二 - 2

 飛び起きようとするのを、腰で押さえつけるものがあった。


 手足をばたつかせかけたところで、自分が木の上にいることを思い出した。己で結わえ付けた帯が腰を締め付ける。全身が汗でぐっしょり濡れていた。襤褸の襟ぐりから嫌な臭いがした。一つ息を吐き出すと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。


 耳の穴から、どろりと夢が溶け出ていく。


 きっと目的地が近いせいであの日のことが夢に出たんだろう。大金をふいにしちまいそうでおっかないんだ。

 それもこれも、あの阿呆が好き勝手動き回って問題を起こしやがるせいだ。

 蹴躓く程度ならまだいい。まずいのは、立ち往生してる奴を見つけちゃあ、金にもならねえのに手を貸そうとしやがることだ。そんな甘えた人間がどんな目に合うかなんて散々見てきたはずなのにやめようとしない。

 そのせいで俺まで危険に晒されるんだから、悪夢のひとつくらい見ても仕方ないだろう。


 案外、割に合わない仕事かもな。


 一つ溜息をつくと、またあの臭いが鼻をかすめた。

 下を覗き込むと、枝にしがみつく要一の背中があった。


 畜生が。小便の臭いで起こされる身にもなってみやがれ。

 林に舌打ちが響く。


 まあ、それもあと少しのことだ。それほど神経質になる必要もないだろう。勝手をしないよう、手綱さえしっかり握っておけばいい。

 昨夜のことを考えてみれば、あれだけ走れるんだから餓えもまだそれほどじゃねえ。枯れ草を噛ますか石でも舐めさせてりゃ唾液も出る。いきなりぶっ倒れたり死んだりする心配はしなくて良さそうだ。いざとなりゃ地蟲でもミミズでも食わせて、泥水をすすらせればなんとでもなる。

 とにかく、ぶっ倒れるのだけは勘弁してもらわねえとな。どうにか荒れ寺まで保たせねえと。あんな気色の悪い餓鬼をおぶって歩くのなんて死んでもごめんだからよ。


 ま、死なねえ程度にてめえでなんとかするだろう。

 少なくとも俺はそうやって生きてきた。


 ふと幼い頃の記憶が、脳の底からぽこりと湧き上がった。


 それは、まるで清水に落とした墨汁のように広がっていく。

 いつの間にか強く噛み締めていた奥歯が嫌な音を立てた。


 いや……。くだらないことばっかり考えてないで寝ちまおう。

 再び滑らかな幹に体を預けたところで、足元からみしりと音がした。見ると、つい先ごろまで確かに枝にしがみついていたはずの要一が消えていた。

 嫌な予感に視線を巡らす。すると視界の端をちらつくものに気がついた。

 林の中、少しばかり離れた木々の枝や幹に橙が揺れていた。暖かな炎の光に思えた。談笑するような声まで微かに聞こえた気がして、思わず身を乗り出す。むかむかする小便臭の中に、香ばしい匂いが混じり込んでくる。


 歪んだ木々の間、月明かりに照らされる小さな影が、誘われるように明かりの方へと歩いていた。


 まさか、あの野郎。


 枝に結びつけた帯をほどき、足を滑らせないよう気をつけながらも、できるだけ素早く枝を下りた。根本に飛び降りるとぷんと美味そうな匂いが強くなった。腹の虫が大きく鳴いた。

 その場に荷物を下ろす。念の為、銭で膨れた皮袋は木のうろに隠しておいた。


 足元を這う根をまたぎ越し、要一が向かった方へと歩を進める。戻れるように木の枝で地面に目印を残しておくのを忘れない。腕の目玉達がまだ眠いと言いたげにきょろきょろしていた。警告はまだよこしてこない。


 一足ごとに香りが強くなっていく。肉を炙った匂いに間違いなかった。口の中が唾液で一杯になる。一歩また一歩と誘い出されるように足が出る。


 幸い、枝を踏むかすかな音があった。それを頼りに追っていくだけで、要一を見つけることができた。木立の間を行く小さな背中にひそめた声をかけるが、気が付かないのか振り向こうともしない。木々の合間を抜けるにつれ、揺らぐ明かりと話し声が少しずつ大きくなっていく。木の根をまたぎ、くねる枝をくぐりながらも急いで駆け寄り、おい、と肩に手を乗せる。その瞬間、ぽんと開けた空間に出た。


 顔を上げると、ここだけ木々が生えるのを遠慮したみたいな小さな広場になっていた。中央で燃える焚き火を二人の男が囲んでいる。


 しまった――

 慌て要一の襟を引く。


「あれ、どうしたの」


 二人の内、痩せぎすの男が立ち上がって手を上げた。

 知り合いに声をかけるような気安さだった。顔に見覚えはない。


 焚き火のそばに腰掛ける、もう一人の男が何か咎めるような表情で痩せぎすに声をかける。胴の長い、鋭い目をした男だった。鼻梁が異様に低く、丸く突き出た口吻のすぐ上に、小さな黒い鼻と鼻孔がある様は、まるで獣のようだった。はだけた襤褸の下、男の下半身が黒い剛毛に覆われているのがわかった。


