第4章 その全てを愛せるように

第31話 胸の鼓動は恋

 お風呂に入るときは、少しだけ、重たい心が軽くなる気がする。

 おにいちゃんと夏帆ちゃん、美南さんとリスナーの皆のおかげでわたしがもう一度学校に戻ってから、数日。

 テマリのことを悪く言う人たちが変わったわけじゃないし、やっぱりそういう話を聞くと、嫌な気持ちにもなったりする。


 でも、わたしには十万人の味方がいるんだ。

 おにいちゃんが、全力で集めてくれた寄せ書きのことを思い出す。

 色紙は二百枚もあるけど、目を通すだけ通した。


 皆、わたしが──テマリがこの世に生まれてきたことを祝福してくれていた。それがどんなに、嬉しいことか。

 ちゃぽん、と音を立てて、わたしはピーチの香りの入浴剤を湯船に沈める。

 しゅわしゅわと球体が弾けて溶けていく様子を眺めながら、わたしはその嬉しさを噛み締めていた。


「……おにいちゃん」


 小さく、そう口ずさむ。

 わたしなんかのことを好きだって言ってくれた、家族として認めてくれた優しいおにいちゃん。

 わたしなんかのために、いっぱい頑張ってくれて、わたしなんかのために、いっぱいの優しさをくれて。


(そのダメダメなところも含めて好きだって話なんだよ!!!!)


 ダメなところは直さないと、嫌われてしまうと思っていた。

 すぐ泣いちゃうところ、あんまりゲームが上手じゃないところ、なにもない場所で転んじゃうところ……数え切れないくらいいっぱいある。

 でも、おにいちゃんは、そんなダメダメなわたしのことも含めて、好きだって、言ってくれた。


「……おにいちゃんは、わたしが、すき……」


 入浴剤の溶け切った湯船に体を沈めて三角座りをしながら、わたしはぼそぼそと小さく呟く。

 もちろん、おにいちゃんがわたしを好きだって言ってくれたのは、家族だから、義理の妹だからだっていうのはわかっている。

 でも、誰かにこうして面と向かって「好き」って言われたことなんて、ほとんど経験なんてなくて。


 ましてや、男の人から言われたのなんて、生まれて初めてで。

 熱を確かめようとして近づいてきたおにいちゃんの顔を思い出して、耳の辺りまで熱がぼうっと回っていくのを感じる。

 どうしてだろう。


 家族として、最推しとして。

 おにいちゃんがくれた「好き」という言葉はそれで説明がつくはずなのに。

 どういうわけか、その顔を頭に思い浮かべるたびに、心臓がとくん、とくんと早く波打ってしまう。


「……ぶくぶく……」


 湯船に顔を半分埋めながら、息を吐き出す。

 今だって、おにいちゃんのことを考えているだけで胸の奥がきゅうっと柔らかいもので締め付けられているような感覚がして、どうしようもない。

 おにいちゃんは、わたしがすき。


 湯船に溶かすように、もう一度ぶくぶくと泡になる言葉を吐き出す。

 じゃあ、わたしは。

 わたしは──おにいちゃんが。


 頭の中に浮かんでくる、おにいちゃんの姿を一つ一つ確かめながら、わたしは名前のわからない感情に答え合わせをする。

 アイスをくれたおにいちゃん、わたしのことを推してくれているおにいちゃん、わたしのために、いつだって全力で頑張ってくれている、おにいちゃん。


「ぁ……」


 その笑顔を思い浮かべた瞬間、心の奥に埋まっていた種が弾けて芽吹いた。

 そうだ、わたしは。

 わたしは──おにいちゃんが、すき、なんだ。


 それも、家族としてじゃない。

 義妹としてでもない。

 わたしは。天羽紗希は、天羽直貴という男の人のことを、一人の女の子として好きになってしまっていた。


「……ど、どどどどうしよう……わたし……」


 この胸の中でずくん、ずくんと重く芽吹き続ける鼓動の名前が恋なのだとしたら、いよいよわたしはどうしていいかわからなくなる。

 美南さんが言っていたみたいに、義理の兄妹同士であれば、恋人として結ばれることに問題はない。

 それはよかったけど、おにいちゃんがわたしを好きだと言ってくれている理由を思うと、途端に心細くなってしまう。


 家族の一人じゃなくて、義理の妹としてじゃなくて、最推しとしてじゃなくて、わたしは明確に、一人の女の子としておにいちゃんに見てもらいたい。

 それが欲張りな願いだということはわかっていた。

 でも、もうこの心に名前をつけてしまったから、途中で立ち止まることはできない。


「……わたし、魅力あるのかな」


 鏡なんて、最後に覗いたのはいつのことだろう。

 自分の顔を見るのは、苦手だから。

 だから、わたしが女の子として魅力的な容姿をしているのかは正直なところわからなかった。


 唯一、いっつも重くて邪魔だと思ってた胸だけは大きいけど……男の人は皆大きいのが好きじゃないことぐらいはわかっている。

 自分の胸を下から支えるように持ち上げながら、小さく溜息をつく。

 もしもおにいちゃんの好みが、小さい胸の女の子だったら完全にアウトもいいところだ。


「……そうだったら、やだな」


 そんな言葉が自然と唇から滴り落ちてくるぐらいには、好きで好きで仕方がなかった。

 どうしよう。

 走り出した恋心を止める勇気も力もないのに、もしもこの想いが届かなかったときのことを考えると、泣いてしまいそうになる。


 もしも告白なんかして、「紗希のことは好きだけど、妹としてしか見られないんだ」なんて言われたら、きっとわたしは立ち直れない。

 だから、今は……ううん。そんな風に、言い訳を作って逃げちゃだめだ。

 わたしを一人の女の子として見てもらえるように、頑張らなきゃ。


 どんな風に頑張ればいいのかはわからないし、なにを頑張ればいいのかもわからないけど、とにかくおにいちゃんにわたしの気持ちを伝えなくちゃ。

 なにをしたってダメダメで、どうしようもないわたしだけど。

 それでも、この恋だけは諦めたくなかった。


 だから、どんなに不安でも、どんなに怖くても、前に進まなきゃいけない。

 わたしは湯船から立ち上がって、胸の前で小さく拳を固める。

 おにいちゃんからもらった勇気に使いどころがあるとしたら、今しかない。


 例えそれで一生分の勇気を使い果たしたとしたって、きっと後悔なんてしないから。

 頑張らなくちゃ。

 この胸の鼓動が叫び続ける限り、その名前が恋であり続ける限り。

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