二 - 3
「ねえ、起きてくれるかな」
両脇を抱えられ、体が持ち上げられる感覚に目を覚ました。岩でぶん殴られたように頭が痛い。襲いかかる酷い吐き気に、抱えられたまま嘔吐した。
渦巻く視界の中、眼の前に良清が立っているのが分かる。
「どこへやったのさ」
何を言われているのか分からなかった。
ただ黙って疣だらけの面を眺めていると、鼻先に鎌を突きつけられた。
「とぼけないでほしいな。あのちび、どこへ逃したのさ」
震える目で辺りを見るが、焦点は定まらないし視野が狭いし、よくわからない。
「しっ、知るかよ。てめえでどっかに逃げたんだろ。俺だって今の今まで気絶してたんだ」
「嘘だね。君が逃したんだろ。君はあのちびの価値に気づいてた。だから、僕らよりも早く目覚めた君は、あのちびを何処かに逃したんだ。だけど自分が逃げる前に僕らが目覚めた。それで慌てて気絶しているふりをした」
はあ、と良清が息を吐く。腐った泥の臭いがした。
「どこへやったの。早く教えてくれないと。僕らが捻斉あんちゃんに怒られちゃうよ」
喉に鎌先が食い込む。
「待て待てほんとに知らねえんだ。――分かった、俺も探すのを手伝うからよ! それでいいだろ!」
「駄目。このあたりは僕らがもう探したもの。今すぐ居場所を言わなきゃ殺す」
「し、知らねえんだよお。頼むよ、時間をくれよ、な、ほんの少しでいいからよお」
体を捩り可能な限りの大声で喚き散らす。
喉元に当てられた刃先は、ただ添えられているだけのような塩梅で、それ故いつ動くか予想ができなかった。奥歯が震え、命のすり減る音がした。
「あーあ。時間の無駄だね。もう殺していいんじゃない? 捻斉あんちゃんもそろそろ目を覚ましそうだし、あのちび探すのも面倒だし。こいつが全部悪いってことにしちゃおうよ」
良清が俺の背後にうなずきかけた。
「ねえ、さっきの僕にくれた一発とさ、窮青の鎌だったらさ、どっちが痛いかなあ?」
こいつら、俺を殺して責任をなする気だ。
視界から色が失せた。良清がにやにやと笑う。
と、その顔がふいに引きつった。その場で体をくの字に折り曲げ、黒い反吐を吐き戻す。
背後からもうめき声がしたかと思うと、喉元からぽろりと鎌が離れた。突然体が放り出され、地べたに頬を擦り付ける。顔のすぐ横、尾が不規則に痙攣し、びたびたと踊っていた。窮青が苦しげな声を上げる。
「落ち着きなって! 〈変異〉がおさまるまで我慢すればいいだけだろ!」
膝をつく良清が呻くような声を上げる。
青白い皮膚の表面に浮き出た血管が大きく脈打ち、剥き出した歯の隙間からあぶくまじりの涎が垂れる。良清は大きく体を痙攣させたかと思うと、横ざまにぶっ倒れた。
背中でもう一つ倒れる音を聞きながら、俺はゆっくりと体を起こした。
地べたに這いずり、苦悶の表情で身を捩る二人。その体がいびつに変形し始めていた。良清の皮膚を覆うできものが沼に浮き出るあぶくみたいに次々と膨れ上がり、またのたうつ窮青の尾の先では地を打つ鎌が更に大ぶりに反り出てくる。
クソ。早くしねえと俺も――。
焦りにつんのめりながらも広場を出ようとしたところで、案の定、右肘に鋭い痛みが走った。消えかけていた目眩と頭痛が蘇ってくる。
ふらつくままに近くの木にもたれかかる。立っているのですらやっとだった。
両腕に力が入らなくなっていた。腕の全ての眼窩の奥に焼け付くような熱を感じる。目玉達は気でも狂ったかのように出鱈目な方向を睨んではまばたきを繰り返し、充血させた白目のふちから熱い涙をこぼす。
右肘の辺りに、焼けた火箸でかき回されるような痛みが走った。じりじりと皮膚が裂けていく。その奥に小さなしこりが形成されていくのが分かる。
風もないのに枝が音を立てた。もたれていた木の幹が俺を突き倒した。
