小説『元素探偵 藏元素子』

渡辺羊夢

第1話『テトラヒドロゾリンかく語りき』

<テトラヒドロゾリン(Wikipediaより)>

 テトラヒドロゾリン (tetrahydrozoline) は、塩酸テトラヒドロゾリンとして目薬や点鼻薬に含まれるイミダゾリンの誘導体である。同様の薬理作用を示す誘導体として、ナファゾリン、オキシメタゾリン、キシロメタゾリン等がある。オーバードースによる毒性がある。


<薬理作用>

 テトラヒドロゾリンは主にアドレナリンα受容体作動薬として作用し、点眼薬は眼の結膜の血管を収縮させる。これは眼への刺激物による充血を抑える効果がある。

 点鼻薬として用いると、鼻粘膜の充血を改善する。しかし、長期にわたる経鼻使用は、慢性的な薬剤性鼻炎の原因となる。

 また、痔の出血・発赤を抑えるために、一部の坐剤(座薬)に配合されている。

 いずれもOTC医薬品に用いられている。


<都市伝説>

 テトラヒドロゾリンにはもし経口で摂取すると下痢を起こすと広く信じられているが、都市伝説である。実際に誤飲すると吐き気、嘔吐、発作、昏睡などに陥る可能性があるが、下痢を引き起こす効果はない。



容疑者:石川美緒 22歳 女性

鏡原市内の風俗店に勤務する風俗嬢


被害者:清水剣 31歳 男性

元々は石川の働く風俗店の客。その後、石川と付き合い始める



いつものように鳴り響く携帯

この時間の着信は見なくても誰からのものか分かる

番場から仕事の依頼だ


「早いな」

「まぁな。あんたから呼ばれるってことは今回も難事件なんだろ?」

「あぁ。被害者は清水剣、31歳男性。死因はマフラーで首を絞められたことによる窒息死。容疑者としてあがったのは第一発見者の石川美緒、22歳女性。被害者の清水剣は元々石川の働く風俗店の客だった。そこから親しくなり交際を始めたようだ」

