第2話 みどり

「えっとですね。配信中の事故に関しては油断していた私にも責任がありますので不問とします」


「ど、どうも」


 VTuberささやきささえの中の人と今日引っ越してきた隣人の男性はそれぞれの部屋に空いている大きな穴の前に正座して座り、深刻な表情で話し合いを行っていた。


「貴方が出演した生配信の切り抜き動画は再生数3万を超えたとのことでした」


「お、おめでとうございます?」


「おめでとうじゃないわあああああああ!!!」


 感情の爆発と共にささえは大穴から身を乗り出し、ついには男性の部屋に侵入して詰め寄っていた。


「貴方が引っ越してきたせいで私はアレから配信が出来なくなったじゃないですか! どうして壁に大穴が空いた部屋なんかに引っ越してくるの!」


「いや、家賃が安かったので。あー、あと、この部屋、俺が専門学生時代に住んでいた部屋でもあるんですよ」


「えっ? お兄さん私と同じ学生じゃないの?」


「あー、なんか若く見られること多いけど、俺もう25歳ですよ」


「圧倒的年上だった!? タメ口すみませんでした」


 ささやきささえの中の人は近くの専門学校に通う学生であり、齢は19だ。

 目の前の男性は自分と同じくらいの年齢だと勘違いするほど容姿が若いのだが、思ったより大人の人だったようだ。


「えと、タメ口なのは全然良いのですが……それよりも俺がここに引っ越してきたら配信が出来なくなるっていうのはなぜなのですか?」


「当たり前だよね!? 声が丸聞こえの状態で配信できるほど私のメンタルは強固じゃないんだよ! 配信するにしても穴を完全に塞いでからじゃないと……」


「いや、俺、配信とかに理解ある方ですので全然気にしなくていいですよ? 配信者やVTuberを絶対にバカにしたりとかもしません。むしろ尊敬しているくらいです」


「え? えへ。そ、そうなんですか? 私、尊敬されちゃってる?」


「あっ、チョロ……じゃなかった。はい。『ささやきささえ』は俺が今一推しのVTuberです!」


「今チョロって言ったなコイツ」


 文化が根付いてきたとはいえ、まだまだVTuberに対する風当たりは強いのが現状。

 『動く絵を使って金稼ぎしている界隈』と思っている人はまだまだ多いのだ。

 でも男性はVTuberを尊敬しているといった。

 その言葉には嘘偽りなどない。


「あんな風にモーションキャプチャーを使って実際に配信している様子は初めて見ました。そしてリスナーと共に楽しい一時を過ごしたいって気持ちは本物だと感じました。格好良かったです」


「ぎゅへへ。いやー、そんなに褒めないでくださいよぉ。そかそか。私、格好いいんだ」


「あっ、チョッロ……じゃなかった。ですので、これからも俺の存在なんか気にせずに配信してください。ファンもささやきささえを待っていると思いますよ」


「そ、そうですかね……うーん。でもなぁ……」


 周りに人がいる環境で配信に集中できるわけがない。

 男性は気にしないでくれと言っているが、気にしないで配信することはさすが出来ないと思った。

 なぜならささえの放送にはASMR放送もあり、台本によっては若干過激な文章を読み上げる日もあるからだ。

 エロ台本を隣人の男性に聞かせながら配信を行うのはめちゃくちゃハードルが高かった。


「……こうなったら恥の道連れです」


「えっ?」


「お兄さん。お名前はなんですか?」


夏川翠斗なつかわすいとだけど」


 思っていたよりも可愛らしい名前だ。

 つい名前で呼びたくなるような響きの良さに、ささえも自然に彼を下の名前で呼んでいた。


「翠斗さん。私のチャンネル放送に出てください」


「……はい?」







 ささやきささえの中の人にとって、今後の配信に関わる問題は何よりも最優先で取り掛からないといけなかった。


 その理由の一つは生活問題。

 彼女は配信をすることで収入を得ており、配信を行えていない今の状況は彼女の生死にも関わる問題でもあったのだ。

 もちろん配信だけでは生活に十分な収入は得られない。

 でもささえはアルバイトなどは行っておらず、VTuber活動と雀の涙ほどの仕送りだけで家賃などを賄っていた。

 今後の生活の為にも1日も早く配信に復帰したい。


 もう一つの理由は——


「(単純に楽しいから……)」


 好きなことをして、自分を好きでいてくれるリスナーと楽しい時間を共有する。

 ささえにとって何よりも大切な時間が配信の中にある。

 だけど現状として彼女は多くの問題を抱えている。

 壁の大穴。隣人の存在。

 今のささえはプライベート皆無な状況だ。

 壁からお互いの部屋が丸見えの状態で今後も過ごしていかないといけない。

 しかも相手は異性。

 若干年が離れているとはいえ、プライベートを男に覗かれるのは死活問題のはず。

 だけど、ささえはプライベートの問題よりも配信問題を優先した。

 その行動には彼女がどれだけVTuber活動を大切にしているのかが伺えた。


「ほ、本当に上がり込んじゃっていいのですか?」


「部屋の主が良いって言っているのですから別にいいの! ていうか翠斗さんはいつまで私に畏まっているのですか。そちらの方が圧倒的に年上なんですから、ため口でいいんだよ?」


