第6話 いったん落ち着きましょう

 セピア色の古い記憶が脳みその端っこにこびりついていた。

 どんなに忘れたくても、ふとした時に、泥の中から浮かび上がる不気味な泡のように、古い記憶が浮かび上がり、勝手に再生されていく。


『──父親譲りのその顔だけが取り柄のグズのくせに、逆らうんじゃないよ』


 まだ俺が母親と名乗る女と暮らしていたころの記憶だ。

 今よりずっとボロボロの服を着て、いつものたまり場より汚い場所に住んでいた。

 何をしても、何もしなくても、グズと言われて殴られた。

 ただ、あのひとは俺の顔だけは殴らなかった。

 父親の面影だけがあのひとにとって俺を手元に置いておく理由だったんだろう。


 興味があった。俺の顔が傷付いたらあのひとはどんな反応をするだろうか。

 ピアスの穴が増える度に、殴る蹴るから、物を投げつける行為に変わっていく。


 目に見えてあのひとの興味から俺の存在が薄くなっていった。

 少し顔に穴を空けるだけの痛みで、全身に受ける痛みから遠くなっていく。


 唇に穴を空けるのは少し怖かった。

 だけど、今度は耳のように顔の外側じゃない。

 明確に顔に傷をつける行為だ。あのひともさすがに許しはしないだろう。

 しかし、あっさりと目論見は外れた。


『あら、ガキだと思ったら、顔に色気が出たじゃない』


 色気ってなんだよ。気持ちわりぃ。ひどく苛立った。そんな笑みを見たかったわけじゃない。

 どう考えてもイカレている。どこまでも顔だけは父親譲りだと喜ぶあのひとの顔を歪ませてやりたい。


 舌に穴を空けた。黒い鋲を突き刺して貫通させた。

 あのひとが機嫌のいい日を狙って、舌を出して笑ってみせた。


 その日以降、あのひとが俺の顔を見ることはなくなった。

 暴力も無くなった。暴言どころか、元々無かった会話も無くなった。


 俺を男娼として売ることに決めたからだ。商品に傷はつけられない。


『レニさん、事情は分かりませんが、暴力や強奪はいけませんよ。昨夜は気が動転しており、ちゃんと叱って差し上げなくて申し訳ありませんでした』


 君の言葉が蘇る。

 ゴミ溜めみたいな汚い世界だと思っていたのに、君の周りには見たこともない美しい花が凛と咲いていた。


 今でも多くの言葉を知っているなんてとてもいえないけれど、それでもあのとき、言葉を知らない子供の俺が君の言葉を聞いていたら、あの日をやり直しただろう。

 バカなことをせずに、少しは普通の子供らしく、涙だって流したのかもしれない。


 ──そうやって、ただ、叱ってくれればよかったんだ。


 バカだよね。あんな母親、大嫌いだって思ってたのに、俺に興味を持ってほしかっただけだったなんて。

 そんなことにすら、君に出逢うまで気付かなかった。


 胸が痛い。穴を空けたのは俺自身なのに、空っぽの心が痛くて苦しい。

 ミクちゃん、君のせいだよ。胸が痛くて、苦しくて、息ができない。


 どうして今さら、俺の前に現れたの。

 ミクちゃん、君にさえ出逢わなければ、ずっとずっと痛みに気付かず腐っていけた。

 ミクちゃん、今さらじゃないか。今さら、分かり合いたいなんて、君なんか嫌いだよ──






 ☆☆☆


 あのあと、先輩シスターさんたちにも、こってりと叱られてしまいました。

 レニさんは一度機嫌を悪くすると数週間は行方をくらますそうです。


 少々、お転婆が過ぎる先輩シスターさんたちですが、それでも王立修道院で見習いシスターたちの教育や、病院で治療のお手伝いなど、抱えている仕事はたくさんあります。

 レニさんとのちょっと刺激的なお遊びは彼女たちにとって最高の癒しであり、これこそ最高にして唯一の休日の過ごし方だと熱く語られました。


 私も夕日を背中に浴びながら、王都の端へ端へと、寂れた道を選んでとぼとぼと歩くより、本当は仕事に復帰した方が良いのでしょう。


 ですが、先ほど聞いた話が信じがたくて、でも信じてしまわずにはいられなくて、頭がショックで教会の鐘のようにぐわーんぐわーんとけたたましく鳴り響きながら揺れております。


 先ほど、レニさんと別れて、先輩シスターさんたちにたっぷりと叱られた後、私はどうしても気になって王城に戻ってまいりました。

 何かあれば第三分隊へ、と騎士様は仰ってくださいましたが、何も訓練中のお忙しい騎士様をまたしてもお呼び止めする必要はありません。


 これは単なる確認事項です。私は王城に併設されている王室教会へと足を踏み入れました。

 造りは街の教会と変わりません。礼拝堂の入り口が教会の入り口です。

 磨き上げられた真鍮の扉を押し込むように開くと、古い木の香りと少し埃っぽい空気を感じました。


 魔宝珠ジュエル発現の儀式は通常、街の教会でも執り行われます。

 特別な事情がある場合、または対象者が貴族の子息だった場合などはこちらの教会を使うのです。


「おや、珍しいですね。シスターミク。あなたは教会が嫌いでしょう」


 私の姿を見つけたマシュー司祭はしわくちゃの顔をさらにしわを深く刻んで穏やかに微笑みました。

 修道院の頃から指導に当たってくださったマシュー司祭を見ると、つい、いたずらを見つかった気持ちでそわそわと両手を後ろに隠してしまいますね。


「そりゃ、教会は好きじゃありませんけど、マシュー司祭には会いたいと思いますよ」


 くすくすと笑うマシュー司祭は聖典をめくりながら、祈るように目をつぶります。


「好ましい返事ができるようになりましたね。それではわたしもシスターミクの質問に出来るだけ好ましく答えましょう」


 マシュー司祭はもしかしたら、最初から私がここに訪ねることを予期していたのかもしれませんね。


「では、質問があります。七年前。ご神託を受け取ったのはマシュー司祭かと思いますが、この場には魔宝珠ジュエル発現の儀式を受けた者が二名居ましたよね? 名前を教えてください。出来れば当時の様子も詳細に教えてください」


 ふぅ、と一つ大きなため息を零したマシュー司祭は当時を振り返るように、指でほぐした目を天に向けて話し始めました。


「順を追って話しましょう。あの日、事件が二つ重なりました。一つは違法な奴隷商法で稼いでいた商人を摘発したことです。そこで売られそうになっていた18歳の少年を保護しました」


 勇者様の過去にも辛くて大変なことがあったのですね。私は黙って続きを聞きます。


「もう一つは幼児虐待の通報を受け保護しに行ってみれば全身にタトゥーを入れられ、舌に穴を空けられた10歳の少年が見つかったのです」


「レニくんですね。母親はそのあと、どうなったのですか?」


「容疑を否認していましたが、周囲から日常的な虐待だったと証言も得られましたので、中央大陸の街へ移送されました。あの親子は離して暮らした方が幸せだと国王様は判断したのです」


「そうですか……」


 レニくんにもやはり埋められない傷跡と痛みがあったのだと知りました。


「さて、保護された二人はどちらも魔宝珠ジュエル発現の適齢期を迎えながら、儀式を済ませておりませんでした。二人の今後を決める前にここで儀式を済ませてしまおう。そういう流れで二人同時に魔宝珠ジュエル発現の儀式が執り行われたのです」


 ここから、私の知っている話のままなのか、知らない話なのか、わかります。

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