二 - 1

 息をするたび、血と汗と獣の臭いが鼻の奥を刺した。


 かつては何かの巣穴だったと思しき洞窟の奥部は、小さな広間になっていた。四つん這いになるのがやっとの通路とは違い、そこではかろうじて立ち上がる程度の余裕がある。

 天井を埋め尽くす茸が広間を淡い緑色に照らしていた。


 奥の壁際には黒い衣をまとった大柄の男が腰を据えている。薄明かりを照らし返す禿げ頭が、入り口に突っ立った俺に向けられている。


 広間の中央には、同じく黒の衣姿の男が血まみれでうつ伏せていた。ぴくりとも動かないところを見ると、もう死んでいるのかもしれない。


「そいつのことなら気にするな。突然、様子がおかしくなってな。成り行き上そうなっただけだ。お前に危害を加える気はない」


 はらわたから絞り出すように言葉を発すと、男は苦しげに顔を歪めた。

 腹部を押さえる太い左腕は海老や蟹を思わせる甲殻に覆われている。更に肘から肩にかけては、逆立った甲殻が盾のように盛り上がっていた。

 同じく頑丈そうな指は腹部を押さえたまま離そうとしない。その隙間からは黒い液体が漏れ出ている。目を凝らし、それが見間違いでないことをしっかりと確認する。


「それならその物騒なもんをしまってくんねえか。俺はあんたが何もしないっていうから出てきたんだぜ」


 男は初めて気づいた様子で、すまん、と呟き、俺に向けていたもう一方の腕を下ろす。

 こちらも分厚い殻で覆われていたが、目を引くのは手首から先の部分だった。俺の頭を潰せるほどの大きな鋏状になっている。その内側にはいびつな突起がずらりと並ぶ。腕や首など簡単にちぎり飛ばしてしまいそうな格好に〈変異〉していた。

 腕を下ろすほんの一瞬、男の表情が緩んだのを俺は見逃さなかった。


 人の気配を感じて気を張っていたのに、姿を現したのは痩せっぽちが一人。鋏にも警戒している様子で、どう見たって戦うことに慣れちゃいない。その気になればいつでも殺れる。――そう思ったに違いない。


 俺はそっと足を踏み出した。


「お前に一つ頼みたいことがあるんだが」

「へえ、そうかい。そいつは事の内容と銭によるな」


 倒れた男のそばまで寄る。死体には右腕が無かった。ぎざぎざの断面を見るに、壁際の坊主に千切り落とされたらしい。つま先で脇腹を小突いてみるが、反応はない。


「何も難しい話じゃない。ひとっ走り村まで行ってきてほしいだけだ。誰でもいいから人を……おい、何をしている」

「脈をみてんだよ。まだ息があるんじゃねえかと思ってな」


 蟹坊主が身を乗り出すのを見て、慌てて首から手を離した。

 既に脈はない。この出血量なら確認するまでもなかっただろうが、念の為だ。


「この男、突然おかしくなっちまったとか言ってたよな。そりゃきっと、体だけじゃなくて、脳みそまで歪んで駄目になっちまったんだろうよ。ほら、最近同じような話を耳にするだろう。このあいだ訪ねた村でも……」

「悪いが世間話をしている余裕はないのだ。いいから村まで行って人を呼んできてくれ」

「この夜闇の中をかい。馬鹿言うんじゃねえ。化け物に襲われたらどうするんだ。俺にはあんたみたいな立派な腕があるわけじゃあないんだぜ」


 言葉を続けながら死体に両手をかけた。

 どのみち麓へは行けなかった。丁度、あの小さな村でひと仕事終えたばかりだったからだ。奴らも懐から消えた金に気づいた頃だろう。


 死体は小さかったが、見かけによらず重かった。がっしりした体つきで、血を吸った衣をまとっているのだからなおさらだ。ひっくり返すのに手間取り、体や衣が血で汚れた。


 つまんで引っ張ったかのように鼻先が長く尖った男だった。頭も顔も胸元も太い毛で覆われている。腕は体躯の割に筋肉で膨れているが、少し短い。寸詰まった指先には鍬(くわ)状の長い爪が付いていた。その先端は黒く濡れている。