 痩せぎすはこちらから視線は外さず、まあまあ、と何事か耳打ちをかえす。そのにやけ顔に何か気に入らないものを感じたが、腕の目玉たちはまだ何も警告しない。


「お腹が減ったんじゃないかい。これ、よかったらどう? 僕らには多すぎてさ」


 男が焚き火を示す。ぶつ切りにされた肉が竹串に刺され、焚き火を囲うように置かれている。肉は程よく焼かれていて、脂を滴らせていた。

 痩せぎすは焚き火から串を一本取ると、俺たちの元へと歩み寄る。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままだが、武器らしきものは持っていない。


「ほら」


 男が串から一つ肉を抜き取り、要一に差し出す。

 要一が男の顔を見上げ、次に俺の顔をちらと見る。何を考えているのか、俯いたまま動かなくなるが、目線は時折、肉に向けられる。


「さあ、ほら遠慮しないで」


 痩せぎすが要一に肉を差し出す。要一はすんなり受け取るが、小さく口を開け、肉を見つめたまま動かない。

 男が何を考えているのか分からなかった。なんの意図もなく施しをよこすはずがない。だが、敵意らしいものもない。俺の目玉がいうのだからそれは間違いない。奥の男も焚き火のそばに腰掛けたまま動こうとしなかった。きな臭い雰囲気は感じるが、かといって今更逃げ出すことができる距離でもない。


 どうすべきか。


 考える内、香ばしい温気が鼻孔をくすぐった。生唾が喉を滑り落ちた。


「もう。仕方ないなあ。――ほらっ」


 男が素早い動きで要一の頬を掴んで口を開かせた。

 あっ、と思う間もなく、その中へぽんと肉が投げ込まれる。


 要一が俺を見上げ、恐る恐るといった様子で咀嚼し始める。要一が口を動かす度、湿った土塊を噛みしだくような音がする。泥臭い肉汁が溢れ出てくる様まで頭に浮かんでくる。燻製でも塩漬けでもない、新鮮な肉を目にするのは久しぶりだった。


 いよいよ俺もたまらなくなって男を見るのだが、もう手の中に肉はない。どう催促したものかと手のひらを擦ってはみるものの、痩せぎす男は要一から目を離そうとしない。


「君、変わった体してるね」


 痩せぎすが要一に笑いかける。唾液を飲み下しながら改めて男を観察する。


 歳は俺とそう変わらない。ぼさぼさの髪。見開かれた目と尖った鼻。肌は酷く青ざめていて、顔といわず腕といわず、肌が黒い出来物で覆われていた。目玉をぎょろつかせながら、男が執拗に首筋を掻きむしる。出来物からぶつりと黒い汁が吹き出した。


「うん。なんともないね」


 食べ終わるなり、男は息がかかるほどに要一に顔を近づけ、ささやくような声で笑った。ぞろりと剥き出される黒い歯。薄い皮膚の奥で青い血管が収縮している。


「じゃ、後はお願い」


 奥の男が応じるように立ち上がった。尾てい骨からはやはり黒い剛毛に覆われた尾がだらりと下がっている。がりがりと地面をこする尾の先端には、骨が変容したものであろう大振りな鎌。

 両腕に鳥肌にも似た感触が走る。


「ありがとね。毒がないか知りたかったんだ」


 奥の男が歩み出る。地面を引きずっていた鎌が、やおらもたげ上がった。


「ちょっと待――」


 瞬間、皮膚のひりつくような感覚に襲われた。目玉達がまばたきするより先に足は地面を蹴っていた。後方に跳ぶのとほぼ同時におぞましい風が胸元を抉る。

 着地した途端、胸に鋭い痛みを感じた。目をやると、襤褸の胸元が真一文字に裂けていた。皮膚が同じ形にぱくりと割れ、赤が滲み出る。どっと汗が吹き出てくる。


 甲高い奇声に顔を上げると、今度は痩せぎす男が飛びかかってくるところだった。目玉を皿のように剥き出し、口角を吊り上げた笑みを浮かべて。突き出される腕におかしな気配を感じ、咄嗟に掴み取る。やはり武器はもっていない。骨ばった指先が黒く濡れているだけだ。だが、痩せぎすはにやにや笑いを浮かべたまま、黒の滴る指を俺の胸の傷へと伸ばしてくる。ただそれだけの動作に、なぜかおぞけ立つような気配を感じた。指が近づくにつれ、目玉たちのまばたきも一層激しくなる。


 なんだか分からないが、まずいことだけは確かだった。


 迫る指先に、たまらず力いっぱい股間を蹴り上げる。うめき声と共に崩れ落ちる痩せぎすをかわすと、その頭越しに鎌男が今まさに尾を振り回そうとしているところだった。飛び退いてかわせる距離ではなかった。頭の奥がツンとした。


