第5話
ひと月の時間が経ち、いつも通りの毎日が戻ってきた。
騙して、抜け出して、殺して、なに食わぬ顔で、朝起きてくる。夜は、眠るという行為自体がない吸血鬼にとって、狩りの時間でもあるが、それでも長い。色々と考える時間を与えられたことにもなるものの、吸血鬼の思考能力ならば、何かの作業をしながらでも、別のことを考えることなど造作もないことだ。
精神が摩耗しているのを感じる。だが、摩耗する精神がない。自分には良心があると思っているが、それは完璧に操作された思考によって生み出された錯覚なのかもしれない。
そう思ったのは、ミラノルとの邂逅が影響している。
人間状態でいるとき、ミラノルの力の影響は受けることなかった。しかし、吸血鬼としての自覚・思考は持ち合わせており、精神に変化は感じられない。つまり、ミラノルの力は、吸血鬼の身体に影響を与える。その体が暴走するとき、シアリスの意思を支配するほどに強い。
シアリスは人の精神のまま、吸血鬼の体に入り込んでしまったと思い込んでいた。だが、精神が肉体によって影響を受けるのならば、長くこの体に留まった自分の精神は、既に人間の者とはかけ離れた存在になっているのかもしれない。
もし、本当に良心があるのならば、とうの昔にそれは死に、吸血鬼としてのそれに変化しているのではないか。城が崩落し、多くの人が死んだのにも関わらず、動揺は一切しなかった。オノンがリッチに肉体を乗っ取られたとき、何よりも自分が生き残ることを優先しようとした。いや、もっとずっと以前から自分は吸血鬼だったのかもしれない。例え悪人であったとしても、命を奪っておいて何も感じないなどあり得るのだろうか。
もし、自分が人間だと思い込んでいるだけの、ただの吸血鬼であったとしたら……。
そんなことを何度も考える。暴走状態に陥ったとき、シアリスはそこに本能のままに動くという快楽を知ってしまった。抑圧され続けていた、吸血鬼としての欲望が爆発するのを、止めることができなかった。
「心ここに在らず、ですか」
従徒のナバルが暗い室内で、シアリスを見つめながら言った。ファスミラが心配そうにシアリスのそばに寄る。
「シアリスさま」
窓を開け、外を眺めるシアリスが、月光の中に浮かび上がる。呼び声に振り向いて、出し抜けに言う。
「人から従徒となったとき、どう感じた?」
ファスミラとナバルは質問の意図がわからず、一瞬顔を見合わせるが、すぐに気を取り直して答える。先に口を開いたのはナバルである。
「ワタクシは……、嚙まれたときのことはあまり良く覚えていないのですが、従徒として蘇ったときは、解放されたような気分になりました。何から、というわけではないのですが、体が軽く、影の力が自分の中に流れ込んでくる感覚が……。そうですね、例えるなら砂漠を歩いてきたあとに、オアシスで水浴びをしたときのような、爽快感に近い感覚に包まれていました。……もし、ワタクシがシアリスさまを恨んでいるとお考えでしたら、それは否定させて頂きます。ワタクシはどのみち殺される運命にありました。そこを救っていただいたのですから、感謝こそすれ、恨むなどありえません」
ナバルが吸血鬼になったとき、彼は意識が朦朧としていたため、前後の記憶に結びつきがないのだろう。彼が付け加えた言葉、おそらくは心優しきシアリスが、下僕のことを
ファスミラはよく覚えていないとだけ言う。嘘だろう。ファスミラの行動を見ているとすぐに判る。彼女はシアリスを怖がっている。だが、好かれたいとも思っている節もある。おそらく従徒として、思考が書き換えられているのだ。シアリスが暴走したのと同じように、変化した肉体が思考に影響している。
本来の不滅者と従徒の関係であれば、命令は絶対であり、誤魔化すことなどできはしないのだが、シアリスはそれを許していた。デラウには従徒にやさしくするなと良く言われるのだが、それを正す気はない。ナバルがシアリスを心やさしいと勘違いするのも仕方がない。しかし、これはシアリスの趣味であり、やさしさから来るものではない。人形遊びなどつまらない。予想外の動きを見てこそ楽しめるという、少しサディスティックとも言えるような
「なぜ、そんなことをお聞きになるのでしょう」
ナバルが恐れず質問する。別にシアリスは特に目的があったわけではない。口をついて出てきただけだが、理由を考えてみる。
「僕が生まれたとき、僕には命令する声が聴こえた。全員、殺せ。ただそれだけ」
「命令。デラウさまに、ですか」
ファスミラが訊ねる。シアリスは首を横に振った。
「誰が言ったのだろう。もしかしたら、あれが神なのかも」
「不滅者の神……というと、
ファスミラは神話や魔術のことになると、急に饒舌になる傾向がある。魔術師見習いとしての知識を活かせるところを探しているだろう。
「いや、声というのは
「そうですか……。いえ、もし、ラキの声を聴いたのであれば、史上では二人しか確認されていませんので……。別に他の神の声は良く聴こえるというわけではないのですけど、ラキはこの世界に関りが深いのですが、滅多に顕現しないんです。ペトラティクの方が魔術の神として……。あの……すみません……」
こうして講義を聞いているのも悪くはないが、ファスミラの話を聞いている内に、考えが纏まってきた。今までの違和感。
この違和感の正体を確かめるには、膨大な知識を蓄えている者に訊ねるのが早い。
「準備がもうすぐ終わる。ナバル、お前には死んでもらうことになるかも知れない」
「かしこまりました」
ナバルは何の感慨もなく答える。
「シアリスさま、どうか、わたしにもご命令を下さいませ」
ファスミラが懇願する。シアリスは邪魔にならぬように、城から離れるよう言いつけるつもりであったが、試してみたいことを思いつき、彼女の胸元に人差し指を突き入れた。それは心臓を狙った一撃である。
「ぐっ……」
突然の出来事に、ナバルすらも身を固くする。シアリスが手を引くと、そこに人差し指はなく、ファスミラの胸に空いたはずの傷口もなくなっている。次の瞬間にはシアリスの指は再生し、まるで何事もなかったかのように三人だけが暗い部屋にいた。
「何をなさったのですか」
ファスミラは恍惚とした表情で、うつむいている。何も理解できなかったナバルが訊ねるが、シアリスは首を横に振り、答えなかった。
「話は終わりだ。ナバル、お前は私から離れるな。ファスミラ、お前はとにかく遠くへ、できる限りの速さで遠くへ行け」
二人が頷くと、ファスミラは扉を開け部屋を出て行った。ナバルはシアリスの影と同化し消えた。
シアリスは窓辺で少しの思案ののち、影となり姿を消す。まだ夜は半ばである。生前の世界のような時計はこの世界には存在しないが、吸血鬼にとって時間は手に取るように判り、路傍の石ほどにどうでもよいことだ。