 こんな爪じゃあ、銭を拾うのも一苦労だっただろうな。


「おい、今度は何をするつもりだ」


 蟹坊主が怒鳴る。明らかに怒りと侮蔑が込められた声音だった。それでも腹を押さえたまま腰を上げようとはしなかった。頭部を尋常でない汗が濡らし、仄かな明かりを反射していた。


 やっぱりそうだ。こいつもくたばりかけてやがる。大方、ご同輩ともみ合ったときに食らった一発がはらわたを抉ったんだろう。それなら何も怯えることなんかねえな。


 蟹坊主までは一間と少しばかり離れていた。奴が何かおかしな動きを示しても、すぐさま飛び退って通路に逃げ込むだけの余裕はある。傷の深さを見るに、まさか追いかけてはこないだろう。


 ――と、なれば話は早い。

 腕の目玉たちがそわそわし始めた。


 俺は迷うことなく死体の懐に腕を差し入れた。壁際から呻き声が上がる。


「おい、何をしていると聞いているんだ! そんなことはもう止めろ!」

「あんたもうるせえなあ。銭を探ってるに決まってんだろ」


 蟹坊主を睨み返し答える。


「生きてる奴から盗るのも結構骨でよお。死んで動かなくなったのから貰っちまうのが一番楽なのさ」


 脂ぎった毛の草原の奥で小さな袋が指先に触れた。引っ張り出してやると愛しい重みと共に骨銭こっせんの鳴き声がする。


「へへ、俺に会えて嬉しいってよ。どうせもう金なんて使わねえだろう。鳥目ちょうもくだって、こいつの上でじっとしているより、俺と一緒にいるほうが幸せに決まってるよなあ」


 袋の中から骨銭を六枚だけ取り出し、死体の上に撒き落とした。


「ほら。これくらいは残しておいてやるよ」


 笑い声を上げる俺を睨みつけながらも、やはり蟹坊主は止めに来ようとはしない。


「何を睨んでやがる。あんたが自慢の鋏でこいつの腕をちょん切ったりしなけりゃあ、こんなことにはならなかったんじゃあないのかい。ま、気に病むこたあねえ。あんたの番もじきに来る」


 どうやら、ようやく運が向いてきたらしい。二人分の財布を労せず迎え入れることができるなんて。村の連中の懐はえらく寂しいもんだったから、ここらでこれくらいの巡り合わせくらいあって当然だろう。


「そうか。そんなに金が大切か」


 蟹坊主が呟いた。一つ調子を落とした、重たい声だった。


 反射的に一歩飛び退いた。腕の目玉達が痛いほどにまばたきをし始めていた。


 俺の両腕にびっしりと根付いた目玉達は、一筋の光ですら俺には見せちゃくれないが、敵意には敏感だった。まばたきした目玉の方向からすると、今の殺気は蟹坊主が放ったものに間違いない。だが当の本人は壁際に腰を据えたまま微動だにしていなかった。

 髪から一滴しずくが落ちる。いつの間にか汗みずくになっていた。


「どうした。怖いのか」


 蟹坊主が脂汗を浮かべて笑った。


「その目玉で感じたのか。いかにもこそ泥らしい、臆病な〈変異〉だが、生き永らえるには悪くなさそうだ。こんな世で生き残るのは、案外お前のような者なのかもしれんな」

「うるせえ。やれるもんならここまで来て腕でも足でもちょんぎってみやがれ。立ち上がることもできねえ野郎が偉そうに吐かすんじゃねえ」


「立ち上がることができないと一度でも言ったか?」


 俺の目を見ながら蟹坊主が静かに言った。


「お前が背を向けるより先に、足を切り落とすなど容易いことだ」


 目玉達がまた、ざわざわとまばたきを始めた。首筋を徐々に鳥肌が覆っていく。

 そろっと、一歩足を下げると、蟹坊主が息を漏らすように笑った。


「だが、そんなことはしない。無意味だからな」


 なんだ。虚仮威しか。


「ただの脅しなんかじゃない」蟹坊主が訳知り顔で首を振る。「今すぐやってみせる事だってできる。現にお前もその目で感じたんだろう。だが、そんなことをしても死が早まるだけだ。私が今すべきはそんなことではない」


