第27話 気付かされた傷跡

 レニの目の前には泣き崩れる少女がいた。


 ボロボロな服の下に隠された無数の痣と血の流れた傷の跡。


 少女も俺たちと同じだ。ハズレだといわれ、役に立たないとゴミのように捨てられた敗者。


 子供のようにわんわんと泣きながら、自分に救いを求める少女を見ていると、終わったはずの過去が体を這うウジ虫のようにぞわぞわとおぞましい感触と共に蘇って来る。


 最初は自分も泣いていた。涙が枯れるまで一人で泣いていた。そのうち泣いても無駄なことに気が付いた。なんのために泣いていたのか、それすら自分でわかっていなかったのだから。


 それよりも、生まれ落ちたばかりの世界で誰が味方で誰が敵なのかすらわからない。


 誰かに救いを求めればいいのだと、救済の道を教示してくれる人もいなかった。


 母親から与えられる過剰な暴力は腕も足も動かなくなるほど痛めつけていった。


 純粋に肉体の痛みから生じる涙。胸は苦しく、悲鳴を上げて痛みを訴えても、心で涙を流す方法がわからなかった。


 癒す方法がわからない。痛みも傷跡も蓄積されていく。消化されることなく、自分の中で黒く濁った感情になってゴミのように心の中に溜まっていった。


 捨てる方法もわからない、方法がわかっても簡単には捨てられない感情は、同じような境遇の心と同調して、時おり宝石のように輝きだす。


 自分のことだと何もわからず、ただ怒り、苛立ち、不安になり、不平不満が募るばかり。

 だけど、他人のことだと、かわいそうだと思える。助けてあげなくちゃ、そう思えた。


 それに最初からそうすればいいと思っていた。二度と奪われないために。

 簡単なことだろう。奪う奴が最初から居なければいい。


 血の赤が目の前で弾けた。怒声は耳の奥でわんわんと響き、傷だらけの裸体で泣き崩れる少女の残響でかき消されていく。


 拳を振るうほどに体が軽くなった。臓腑に沈み込むゴミを吐き出した気分だった。


 蹴り上げるほどに胸がスカッとした。少女を救うヒーローになった気分だった。


 だけど、相手の血が流れ出る度に透明なナイフで切り裂かれている気分だった。


 相手の骨が折れて肉体が崩れ落ちる度に、心臓を掴まれている気分になった。


「き、さま、こんなこと、許され……!」


 こんなこと。どんなことだろう。人を痛めつけることだろうか。


 許されるはずがない。同意する。レニを俯瞰で見つめる過去のレニが叫ぶ。許すはずがないと。


 だから、少女を苦しめ、泣かせたこいつは許されない。許しちゃいけない。

 メキメキと手の中で骨の軋む音が聞こえる。


「ぐあああああああっ!!!」


 ああ、こいつも、もうすぐゴミになる。俺の中で黒く濁ってヘドロみたいに澱んだゴミとなるんだろう。


 どうしてだろう。綺麗になりたかった。ゴミを捨てて綺麗になって、そしたら、そしたら、どうするんだっけ。

 俺は本当は誰と、どうしたかったんだっけ──






「レニくん!! いけません!!」


 ビクッと肩が震えた。反射的に振り返るとミクちゃんが玉のような汗を流しながら駆け足で俺を《迎え》に来ていた。


「アクセル様今です!! 全力の拳で殴って止めてください!! 領主様に時間がありません!!」


「よっしゃあああああ!!! 悪く思うなよ勇者覚悟おおおおお!!」


 ズドオオオオオオオオオンッ!! 星が見えた気がした。今も目の前で星が回っている気がする。


 本当に容赦というものがなかった。この野郎、アクセルのやつ、本気で俺の顔を殴りやがったな。


「領主様! 今治療の祈りを捧げます!!」


 ミクちゃんの清らかで優しい声が屋敷全体に響くようだった。


 そのあと、バタバタと使用人たちがやって来て、治療の済んだ領主は運ばれていった。


 ああ、せっかく一人でかっこよく潜入したのに、目的は達成できなかったな。


 床に大の字で倒れたまま天井を見上げていたら、泣きそうな顔のミクちゃんが俺の顔を覗き込んできた。


「レニくん、大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」


「……よくここにいるってわかったね」


 ミクちゃんは俺の返事なんか待たずにアクセルに殴られた頬の治療のために祈りを捧げてくれていた。


「シスター様が気付いたんだ。勇者は一度も親玉の根城の場所が記載された地図を見ていないだろう。地図はオレが持っているし、フィアさんの願いは魔宝珠ジュエルを取り返すだけで達成できるからな」


 なるほどね。俺はなんだかバカバカしくなって上体を起こすと、ミクちゃんと顔を合わせた。


「レニくん、もうこんなことは二度としてはいけません!! 絶対にダメですよ!」


 まぁ警備の人間は何人か再起不能にしてるし、叱られるだろうって思ったけど、一応人助けをしに来たのに叱られるだけじゃ面白くない。


「ミクちゃんひどいよ。あいつが悪いのはミクちゃんだって知っているでしょ。フィアちゃん泣きながら助けてって頼んできてかわいそうじゃ」


 バシンッ!! え、なんでって頭が追いつかないくらい不意打ちでミクちゃんに頬を引っ叩かれてた。


 呆然とミクちゃんの方を見たら、目を真っ赤にしながらミクちゃんはまるで水飴の結晶みたいな綺麗で美味しそうな涙をもったいないくらい流していた。


「ならレニくんはかわいそうじゃないんですか!!」


「え……?」


 思ってもみない言葉だった。


「人を痛めつけて傷付けたレニくんの心は痛まないし傷付かないとでもいうつもりなんですか!!」


 なんでだよ、なんで、俺なんて、ミクちゃんだって俺がどんな奴かずっと見てきただろ!