影となった不滅者のために作られた通路を進む。厚紙程度しかないその隙間の道は、城中に張り巡らされており、デラウとシアリスの秘密を守っている。
影の力はとても便利なものではあるが、便利すぎて頼りすぎになってしまうきらいがある。肉体の維持・変形・再生、物質化しての攻撃・防御、影となっての受け流し、様々なものの収納、自身が影となっての移動等々。影の力の汎用性は多岐に渡り、吸血鬼の吸血鬼たる
人前でこの力を使えば、吸血鬼であることを悟られてしまう。影の力に頼りきりでいると、人前での行動に慣れることができない。そのため、デラウはシアリスに、自らの部屋と人の入り込むことができない地下、その二つの場所でしか使用しないように言いつけていた。慎重なデラウらしいやり方だ。シアリスとしては慎重すぎると思わないでもないが、二千年を生きてきた魔物の助言を無下にするほど愚かでもない。
長い隙間の道を進んで、二つ目の角を曲がり、今度は上に上がっていく。隙間は迷路であるが、吸血鬼の記憶力があれば問題にならない。そのままデラウの部屋まで来ると、実体となって出現する。デラウは執務机に向かい、まだ何事かの仕事をしているようである。ここ数か月の国内のゴタゴタのせいで、仕事は山積みである。そのため狩りにも行ってはいないようだ。疲労を感じない不滅者であるが、フラストレーションは溜まる。少しイラついたような口調で、書類から顔も上げずにシアリスを出迎えた。
「用があるなら、手早くな」
「では、本題から。完全な不滅者を作るには、エルフが必要なのでしょうか」
デラウがはたと手を止め、シアリスのほうを見る。
「どこでそれを知った」
予想は当たっていたようだ。リッチがエルフの肉体を欲していたところからの予想である。だからどうだというわけでもないが、なぜ、デラウはシアリスにそれを教えようとしなかったのかは気になる。
「事前に教えておいていただければ、貴重なエルフの確保を優先できましたのに。仲間を増やすのに必要なことならば、私も協力を惜しみません」
デラウは何のことかと束の間考えてから、大口を開けて笑い出した。
「おお、やさしいシアリスよ。仲間とは、他の不滅者のことかね?」
シアリスは何が可笑しいのかと、怪訝そうにデラウを見つめる。
「いや、すまない。お前を相手にしていると、まだ生まれたばかりの赤ん坊だということを忘れてしまうな。よろしい、せっかくの機会だ。話しておこう。付いてきなさい」
赤ん坊だと言われるのは腑に落ちないが、まだ二歳であることを考えれば仕方がない。デラウが影となり隙間の道に消えたので、シアリスもそれに倣い後を追う。道は人間牧場を行っている地下のアトリエにつながる道である。アトリエ内部は別の次元にあり、密談をするにはうってつけの場所だ。
一度、影化を解き、廃棄された地下牢に偽装した扉を開ける。アトリエの中に入ると、中はまだ昼だった。面白いことに、このアトリエ内部が夜になることはない。それでも従徒たちが活動できるところを見るに、地上の昼とは少し違うらしい。農業もできるところから日光としての効果はあるようなのが、不思議なものである。そして、その不思議な空間を、
このアトリエを管理している従徒のミグシスが出迎えた。彼はどの時間に向かっても、必ず出迎えてくれる。デラウが先に話をしているのかと思っていたが、シアリスが一人で赴いたときにも出迎えたので、何か不思議な勘を働かせいているらしい。
デラウは彼に下がるようにいうと、奥へ続く道を歩き出した。
内部は昼とはいえ、人間たちには休息は必要である。アトリエの外が夜であれば、こちら側も夜の休息時間……、というわけでもない。昼夜、交代で農業は続けられ、保存食などの加工や工芸品の作成が行われている。時間をずらすことで一斉蜂起による脱走などを防ぐ効果もあるらしい。自らの食料は自らで作らせ、勝手に繁殖し、外で使う戦略物資の生産も行わせる。恐ろしくも、効率的なことだ。彼らは食用の家畜であり、労働力としての奴隷でもあるのだ。
よく整備された林の中を進む。太陽がないので方向を確認することはできないが、こちら側は人間たちの住む村の方角ではない。影の力を使えば歩く必要などないのだが、しばらく無言で付き合っていた。かなり歩いたあと、痺れを切らしてデラウに訊ねる。
「どちらに向かうのでしょうか」
「なに、間もなく着くよ。こうして親子で散歩も良いものだろう」
要は息抜きがしたいのだ。あざとく親子などと言ってくるのも気味が悪い。
そこからまたしばらく歩いて、建物が見えてきた。まるで城から一部を切り取って持ってきたかのようなそれは、巨大な岩を組み合わせ、削って作ったような形をしていた。どことなく見覚えがあるが、記憶とは少し違って見える。
「ここは……、僕の石棺ですか」
「その通り。お前の生まれた場所だ」
古代の遺跡のような正四面体の石造りの建物。空間を仕切る扉も石でできており、並の膂力では開けることも難しい。だがシアリスの記憶によれば、扉は木でできていたし、石室から外に出たとき、そこは既に城の廊下であったはずだ。
「この部屋、動かせるのですか」
デラウが石の扉を軽々と開けると、中に入る。後ろから追いかけながら話しかける。
「動かせる? ああ、お前が生まれたときは、扉を《繋げていた》のだ。それで、まるでこの部屋が地下牢にあると思ったのだろう。それについてもいずれ説明しよう」
(扉を
気にしないことにして、石室の中に入る。デラウが指を鳴らすと、壁に備え付けられた燭台の蝋燭に火が灯る。今は吸血鬼しかいないのだから、明かりを灯す必要などはないのだが、デラウはどこか律儀なところがある。人間として生きている時間が長いからか、手癖のようなものかもしれない。あるいは、人間らしい偽装を、常に絶やさないことが長生きのコツなのか。
内部もシアリスが生まれたときとは少し変わっていた。真ん中の高くなった場所に、シアリスが入っていた石棺がある。蓋も石で作られていたはずだが、シアリスが生まれたときに破壊してしまった。それは欠片も残さず片づけられている。そして、その周りを囲っていた血で書かれた紋様も、跡形もなく消えていた。あの紋様は文字のようにも見えたが、図書室などで調べてみても、それらしい記述や文字は見当たらなかった。
「紋様が消えていますね」
それらしいと思われるものは、古代魔術師たちが使っていたという独自の言語だが、それは現在ではほぼ完全に失われている。アトリエから見つかる書物などは、見つかった時点で、様々な理由で書物としての機能を失っていることが多く、遅々として研究は進んでいないとのことだった。そういった書物は、古代魔術師の手によって解読されないようにされているらしい。自らの魔術の秘密を守ることは、魔術師にとっての生命線でもあるから、防護のためにそう言った仕掛けがあるのだ。
