろうとし始めた。俺も急いで足を引き抜きにかかる。


 霧がまた濃くなろうとしていた。


「――霧よ。霧を見ちゃあなんねえのよ」


 あれはどこの小屋だったか。今にも落ちてきそうな天井の下。腹も頭も区別できないほどに肥大した肉塊が声をひそめて言った。


 霧を吐き出す化け物――蛟竜みずちの噂。


「足よ。足がいい。足だけを見て歩くのよ。大概、霧は足までは及ばない」


 顔を上げないよう気をつけながら、足を力いっぱい引き抜こうとする。泥が膝下まで飲み込んでいるせいか、それとも勝手を知らないせいか、要一のように簡単に抜け出すことはできそうにない。地べたに残った右足で突っ張り、思い切り引っ張る格好で力を込めるしかなかった。


「霧は心から望むものの幻を見させるのよ。幻から一人で抜けることはまず不可能。道連れがいるなら起こしてもらえばいい。張り手の一つで目が覚めらあね。だけど、そいつができなきゃおしまいよ」


 要一が固い地面に手をかけた。目玉は警告をやめない。


「霧に従うと、そのうち、にっちもさっちもいかない場所に引き込まれる。流砂の中、迷路になった岩場。――沼地なんかもその一つ」


 ふいに足元の泥がずるりと動いた。沼の奥へと引き込まれそうになり、焦りでぶれた体が倒れて尻餅をつく。


「馬鹿野郎! とっとと手を貸せ!」


 ようやく這い上がった要一が俺の腕を掴んで引っ張る。それでもまだ足は抜けない。それどころか、ほんの少しずつだが、流れに合わせて体が沼の奥へと引き込まれつつある。


「――そうして立ち往生したところでよ。あいつはゆるりと姿を見せるのよ」


 沼の奥に目をやり、ぎょっとする。何かふざけた冗談でも見た気分だった。

 先ごろ沼の奥に見たあの三角形の岩が、駄々をこねるように身を捩っていた。

 左右交互に身を捩りながら沼の中に沈んでいく。俺の足を包んだ泥は、それに引っぱられて岩の元へと流れ込んでいるらしかった。


「早く! 早くしやがれ!」


 体が泥に引きずられる。だが、要一の力では俺を引き上げることはできそうになく、かろうじて、沼地のへりに体を留めておくのが精一杯だった。


 沼の奥の岩が沈む。その先端がまるで花でも開くように四つに裂けた。断面を大小様々な霧色の石塊が埋め尽くしている。それが巨大な臼歯なのだと気づくと同時、足を包んだ泥を冷たく感じた。


「足だ。足がいい。足を一本くれてやる覚悟があれば何も問題ないのよ。蛟竜は動きがのろい。足を食ってる間に逃げりゃあいい。あたしのように運がよけりゃの話だがね」


 ひひひ、と笑う肉塊男が右足をどかりと投げ出す。足は丁度膝のあたりで断ち切られ、先端は骨を肉が包み込むように丸まっている。


 ふざけんな。畜生。指の一本すらくれてたまるかよ。


 沼の中央では、あの歯だらけの花弁がぐるぐると旋回しながら沈んでいく。ゆるい泥が沼の中心へとすり鉢状に流れ込んでいく。左足がそれに引っ張られ、じりじりと沼の奥へと引きずり込まれていく。


「さっさと引っ張れ、この間抜け!」


 沼の底、引っ張られる左足がなにか固いものに触れた。足先で触れてみると、四角くて長くて、ざらざらしている。


 湿地の道を示す石の板だ。あの石板が沼の底で僅かに頭を出している。こんなところに沈んでやがったのか。


 その横腹を這わすようにして足を先端まで導き、つま先を乗せる。


「おい、いちにの、さんで力一杯引っ張れ! いくぞ!」


 合図に合わせて、渾身の力をもって石の板を蹴る。それと同時に襟首を引っ張る要一に合わせて地べたに爪を立てた両手で踏ん張り、右の踵で地べたを蹴り込んだ。


 瞬間、すぽりと体が自由になり、仰向けにひっくり返った。


 身を起こし恐る恐る目をやると、沼の奥、蛟竜が泥を飲みながら旋回し、勢いよく口を閉ざすところだった。


 霧の薄まった沼には、イボだらけで土色の皮膚をしたつぼみが残った。先端には蓋のついた横長の孔が二つ。そこから放射状に、短い毛があぜ道みたいに生えていた。

 流れていた泥がゆっくりと元に戻っていく。

 蛟竜はその中心で、しばらく口惜しげに身を捩っていたが、孔から大きく白い息を吹き出すと、またじっと岩のように動かなくなった。


 背中が強く引っ張られた。振り返ると要一が俺の衣を引いていた。


 ようやく、ほっと息が漏れた。


 嗚呼。危機一髪だった。


 どうやらあの霧のせいで白瓜の幻を見ていたらしい。疲労で弱ったところに幻覚が重なったせいで、うっかり化け物の巣に足を突っ込んだんだ。目玉が知らせてくれなけりゃ、今頃は奴の腹の中だろう。


 今になって心臓が強く鳴り始める。どっと吹き出る汗を泥だらけの襤褸で拭った。

 あとほんの一歩、ほんの一瞬でぐしゃぐしゃに噛み潰されちまうところだった。


 沼から少し距離を取り、両膝に手をつき呼吸を整える。何度も強く頭を振った。疲れも、まだわずかに残った眠気も、頭の外に追い出さなければならなかった。俺がそうする様を、要一は傍らに突っ立ったまま、じっと上目遣いで見ていた。


「そのむかっ腹の立つ顔を今すぐやめろ。そもそも、お前がとっとと気づいて俺を助けてさえいりゃ、こんなことにはならずに済んだんだろうが。――おい、やめろって言ってるだろ」


 振り上げた握りこぶしを、要一は変わらず無表情で見つめている。

 全部諦めたような顔だった。それを見ている内に、なんとなく白けた気持ちになった。


「……もういい。行くぞ」


 振り上げた手で首筋を掻きむしると、俺は再び歩き始めた。

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