第19話 壁に穴を開けようとする隣人
シャトー月光というアパートの302号室に翠斗は住んでいる。
ちなみに壁に穴が開いている301号室がささえの部屋なのだが、反対側の303号室は無人のはずだった。
だけど最近303号室から物音が聞こえるようになってきた。
「(誰か引っ越してきたのかな?)」
引っ越しの音にしては中々騒々しい。
なぜか時々壁をドンっと叩く大きな音が鳴ってビクッとする。
さすがに喧しすぎるだろうと思い、翠斗はスッと立ち上がった。
外に出て303号室へと足を運ぶ。
インターホンを鳴らしてしばし待つと、扉の向こうからパタパタと足音を立ててこちらに近づいてくる気配があった。
「はーい。今出ますわ」
声からして303号室の主は女性のようだ。
ガチャとドアが開き、部屋着姿のスタイルの良い女性が姿を現した。赤いフレームの眼鏡が特徴的な美人だった。
どこかで聞いたことある声な気はしたが、こんな美人を翠斗は知らない。
知っていたら絶対に記憶に刻まれるような知的美女の登場に翠斗は少しだけ物怖じをしていまう。
「……あっ!! す、翠……様!?」
「へっ?」
翠斗は女性のことを知らないが、女性の方は翠斗を知っているらしく、何やら瞳を潤ませながら口元を抑えて感激しているようだった。
「(俺のことを『翠』って呼ぶということは……声優時代の俺を知っている人?)」
声優ユニットを組んでいた時は顔出しもしていたので彼の顔を知っている人も稀にいる。
「(まぁ、ユニットメンバーの中で俺は圧倒的に人気なかったのだけど)」
とはいえ、ごく少数の奇特な人は夏樹翠を推してくれることもあった。
目の前にいる彼女がその奇特な少数派なのだろう。
「あ、あの!」
ずずぃ! と翠斗に詰め寄り、潤んだ瞳を向けてくる。
まさか、握手とかサインとか求められるのか!? と心の中で仄かな期待を抱く翠斗。
「私の子供を産んでくれませんか!?」
「何を言っとるんだ!? 貴方!?」
「あっ! ま、間違えました!」
「どんな間違え!?」
「わ、私に子供を孕んでくれませんか!?」
「言い間違える前の方がまだマシだった!」
いくらファンとはいえ、いきなり子を欲しがるレベルなのは希少を通り越して異常である。
「も、申し訳ございません。取り乱してしまいました」
「そうですね!?」
「とりあえず中へどうぞ。お引越し中で散らかってはおりますがお茶くらい出せますので」
「い、いや、上がり込むつもりとかないのですが。物音が激しかったのでもうちょっと静かにしてもらえたらと思って……」
「も、申し訳ございません! 私としたことが翠様に迷惑を掛けてしまうだなんて……!」
「いえ、わかってもらえれば大丈夫ですので。それでは俺はこれで——」
「もうすぐ壁に穴を開けることができると思いますので、開通しましたら今度こそお茶しましょうね」
「…………」
一瞬、女性の言っている意味が解らなかった。
でも、よーく見ると女性は工具用キリを持っていることに気が付いた。
「あの……やっぱりお部屋にお邪魔してもいいですか?」
「……っ! ぜ、ぜひ! す、翠様が私の部屋に……ドキドキ……」
女性は口で『ドキドキ』と言っていたが、翠斗は別の意味でドキドキしている。
翠斗はお邪魔する際、壁にしか視線が向いていなかった。
「……で? これはなんです?」
「穴ですわね」
「穴ですよね!?」
案の定、見つけた。
貫通はしていないが、直径2ミリ程度の穴っぽこ。
彼女が持っているキリの先端がピッタリハマりそうな穴である。
「何を考えているんですか! 大家に見つかったら多額の修理費を請求されますよ!?」
それ以前に普通に犯罪であるのだが。
「それは大丈夫ですわ。壁に穴を開けることは大家様から同意を頂いております」
「嘘ですよね!?」
「本当ですわ。こちらが証明書です」
「うわ!? 本当だ!? 何考えているんだあの大家!?」
「家賃を3倍支払うと言ったら快く同意してくれましたわ」
「何考えているんだアンタも大家さんも!」
壁に大穴開いている空き部屋を物件に出す人だ。相当変わり者だと認識していたが、今の彼女の話を聞いて更に誇大した。とてつもなくおかしな人だ。常識を疑うレベルで。
「色々ツッコミたいことがありますが……まず、そもそもどうして壁に穴を開けようだなんて思ったのですか」
「え……えっと……」
彼女はバツが悪そうに目線を外方へ逸らす。
照れながらモジモジしている姿は非常に可愛らしいのだが、その姿萌えている余裕は翠斗には無かった。
「あの夏樹翠様が隣の部屋に住んでいるんですよ!? 私生活を全て見たいと思うのは仕方ないじゃないですか!」
「急に開き直ったな!? 俺のファンなのかもしれないけど壁に穴を開けてまで覗き見するのはさすがにいけないことだからね!?」
「で、でも! そちらだって301号室の部屋とは穴でつながっているのですよね!? だ、だったらワタクシだって、その、ちょっとくらいはいいじゃないですか!」
「どうしてそれを知っているの!?」
「……あ」
しまった、といった表情が変容する彼女。
今日引っ越してきたばかりの彼女が俺の部屋の事情まで知っているのはおかしい。
翠斗は誰にも言っていないはずだ。
——配信内を除いて。
「もしかして……ささやきささえとのコラボ放送を見て知った?」
観念したように素直にコクンと首を縦に振る彼女。
「って、ことは俺が『みどり』であることも知っているんだ」
「……はい」
それはそれで変な話だと思った。
ささえの放送では『自分は過去に声優をしていた』とは暴露したが、自分が『夏樹翠』という名前で活動していたことまでは言っていなかったはずなのだ。
なのに彼女は翠斗が『みどり』でありながら『夏樹翠』であることも知っている。
「みどり様が翠様であることは私レベルの古参ファンならすぐに分かりますわ。何より、翠様の代名詞とも言える特徴的な七色のボイス。老人からロリまで完璧に使い分けることが可能な高低ボイスは翠様以外に出せる人類などおりません」
彼女は誰に言われるまでもなく真実にたどり着いていた。
そのことは素直に嬉しいし、こんな美女に褒められて悪い気はしない。
「声だけで夏樹翠を特定するなんて……ん? 声?」
言われてみてハッとする翠斗。
彼女が翠の声を知っていたように、翠斗も彼女の声には覚えがあった。
脳裏を巡って声の主を探り出す。
「も、もしかして……レインさん?」
「えっ!? ど、どうしてそれを!?」
赤眼鏡が似合う知的なお姉さん。
病的なほど翠斗のファンであるこの女性の正体は文学系VTuber天の川レインその人だった。
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