「消したのだ。あの文字は私の親から受け継いだ。不滅者を作成するための術式。いわゆる古代魔術の一種である。あの文字を書くことはできるかね」
あの紋様は魔術を執り行った痕跡であった。そしてシアリスの想像は間違っていなかったということか。シアリスは記憶を
「覚えております。もっとも意味や元の形を知りませんので、形を再現するだけですが」
「それで構わんだろう。私自身、意味は知らん。それをメネルの血で描くのだ。おおよそ二十人分程度は必要であったな」
完璧主義のデラウにしては随分と曖昧な話だが、実際シアリスは生まれたのだから、必要十分ということか。
「最後に棺にエルフの死体を収め、石棺を封印し、呪文を唱える」
エルフの死体。死体か。シアリスは少し残念そうに訊ねる。
「死体で良いのですか。生きたままの方が良いのでは?」
「いや、元々のこの術の由来が、死者を蘇らせる術だ。死体で良い」
「エルフの死体でなければいけないのですか。メネルの死体ではどうなります?」
「失敗するだろう。不滅者は誕生しない。生まれてくるものは動く死体……、とてつもなく手間の掛かったただのゾンビ。あるいは、術は失敗する」
素材一つ違うだけで、そこまでの違いが生まれるものなのか、シアリスは少し試してみたいと思うが、それは心に閉まっておくことにする。デラウは少し間を置いてからまた話し出した。
「私にとってこの術式の成否は、どうでも良いことであった。だが、それは成功し、お前ほど優秀な不滅者が生まれてきた。正直な話、対応に困ったぞ。たまたま跡継ぎの偽装工作で使えるものがあったから、お前を息子として受け入れることができたがな。本来であれば従者か、庶子として迎えることになっただろう」
今のデラウの嫡子というポストは、事前に想定されて準備されていたわけではなかった、と言うことだ。シアリスが生まれていなければ、デラウ自身がそこに納まることで、世代交代を演出するつもりだったのだ。
「では……、他の不滅者が増えることを、喜ばしいと思っていないのですね」
シアリスがそう訊ねると、デラウはもちろんと言いたげに頷いた。
「確かに我々には、横のつながりはある。不滅者同士の会議が開かれることも確かにある。だが、仲間意識があり、助け合っているのかと言われれば、否だ。利害が対立することになれば殺し合う。例え、不毛な戦いになろうともな。近頃は殺し合いすぎて数も減り、そういったことは少なくなったがね」
不滅者の死因第一位は、同族同士の殺し合いとのことだ。不滅の魂と再生能力の戦いは、無限とも思える時間が続く。場合によっては一対一の対決が、十年二十年続くこともあったとのことだ。何か決め手がなければ、泥沼になることは確実である。確かに不滅者の数が多ければ、縄張り争いが発生することになるだろう。吸血鬼は普通の獣とは違って、自分の縄張りではなるべく狩りをしない。巣の位置を悟られないためだ。そうなると、縄張りが隣り合ってしまえば、自分の縄張りで別の吸血鬼による事件が起きてしまうことになる。リスクを排除するために、他者の縄張りの近くには縄張りを作らないことが必要になる。種族的に自己中心的な吸血鬼が、それを許容するとは考え難い。
「では、なぜ僕を作ったのですか。不合理に思えますが」
「うむ、そうであるな。理由は……ないな。子を成すことに理由が必要かね」
「不滅者であるならば」
デラウは鼻で笑った。
「そうだな。理由を付けるとするならば、本当に作ることができるのか実験しておきたかった。そして、私には作るための施設・素材・知識があった。近頃はこのアトリエの運営も軌道に乗り、刺激がなかったのでな。気晴らしには良い作業だったよ」
つまりは退屈しのぎだったいうことか。だが、子どもを作るというのは、その程度のことかもしれない。余裕があるから作るのではない。暇だから、刺激が欲しいから作るのだ。
「なるほど……。生き物は己の死期を悟ると、子孫を残そうとする本能が強くなると言います。父上もそれが近いのかもしれませんね」
シアリスがそう言うと、デラウは喉を鳴らして笑う。シアリスは彼が笑い終わるのを待ってから、質問を続けた。
「いくつか訊いておきたいことが増えました。よろしいでしょうか」
「よろしい。答えよう」
デラウはシアリスの石棺の端に腰かけると、足を組んでシアリスに向き合った。
「我々は魔術によって創られた。つまり、メネルが作ったということなのですか」
「ある意味では、そうだ。人間の業が生んだものだと言える。だが、不滅者を作る魔術を始めて編み出したのしたのは、エルフだ」
「エルフ? エルフは魔術を嫌っているとのことでしたが……」
「一口にエルフと言っても、住む場所も違えば思想も違うものも居る。居た、が正しいか。メネルに教えを請い、魔術を学んだエルフも居たのだ。そして、そのエルフは、死者を蘇らせる魔術を研究した」
「それは……屍霊術、ということですか」
「その通り。だが、現代の屍霊術と違うものだ。古代魔術の一種であり、現代のように忌避されるようなものではない。それを禁止にするような組織がなかったから、ではあるがな。その研究の実験結果として、多くの魔物が生み出された。ゾンビ、スケルトン、ゴーストなどが最たるもであるな」
デラウの講義は書物には書かれていないことも多量に含まれている。
「実験の結果、多くの魔物が生まれた。でも、それは失敗作……ですね。死者を蘇らせているわけではない。死体を操っているだけだ。不滅者も同様なのでしょうか」
魔術によって動く肉体であるゾンビやスケルトンは、自由な意思を持たない。命令に従うだけの人形である。それではとても蘇ったとは言えない。逆にゴーストは肉体を持たない魔物だが、肉体がないということは、記憶も思考もない。精霊に近い存在であり、不気味ではあるがほとんど無害な魔物、と書物には書いてあった。
デラウは首を横に振った。
「いいや。我々、不滅者はあのような、出来損ないの不死者たちとは違う。知能を持ち、自我を持つ。それはお前もわかっているだろう。我々は明確な目的のもと、魔術によって生み出された、生命体だ。命を持たぬものとは、明確に違う」
シアリスは黙ってデラウの言葉に耳を傾けている。
「エルフの魔術師の弟子である古代魔術師たちの手によって、強力な魔物として作り出された我々は、エルフに対抗するための兵器として利用された。当初の目的である、死者の蘇生というものは忘れ去られ、戦闘人形としての役割を与えられたのだ。その力は強力で、メネルの血の摂取さえ絶やさなければ、不滅の肉体と高度な知能を備えていた。結果として、死者を蘇らせるという試みは頓挫するが、エルフを滅ぼすための兵器は誕生したのだ」