「じゃあ犯人はその清水の彼女?」

「これがそう単純じゃなくてな。清水の死亡推定時刻に石川は外出して友人と会ってる。友人の裏付けも取れた。石川のアリバイは完璧だ」

「なるほど。それは難事件だ」

「だから、お前らを呼んだんだ。まず今から入ってもらうのは被害者、清水剣の自宅だ。そのあと容疑者、石川美緒の自宅にも寄る」

「あいあい、いつものパターンね。了解」

「藏元の…素子の準備はできてるのか」

「本人に直接聞けば良いじゃないか」

「最近まともに話をしてくれなくてな、これが反抗期というやつか」

「素子はもう24だぞ、今さら反抗期か?」

「知らん。まぁ、よろしく頼んだ。外で待ってるから10分で済ませろ。俺が時間を稼げるのはそれが限界だ」

「いつもいつもタイパを求めてくるねぇ、あんたは」

「うるせぇ、分かってるならさっさと始めろ」


素子は先に部屋の中に入っていた

相変わらずの挙動不審、きっと常人には見えない世界が見えているのだろう

指紋を残すことが出来ないのでゴム手袋をし、靴にビニールを被せ、キョロキョロと周りを見渡しながら時折、鼻でゆっくりと呼吸をしている

傍から見れば完全な変態だ


「折戸さん、来るの遅い」

「外で番場と話してたんだよ」

「私の話?」

「相変わらずの名推理ですこと」

「推理なんてするまでもないわ、最近あの人、私の事を色んな人に相談してるそうじゃない?」

「聞き込み能力も素晴らしい」

「勝手に聞こえてくるのよ、私にはね」

「そうでした。で、何か変なところは見つかったか?」

「いいえ、全く。逆にそれがおかしい」

「どうして?」

「部屋の遺留物から何も感じない。まるでこの場所で殺人事件など起きていないかのよう」

「そうなのか?この首に巻き付いてるマフラーからも何も感じないのか?」

「えぇ、残念ながらね」

「どういうことだ。凶器はマフラー、死因は窒息死って番場からは聞いたぞ」

「死因は窒息死で間違いない。でも、凶器はマフラーじゃない」

「何も感じないからか」

「えぇ、マフラーからは何も感じない。強いて言うなら、作った人の愛情くらい」

「手作りのマフラーなのか?コレ」

「縫い目が不均一だし、市販品はこんな糸使わない」

「容疑者が被害者にプレゼントした物か?」

「いいえ、容疑者にそんなマメさは無いわ。その前か、更にその前か、とにかく昔の彼女から貰ったものでしょうね」

「それなら少しくらい怨念が籠っててもいいようなもんだがな。怨念はおんねん、ってか」

「全く笑えないんですけど」

「その刺すような視線は痛いから止めろ」

「とにかく、このマフラーは凶器じゃない。マフラーに殺意を感じない」

「そうか、残念だが番場に伝えるしかないな」


「どうだった?マフラーからは何か感じたのか?」

「いいえ、何も。マフラーには殺意は籠ってなかったわ」

「なんだって?死因はマフラーで首を絞められたことによる窒息死なんだぞ」

「誰がそんなこと決め付けたのよ」

「警察がこの状況を捜査すれば、誰だってそう結論付ける」

「でしょうね。だから警察が無能だって言われるのよ」

「俺の批判は甘んじて受ける。お前らに頼ってる時点で俺は刑事失格だ」

「あら、私はあなたの柔軟な捜査方法を高く評価してるわよ」

「そうかいそうかい、それはどうも。誉め言葉として受け取っておくよ」

「とにかく、被害者の自宅で得るものが無かった以上、容疑者の自宅に向かいましょう」


次に訪れた容疑者の自宅は、さっきより殺風景な何もない部屋だった

ホントにこの部屋で生活していたのか?


ふと洗面台に目が行く

洗面台には、うがい薬と目薬…

ん?

目薬?

なぜ洗面台に目薬?


「素子、ちょっとあの目薬を触ってみてくれないか?」

「なんでよ」

「いいから、ちょっとビビッと来たんだよ」

「ムカつくことに折戸さんのそのビビッ、はたいてい当たるのよね」

「それは褒めてるのか?けなしてるのか?」


洗面台の目薬に手を伸ばす素子

その刹那、針で刺したようにピリッと指先に走る痛み


「痛った!」

「大丈夫か?」

「血が出た、ムカつく」

「目薬をゴム手袋ごしに触っただけで出血する奴がどこにいるんだよ」

「それがここにいるのよ、私は繊細なの」

「はいはい、そうでした。それで、何か分かったか?」

「この目薬から感じるのは…怒り。それもかなり強烈なね」

「怒り?目薬になんで怒りの感情が籠ってんだよ」

「さぁね。それより、なんで洗面台の目薬が怪しいと思ったの?」

「そうか、素子は普段目薬を使わないから知らないのか。目薬は容器にカビなどが付着することがあるから、風呂場や洗面台など湿気の多い場所に置くなって言われてるんだ」

「へぇ」

「それに、普段から目薬を使う人間は洗面台に目薬は置かない。いつでも差したい時に差せるよう、普段から自分が持ち歩く鞄の中に入れとくもんさ」

「名推理~」

「名探偵のお前に言われてもちっとも嬉しくないんだが」

「ということは、これは犯人の目薬じゃない」

「だろうな。恐らく被害者のものだろう」

「どうして被害者の目薬に怒りの感情が残ってるのよ」

「それは…犯人が凶器として使った?」

「目薬で人が殺せるの?」

「以前ネットの記事で読んだことがある。確か海外で夫の飲む水に目薬を混ぜて殺したって事件があった。目薬に含まれる有効成分のテトラヒドロゾリンには突発性発作や呼吸停止、昏睡状態を引き起こす可能性があると言われている。十分に毒殺は可能だ」

「なるほど、じゃあ犯人はこの目薬を被害者に飲ませ毒殺。その後、証拠隠滅のためにマフラーで首を絞め上げ、目薬を現場から持ち帰った。なんで途中で捨てなかったのかしら?その辺に捨てれば完全犯罪が成立してたのに」

「そうしなかったのは単に犯人の頭が悪かったのか、あるいは犯人が意図的に毎日使う洗面台に被害者を殺した凶器を置いておくことで、優越感に浸りたかったか」

「まぁそんなところでしょうね。とりあえず、番場さんに相談して犯人と話す機会を作ってもらいましょ。直接話した方が早い」


翌日。鏡原警察署の取調室に呼ばれた素子と折戸は容疑者、石川美緒と対面した。


「初めまして」

「あなたとその横にいる彼、ホントに刑事なの?」

「警察手帳を持ってるわ、見たければ見せてあげるけど」

「そんなもんいくらだって偽造できるわよ、今の時代」

「そんなことはどうでも良いのよ。今はあなたと話がしたいの」

「凶器はあのマフラーなんでしょ?いつの元カノからもらった物かも分からないマフラー。私はそんな気持ち悪いもんさっさと捨てろって何度も言ったのに。あのマフラーからは私の指紋は検出されてないんでしょ?死亡推定時刻のアリバイもある。私はやってない。早く家に帰して。もう容疑者扱いされるのも流石に疲れたわ」

「石川さん、あなた目薬はよく使うの?」

「目薬?あぁ、あの洗面台に置いてあるやつ。よく使うからあそこに置いてるのよ。それがどうか?」

「私は目薬が洗面台に置いてあるなんて一言も言ってない。あなた、あの目薬使ってないんでしょ?」

「何でそんなことが分かるのよ」

「気になって、あの目薬の先端を調べた。あなたのまつ毛や皮膚などの成分は検出されなかった。逆に、被害者である清水剣のまつ毛や皮膚の成分が検出された。つまり、あの目薬は清水が使ってたもの。なんであなたの家にあるの?」

