第6話 君は頑張ってんだよ
「あー、天羽くん、もう上がって大丈夫だよ」
「あざっす!」
善は急げと、即座に帰宅を決めたいところではあったものの、バイトの予定がそれを許してはくれなかった。
今日も今日とて労働基準法通り、定時で上がることに若干の申し訳なさを感じつつ、俺は賑わう客席の隙間を縫うように、手に持っていたトレイに乗せた空きのグラスを洗い場に戻す。
忙しい先輩や店長たちを手伝いたい気持ちもあるんだが、今日は一刻も早く家に帰らなきゃならないから、ありがたくその厚意に甘えさせてもらう。
給料がそこそこ出るし、昼や夜も残るなら賄いが出るとはいえ、飲食って大変だよな。心からそう思う。
バックヤードに戻った俺はエプロンや制服を洗濯のためにエナメルバッグへと放り込みつつ、小さく溜息をつく。
とはいえ俺も先輩たちには及ばないとはいえ、結構疲れていたりする。ピークタイムの注文を捌くのは、慣れたとはいえキツいのだ。
「なんて、弱音を吐いてられないけどな」
ポケットにねじ込んでいたスマホからぶら下がっているテマリのアクキーに視線を落として、ふっ、と不敵に笑ってみせる。
俺の苦労で最推しの生活が少しでも豊かになるのなら、望むところだ。
学生鞄とエナメルバッグを担いで、バイト先をあとにする。ここから先は一秒でも早く帰宅するのがミッションだからな。
◇
果たして今から俺がやろうとしているのは善なのかそうでないのかと、玄関を前に少しだけ考え込んでしまうのは、きっと疲れているからだろう。
二匹目のドジョウ……ってわけじゃないけど、コンビニに寄ってアイスを二つ買ってきたのは、自信のなさの表れみたいなものだ。
とはいえこんなところで立ち止まってたら、美南に笑われるか背中を蹴飛ばされるかの二択だろう。
だから、俺はできる限りいつも通りを装って玄関の扉を開けた。
「ただいまー」
「……あっ、おかえりなさい……」
空元気で口にした挨拶に反応してくれたのは、お風呂上がりと思しきパジャマ姿に加えて、髪の毛をタオルで巻いている紗希だった。
この前といい、どうにもバイト帰りに紗希と出くわすことが多いな。
俺としては好都合だから別に構わないんだけども。
「紗希、アイス食べる? 風呂上がりだしちょうどいいタイミングだと思うけど」
「……あっはい、いただきますっ」
がさごそとコンビニ袋を漁って取り出したアイスの袋を手渡すと、紗希は少しだけ目を輝かせたように見えた。
もしかして、このアイスがお気に入りだったりするんだろうか?
この間と同じ、バニラアイスをチョコレートでコーティングしたそれをもそもそと啄んでいる紗希を見つめながら、ぼんやりとそんなことを考える。
……考えるぐらいなら、聞いた方が早いよな。うん。
「そのアイス、もしかして好物だったりする?」
「えっあっ、はい。で、でも、どうして……?」
「いや、なんとなく嬉しそうに見えたから」
これで思い違いだったら恥ずかしいどころの騒ぎじゃないが、それでもアイスを袋から出したときに見せた紗希の微笑は、なんとなくそう見えたから。
紗希は目をぱちくりと見開くと、手元のアイスと俺の顔の間で視線を往復させる。
そして、瞬間湯沸かし器のごとく、ぼっ、と一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。
「……あっあの、その……すき、です。甘くて、バニラの濃厚な味わいと、チョコレートが溶け合ってるみたいで」
「はは、なんか食レポみたいだな」
「あっその、ごめんなさい……」
紗希は肩を縮こめて、ぺこりと頭を下げる。
情緒があっちに行ったりこっちに行ったりと忙しない。
ただ、これはからかうようなことを言った俺も悪いか。
「ごめんごめん。テマリも前に雑談枠で同じこと言ってたからさ、つい思い出して」
「そ、そうだったんですね……」
ふい、とこっちに向けていた視線を外して、ぼそぼそと紗希が呟く。
紗希は俺の推し語りを聞いてくれる貴重な人材だ。
だからこそ、この前みたいに早口を披露してドン引きさせるわけにはいかない。
「俺もテマリが美味しいって言ってたから買ってみたら結構ハマってさ。やっぱり流石だよな、テマリの慧眼は」
「……そ、そうでしょうか」
「推しが好きって言ってるから補正かかってるとかじゃなくて、純粋に美味いからな、これ。紗希にも気に入ってもらえてよかったよ」
夜食とかを詰め込んでいるコンビニ袋から、俺の分のアイスを取り出しながら、紗希へとそう笑いかける。
そうして齧ったアイスをもしゃもしゃと咀嚼していると、紗希はどこか困ったような顔をして、俯いてしまった。
なにか困らせるようなことを言ってしまったんだろうか。
困ったことに心当たりがまるでない。
女の子の地雷はどこに埋まっているかわからないとはいえ、結構慎重に話題を選んだはずだが。
突如として流れ出した気まずい空気に、俺もただ困惑するほかになかった。
「……お、お義兄ちゃんは……」
両肩に重くのしかかる沈黙を破ったのは、紗希の方だった。