不滅者を作るには、エルフの肉体が必要。それ自体は想像していた通りだ。だが、エルフが吸血鬼を作り出したというのは、シアリスには思いもよらなかったことだ。
「けれど、まだエルフは生き延びている」
シアリスが呟くと、デラウが喉を鳴らして笑う。
「その通り。なぜだと思う」
「知能が高すぎたのですね。エルフを滅ぼしてしまえば、不滅者も不要となり、処分される可能性があった」
「そうだ。それに気が付いた始祖の不滅者は、主の命令に従順な振りをしながら、その支配を脱するべく行動した。自由となった始祖は、多くの仲間を作った。幸いにもエルフの死体はたくさん手元に存在したからだ」
「ただ、仲間だと思っていたものは、仲間ではなく、ただの自分の競合相手だった」
「うむ」
精霊術を使うエルフが、魔術を使ったならばどうなるのか。精霊の力を併せ持った魔術とはどういったものだったのか。それによって生み出された吸血鬼が、強力な力を持つのも頷ける。
本来、命を助けるために生み出された吸血鬼は、エルフを殺すために利用された。だが、エルフは滅びず、メネルを殺し続けている。これは禁忌に手を出した報いなのだろうか。吸血鬼を初めて作ったエルフの魔術師は、どう思ったのだろう。
ここまでの話で、似たような存在を思い出す。
「我々はホムンクルスの一種、と言うことなのでしょうか」
「ホムンクルス? あんなものとは違う。あれはただの人形。確かに作られた存在という点では似ているが、我々のような知能も力もない。生き物というのもおぞましい」
随分な言い分だ。そこまで拒絶するのは、わかりやすい反応だった。同じ魔物だとのことだったから、吸血鬼とも同等かとも思っていたが、プライドを刺激する話だったようだ。
「そうですか。最後の質問をよろしいでしょうか。これまでの話とは少し毛色が違いますが……」
「よろしい」
「私の素材として使われたエルフですが、精霊使いオノンの弟なのでしょうか」
「オノン? 弟を探していると申していたな。確かに素材としたエルフは男であったが、弟かどうかはわからぬな。何か気になることでもあるのかね」
「いえ。エルフの肉体が持っていた感情の影響かと思いましたが……。エルフであるオノンを見たとき、殺そうとは思わなかった。食指が伸びなかったのです。本来であれば、エルフを殺すための本能が湧き出るのかと思いまして……」
デラウは少し考えるようにしてから答える。
「ふむ。いや、それはもっと単純な話であろうな。我々にはエルフを殺すという本能はない。それはあくまでも、後から命令によって付与された目的だ。新しく生まれた不滅者に、その命令は刻まれていないはずだ。それに素材となった死体の意識に、不滅者の意識が干渉を受けることなどないだろう。もう一つ、エルフは数が少ない上、手強く、捕らえるのに苦労するわりには、味が良いとも言えない。私もその血を味わったことはほとんどない。私が生まれたころには、エルフは既に滅びかけていたからな。食べたことのない得体の知れぬものに、食指が伸びないのは当たり前ではないかね」
少し意外な答えが返ってきた。確かにそうかもしれない。食してみれば意外とハマるかも。しかし、それは共食いに近いことになるのか、などと考えてから、やめた。試す機会は間もなく訪れる。
その後、デラウは不滅者を造り出すための具体的な方法をシアリスに伝えた。儀式の完了には、約二年の年月が必要だとのことだ。それだけの月日が必要だとすると、安全を確保することは難しい。秘密裏に行うことが求められるならば、このようなアトリエは儀式を行うのに絶好の場所である。
「疑問には答えられたかな」
デラウは興が乗ってきたのか、講義を続けたそうだが、シアリスの興味は既に別のところに移っていた。
「ええ、もう結構です。お時間頂き、ありがとうございます。僕は少しここで考え事をしてから戻ります」
「うむ。では、私は戻るとしよう。帰り道は、わかるな?」
もちろん、わかる。慣用句のようなものだ。父親気取りが板についてきた。デラウが影となって消えると、シアリスは石棺に近付いた。そして、おもむろに中に入り、寝転がってみる。シアリスにとっては胎内に似た場所ではあるが、特に何か感情が湧いてくることもなく、落ち着く気分になることもなかった。
(何をまずは考えるべきだろうか)
石の天井を見ながら考える。吸血鬼は人の手によって作られたものであった。では、自分の意識はどこから来たのだろうか。この魔術は、本来死んだ者を蘇らせるためのものであり、術者は肉体に入る魂を指定していたはずである。だが、残念ながら願いは叶わず、生まれたものは人食いの化け物となった。もし、この術が、別の世界から魂を持ってきているのであれば、シアリス以外にもこの世界には、生まれ変わりを経験した者がいるはずだ。そうなれば厄介かもしれない。不滅者すべてが生まれ変わってきたものであるとするならば、デラウもそうだということになる。そうは思えないが。
吸血鬼と出土品との親和性も納得がいく。その出自が同じであり、仕組みが同じなのだ。まだ試していないが、古代魔術の出土品を取り込むことができれば、収集家のような能力が使えるかもしれない。それはシアリスの力になるはずだ。
体の中に残る収集家の影の力の残滓は、シアリスにその記憶の一部を与えた。だが、それは完全なものとは言えなかった。収集家は既に壊れていたのだ。シアリスは彼の首に牙を突き立てたとき、それを本能で理解していた。だから、この不確定な出土品の力を取り込むことはやめたのだ。少なくとも今は試している時間はない。
収集家は、吸血鬼の従徒であったが、その主である不滅者はいなかった。とうの昔に、不滅者との繋がりは断ち切られ、収集家は「はぐれ」となっていた。はぐれになると、従徒は影の力を失ってしまう。醜い不死者としての体だけが残る。収集家は出土品を取り込むという、自らの技能で補っていたのだった。
オノンがこのエルフと吸血鬼の話を知ったら、シアリスをどうするだろうか。
弟の仇として激昂するか。古代魔術を滅ぼすために破壊を試みるか。ホムンクルスであるミラノルのことを、オノンは気にしていなかった。オノンは古代魔術に対して、過去のエルフほど拘ってはいないのかもしれない。だからこそ、魔術師であるトピナと旅をし、アトリエを探索しているのだ。
いや、考えても無駄か。どのみちこのような考えも神の掌の上ならば、シアリスは
(話してみるのも一興か)
シアリスはそう結論付けた。すべてを包み隠さず話してみるのも面白いかもしれない。いや、それが良い。真の仲間を得るならば、本当に信頼しあった仲間を得るつもりならば、その程度のことを悩む必要もない。
小一時間ほど思索にふけってから、シアリスは出口まで歩いて戻る。ミグシスを見つけ、話しかけた。