「レニくんはまだ17歳の普通の少年ですよ!! 血に飢えた魔獣や魔族じゃありません!!」


 俺は、追い詰められていた。いやだいやだと、首を振った。俺の中身を見ないでとミクちゃんに懇願してた。


 でも、思い出していた。ミクちゃんと出会ってからの短い旅路の中で、俺はミクちゃんに何を求めてきただろう。


 ピアスを消毒してもらいながら、膝枕の上で安心感に包まれていた。

 俺の好みを上手く聞き出して、毎日、美味しいご飯を作ってくれた。

 残したことなんてない。本当に毎回、世界で一番美味しかったのはミクちゃんが俺のために、俺のことを想って俺のためだけに作ってくれた俺だけのご飯だったから。


 最初はフィアちゃんのことだってミクちゃんのために警戒した。

 人が増えて不貞腐れて、つまらない俺はミクちゃんに構ってほしくて、俺だけを求めるように迫って、私以外抱かないで、なんて言わせて喜んだ。


 ミクちゃんには呆れられてたけど、俺は真剣に二人きりでカフェでデートがしたかった。


 俺をいじめる嫌なやつをいじめ返す強いミクちゃん。

 怖いから俺にそばにいてほしいとねだるミクちゃん。

 俺が心から喜んで、幸せだったことに気が付いていたよね。


 本当はハズレだといわれて、俺がイライアスの言葉に傷付いていたことも気付いていたんだよね。

 だから、ミクちゃんはあんなに嬉しそうに俺のことイライアスに自慢しようとしていた。


 今さら、隠そうとしたって、俺の中身はもう随分とミクちゃんの優しい訪問によって心は何度も開けられて溢れ出た本音はミクちゃんがギュッと抱えて温めてくれていた。


 だから、ミクちゃんは叫ぶ。俺の代わりに、俺の心が叫び続けていた、俺の本音を。


「飢えているのは愛情です!! 求めているのは人の優しさです!! とても当たり前で普通の幸せを求める少年が暴力行為に愉悦を覚えるわけがないでしょう!! おバカ!!」


 バカ、か。本当にバカだったかもね。俺の中身なんて開けてみればその一言で片付くくらい、バカみたいに単純で、それなのに今まで誰にも届かずにもがいて苦しんでいた悩みだった。


「気付きなさい! 自分が血を流して痛みに悲鳴を上げていることに気づきなさい! こんなに心がボロボロになって声も上げられなくなる前にレニくんがレニくん自身を救ってあげなきゃダメじゃないですか!! 私のことも、もっと頼ってくださいよ!!」


 ミクちゃんがポカポカと俺の胸を軽い力で叩いて来る。ほら、今叩かれているから、救ってあげなきゃ俺自身を、ミクちゃんが気付かせてくれた弱っている俺の中の傷だらけの俺を。


 ミクちゃんが乾いた俺の頬に優しく触れて、いつもとは逆の立ち位置で顔を包まれていた。


「レニくん、シスターは祈りの力で治癒を施すことが出来ます。ですが、私たちにも癒せない傷がある。だから怖い。レニくんの心が、私たちの力では償いきれない傷で痛み、苦しみ、壊れてしまうことが、何よりも怖いのです……!」


 怖がりのミクちゃんが泣いていた。俺の心を見ながら《償いきれない》傷だと認めて泣いてくれていた。


 ミクちゃんが悪いわけじゃないのにね。俺に償わなきゃいけない大人は他のやつなのに、ミクちゃんが代わりに泣いてくれるんだね。


 俺はミクちゃんの背中に手を回す。ミクちゃんは自然と俺を抱きしめてくれた。


「レニくん、お願いします。私のレニくんを、これ以上、傷付けないでください……!」


 そうだね、そうだよね。俺まで俺のこと傷付けていたら、もう俺にだって償いきれなくなる。

 そんなことになったら、俺を抱きしめて泣いてくれているミクちゃんまで傷付けちゃうんじゃないの。


 それこそ、償いきれない罪だ。ここで踏み止まれなきゃミクちゃんの信頼を裏切ることになる。それだけは嫌だ。ミクちゃんに嫌われたくない!



「……うん。ミクちゃん。ごめんなさい」



 ギュッとミクちゃんの小さくて頼りない体を抱きしめながら、俺の大好きなレモンの匂いを何度も吸い込んだ。


「正直、何が良いことで何が悪いことなのか、今もよくわからない。だけど、これだけは、絶対、間違えようがないくらいハッキリとわかってる」


 俺は顔を上げて、ミクちゃんの涙で濡れた綺麗な瞳を見つめた。


「俺のミクちゃんを裏切って泣かせることはいけないことだ。心配かけてごめんなさい。ミクちゃんを泣かせて、ごめんなさい」


 自分から心から謝りたいと思って、ごめんなさいと言えたとき、俺の心からミクちゃんの涙みたいに甘くて綺麗な涙が流れ出た。


 胸が締め付けられて、普段よりずっと苦しかったけど、悲しくなかった。


 それよりも、泣けたことが嬉しくて、ようやく涙を流して、自分のことを少しだけ許せた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る