「わ、わかった。で、でも、本当に俺ここにいていいの?」


「くどいですよ」


「部屋干しの洗濯物とか干してあるけど」


「うわわわわあああああっ!!」


 俊敏な動きでバババッと洗濯物を回収し、脱衣所に放り込んだ。

 真っ赤になりながら、キッ、翠斗を睨みつけるささえ。


「見てないよね!?」


「緑の下着なんて珍しいね。緑好きなのかな?」


「ノンデリ男死ねぇぇぇっ!」


 翠斗の頭を掴んでグラングランと振り回す。

 脳が揺れ、視界も揺れる。翠斗は今見た光景が脳裏から昇華されそうになった。







「さて、これから翠斗さんには私の配信に出てもらうわけですけど、注意点がいくつかあります」


「心配しなくてもキミの下着の色を口にしたりしないから安心して」


「それは当たり前だよ!?」


 ズビシッと翠斗の首後ろにチョップを入れる。


「そうじゃなくて、注意点っていうのは名前のことだよ。間違っても私の本名を配信で言わないでってこと」


「……いや、俺キミの本名をまだ知らないんだけど」


 言われ、まだ自分が名乗ってないことに『あっ』と気づく。


「じゃあちょうどいいですね。あえてまだ名乗らないことにします。私のことは『ささえ』って呼んでくださいね」


「わかった」


「翠斗さんのことはなんて呼びましょう?」


「普通に翠斗でいいよ」


「甘い! ネット配信で本名を出すなんて自殺行為も同然! ネットの海を甘く見ちゃいけませんよ」


「まぁ、確かに不用心だったな。じゃあ俺のことは『みどり』と呼んでくれ」


 再度ズビシッと翠斗の首にチョップを入れるささえ。

 ささえはギロッと凄い形相で睨みつけていた。


「ち、違う違う。キミの下着の色から着想を得たわけじゃなくて。ほら翠斗のすいって『みどり』とも読むだろ?」


「……もう緑色の下着は履かない」


「だから違うって!」


 奇遇にも翠斗もささえも無類の緑好きだった。

 でもささえはこの瞬間ちょっとだけ緑を嫌いになるのであった。







 ささえが翠斗を生配信に出演させることには狙いがある。

 翠斗に自分の配信の中身を理解してもらうのだ。

 そして隣人がVTuberであることに慣れてもらう。

 今後も配信を続けていくにはそれらのことが絶対必要不可欠なのだ。


 配信の声が筒抜けになってしまうのはささえにとって羞恥以外何者でもないのだが、同時に翠斗も恥ずかしいはずなのだ。

 だからこそ翠斗にもチャンネル放送に出てもらい配信文化そのものに慣れてもらう必要がある。

 ささえの声が穴の向こうから聞こえてきても『あっ、今配信中なのか。なるべくしずかにしてよ』と言った風に、気を使ったスルーをしてもらえることが出来る様になってほしいことが目標である。


「(そして一番の狙いは——)」


 配信を通じて翠斗に恥ずかしい目にあってもらうこと。

 一度大やけどをしてしまえば翠斗は隣人であるささえとの関わりを絶ってくれるかもしれない。

 もしかしたらその羞恥に耐え切れずすぐに引っ越してくれるかもしれない。

 もちろんそれはただの願望ではあるのだが、そうなってくれる可能性は高いとささえは踏んでいた。

 不本意ではあるが、翠斗にはトラウマを負ってもらい大人しくしてもらう。

 可哀想ではあるが、ささえにとって今と変わらぬ生活を送る上で必要な犠牲なのである。


 黒い思惑を内に秘めるささえ。

 配信機材をぼーっと見つめながらどこか上の空の翠斗。

 二人がPCの前に並び、生放送開始まで秒読みの段階となっていた。

 そして、運命の放送が開始する。


「貴方に癒しを届けたい。今日もささえの配信に癒されてね♪」


 お決まりの口上と共にささえの生放送が開始された。

 そしてこの生放送が翠斗にとって大きな人生の転機となることをこの時の二人はまだ知る由もなかったのである。

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