「やぁ、ミグシス。父上はもう外に行ったかい?」
「ええ、シアリスさま。お戻りになられましたよ。何か御用がおありですか?」
「いや、用があるのは、君にだよ」
さて、そろそろ引き返せないところまで来ている。事態を動かさなくてはいけない。
その知らせは、次の日に届いた。
「どうやら、あの娘が城下にいるようだな」
デラウの部屋にて彼が言った。シアリスは立ってそれを聞く。
「どの娘のことでしょう」
「魔物狩りの娘だ」
ミラノルのことだ。彼女がいるのであれば、ルシトールもエヴリファイもいる。そして、この街にやってきた理由は一つだ。
「ああ、ミラノルさんですか。それは気になりますね。殺しますか」
「随分と物騒な考えだな。もう少し落ち着いて考えてみたらどうだ」
さっさとルシトールを殺そうとしていたデラウに、そう言われるには心外である。もちろん、シアリスは本気で言ったわけではない。自領内で殺人騒ぎがあることは好ましくないし、それが吸血鬼狩りを専門としている者であれば、なおさらだ。
「では、また捨て置くのですか? 先日の件もありますし、危険だと思うのですが」
魔物リッチであったクライドリッツを倒したその後、シアリスはミラノルに近付くなとの命を受けていた。デラウはミラノルが、リッチの力をオノンから取り除くところを見ていた。さらに近くで見ていたシアリスが、ここで脅威を指摘しないのは違和感があるだろう。
それに、である。
「では、モビクが死んだのも、彼らということですね」
モビクとはデラウの女従徒のことである。不滅者と従徒の繋がりが断たれるのは、死か不滅者が望んだときか、従徒が死んだときのみだ。
彼女は数週間前、デラウの命を受け、混乱したクライドリッツ領に赴き、地下で捕らえるための奴隷を捕らえにいった。そして、数日前にその繋がりが断たれたことを、デラウは感じ取ったのである。
「もちろん、そうであろうな。今は私兵に監視させている。我が領地に入り込んだことも、偶然ではないだろう。シアリス、へまを打ったのではないだろうな」
正体がバレたのではないかと言っているのだ。もちろん、バレているが、それを話すつもりはない。
「ありえません。もし、僕を吸血鬼だと思っていたのならば、僕に背中を任せるようなまねは、あのルシトールが許さないでしょう。それにこの時期です。もしかしたら、モビクから情報を抜き出したのでは?」
ルシトールはシアリスが貴族であることも知っている。デラウに対しても
デラウは、ミラノルがどんな力を持っているのは分かっていない。モビクを倒したのが彼らとするならば、その後にすぐ現れたことに因果を求めるのは当然である。
「やはり、そう思うか。なるほど、お前の考えが物騒だと言ったのは、私の間違いだ。やはり、殺すとしよう」
さて、どのように話を進めるか。シアリスは考えもせず、なりゆきを楽しんだ。
「彼らの考えは判りません。行動原理を考えるならば、彼らの生業が狩りであることが、深く関係しているでしょう。しかし、こちらから手を出せば、我々が不滅者であることが公になってしまうかもしれない。ならば人として、こちらから誘いを掛けてはいかがですか。城に招き、晩餐会でも催しましょう。招待状を送り、行動に釘を刺すのです」
シアリスは名案だという顔でデラウを見た。デラウは慎重な性格だ。魔物狩りを自分の居城に招くなどしないだろう。デラウは少し考える様に腕を組むと、おもむろに立ち上がり、窓の外を見た。
外は満月で、闇と明かりが広がっている。こういうときの闇は、新月よりも濃い。それは明かりの一つもないこの部屋も同様だが、吸血鬼の感覚にはなんの不都合もない。それに彼らは音を出して会話しているのではない。影の力によって言葉を伝える念話とも言うべき会話方法で話し合っているのである。暗い部屋は静かで、誰も中で秘密会議が行われているとは思わないだろう。
オールアリア城は、戦時には要塞として、平時には居城として機能し、代々の
それはつまり、城に招くことは余計な危険を増やすことになりかねない。
「釘を指すのは悪くない考えでもある。奴らはお前の恩人でもある。ひいてはこのオルアリウス領の恩人でもあるわけだ。盛大に迎えるのも悪くない」
話が不安定に傾きつつあることを察したシアリスは、
「城下街で盛大に歓迎しようではないか。食糧庫を開放し、
随分と派手なことであるが、陰湿さは実に吸血鬼らしい。シアリスはわざとらしくため息をついてみせる。
「あまりに危険すぎる計画ですね。もし、我々の力が暴走してしまったらどうするのですか。そうなったとき、目撃者を全員殺すにしても、数が多すぎます。それに祭りを開くのに、吟遊詩人はともかく、楽団はどうするのですか」
この世界の祭りと言えば、音楽である。娯楽が発展していないこの世界では、民衆の楽しみと言えば、小芝居をやる劇団や、吟遊詩人やたくさんの人を抱えた楽団であった。吟遊詩人は領内にたくさんいるので、急な仕事でも集めることは可能だろうが、大規模な楽団ともなるとそうはいかない。
「それに王からようやく支援を取り付けたとはいえ、それに依存する中で祭りを開けば、王も愉快には思わないのではないでしょうか」
デラウの評価は今や、
混乱の最中にあるクライドリッツ領から逃げ出した人々が、豊かであるはずのミクス領よりも、山の中の田舎であるオルアリウス領を目指している、などと言う話もある。実際にデラウのもとには、そう言った報告が多く上がってきており、領地運営において頭の痛い問題にもなっている。先日もこの問題について、国王に目通りを願ったばかりである。
今までのデラウは、武勇に置いてのうわさはあったものの、実際にその力を振るう機会は少なかったし、領民のやることに過度に干渉はしないという経営方針であったため、昼行燈(こちらの世界では『真昼の夜光石』だが)のように言われることも多かった。
その評価が、ここに来て一気に変わりつつあるのである。
デラウは自身とも関係の深い、クライドリッツ家の崩壊に関わったということで、処罰を申し出た。しかし、王は逆に、彼にクライドリッツ家の土地の一部を分け与えるようとまでしたのである。それを断ったデラウは、宝物のみを下賜され、領地にさっさと引き上げてしまった。その慎ましやかな振る舞いに、民衆は好感を抱いたのだ。オルアリウスの領民は、二・三日のお祭り騒ぎが続いたが、クライドリッツ領からの難民流入により、それも長くは続かず、窮屈な生活を強いられることになる。この困窮を問題視したデラウは、王へ支援の要請をした。それは受け入れられ、この問題は解決に向かいつつある。デラウは今や、国内において最も有力視される貴族の一人となった。クライドリッツ家亡き今、王の後ろ盾を得るのは、オルアリウスにとっても王にとっても悪くのない話なのである。
