第35話 わたしを見て
結局、テマリのコースターを引き当てるまでかかったドリンクの数は十六杯だった。
その途中で超人気Vtuberのコースターを何枚かダブりで引き当てたりしたのでその辺のオタクと交換したりもしたっけか。
それにしたってもう胃が満杯だ。
健康に間違いなく悪いことをしている自覚はあるが、推しのためなら必要経費と思えば安いもんだ、俺の健康ぐらい。
なんならホワイトサワーだったし、乳酸菌で一周回って健康になったりしないか?
……しないか。
「一生分のホワイトサワーを飲んだ気がする……」
「……え、えっと。お疲れさま、です」
「ありがとう、紗希……いや、でも苦労した甲斐があったよ。最推しのグッズはやっぱり自引きしてこそ輝くんだよな」
トレードも断って、今俺の手には燦然と輝くテマリのデフォルメ絵が描かれたコースターが収まっている。
ああ、何度経験しても、この瞬間がやっぱりオタクやっててよかったと思うんだよな。
コースターぐらい買えるだろ、と言われるかもしれないが、その辺のフリマアプリで転売されてるものに手を出すなど俺からすれば愚の骨頂だ。
「いやあ、やっぱり夏帆……じゃなかった。夏芽シエル先生は最高の仕事をしてくれたよな。この新衣装、スカイブルーと白のグラデが今まではミステリアスな感じを強調してたおかげでちょっと冷たさを感じさせてたテマリに親しみやすさを加えてるんだもんな。それにこのお嬢様結び! カジュアルな可愛さを出しつつ元のミステリアスな雰囲気も残した最高のヘアアレンジだ! テマリは可愛い! 世界一可愛い! お前が人間国宝だ!」
思わず、早口で俺は捲し立てていた。
迸る喜びを抑えきれなかったのだ。
しかもこの最推し、ビジュアルだけじゃなくて声まで最高なんだぜ? オタクは好きなものの話になると早口になるというが、こんなに尊いテマリニウムを浴びせられれば、なるなって方が無理筋だろう。
「……そ、そうですね……ぁ、あの。わ、わたしも……髪……」
「ん? そうだな、言われてみれば紗希も今日はお嬢様結びなんだ。可愛くてよく似合ってると思うよ」
言われて初めて気づいたな。
服装のインパクトが強すぎて、髪型まで意識が回っていなかったのだ。
「むぅ……」
そのせいなのか、紗希は少し表情を翳らせて、不満げに頬を膨らませていた。
「いや……ごめん。気づかなくて」
「……」
ぷい、とそっぽを向かれてしまった。
困ったな。
さっきまでは機嫌がよさそうだったのに、立ち回りを一つ間違えただけで急転直下してしまう辺り、乙女心というのは本当に複雑怪奇だ。
「……い、いいです。どうせ……おにいちゃんが好きなのは、て、テマリなんですよね……」
「テマリのことは確かに好きだけど、紗希のことだって大事な家族だと思ってるよ」
「……っ、そうじゃ、ないんですっ!」
声を裏返して、紗希が叫びと共に立ち上がる。
その瞳に浮かんだ涙が、重力に引かれてぽろぽろと机にこぼれ落ちていく。
俺はただ、呆然としていた。
紗希がここまで強い感情を見せることなんて、滅多にない。
それほどまで逆鱗に触れてしまったのだろうか?
だが、テマリを好きでいることと、紗希を大事な妹だと思っていること。その感情は両立するもののはずだ。
「……紗希、ごめん」
「……そうやって……あ、謝らないで……ください……だって……こ、これ、は。わ、わたしの……わがまま、なんです……」
「わがまま?」
「……おにいちゃんに……テマリじゃなくて、わたしを見てほしかったんです……でも、おにいちゃんが、す、好きなのは……っ、テマリのことで……!」
──わたしは、妹としてしか見てもらえてない。
紗希が絞り出すような声で呟いたその言葉がどういう意味を持つのかは、いくら朴念仁だのなんだのと主に美南から罵られている俺でも理解できた。
いや。
理解できて、しまった。
「……紗希?」
「……お願い、です……わたしを、見て……」
もう、せっかく施したメイクが崩れるのも気にする余裕すらないのだろう。
紗希ははらはらと涙をこぼしながら、哀願する。
その言葉に対して、なにか気の利いたことを言えたらどれだけよかったのだろう。
だが、俺はただ言葉を失うばかりで。
紗希の気持ちに寄り添いたい。
その悲しみをちゃんとわかってやりたい。
その気持ちは確かにある。
理性がそうするべきだと頭の中で叫んでいる。
だが、心のどこかでそれに待ったをかけている自分がいるのだ。
「……ごめん、なさい。困らせて、ばっかりで……」
「……いや、俺もデリカシーがなさすぎた。本当にごめん、紗希」
本当はこんな風に謝られたくもないのだろう。
それでも、俺が知っている償いの形はこれしかなかった。
ただ、頭を下げて誠意を示すこと。
悪いことをしたのなら謝る、それ自体は正しいことだ。
正しいこと。普通なら「正解」とイコールで結びつけられること。
しかし、正しさは正解と必ずしも結びつかないことは、誰もが──俺も、わかっている。
例えば、自分が悪いことをして凹んでいるときに、正論をぶつけられたって余計に怒りの感情が湧いてくるように。
正しさはいつだって正しい。
でも、正しさは必ずしも人を救うわけではないし、ときには人を死に至らしめる毒にもなり得るものなのだ。
もしも、紗希の言葉に間違いでもいいから正解を叩き出せたのなら。
そう思いはすれど、最推しであるテマリの魂たる紗希とそういう関係になることを──紗希の好意を受け入れることを、心のどこかで俺は拒んでしまっている。
そうだ。紗希は。
紗希は、異性として俺のことを好きなんだ。
わかってしまった、残酷な事実。
兄妹のままでいたかった。最推しとファンという関係のままでいたかった。
その停滞を紗希が選んでいれば、どんな結果になったとしても苦しむことはなかったのだろう。
「……どうしても我慢、できなかったんだな」
「……はい……っ……」
「……少しだけ、考えさせてくれ」
また、突き放してしまう。
そうわかっていても、今の俺から言えることは、たったそれっぽっちの、どこまでも情けない言葉だけだった。
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