 蟹坊主は肩越しにちらりと背後を気遣うような素振りをする。その背中で何か小さな影が動いた。そいつは少しだけ頭を覗かせてこちらを伺っている様子だった。

 よく見えないが、五つか六つくらいの子供のようだった。俺と目が合うと、視線を避けるように蟹坊主の背に隠れた。


 ――この餓鬼に危害が及ぶと思って動かなかったんだ。


 気がついた途端、口角が釣り上がるのをこらえられなかった。


 こんな甘えた野郎はとっくの昔に絶滅したと思っていたよ。


「何がおかしいんだ」

「いいや、なんでもねえさ。大した徳の高さだと思っただけだよ」

「そうだろうな。ひとでなしには分からんことだろう」蟹坊主が俯き笑う。「他人様の懐をあさって生きるお前は、人より蚊や蛆に近いからな。人の行いなんてものは分からんだろうさ」

「ああそうかい。そうだろうよ」


 この手の人間が死ぬ間際に吐き落とす言葉に興味なんてない。どうせ最期まで、情だ、思いやりだ、と下らない話をするつもりだろう。そんな言葉、死を早めはしても、銭一枚にすらならない。


「この子を守るというのがどういうことなのか、想像することすらできんのだろうな」


 ほおら、始まった。


「興味がないか? それじゃあ、お前にも分かるように話の程度を落としてやろう。この子は骨銭に換算すれば数百、いや、数千枚は下らない価値を持つ存在だ」


 思わず眉を上げると、蟹坊主がにやりと笑った。


「私とそこに倒れている洞戒どうかいは、この子を小平寺しょうへいじへ送り届ける道中だったのだ。それだけの為に、見ろ。これほどの路銀が与えられた」


 蟹坊主は胸元から鋏で器用に皮袋を取り出した。袋ははち切れんばかりに膨れて悲鳴をあげている。喉がごくりと音を立てた。


「小平寺まで連れていけば、これと同等かそれ以上の謝礼が支払われる約束だ」


 これで少しは理解できたか。蟹坊主が唇を震わせながら言った。顔が蟹の腹のように白くなっていた。俺はただただ呆れることしかできなかった。

 それって結局、こいつも餓鬼の値打ちのために守ってたってことにならねえか。

 それを直接金に換えられるかはさておいて、結局餓鬼が特別だから命を張ってるんだろ。せめて子供にはまだ可能性があるとか説こうとは思わなかったのかねえ。死に際だってのに格好のつかねえ野郎だ。

 まあ、ひとまず、俺が襲われることは無いってわけだ。後はこいつがくたばるのを待って、あの路銀を頂いちまえばいい。


「――要一よういち、出て来なさい」


 蟹坊主の背後から、先程の餓鬼が恐る恐るといった様子で姿を現した。

 俺はその姿に度肝を抜かれた。


 顔には一対の目玉、一つの鼻に二つの鼻腔、口が一つ。耳も当然のごとく二つだけ。二本の腕と二本の足。指はそれぞれ五本ずつ。纏った襤褸ぼろから覗く肌は滑らかだ。


 体のどの部分をとっても、肥大しておらず、萎縮しておらず、捻じれておらず、尖っておらず、腐っておらず、干乾びておらず、燃えておらず、輝いておらず、鱗や羽毛に覆われておらず、穴も穿たれていなかった。


 こんな人間を他に見たことが無かった。まるで、生まれたての赤ん坊のよう。あるいは〈変異〉の現れなかった部位だけを切り取り集めて縫い合わせたかのようだった。


「日が昇ったら近くの村まで降りて代わりの庇護者を探しなさい。心配しなくとも報酬のことを話せばすぐに見つかる。寺に着いたら臼蟹きゅうかいと洞戒に連れてこられたと伝えれば後のことは問題ない。できるな」


 開いた口が塞がらない俺をよそに蟹坊主が言った。蝋燭みたいに脂汗をぼたぼた垂らしながら、ぎこちなく笑顔を作る。小僧は俯いて、小さく首を縦に振った。


 ――そうか。こいつら、この奇妙な体をありがたがってやがるのか。この小僧を担ぎ上げてありがた気な事をでっち上げて、救いを求める連中から銭を巻き上げるつもりなんだ。それならあの路銀の量にも納得がいく。