そういった事情によって、オルアリウス領は現在、浮かれている。民衆の慰労のために、食糧庫を開放することは悪い話ではない。領民の声に応え、表舞台に姿を示すことも、領主としての立派な仕事であることは事実である。
「どうであろうな。ここで少し無能を示しておけば、この状況を良く思わない他貴族は安心するだろう。それに王も私を与し易いと見て取るかもしれぬ。悪い話ではなかろう」
そういったこともシアリスは良く理解している。
「それについてはもっともな話です。が、それに危険を冒す価値があるとは思いません。 折衷案はいかがですか。別に城に招待する必要はありません。別邸に招待し、そこで様子を見るのです。何もしてこないのなら、それに越したことはないでしょう」
小さな領地とはいえ、他に屋敷がないわけではない。他の貴族が領にやってきたときの宿泊地や、防衛拠点となる要塞なども存在する。デラウは少し黙って何かを考え、鼻を鳴らした。
「やはり、まだまだお前は甘いな。やるのであれば、確実にやるべきだ」
シアリスは大げさに残念がる。そして、最初から狙っていた着地点に、話しを誘導した。
「では、こうしましょう。城に誘い込み、殺す。ですが、別に我々が手を下す必要はありません。奴隷にやらせるのです。アトリエに放り込み、奴隷どもに殺させれば良い。ミラノルの力はどうやら魔物にしか効かない様子です。奴隷たちであれば、兵士と違って死んでも問題にはならない。アトリエ内ならば外に音も漏れない。城に招かれた無法者が、何人か行方不明になったとして、誰が気に懸けましょうか」
シアリスは言い終えると、デラウの返事を待った。彼がこの話に乗ってくるかどうかは賭けである。慎重さをなくし、傲慢さを持ち始めた者は、破滅へと足を踏み外す。デラウが良く言っていることだ。だが、そのあとに続く言葉は、大胆さはときに破滅を救う、だ。
「なるほど。良いだろう。面白そうだ。スケルトンでも兵士ではないただの人相手に、奴らがどこまで非情になれるか見ものだな。そうと決まれば、招待状を書かなくては」
乗り気になったデラウに、シアリスは安心した。彼の行動を観察してきたシアリスは、デラウが喜ぶ答えを提供できる。
デラウはもう戻れと、シアリスに言う。シアリスは音もなく、デラウの部屋から消えた。
部屋に戻ったシアリスは、ベッドの中に潜り込むと、考える。
話がうまく回り始め、シアリスは舌なめずりをした。今、デラウの注意はミラノルたちに向いている。その隙を逃すわけにはいかない。
◆
クライドリッツのリッチとの戦いの後、オナイドの街を離れたオノンとトピナはじっと待っていた。
シアリスに言われた通り、人里離れた場所にある洞窟に身を潜めた。ここはシアリスが以前から目を付けていた隠れ家とのことである。そこには
何日そこに居ることになるのかわからないとのことだったので、食糧を多めに持ち込んだが、洞窟のさらに下には食糧庫が掘られており、その中に大量の食物が保管されていた。その部屋は低い気温で保たれており、長期間の食料の保存を可能にしているらしい。魔術による効果かとも最初は考えたが、トピナの見立てでは魔術の気配は感じられないという。横穴に設置された回転するなんらかの装置から冷気が噴出しているが、その機構は謎である。吸血鬼の知識なのだろうか。
そこでの生活は案外快適なものとなった。何日もアトリエの迷宮に潜ることが当たり前のこのコンビにとって、この洞窟は快適そのものだ。トピナが魔物除けの結界を張り、洞窟の入り口にオノンが精霊の力で偽装を施して、完璧な隠れ家となった。
しかし、ひと所に籠っての生活には、限界はある。それは精神的な苦痛だ。一週間が過ぎ、二週間が過ぎると、トピナは限界が来ていた。オノンはトピナほどの問題なかったが、それでもストレスは溜まるのは変わりない。元々、アウトドアを好む性質の二人である。デラウとの決戦に備えるためとはいえ、この時間はとても長く感じた。
そして三週間が過ぎたころ、ようやくシアリスが現れたときには、二人は怒りをぶちまけた。
「遅すぎる! いったい、何してたんだよ!」
「完全に忘れ去られていると思ったわ」
二人に詰められたシアリスだが、ニコニコして悪びれる様子はない。
「お待たせしました。ようやく事態が動き出したので、お迎えに上がりました。ここの暮らしは快適でしたか? 残念ですが、今度はもっと酷いところに籠ることになりますよ。まぁ、そこで過ごすのは数時間程度のものでしょうが」
「……」
二人は怒る気力もなくしてしまい、倒れるように椅子にもたれかかった。
「それで? ちゃんとできたんだろうな。入ったらいきなり襲われるなんて、嫌だよ、あたしは」
「ええ。こちらは、うまくいきました。そちらの首尾はどうですか。移動できるのであれば、すぐにでもしていただくことになりますが……」
トピナは机の上に置いてあった箱から、三角形の物体を何枚か取り出してみせる。それはまるで意思を持っているかのように自立して、彼女の手から離れて浮かび上がった。
それらはトピナたちとシアリスが出会った事件、盗賊団ノヴァトラの頭目モキシフが持っていた、出土品である。シアリスは破壊されたそれの一部を回収しており、その修復を二人に任せていたのだ。シアリスはこれを『モキシフの鱗』と呼んでいたが、トピナたちはそれもおぞましいと、ただ、『鱗』とだけ呼んでいた。
「素晴らしい。試してみても?」
「いいけど。完全に修復できたわけじゃないし、試すのは一回だけにしておけ」
「問題は耐久性?」
「使い捨てだな。あたしがこの
「なるほど。それなら問題ありません。一瞬でも力を引き出させるができれば良いだけですから」
浮いている鱗は六枚。それが円を描くように旋回する。トピナのしている腕輪が、それらを操るための装置のようだ。受け取ったナバルとファスミラの研究結果と、それを身をもって味わった経験があったとはいえ、それらを修復するのに普通であればひと月で済むはずもないのだが、そこは天才魔術師のトピナと、精霊術を扱えるオノンである。もし、この二人が本格的に研究を始めたら、古代魔術の研究は飛躍的に進むだろう。今のところそうなる気配は微塵もないが……。
トピナの解説によれば、この出土品は、発生する魔力の生成を促進させ、放出する効果があるらしい。
魔力はそのまま放出されると、あらゆる物体を貫通し、それが体を通り過ぎると、精神を崩壊させるという特性を持つ。普通のメネルは魔力を持っておらず、宝石などを触媒として体内の生命力を魔力に変換する。
鱗自体に触媒としての効果はないが、この出土品の効果内で一度でも魔力を変換すると、それを強制するようになる、という代物だ。一度、強制されると魔術師は魔力を放出し続けることになり、体力を使い果たし、魔力による精神汚染により、最終的に死に至る。
