飛行訓練にて
眼下に広がる荒れ果てた田園風景。
人手不足のためか畑の大半は荒地と化しており、点々と残された麦畑で、老人と子供ばかりの農家たちが刈り入れを行なっている。
その上空を、ミハロの操縦する全翼型爆撃機が飛行していた。
天候は快晴で、風もほとんど無い。絶好の飛行日和だ。
ミハロはゆっくりと操縦桿を動かしつつ、地面の起伏に合わせて高度を調節する。
「調子はどうだ?」
緊張した表情で操縦桿を操るミハロに、エレノアはそう聞いた。
「順調です」
ミハロはそう答える。目立ったトラブルは一切発生していない。まさに順調そのものだ。
全翼型爆撃機は安定した飛行を維持したまま折り返し地点を通過し、ルーノ空軍基地への帰路に着く。
飛行訓練は特にトラブルなく完了できそうだ。搭乗員の誰もが、そう思っていた。
その時、事故は起こった。
「ん?」
壁に並べられた計器をチェックしていた整備士の一人が、そう呟く。
「どうした?」
エレノアが聞くと、その整備士は特になんでもない様子で、三番エンジン付近の温度がやや上昇していることを報告した。
「誤差の範囲なら構わん。基地に帰還してから温度計とエンジンを点検しておけ」
エレノアはマニュアルを開いて、そう判断する。
「一応、三番エンジンの出力を弱めておきますか?」
機上整備員たちの指揮官に当たる整備士長が、温度の上昇を報告した整備士の背後から計器を確認しつつ、エレノアにそう提案した。
「……そうだな。念の為、そうしておいてくれ」
エレノアはマニュアルと睨めっこをして、そう指示する。
「了解しました」
整備士長はバルブを少し閉め、再び計器を確認する。
「まだ温度が上昇していますね。温度計が壊れているか、あるいは」
直後、機体が大きく揺れた。
「エンジン出力低下」
ミハロは速度計を見て、冷静に報告する。
整備士の一人が、天井の窓から身を乗り出して機体後部の状況を確認する。
「三番エンジンより出火しています」
「分かった」
エレノアは素早くマニュアルを捲る。
「自動消火装置が作動するはずだが、作動してないようなら手動で作動させてくれ」
「了解!」
若い整備士が動くのを、整備士長が止める。
「もう確認した」
整備士長はそう言って、機長の方を向いた。
「機長、消火装置は爆発の衝撃でケーブルが断線したため使用不可能。同じ理由でエンジンの停止も無理です。これより、別の消化方法を試してみます」
「分かった。頼む」
機体が揺れる。
「四番、五番エンジン出火!」
外を確認していた整備士は頬に熱を孕んだ風を受けながら、次々と炎上するエンジンの状況を報告しつつ、絶望的な表情を浮かべた。
ミハロは緊張と恐怖で汗を流しながら、慎重に操縦桿を操る。エレノアはマニュアルを片手に、ミハロへ取るべき進路を伝えている。
だが、機体の損傷は既に回復不可能なレベルにまで達していた。コックピットの揺れもいよいよ激しくなり、機内の温度も急激に上昇する。
「脱出しましょう!」
恐怖に耐えきれなくなった若い整備士が、悲痛な声を上げた。
「いや。お前は出火しているエンジンの燃料を止めろ。俺はもう一度、消火を試みる」
混乱しながらも必死で判断を下そうとしているエレノアに代わり、整備士長が手早く指示を出す。
ゆっくりと、だが着実に高度を下げていく機体。
窓の外に顔を出してエンジンを確認していた整備士は、顔を引っ込めて窓を閉めた。
「炎が拡大しています。既に機体の半分ほどが炎に包まれました。これ以上、目視での確認は無理です」
「分かった」
経験が少ないエレノアにとって、頼れるものは頭に詰め込んだ知識と部下たちしかない。
だが、全翼型という登場したばかりの航空機ということもあってか彼女が持つマニュアルは不完全で、熟練の整備士たちですら機体を完全に把握できてはいなかった。
コックピット内部の温度が上昇しているためか、冷たい外気温にも関わらず機内の搭乗員たちは汗をかいている。
彼らの努力も虚しく、状況はどんどんと悪化していく。
「機長。これは機体を捨てるべきかもしれません。俺も、これ以上の操縦は厳しそうです」
ついに、ミハロはそう提案した。
「……ああ。こっちも消火は無理そうだ。機長、判断をお願いします」
整備士長も同意する。
だが、エレノアの口から発せられたのは、退避命令ではなかった。
「いや。ここで退避するわけにはいかない」
「どうして」
「この真下には民家がある。機体を落とせば、死者も出るだろう。機体を墜落させるのはいい。だが、軍人の命を助けるために民間人を犠牲にすることは許さない」
民を犠牲にして戦争を推し進めてきた武装親衛隊らしからぬ発言に、機内は一瞬だけ沈黙に囚われる。
「地上では、きっと多くの子供達が空を見上げてる。空に希望と憧れを抱く子供達を、この機体が殺すようなことはあってはならないんだ」
エレノアの声には、必死さすら感じられた。彼女も、党の過激思想を具現化した武装親衛隊に所属する自分があまり好まれていないことは理解している。
彼女は、最悪の場合、自分一人が機内に残って操縦桿を握ることも覚悟していた。
だが、そうはならなかった。
「よし。残存しているエンジンの出力を調節して、機体を安定させろ!必要があれば燃料を捨てても構わん。飛行場まで持たせるぞ!」
整備士長はそう号令を飛ばし、整備士たちは一斉に動き出す。
「翼で風を捉えます。エンジン出力は気にしないでください」
「分かってる。そっちは操縦に集中してくれ」
ミハロと整備士長が、短く会話を交わす。
そこには、お互いへの信頼感があった。
「安心してください。俺たちならやれますよ」
そんなミハロの言葉に、エレノアは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
その後、全翼型爆撃機は、ミハロの操縦により三メートルほどのオーバーランをしつつもルーノ空軍基地滑走路へと無事に着陸した。
新型爆撃機一機が大破。その損失は小さくないが、同時に得られたものも大きい。
ミハロはやっぱりエレノアのことが少しだけ苦手だったが、その苦手からは既に負の感情が消えていた。
◇◇◇
いつだって、終わりは唐突に訪れる。
エレノアとミハロたちの全翼型爆撃機に連合国本土への空爆命令が下されたのは、飛行訓練から二週間後のことだった。
帰還 曇空 鈍縒 @sora2021
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