ぼそぼそとした口調で、恐る恐る問いかけてくる。
前髪に隠れて正面からはよく見えなかったものの、頬の辺りを涙が伝っているのがかろうじて窺えて、なにか本格的にまずいことを言ってしまったのかと俺はつい身構えてしまう。
「……お義兄ちゃんは、どうして……わたしなんかに、こんなに優しくしてくれるんですか……?」
顔を上げて、ぽろぽろと涙をこぼしながら紗希はそう問いかけてくる。
優しくする、理由。
予想外の言葉に戸惑ってしまう。誰かに優しくすることに、ましてや家族にそうすることに、なにか理由なんて必要なんだろうか。
「……わたしなんか、ダメで……ダメダメで……お義父さんとお母さんはお仕事、お義兄ちゃんは、いつも学校に行って……アルバイトもしてるのに……わたしだけ、一人で部屋に閉じこもって……なにもしないで、迷惑を、かけて……それどころか、お義兄ちゃんが稼いだお金で、アイスを……」
涙混じりに紗希は言った。
同居生活が始まってから大体一ヶ月。
冬休みも終わったというのに、俺は紗希が学校に行ったところや帰ってきたところを見たことがない。
つまりは、そういうことだった。
親父や千雪さんからぼかした話だけは聞かされていたが、有り体にいうなら、紗希は、いわゆる引きこもりということになる。
まだ中学生だからどうにかなっているものの、高校に上がったら一発で中退コースだ。
心配してないのかと聞かれたら全力で首を横に振る。
だが、人には踏み入ってほしくない部分というものが存在しているのもまた事実だ。
俺は、紗希の心の中で膿み続けている傷口に触れるだけの資格を持っているのだろうか。
その答えに自信が持てないからこそ、今の今まで俺はこの問題に触れることを、避け続けてきたのだ。
──やっぱり、負い目を感じていたんだな。
当然だといえば当然だろう。別に俺や親父、千雪さんがそう思わなくても、引きこもりというのは社会的な体裁が悪い。
だとしても、だ。
「紗希は、本当になにもしてないのか?」
「……ぐすっ……えくっ……はい……」
「そんなことない。配信、やってるんだろ? それだけで少なくともなにか一つはやってることになるんだけどな」
俺は、あえておどけたような調子で肩を竦めた。
実際のところ、紗希が部屋の中でなにをやっているのかを俺は知らない。
もしかしたら本当になにもしないで一日を無為に過ごしているのかもしれないが、だとしたら引っ越しのときに運び込まれた機材の説明がつかなくなる。
「……で、でも……わたし……」
「真剣になにかをしてるなら、それだけで頑張ってるんじゃないかって俺は思うんだけどな」
「……っ、だけど……それでも……っ」
「なあ、紗希」
俺はぽたぽたと床に涙の雨を降らせている紗希の肩に手を置いて、前髪の
「俺はさ、紗希が配信してるってことしか知らないんだ。知らないままにしておいた方がいいと思ったからさ。でも、そんなことないよな。思ってるだけの思いなんて伝わらないんだから」
「……」
「だから、できる範囲でいい。紗希が普段なにしてるのか、教えてくれないか?」
知ればなにかが劇的に変わるわけじゃない。
知ったところで、紗希の現状が逆転するわけでもない。
それでも、少しでも歩み寄って紗希のことを知れたのなら、自分の視点からは見えない部分を見てやることぐらいはできるはずだ。
「……そ、そんな……わたし、大したこと、してません。家にいるときは……お勉強とか……ゲームとか……配信とか……だけで……」
「それだよ!」
「えっ……?」
俺が勢いよく食いついたのに面食らったのか、紗希はさっきまで泣き腫らしていた目を白黒させて困惑する。
「してるじゃん、勉強! それだけでも十分立派だって!」
もし俺がなにかしら現実に嫌気がさして部屋に篭ったら、勉強なんて真っ先に放り捨てているだろう。
それなのに、紗希は自分から進んで勉強しているんだから、魂の在り方的には俺より数段偉いと、心からそう思った。
なんだ、紗希は。
「紗希は、なにもしてなくなんかない。頑張ってる」
「……で、でも……」
「それは紗希から見た紗希の話だろ? 俺から見た紗希は、十分頑張ってる。そう見えるんだ」
「……っ……!」
「だからさ、変に自分を下に見たりとか、遠慮したりとかしなくていいよ。アイスの件だってそうだ。俺たち、まだ出会って日が浅いとはいえ……
だから、わがままだって言ってもいいんだ。
俺の言葉に、紗希はなにか思うところがあったのか、ぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣きじゃくっていた。
きっと、紗希の心に刻まれた傷は俺が思うよりも遥かに深いものなのだろう。
それでも。
少しだけでも、今の言葉をきっかけに、ほんの一ミリだけでも紗希が前を向いてくれればと、そう願わずにはいられなかった。
紗希は、ちゃんと頑張っているんだから。
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