トピナはこれを回避するために、防御魔術を唱え続けることで、放出する魔力を消費して、精神汚染を避けるという荒業を行った。なんとか精神崩壊は免れ、時間稼ぎはすることができた。
本来の使い方としては、この鱗は何らかの別の装置の動力部に設置され、魔石と呼ばれる魔力を宿した石から、その魔力を効率的に取り出すための仕組みだったのではないかと、トピナは予想していた。少なくとも人に向けて使うものではない、との解説だった。
シアリスはそれを利用して、吸血鬼の力を強制的に引き出させることができないかと考え、彼女らに修復を依頼したのだ。影の力と魔力はほぼ同義である。理論上は可能なはずだ。
「今、力場を作り出す。そこに手を入れてみろ」
作り上げられた円の中に、歪んだ空間が生成された。そこにシアリスは少しの
「ダメ……か」
オノンはその様子を近くでじっくりと見たあと、シアリスを見て、また鱗を見る。
「腕では意味がないみたいね。でも魔物ならば、魔力を保っている部分が必ずあるはずだわ。全身を通してみれば、どこかで行き当たると思うのだけど」
トピナは制御用の腕輪をした手を引くと、鱗はそれに従って回転を止め、今度はシアリスの頭上を回り始める。上から舐めるようにそれはゆっくりと降りてきた。モキシフが使っていたように三次元でこの力場を広げることはできないようだ。
ゆっくりと降りてくる力場を、
「ぐっ」
思わず口から空気が漏れる。
「オノン、下がれ!」
トピナが叫ぶと、オノンは後ろ跳んでシアリスとの距離を取った。その次の瞬間には、シアリスの全身から黒い粒子のようなものが溢れ出し始める。家具や机が粒子に押され、部屋の中は嵐のような状態になる。
トピナが拳を握り鱗に命令を出すとそれは収まり、シアリスは力尽きるように床に蹲った。
「シアリス、無事か」
トピナが訊ねると、シアリスは手を上げてみせる。
「ええ、問題ありません」
シアリスは何事もなかったかのように立ち上がると、膝に付いた埃を払った。
「どうやら、吸血鬼の急所は心臓にある、というのは、不滅者とて変わらないようですね。メネルに完全に擬態したつもりでも、心臓にある吸血鬼の力を完全に消すことはできない……。もっともミラノルの力に反応するほども、それは大きくはないということなのでしょうが」
トピナは鱗を手元に戻すと、損傷がないから確認する。オノンが代わりに話を続ける。
「つまり、成功した、ということで良いのかな」
「ええ、実験は成功です。あとはどうやってこの鱗の作り出した場に、奴を誘導するか、という問題ですが……。それについてはトピナさんに頑張ってもらうしかないですね。誘導に乗るような相手ではないので、状況を見てやってもらうしかない」
「行き当たりばったりだな」
「そうですね。気をつけて頂きたいのは、他の人を巻き込まないことですが……。とくに僕と、ホムンクルスの二人にはどんな影響があるのかわからないので、そこには絶対に当てないようにしてください」
トピナは箱に鱗をしまうと、シアリスに向き直って鋭い視線を向ける。
「お前には効いたが、これが奴に効くという保証はないんだろ。大丈夫なのか」
いつものお気楽なトピナではなさそうだ。籠りきりで苛ついているのもあるだろうが、生死に関わる問題でもあることに、ふざけたりはしない。シアリスは気が付いていなかったが、今まで見てきたトピナは、酒や魔術によって、色々とおかしな精神状態のトピナだっただけだ。本来の彼女は、こちらである。
「ミラノルがいる以上、デラウだけでなく、僕もすべての力を解放するわけにはいけません。こちらは数で優位とはいえ、奴は強い。こちらの想像以上の実力を持っているならば、戦いは膠着状態に陥るはずです。これは、そのとき役に立ってくれるはず。あちらが何も考えずに力を使ってくれるのが一番ですが、そうはならないでしょうからね」
鱗の力によって、デラウだけを暴走させることができれば、ミラノルの力の影響下に置くことができる。暴走した吸血鬼は、本来の実力を発揮できない。そうなれば戦いを優位に進められる。シアリスはそう考えているのだ。
シアリスが、デラウを討伐するために提案した作戦は、ひどく単純なものである。
ルシトールの持つ不死斬りの魔剣で、心臓を貫き、そのまま大地に縫い留める。そして、全身をくまなく粉砕しながら、デラウが塵となって滅びるまでそれを続ける。というものだ。
デラウを滅ぼすには、どれだけの時間、肉体を破壊し続ける必要があるのか。
不滅者同士の戦いが不毛な理由である。これほど再生能力を持つ魔物は他にいない。そして、その再生回数を長年貯め続けることができるという特異性で、無限にも思える戦いとなる。その勝敗は最終的に、どれだけ人を食ってきたか、という一点に絞られる。つまり、生まれて二年と少しのシアリスが、二千年以上生きたデラウに勝つことは不可能だ。
シアリスは自らの身体を使って、その時間を計算した。不死斬りの魔剣は、不滅者の再生を完全に防ぐ効果はないものの、その再生速度を緩め、必要とする生命力を増加させる。肉体の中央であり、吸血鬼の儀式的な弱点となる心臓を貫けば、効率は増すはずだ。
二千七百。デラウがシアリスに言った、生きてきた年数。その間に殺した人数は? 貯め込んだ生命力は? シアリスの推測に過ぎないが、何万人という数の犠牲が出ただろう。ひと月に一人の犠牲だったとしても、三万人に達するのだ。それは最低値に過ぎない。実際はその二・三倍の犠牲者がおり、日々消費する分を差し引いても、五から七万人分の生命力を貯め込んでいると予想される。
このすべてを吐き出させるには、不眠不休で七から十日間、デラウの体を破壊し続ける必要がある。それができるのは、同じく不眠不休で動き続けることができるシアリスだけだ。
これが作戦の全貌である。何とも力押しの作戦だ。シアリスの伝えた言葉は、自らの弱点を晒すことになるが、彼はそれを惜しげなく披露したことで、ルシトールたちもこの作戦に同意した。未知の敵に対し、他に倒す方法を思いつかなかったのだ。
「さて、今からすぐにでも移動したいのですが、その前にオノンさまに話しておきたいことがありまして……」
シアリスは口籠り、トピナを見た。二人だけで話したいとの意図だが、トピナはそんなことに気を遣う質ではない。
「構わない。トピナに聞かせられないことは、私にはないから」
と、オノンは言う。そこでようやくトピナは出て行ってほしい、と言われたのだと気が付いた。
「そうですか……。実を言うと、僕が話しづらいことだったのですが、まぁ、良いでしょう」
シアリスは入り口近くの倒れた木椅子を直して腰掛けると、オノンに向き直った。
