第36話 境界線

 なにかを選ぶということは、なにかを選ばないということだ。

 コラボカフェでの一件から数日、俺と紗希は完全に気まずいまま、仲直りのタイミングを失っていた。

 本当であれば兄としてしっかりすべきなんだろうが、残念なことに今回は俺も動揺している。


 それも、極めて激しく。

 まず、俺が異性として見られていることそれ自体が、未だに信じられないでいる。

 長年オタクを拗らせてきたおかげで、男女の機微なんてものは欠片も理解できないし、教室で俺に声をかける女の子なんて、プリントを渡してくれる学級委員長か美南ぐらいだ。


 美南のやつとは腐れ縁みたいなものだし、あいつに恋愛感情は間違いなくないだろうからカウントしないとして、俺に厚意を向ける女の子はいても好意を向ける女の子は、いない。

 幼稚園や小学生の頃だとか、そういうのも含めれば全くもってゼロだったわけではないんだろう。

 だが、恋愛感情をきちんと理解した上で声をかけてくる、と絞れば完全にゼロのはずだ。


「……つまり、紗希が初めてなんだよなあ」

「なにが初めてなんですか?」

「うわ、びっくりした!」


 廊下で一人黄昏れていると、突然に後ろから声が聞こえてきた。


「そんなに驚きます?」

「なんだ、夏帆か……いや、考えごとしてたからさ。完全にぼーっとしてたんだ」


 声の主は夏帆だった。

 見慣れたアホ毛とサイドテールを揺らしながら、小首を傾げている。


「紗希ちゃんのことですよね?」

「……ははは、いや、大したことじゃ」

「誤魔化したって無駄ですよー、紗希ちゃん最近、露骨に元気ないんですから」

「バレるよなあ」

「バレますよ。で、なにやらかしたんですか」


 夏帆はにっこりと微笑んで問いかけてくる。

 そこに、事と次第によってはお前を許さないぞという圧を感じてしまうのは気のせいだろうか。

 いや、多分気のせいじゃないな。紗希経由で伝わってる可能性もあるだろうし。


「……いや、その。紗希に告られて泣かれたというか」

「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」

「耳元で怒鳴るな!」

「怒鳴りもしますよ! なんですかそれ! 初耳なんですけど!!!!」


 耳がキーンってしたぞ。

 というかそこは普通に知らなかったのかよ。

 あれ、これもしかして自らの足で地雷を踏み抜いたのか?


「紗希から聞いてなかったのか?」

「紗希ちゃんがそんなこと言うわけないじゃないですかー! 直貴さん、デリカシーなさすぎません!?」

「困ったな……それに関しては反論できない」


 半分は当たっている、耳が痛い。

 いや半分どころか全部当たってるんだが。

 アホ毛を逆立てて、まさしく怒髪天といった様子で夏帆は怒りを露わにしていた。


「で、どうなんですか」

「どうって」

「直貴さんは紗希ちゃんのこと、どう思ってるんですか」


 紗希のことをどう思っているのか。

 実際、こうして改めて問いかけられるとますますわからなくなってくるな。

 

「……魅力的だと思うよ、顔は可愛いし、性格も俺は可愛いと思うし」

「じゃあ普通にオッケーすればいいじゃないですか」

「でも、紗希はテマリなんだよ」


 俺は確かにテマリのことを最推しとして掲げてきた。

 推しているというのは、好きだということの表明でもある。

 しかし厄介なことに、「好き」という言葉にはいくつもの意味があって、俺がテマリを好きでいたのは、応援していきたいと思ったからであって、恋愛関係になりたいという思いはそこになかったのだ。


 紗希がテマリだとわかってからも、それは変わらなかった。

 むしろ、兄としての立場ができた分、余計にそういう関係になることなんて意識していなかったと思う。

 紗希は可愛い妹で、俺の最推し。その構図がずっと揺らぐことはないと、思っていたんだ。


「ごめんなさい、あたしにはよくわかりません。最推しとそういう関係になったら、幸せなんじゃないですか?」


 夏帆は心底理解できない、といった具合に小首を傾げる。


「……確かに夏帆の言う通りかもしれない。幸せを得ることはできる」

「だったら!」

「俺だって応えてやれるなら応えてやりたいさ、でも最推しとそういう関係になったら、よくない噂が立つかもしれない。いや、十中八九立つだろう。それでテマリの活動が止まってしまうかもしれない。そう考えると、俺は……とても恐ろしいんだ」


 紗希がテマリである限り、このジレンマは絶対に避けることはできない。

 そして、義理とはいえ妹である限り、同じく義理の兄としては守らなきゃならない立場だとか建前だとか、そういうものもある。

 だから、夏帆のように、素直にそうは言えないんだ。


「俺の欲望がテマリの活動を止めてしまったら、今度はなにを支えに生きていけばいいのかわからない。夏帆、なにかを一つ選ぶってことは、同時に存在してる無数のなにかを選ばないってことなんだ」


 たった一つの幸せを手にする代わりに多くを失うぐらいなら、選ばない方が幸せだったなんてことも、珍しくない。

 俺は俯き、拳を握りしめる。

 紗希からの好意が、嬉しくないわけじゃないんだ。むしろ嬉しいんだ。


 だから余計につらいんだ、選んだことで選ばなかったなにかを犠牲にする選択肢を突きつけられていることが。

 それでもいいと言い切るには、俺の中でテマリという存在はあまりにも重すぎた。

 命をかけて推してきた憧れ。その憧れから手を差し伸べられているのに、嬉しくないはずがない。


 だが、得た分だけ失うのが、今までの平穏な日常が壊れてしまうのが、俺は。


「わかんないです……あたしにはわかんないです、直貴さん! 紗希ちゃんは紗希ちゃんじゃないですか! テマリがどうとか、妹がどうだとか……! 関係ないと思います!」


 胸に手を当てて、夏帆が叫ぶ。


「……ごめん。あるんだ。夏帆の中では関係なくたって、俺の中では雁字搦めに関係してる」


 その糸を解けば、心そのものが崩れてしまいそうなほどに、俺の心を縫い留めているそれはきつく、固く結ばれているんだ。


「う、ううっ……直貴さんのバカ! もう知りません!」

「夏帆」

「あたしには! そうやって勝手に境界線引いて一人でうだうだ悩んでるだけにしか見えないんです! 紗希ちゃんは、紗希ちゃんなのに!」


 きつく目を瞑りながら赤い舌を出して、夏帆は怒りも露わに去っていった。

 境界線、か。

 女の子としての紗希、妹としての紗希、テマリとしての紗希。確かに俺は、そこに線を引いてしまっているのかもしれなかった。


 そのボーダーラインを踏み越えることは許されない。

 一度踏み越えて──選んでしまえば、選ばなかったなにかを失うから。

 ああ、そうか。俺は……今を、失いたくないんだ。


 例えそれが、どんなに愚かな選択だったとしても。

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