第39話 君が好きだと叫びたい

「紗希!」


 家に帰るなり、俺は靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がっていた。

 とにかく、一秒が惜しい。

 靴を脱ぐ時間さえも惜しいほどに、高鳴る心臓が早く早くと急かしてくる。


 紗希の部屋の前で、喉元まで迫り上がってくる緊張を飲み込みながら、俺は扉を三回叩く。


「紗希、伝えたいことがあるんだ。開けてくれないか」

『……』


 返事はなかった。

 また引きこもってしまったのだろうか。

 ここ最近、まともに言葉を交わしていなかったせいもあって今更気まずさが込み上げてくる。


「……いや、そのままでもいい。とにかく、ずっと待たせててごめん。俺の答えを、今から紗希に伝えたいんだ」

『……っ!』


 微かに、動揺したような息遣いが聞こえた。

 どうやら話自体は聞いてくれているらしい。

 ならよかった。正直なところ、話を聞いてもらえる自信もなかったから、安心した。


「紗希、聞いてくれ。俺は……考えたんだ。テマリとしての紗希が好きなのか、家族としての紗希が好きなのか、妹としての紗希が好きなのか。そして、その中でどれか一つしか選ぶことができないって、ずっとそう思ってたんだ」

『……』

「だから、返事をすぐにできなかった。本当にごめん! ずっと待たせて、紗希を傷つけて。それでも、わかったんだ。俺は……紗希の全部が好きなんだ!」


 閉ざされた扉の向こうにもちゃんと聞こえるように、声を張り上げる。

 夏帆と美南が、今までの出会いが、そして、紗希の笑顔が教えてくれた。

 俺は、テマリとしても、妹としても、家族としても、一人の女の子としても紗希のことを愛しているんだと。


 その中でどれか一つだけを選ぶことなんて、できやしない。

 俺は、紗希の全部がほしいんだ。

 いつか大きな代償を支払うことになるとしても、残酷な未来が待っているとしても、今、この瞬間こそが全てだと、未来なんてものはいくらでも変えることができると、頭だけでなく心がそう理解していた。


「……だから。だから、何度だって言う! 俺は紗希のことが、好きだ! いいところもダメなところも、最推しとしても、家族としても、大切な妹としても! 一人の女の子としても! 俺は、紗希のことが好きで好きで仕方ないんだ!」


 恥も外聞もなく、腹の底から声を上げる。

 だけどきっと、それでいい。

 恥なんてものはゴミの日にでも捨てておけ。外聞なんてものは気にするだけ無駄だ。


 俺は、紗希が好きだから。

 この心だけあればいい。

 その先のことも、その前のことも……そんなことはあとからいくらでも考えられるから。


「だから、聞かせてくれないか!? 紗希の返事を! ドアは開けなくてもいい、頼む!」


 叫んだ言葉は、閉ざされていた扉に、その向こう側で震えているであろう心に届いてくれたのだろうか。

 沈黙。たった一秒にも満たないその時間が、重力にプレスされて薄く引き延ばされていく。

 一瞬が永遠にも感じられる時間の中で、俺はただ、祈るように拳を固めて目をきつく瞑っていた。


「……おにいちゃんっ!」


 沈黙を破って、ドアが開く。

 瞑っていた目蓋を持ち上げれば、そこには大きな瞳を涙で潤ませていた紗希が、駆け寄ってくる姿が映る。

 嬉しかった。


 通じてくれたことが。

 響いてくれたことが。

 きっと同じ気持ちを、同じ心を抱いてしなだれかかってくる紗希をこの胸に受け止めて、俺はその背中へと手を回し、抱き止める。


「……おにいちゃん……っ、わたし……わたしも……っ……! すき……だいすき、です……っ!」

「ありがとう、紗希。俺も……紗希のことが、大好きだ」


 どういうわけか、俺の鼻先にも熱く塩辛いものが込み上げてきて、ぱたり、と紗希の髪の毛に一粒の雫を落とす。

 こうして紗希を近くに感じられることが嬉しい。

 そのぬくもりが、その心をこの腕に抱き止められていることが、嬉しくて、誇らしくて、終いには今こうして生きていることにすら感謝を捧げたくなってしまう。


 なんてこった、生きてしまう。

 あんなに不安だった明日がくるのが楽しみになって仕方がない。

 もじもじとしながら頬を染めている紗希と、視線が合った。


 そこから先に、言葉はいらなかった。


「……っ……」

「……ん」


 磁石同士が惹かれ合うように、雨粒が重力に惹かれ落ちるように、俺たちは視線と微かな息遣いを合図にして、唇を重ねていた。

 ああ、こんなにも簡単だったのか。

 あれこれと言い訳をつけて悩んでいたことが心の底から馬鹿馬鹿しくなるぐらい、ようやく見つけられた「正解」は単純明快で。


 こんなにも、愛おしかったんだ。

 一度離した唇を、俺たちはもう一度重ね合わせた。

 そこに間違いなどなにもないんだと思わせてくれるほどの熱情が、甘さが、体温に溶けて伝わってくる。


「……おにいちゃん……わたし、幸せです……」

「俺もだよ、紗希。幸せだ」


 この幸せのどこが間違いだといえるだろう。

 なにが悪いというのだろう。

 例えそのせいで世間から後ろ指を刺されるようになったとしても、世界の全てが敵に回ったとしても、今の俺は、俺たちは、きっとこの選択を手放すような真似はしない。


「……わ、わたしたち。そ、その……恋人同士、ですね。えへ」

「……改めてそう言われると、ちょっと恥ずかしくなってくるな」

「わ、わたしは……恥ずかしく……ない、です」

「嘘つけ」

「……え、えへ。やっぱりちょっと……恥ずかしいかも、です……」


 ぽわぽわと赤く染まった頬を両手で押さえながら、紗希は囁く。

 ああ、かわいいな。本当にいじらしくて、か細くて、だから応援したくなる。

 だから、支えてあげたくなる。紗希がVtuberとしてバズったのは、きっとキャラクター性だけじゃなく、その奥にある、「人から愛される才能」があったからに違いない。


 なんて、しゃらくさいか。

 あれこれ考えてるのは照れ隠し……にもならないな。

 今は、紗希と通じ合えたことが嬉しいと、紗希のことが心の底から大好きだと、天に向かって叫びたい気分だった。


「紗希、好きだ。愛してる」

「はい……大好きです、おにいちゃん。わたしも、愛、してます……」


 どくん、どくんと忙しなく跳ね回る心臓の鼓動が、どっちのものかわからない。

 いや、きっと二つ分の心臓が、二人分の心が重なり合って、こんなにも好きだ好きだと喚き立てているんだ。

 だから、今はただ。


 君が好きだと、叫びたかった。

 心がそう求めるままに。

 紗希の全部が好きなんだと、本能がそう欲するままに、愛していると叫びたかったんだ。

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