第19話 巡り巡って春が来た

「紗希ちゃんをその気にさせてくれて……本当にありがとうございます、直貴さん!」


 それから時は流れて、いよいよ我が高校の入試が始まろうとしていた朝、我が家にやってきた夏帆は、ぱんっ、と両手を合わせてお辞儀をした。


「いやいや、俺はあくまで背中を押しただけだよ。決めたのは紗希自身の意思だから」

「だとしてもです! 紗希ちゃん、引っ込み思案だからどれだけ説得しても暖簾に腕押しって感じで……どうやったんですか?」


 夏帆は悪意なく瞳を輝かせながら問いかけてくる。

 その言葉も、振る舞いも、恐らく意識していないのだろうが、全ては「正しい」という確信の下に行われていた。

 別にここで俺が正しさが人を救うとは限らない云々と反論をぶつけたところで、多分夏帆は納得しないのだと思う。


 悪い子じゃないんだ。

 言ってることも別に間違ってるわけじゃないんだ。

 でも、その方向からのアプローチだと、紗希の心の中で何十もの鎖と錠前によって閉ざされた本心は開けない。ただそれだけだった。


「なんて言えばいいんだろうな。うーん……違うやり方を試してみた、かな」

「違う、やり方?」

「暖簾に腕押し、糠に釘……言葉は色々あるけどさ、要するにやってもダメな方法なら別のやり方を試してみる。それで上手くいったら御の字ってぐらいがちょうどいいんだと思うよ」