 溜息混じりに下らない愁嘆場を眺めつつ、どうにかその金を懐に入れられないか考えた。

 このまま黙って餓鬼を放っておく手は無い。こいつらみたいに信者から銭を集めるのは難しいが、せめて寺まで連れて行くのを横取りすることはできないだろうか。

 幸い、小平寺って名前には聞き覚えがあった。行ったことは無いが、しばらく先の湿地を越えた辺りにある荒れ寺が、かつてはそんなような名前の寺だったと聞いたことがある。あの辺りなら四、五日も歩けば辿り着く。手間賃を差し引いたって、餓鬼一人を運ぶだけでがっぽり儲かる美味しい話ってわけだ。

 こいつらが握っている銭を奪うだけでも十分な儲けではあるが、この餓鬼の価値を知っちまった以上、その報酬をよその誰かに譲ってやるのは癪に障る。蟹坊主がおっ死んだ後は、餓鬼を上手いこと丸め込んで、全部俺のもんにしちまおうじゃねえか。


 名案につい口元をほころばせていると、蟹坊主がじっとこちらを見ていることに気がついた。死にぞこないとは思えない強い意志を湛えた眼差しに、思わず目を背けた。


「――なあ、おい。お前の名を聞かせてはくれんか」


 口からあぶく混じりの唾液を垂らし、半ば唸るように言った。


「死に際までうるせえ野郎だな。俺に名なんてねえよ」

「そうか……。ならば今日から鳥吾ちょうごと名乗るが良い。お前の腕の変容は鳥の目玉にそっくりだ。鳥目ちょうもくに執心するお前にはうってつけの名前だろう」

「そんなもん貰ったってありがたくもなんともねえな。名前で飯が食えるかよ」


 蟹坊主は微かに笑って小さく何度か頷いた。


 それから要一の顔を真っ直ぐに見て「しっかりやりなさい」とだけ言った。


 最後に、ほう、と息を吐き出すと、満月のような頭を垂らして、ようやく死んだ。


 要一はしばらくじっと佇んでいたが、やがて蟹坊主にすがりつくようにして泣き始めた。


 俺は入り口のそばで、できるだけ石の少ない場所を探して体を横たえた。洞窟中に響く鼻をすする音を背に、この餓鬼を説得するにはどうするのが良いだろうかと頭を捻った。


 送り届けて報酬を貰わなければならない以上、無理やり引っ張っていくわけにも、こっそり後をつけていくわけにもいかなかった。脅して言うことを聞かせる手も無くはないが、小平寺でばらされたら台無しだ。

 眠るのも忘れ、うんうん唸り続けたのだが、いい案は何も浮かばなかった。


 だから翌朝――。


「俺が連れて行ってやるよ」


 一か八か真正面から提案してやった。

 すると、意外にも小僧はすぐに頷いた。


 あまりに簡単に事が進むので肩透かしを食らった気分だったが、深く考えるのはやめにした。こんな歳でもてはやされていると、俺みたいなのでも親切に見えるんだろう。上手く事が回ってるんだから、それでいい。


 笑みが零れそうになるのを堪えながら蟹坊主の死体に近づいた。死んだときの格好のまま、座った姿勢で上体をだらりと前に垂らしている。丸めた体から両手を落とした姿はさながら巨大な蟹のようだった。懐にそっと腕を差し入れ、期待の膨らみを握りしめた。


 ふいに、腰に妙な圧迫感を覚えた。


 蟹坊主の大鋏が俺の腰を掴んでいた。


 慌てて両手をやるのだが、しっかりと食い込み外れない。それどころか、締め付ける力はどんどん強くなっている。蟹坊主の頭がゆっくりともたげ上がる。血走った視線と目がかち合った瞬間、終わりなのだと悟った。出鱈目に腕を腕を叩きつけるが、蟹坊主の体は既に冷えた土饅頭のようだった。もうどうにもならないのだと思った。


 荒く喉を出入りする息に、むっと小便の臭いを感じた。

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