一本、また一本と、辺りの木々が身をくねらせる。溶かされ引き伸ばされるかのように、ぐにゃぐにゃと幹や枝を伸ばしていく。踊り狂う木々の奥の奥、焚き火の光の届かない暗闇にも、腰をくねらせる影を感じる。
闇が手招きしているようだった。
胃液が頬をつたって落ちた。
目の前にあるもの全てが歪んでいた。今この瞬間、あらゆる生物がそうだろう。
この世の全てが醜く歪んでいく。
塚から響く、あの鳴き声のせいで。
鳥も獣も虫けらも、木や草だって身を捩っておかしくなる。強いものはより強靭に、化け物はより化け物らしくなる。また叩き殺される目が増えたってわけだ。
裂け目を指先で押し広げると、小指の先程の小さな目玉がきょときょとと動いている。
変容が落ち着いてきたからか、腕の痛みは少しずつ治まっていた。目眩も耐えられないほどじゃない。
よし、今のうちだ。さっさと逃げねえと。
立ち上がろうとしてふらつき倒れる。まだ走るのは難しそうだ。仕方なく、四つん這いで木の根を越えるようとするその眼の前、太い脚が突き立った。
見上げると突き出た太い腹。
「むやみな殺生……。むやみやたらな殺生は……」
捻斉が腹の向こうで何処か遠くを睨んでいた。先程までの堂々とした居様は消え、口はだらしなく開いたり閉じたりされる。その中でもちゃもちゃと何事か言葉を噛んでは、唾液と一緒に垂らし落としている。
嗚呼、こいつは……。
「あんちゃん、捕まえてよ。そいつがチビを逃したんだ」
背後で良清が声を上げる。
捻斉はそれに応じることもなく、ただぽおんと腹を叩いた。
腹は俺の頭のすぐ上にあった。あの黒い煙が吹き出てくるのを、否応なく眼前で見ることとなった。
一見、煙であるかに見えたものは、極小の黒い羽虫の群れだった。それがじゃむじゃむと音を立てて腹の大小まばらな穴から飛び出してくる。俺は体中にたかり、食らいついてくる羽虫どもを
未だうねるのをやめない根を越え、体を
元の場所まで戻った頃、ようやく林は身をくねらすのをやめた。
白み始めた空の下、木のうろから銭袋を引きずり出して荷袋にしまい込んだ。
嗚呼、畜生。もっと用心深く様子を見ておくんだった。いくら腹が減ったからって、あんな馬鹿な行動を起こすなんて思いもしなかった。おかげで大損だ。次はもっと上手くやらねえと。
荷物を背負い、忘れ物は無いかと辺りを見渡していると、頭上で枝を揺する音がした。
薄い朝日を背景に、何かが慌てたような勢いで下りてくる。身構える俺の傍らに、小さな影が尻から落ちてきた。
「――この野郎」
小さな頭を拳骨で力いっぱい殴った。要一が声にならない声を漏らした。
「一人でとんずらこきやがって。おかげで死にかけたじゃねえか。先に目が覚めたんなら、せめて起こすくらいのことはしろ馬鹿野郎が」
顔面をぶん殴り、脇腹にも蹴りを一発くれてやる。要一は襤褸の袖で真っ赤な目をこすりながら、肩を小刻みに震わせて泣き始める。
「いいか、よく聞け。俺が死んじまったらお前も終わりなんだからな。俺の代わりを見つけるより先に化けもんに食い殺されるか、あいつらみてえな野盗崩れにとっ捕まって奴隷にされて終わりだ。それが嫌だったら何をすりゃいいのか、その時その時でよく考えろ。分かったな!」
小さな頭が何度も頷く。その度に汗だか涙だかのしずくがぽたぽた垂れ落ちた。
「いつまでも泣くんじゃねえ。もう行くぞ」
根を跨ぎ越しながら、昨夜かけた言葉をふと思い出した。
――飯が足りねえってんならてめえでどうにかしろ。
まさかそれで飯を探しに出たんじゃねえだろうな。言葉の通り受け取りやがって。もう少してめえで考えてから行動しろ。阿呆がよ。
唾を吐き捨てると、明烏が一つ鳴いた。
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