第37話 ランナウェイ

 判断をつけなければならない。

 放課後、屋上のフェンスにもたれかかりながら、小さく唸り声を上げる。

 ただでさえ紗希には返事を待たせている状態なのだから、急いで判断をつけて、答えを返さなければ不義理にもほどがある。


 だけど。

 だけど、俺の選択は、本当に正しいのか?

 正しさが正解に結びつくとは限らない。


 だが、過ちは過ちだ。

 最初から前提として間違っている選択肢を突きつけるのは、例え正解であったとしても痛みを伴うものになる。

 そうだ。俺は、恐れている。


 怖いんだ。

 正解を引き当てても、不正解を踏み抜いても、正しいことをしたのだしても、間違ったことをしたのだとしても、どっちみち俺たちはこのままじゃいられないという現実が。

 だから、より痛みの少ない方を選ばなければいけない。俺も紗希も、最小限しか傷つかなくて済むような、選択肢を。


「……ははっ。そんなもんが都合よくあれば、苦労はしないんだけどな」


 どの道を選んでも行き着く先が地獄なのには変わりない。

 ここからサイコロの目をひっくり返して天国に行こうと思うこと自体がそもそも間違いなのだ。

 紗希の笑顔が脳裏に浮かぶ。


 ああ──可愛いな。

 心の底から、そう思ってしまう。

 その笑顔が俺にだけ向けられるのだとしたら、その全てを手にできるのだとしたら、それは紛れもなく幸せなのだろう。


 だが、幸せであればあるほど、幸せじゃなくなったときの痛みが強くなる。

 愛すれば愛するだけ、それが破綻したときに同じぐらいの罰を受ける。

 どの感情に従っても、どの理屈に従っても、俺の行き着く先は袋小路だ。


 だから、こうして逃げている。

 自分がひどく情けないの男なのは、なによりも俺自身が一番わかっていた。

 いっそなにも選ばないまま、ただずっと保留にしておけたなら、という最悪の選択肢が脳裏をよぎる。


 ゆっくりと傷口を腐らせるだけで、やがては致命に至る最悪の選択肢。

 少しの間だけでも幸せでいられるなら、そんな愚かしさを、間違いを選ぶこともいいんじゃないだろうか?

 紗希が必死に向けてくれた恋心を見なかったことにして、蔑ろにして、踏み躙って。


「……最悪な発想だな、我ながら」

「……本当にそう」

「……なんだ、美南か」


 呟いた独り言に反応があったから、既視感を覚えつつ振り返れば、そこには相変わらず濁った目をした美南が立っていた。


「放課後ここにくるなんて珍しいな、普段なにやってんのか知らないけどさ」

「……知らせてないから」

「それもそうか」


 しかし美南の放課後か。

 正直想像もつかないな。

 かわいいものを探しにショップやゲーセン巡りに行ったりしてるんだろうか。


 そこそこ仲良くしているつもりだが、そう考えると俺は美南のことをあまり知らないんだな。


「で、なにしにきたんだよ、こんなとこまで。放課後に予定とかないのか?」

「……」

「痛ってえ!?」


 なぜか返ってきた答えは、相変わらず抉り込むように鋭いローキックだった。

 的確に脛を打ち抜いた一撃に、思わず膝を押さえて蹲る。

 遠慮や照れの類が一切ないその蹴りには、明確な殺意の類が感じられた。


「……立って」

「無茶、言うな……めちゃくちゃ痛えんだよ……」

「立て」

「あっはい」


 どうやら美南は相当ご立腹のようだ。

 だが、心当たりの類は一切ない。

 俺は一体どこでこいつの地雷を踏んでしまったんだ?


「……直貴がそんなに情けない男だなんて、思わなかった」

「それって、どういう」

「……夏帆から全部聞いた」


 どうやら夏帆は紗希の件を美南にまで展開していたらしい。

 あいつめ、なんてことをしてくれるんだ。

 ただでさえ厄介な美南だぞ、紗希を猫可愛がりしてる女だぞ、顛末を聞いたら、そりゃあキレるのも納得だった。


「……だったらなんだよ、美南には」

「……」

「痛え!?」

「ある」


 今度はさっき蹴ったのと反対の足を的確に蹴り抜かれた。

 でも、美南には関係ないことは確かだろう。

 夏帆から聞いたとはいえ、これは俺と紗希の問題だ。


 だから、決着をつけなきゃいけないのは俺自身であって。


「……今の直貴は、確実にヘタレ。情けない男。クズ」

「そこまで言われる筋合いは……いや、あるな」

「……わかってるならいい。じゃあどうするべきかもわかるはず」

「……それとこれとは別問題だろ」

「……」

「ゴミを見るような目で見るのはやめてくれないか、地味に傷つくんだが」

「ゴミ」

「とうとう包み隠さなくなったぞこいつ」


 美南の怒りは相当な域に達しているようだった。

 それだけ、紗希のことを可愛がってくれていることはありがたいんだが。

 だが、それだけボロクソに言われると俺だって傷つくのも確かなわけで。


「……今の直貴は重要な問題から目を逸らして逃げ続けてるクズ。クズに容赦するつもりはないし、そんなクズと仲良くしてた自分が情けない」

「そこまで言われなきゃいけないのかよ……美南こそ、なにもわかってないくせに、なんで口を挟もうとするんだよ!」

「……」


 今度は無言で張り手をくらった。

 確かに感情的になってしまった俺も悪いかもしれないが、せめて対話するなら肉体言語じゃなくて普通の日本語にしてくれないか。


「……直貴は、紗希のことが大事じゃないの」

「大事に決まってるだろ……! 紗希は、家族で、妹で……! 俺の、最推しで……っ、可愛い、一人の女の子なんだ……!」


 そんな紗希に恋心を寄せられているんだ。

 俺だって本当なら二つ返事でオーケーして、その好意に目一杯応えてやりたい。

 だが、一人の女の子としての紗希を選ぶことは、家族としての紗希と、妹としての紗希と、最推しとしての紗希を選ばないということなんだよ。


「……直貴」

「……なんだよ、美南」

「……直貴はなにか一つを選ぶと、他のなにかが犠牲になると思ってるみたいだけど、本当にそうなの?」

「そうだろ、俺と紗希がもし恋人になったら、テマリとしての配信活動にも支障が出るんだ。下手したら炎上してそのまま引退って未来もあり得る、俺は……最推しにそんな最期を迎えてほしくないんだ。それに……俺なんかが、本当にテマリと釣り合うわけが」


 釣り合うわけが、ない。

 一つの幸せを選ぶのに、伴う代償があまりにも大きすぎて、俺は。


「……なら、答え出てるじゃん」


 美南は苦笑する。

 答えが、出ている?

 困惑する俺をよそに、南風が吹き抜けて、夕陽が、美南の笑顔を、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。

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