「――やめろ!」


 俺が頭を抱えて林へと転がり込むのと、怒号が轟くのはほとんど同時だった。傍らの木、屈んだ頭のすぐ上に鎌が打ち込まれる。


「むやみな殺生はやめると約束したじゃろうが」


 木の陰から恐る恐る顔を出すと、焚き火の向こうに男が一人立っていた。

 大柄で丸い体躯の男だった。頭の後ろに笠を下ろしている。体格に比べて小さな黒の衣からは大きな腹がぼてんとはみ出している。腹には大小様々、無数の穴が穿たれていた。まるで腹中の毛穴が大きく口をあけているようだった。


「だけどさ、毒見をしとけって捻斉ねんせいのあんちゃんが……」


 痩せぎすが、すがるような声を出すや否や、大男が腹を一つ叩いた。すると、無数の穴から黒い煙のようなものが焚き火を消さんばかりの勢いで吹き出てきた。黒の煙は瞬く間に渦を巻き、痩せぎすの体を覆い尽くした。

 ぎゃっ、と微かなうめき声が上がる。唸き声に似た音と共に煙が消えると、痩せぎすが倒れ伏していた。


「毒見は良清りょうせいの役割じゃろうが。忘れたか。しっかり蓄えて、いざというときに備えるのがお前の役目じゃ。窮青きゅうせいは何をしとったんじゃ。この阿呆に勝手をさせるなと言っておいたはずじゃが」


 木の幹から鎌を引き抜きながら鎌男が項垂れる。どうやら、この大男が奴らを取りまとめている様子だ。


「まあ、いい。先にこいつを手伝ってくれ」


 捻斉が林の奥から何やら大きなものを引きずってくる。窮青がそれに手を貸し、良清が次いで身を起こして、股ぐらを押さえて俺の方を睨みながら加わる。

 暗がりから引きずり出されてくるものをみて思わず呻いた。

 三人が引きずるのは産女おぼの死骸だった。


「それで、こいつは食えるんじゃろうな」

「うん、多分ね。美味そうに食ってたよ」


 笑いながらちらと視線をよこす良清。


 産女の体には暮れ犬が食いちぎったと思しきあとが、あちらこちらに付いている。

 歪に抉れた死骸、その蚯蚓状の胴が一部、鋭く切断されていることに気づく。

 串に刺さっていた肉片に、蛇腹状のくぼみがあったことを思い出す。


 強烈な吐き気が押し寄せてきて、思わず嘔吐(えづ)く。

 あぶねえあぶねえ。あんなもの食っちまうところだった。


「汚いなあ、もう」


 良清の嘲るような声がする。三人はもうはや俺には興味などない様子で肉を切り分ける作業に入っている。気づけば腕の目玉たちもまばたきをやめていた。


 もういい。もう行こう。


 三兄弟を背に辺りに目をやるが、要一の姿がなかった。

 辺りに目を走らせ、ぞっとした。あの阿呆、焚き火のそばにかがみ込み、肉の串をもう一つ摘もうとしてやがった。


「あらあら。それって泥棒っていうんじゃないのかな」


 良清と窮青が要一を見下ろす。要一はなんのことだかわからぬ様子で肉を一口食べると、串を捻斉へと向けた。しばらくして反応がないのを見るともう一口食べ、同じように。


 何してやがるんだ。とっととこっちへ来い。


 小声で話しかけるが、要一が動く様子はない。


「あっ分かった。毒見の真似だ。あはは、もういいって。どっか行ってよ」


 笑う良清を押しのけ、捻斉が身を乗り出す。


「坊主、その体……」

「おかしな体でしょ。体がほとんど変容してないみたいなんだ」


 捻斉は何度か頷いていたかと思うと、「逃がすなよ」と呟いた。


「こいつが例の小僧かもしれん。――に見てもらわにゃならんじゃろ」


 がっしと要一の肩を掴む。


「おっ、おいおい。ちょっと待ってくれよ。そいつは俺が先に目をつけたんだぜ」


 思わず木陰から半歩踏み出たところで、突然、どおん、と大きな音がした。


 頭蓋骨の中で、釣り鐘が打ち鳴らされたような衝撃が響く。視界が大きく揺れ、気がつけば倒れ込んでいた。


 地鳴りと共に樹木が大きく揺れた。分厚い空気のうねりが木々の隙間から幾重にも押し寄せてきて、俺の体を揺さぶった。視界が渦を巻き、胃袋がもみくちゃにされる。


「でえらん様のおらび声じゃ……」


 絞り出すような捻斉の声が聞こえた。焚き火の辺りで幾つか重たい音がした。

 後には木々の唸りと鼓膜を突き刺すような耳鳴りだけが残った。

 回る木の根と地べたと共に意識がぐるぐると落ちていった。

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