「それは、彼がうちに来た時に忘れてったんじゃないの?」

「あら、さっきは私の目薬って言ってたのに、言うことがコロコロ変わるのね」

「それが何だって言うのよ。あの目薬が清水のだとして、だから何なの?」

「あなたは、あの目薬で清水を殺害した」

「はぁ?どうやって?」

「海外で目薬を旦那に飲ませて殺害した事例が報告されてる」

「死因は首をマフラーで絞められたことによる窒息死でしょ?目薬なんて関係ないわよ」

「彼の死因は窒息死じゃない。もちろん首が絞められた痕跡はあったわ。ただ、あの跡はあなたが凶器である目薬から目を逸らすためにわざと作ったもの」

「バカバカしい」

「更に言うなら、あのマフラーからは全く殺意を感じなかった。唯一被害者の家とあなたの家の中で殺意を感じたのは、あなたの家の洗面台にあったあの目薬だけよ」

「それだけ言い切るってことは、もう遺体の毒物検査を済ませたのね」

「えぇ、バッチリ遺体からは致死量のテトラヒドロゾリンが検出されたわよ。やはり海外の事例を参考にしたのね」

「彼が目薬をよく使ってたのは知ってた。あんなもので人が殺せるのか大いに疑問だったけど、本当に上手く行った時は、自分のこと天才だと思ったわ」

「ただ、体内からテトラヒドロゾリンが検出されたら一巻の終わり。それで、あなたは清水の首をマフラーで絞め上げた後、あの目薬を持ち帰った」

「あーあ、上手くやったと思ったのになぁ。やっぱり捨てるべきだった、あの目薬」

「いいえ、あなたは捨てないわ」

「なんでそう言い切れるのよ」

「あなたにはサイコパスの特徴が見られる。欧米の殺人犯の中には被害者の体の一部を切り取ってホルマリン漬けにして家に飾る変態がいるけど、あなたはもっとスマート。あの目薬を毎朝使う洗面台に置くことで、自分の殺人を思い返して満足していたのよ」

「そこまで分かるのね、あなた」

「えぇ。じゃあ、最後に聞かせて。殺害の動機はなに?」

「それだけ分かってるのに、動機が分らなかったの?」

「えぇ。そこだけ最後まで分からなかった。清水は確かにクズ人間よ。でも、殺すほどの価値のある人間とも思えないわ」

「父に似てたのよ」

「お父さんに虐待されてたの?」

「それはもう。毎日殴られ叩かれ全身の至るところにあざが出来てたわ。だから、一回も半袖を着たことはなかった」

「大変な幼少期を過ごしたのね。それはトラウマにもなるわ」

「無理に同情しなくていいのよ。極めてありふれた、どこにでもあるような話よ」

「それで、彼氏からもDVを受けていた」

「付き合うまで分からなかった。付き合って同棲を始めてから、急に暴力を振るうようになった。SEXの最中も殴られ叩かれ、全身にあざを作りながらあいつに上に乗られてた。なんでこんな最低な男と付き合ってるんだろうって何度も後悔した。そこで気付いたのよ。よく父親に似た男を好きになるって言うじゃない?あれって真実なんじゃないかって。私を殴り続ける父にどこか依存している自分が居たんだと思う。父親の虐待行為を愛情表現の一つだと勘違いしてしまった自分が居たんだと思う」

「屈折した愛情ね」

「父親のストレス解消の道具として機能を果たしている、そんな自分に存在価値を見出してしまったのがそもそもの間違いね」

「父親に愛されたかったのね」

「父親の愛情が欲しくない子供がどこに居るのよ、当り前じゃない。愛して欲しかった、抱きしめて欲しかった。道具としてではなく、一人の子供として必要とされたかった。まぁそれももう叶わないけどね」

「お父さんはもう亡くなってるの?」

「えぇ。急性アルコール中毒で知らない間にポックリ逝ってたわよ。まぁ、あの父に相応しい最期かもね」

「そんなこと思ってない」

「なんで分かるのよ」

「何で、そんな冷めた口調で話すあなたの両目から涙が流れてるのかしら?」

「これは目にゴミが入ったからよ」

「ベタな言い訳ね。照れてるの?」

「まぁそういうことにしといて頂戴。刑務所に入る前に楽しい話が出来て良かったわ」

「そう?なら何より」

「じゃあ後ろにいる刑事さん。もうこの取り調べを終わりにしてさっさと逮捕して」

「あ、あぁ」

「私たちが刑事じゃないこと、気付いてたのね」

「あなた達みたいな刑事はドラマか映画の中にしか居ないわよ」

「確かに」

「でも、最後に父の話をあなた達に出来て良かった」

「それは、どういたしまして」


石川美緒は清水剣殺害容疑で逮捕された。裁判の結果は無期懲役。


「あの子、可哀そうだったわね」

「全くだ。同情はするが、人を殺したら終わりだ」

「そう。殺さなければ、まだやり直せた。相手がどんなにクズでも、殺した方が負けよ」

「ごもっとも」

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