 暖簾はただ潜って入ればいいし、糠に釘なんか刺さなければいい。

 簡単なようで結構難しいことを言ったな、と、我ながらそう思う。

 この件に関して俺はほとんどなにもしていないといっていい。


 全てを決めたのは、紗希の意志なのだから。


「お、お待たせ、しました……っ」


 ぱたぱたと階段を駆け降りてくる紗希は、夏帆と同様に中学指定のブレザーを身に纏っていた。

 慌てて来たからか、髪はところどころ枝毛がぴん、とはみ出ていて、リボンタイも左右が不揃いになっている。

 直してやりたいところだったが、流石に俺がやったらマズいだろう。


「夏帆、頼める?」

「まっかせてください! 紗希ちゃん、こっちこっち!」

「……ぁ、はい。ごめんなさい、手間をかけてしまって……その、制服の、前が……きつくて……」


 その言葉通り、紗希のブレザーは主に胸の辺りが布地を突き上げる膨らみに押されてパッツパツになっていた。

 うーん成長期。

 今の今まで学校に行ってなかったから、千雪さんも新しいのを買わなかったんだろうな。


 そんなことを頭の片隅に浮かべながら、俺は夏帆が手早く学生鞄の中から取り出した櫛で紗希の髪を梳いていくのを、後方保護者面で眺めていた。


「リボンもこれでよし、っと……それじゃ、行ってきますね、直貴さん!」

「……ぁ、その、行ってきます……」

「いやいや、俺を置いていくなって」


 見送る流れだとでも思ったのか、それとも保護者の存在を忘れていたのか。

 どっちにしろ夏帆はナチュラルに紗希の手を引っ張って、我先にと駆け出していく。


「……それだけ嬉しい、ってことか」

「はい! また紗希ちゃんと一緒の学校に通えるかと思うと、あたし、わくわくしちゃって!」

「二人なら大丈夫だろうけど、まだ合格って決まったわけじゃないからな? 夏帆も紗希も、最後まで油断するなよ」


 みっちりと勉強を見てやったから、紗希について、学力面での心配はないはずだ。

 それに、うちの高校はそこまで偏差値が高いわけでもない。

 夏帆だって相応に自信があるんだろうし、贔屓目を抜きにしても余裕だとは思うが、用心しとくに越したことはないはずだ。


「それじゃ行くか」

「はい! 早く行きましょう、直貴さん!」

「あ、あわわ……ま、待って、夏帆ちゃん……」


 桜咲く春に向けて、三つの靴音が冬のコンクリートを不揃いなリズムで叩く。

 そこに頑張れ、なんて言葉は必要ない。

 なぜなら、紗希はもう頑張っているんだから。







 そうこうしているうちに季節は巡り、冬の名残もどこか遠くに行ってしまった。

 ついこの間、新年を迎えたばかりな気がするのに、気づけば今年はもう四分の一すり減っている。

 無常だなあ──なんてことを薄らぼんやりと考えながら、俺は紗希と夏帆に連れられる形で、合格発表の会場である我が高校に足を運んでいた。


「合格発表ですよ合格発表! ちゃんと受かってるかなあ……うう、心配になってきた……」


 普段は自信満々な夏帆さえ、緊張を隠せずにそわそわしている。

 なんだか一年前を思い出すな。

 俺も似たような感じだった記憶がある。


 そして、夏帆が戦々恐々としているということは、輪をかけて心配性な紗希からすれば、それこそ心臓が破裂しかねないほどに緊張しているのだろう。

 夏帆の左腕にしがみついて、生まれたての子鹿かってぐらいに足をぷるぷると震えさせている我が義妹の表情は、絶望の一言だった。

 もうこの世が終わるんじゃないかってぐらいに沈み切ったその表情は、気を失っているのかと心配してしまうほどだ。


「……あ、あわわわわわ……ご、合格……合格、してますように……あっ胃が痛い……」

「もー! 心配しすぎだよ、紗希ちゃんは! それに胃薬ならさっき飲んだでしょ!」

「……えっあっ、その、ここ数分くらいの記憶しかなくて」

「本当についさっきだよ!?」


 夏帆が正気に戻れとばかりに紗希の肩をがくがくと揺らす。

 確かに家を出るときと正門に着いたときの二回、紗希は胃薬を飲んでいるな。

 その、なんだ。俺は合格している身だからなにを言っても楽観論にしか聞こえないからな、うん。


「あっ、係の人が梯子登ってる! いよいよ発表だよ、紗希ちゃん!」

「……ひ、一思いに殺してください……」

「なんで処刑台に乗せられる罪人みたいになってるんだ……紗希なら大丈夫だよ」

「あっ、その、えへ……胃が……」


 俺の言葉に胃痛で歪んだ笑みを返している間に、係の人が掲示板を覆っていた紙を引き剥がす。

 わあっ、と歓声が上がる。あるいは、ああ、と、落胆に沈む声が聞こえる。

 嬉し涙をこぼすやつもいれば、悔し涙に濡れるやつもいる。


 その是非を問うのは、俺なんかじゃおこがましいのかもしれないが──一言でいうなら、残酷だなと、素直に思うよ。


「千五百六番と千五百七番……あった! 合格! 合格だよ紗希ちゃん!」

「あっえっ、あっ、わた、わたし」

「合格だってば!」


 夏帆に抱きつかれる形で呆然としていた紗希は意識を取り戻したのか、手元の受験票と掲示板に書き込まれた番号が一致しているかどうかを執拗に確かめる。

 まさか書き間違いではないか、夢ではないか……と、でも思ってるんだろうな。

 やがて、紗希が頬っぺたをむにー、と引っ張ったところで、確認作業は終わったようだった。


「……ご、合格……えへ、えへへ……ぐすっ、ありがとう、ございます……お義兄ちゃん、夏帆ちゃん……」


 嬉し涙をぽろぽろとこぼしながら、紗希はにへら、とどこか緩んだ笑みを浮かべた。


「おめでとう、紗希」

「おめでとー! 頑張った甲斐あったね! これで高校もおんなじだよー!」


 夏帆に抱きつかれている紗希に視線を向けて、俺は心から手を叩く。

 よく頑張ったよ、本当に。

 ここに、桜吹雪やライスシャワーがあったのなら盛大にぶちまけていただろう。


 紗希の合格は、そのくらい、まるで自分のことのように嬉しかったのだ。

 抱き合いながら嬉し涙を流している二人を見守りながら、俺は静かに頷いていた。

 紗希が勇気を振り絞って一歩進んだその先に、確かな光があった喜びを噛み締めるように。

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