「吸血鬼の誕生の仕方と、それに使われる素材について、お話ししたいと思います。どうか最後まで、落ち着いて聞いていただけると助かります」
「随分な前置きだな」
オノンとトピナも席につき、話を聞く姿勢を示した。トピナに至っては、興奮のあまり鼻息を荒くしている。吸血鬼の作り方の話など、魔術師にとっての餌のようなものだ。
「まず、吸血鬼の正体についてお話しします。一言で現わすなら、吸血鬼はホムンクルスと同義。古代魔術師のよって作られた、一つの兵器です。その誕生の由来は、偶発的なもので、他者を蘇らせるために作られた屍霊魔術。それが失敗し、吸血鬼が生まれました。完全な吸血鬼を作るのには、大量の人の血液と膨大な魔力。そして、もう一つ必要なものが、もっとも大切なのです」
ここでシアリスは少しの間を置いた。話を促すために、オノンが相槌を打つ。
「ホムンクルス……。そうなのね。色々と腑に落ちないこともあるけど、それは良いわ。それと私にどんな関係があると?」
「エルフの肉体です。吸血鬼の素材として、エルフの死体が必要なのです」
「……」
オノンは黙ってその言葉を聞いている。変わってトピナが話を始める。
「別に驚くことじゃないね。この間のリッチがオノンの体を乗っ取ったのも、エルフの頑丈な体を求めた結果だろ」
トピナは当たり前のように言ってのけるが、オノンの顔色が悪くなるのを見て、何か失言をしたかと慌てた。シアリスが続ける。
「トピナさまはお忘れかも知れませんが、僕が生まれたのは二年と半年ほど前のことです。そして、吸血鬼作成の儀式には、それと同じ時間くらいの日にちを使います。ですので、五年ほど前に、デラウはエルフの死体を手に入れたことになります。オノンさまがこの辺りの地を目指したのは、行方不明の弟を探すため……。僕の素材となったのは、オノンさまの
エルフは希少である。現代のメネル社会において、エルフの存在は目立つことになる。その情報を追って、オノンはこの地を目的地としたのだ。アトリエ探索をすることも、彼女の弟が出土品に興味を持っていたため、情報集めと人脈作りのために他ならない。
トピナは反応に戸惑った。シアリスを責めるべきだろうか。だが、彼が望んでオノンの弟を素材にしたのではない。では、オノンを慰めるべきだろうか。それもまだ可能性の段階だ。しかし、否定するにはタイミングが良すぎる。
そうして言葉を選んでいる内に、先に口を開いたのはオノンである。
「シアリス、どうしてそのことを話してくれたの?」
トピナの動揺のした様子とは打って変わって、オノンは冷静である。むしろ優しさを称えた絵画のような雰囲気までを漂わせている。シアリスはその空気に少し気圧されつつも、言い訳をするかのように話を続ける。
「僕は人として、話すべきだと思ったからです。戦いの後では、話せる機会がないかも知れないので……。僕はあなたたちに戦いの後、僕の与えられるすべてを与えると約束しました。その前にこのことを話しておきたかったのです。それに……」
シアリスは言い淀んだ。なにか悲しいことを思い出すか、あるいは何かを恥じるかのような顔で、目線を下に向けた。
「それに?」
「それに……、僕は、あなたたちの仲間にしてほしかった。これを話さないでおくことは、不誠実だと思ったのです」
シアリスは、少しわざとらしい、ぎこちない笑顔を作った。オノンはそれを見つめた。
「あなたが与えられるものは、命も含めての言葉と解釈してもいいのかしら」
「オノン……」
トピナはオノンがシアリスを殺そうとするのかと思い、少し腰浮かしてオノンを止めようとするが、オノンはそれを手で制して、シアリスを見詰めた。
「シアリス、あなたの真心に感謝するわ。でも、安心してほしい。私の弟はあなたの素材などにはなっていないわ」
シアリスはその言葉を聞いて、怪訝そうな顔で質問する。
「どうして断言できるのですか」
「弟は生きているからよ。あなたの素材となったエルフのことを思うと気の毒だけれど、私の弟ではないわ。私と弟は、双子なの。その繋がりを、今でも感じるからよ」
「それは……、迷信でしょうか。それとも魔法的な話でしょうか」
「フフ……、そうね。それに近いけれど、実際にそうなのだから、迷信とは言い難いわ」
オノンは下穿きの片方を捲り上げてシアリスに見せる。いつもは服とブーツに隠された場所には、何かを強く巻き付けたような跡が残っていた。黒く変色したそれは、膝のすぐ下にあり、過去に大きな怪我をした痕跡にも見える。美しいオノンの脚に、醜い
「この痣はね、弟が……ソラルが脚を切断されたときに、私にも現れたの。里から出て行こうしたとき、父がソラルの脚を切断した……。私は母に止められて家に居たのだけれど、突然、脚から血が流れ出してね。精霊術で治そうとしたのだけれど、この痣だけが残ったわ」
オノンは沈痛な表情を見せる。痛みを思い出すかのように、痣を指でなぞって見せた。ただ、里の外に出ようとしただけで、脚を切断するとは考え難いが、それにしても自分の息子の脚を切るとは、随分と過激で野蛮な話だ。
「全部の怪我が共有されるわけじゃないけれど、私が知らないところで、ソラルが大怪我をしたときだけこうなるの。もし、ソラルが死んでいたのなら、私にももっと大きな傷ができたはず。吸血鬼に殺されたのなら、ここに痣でもできたかもね」
オノンは微笑しながら、自分の首筋を指で叩いてみせた。
「そ……そうだよなぁ! オノンの
「……。もうちょっと良い例えはないの? フィニックスとか……」
オノンは勢いを取り戻したトピナに、冷たい視線を向ける。この空気の読めなさに、オノンは救われることも多いが、同時に呆れることも同じだけある。トピナはそんな思いを気にすることなく、新しい話題に取り掛かった。なぜか少し照れながらシアリスに問いかける。
「それで、吸血鬼の作り方なんだが……」
「……教えるわけないじゃないですか。何言ってるんです」
「ええ~! なんでなんでなんで! これは後学のためにも必要なことなんだよ! 絶対に使わないし……頼む‼ じゃあ、わかった。この仕事が終わったら、あたしの報酬はそれで勘弁してやろう……。どうだ?」
「ありえません」
シアリスはオノンと同じくトピナを冷たい目線で射貫くと、すぐに気を取り直して立ち上がった。トピナは、シアリスがうんと言うまでここを動かないという意思を見せるが、オノンに頭をはたかれる。シアリスはトピナを無視して言い放つ。
「それでは参りましょうか。覚悟はよろしいですか」
オノンは頷くと、いくつかの荷物を準備した。トピナはシアリスの説得を続けていたが、オノンにもう一度叱られてしまい、しぶしぶ荷物をまとめ始めた。
◆
ミラノルたち三人はオールアリア城下街の
ミラノルは体を洗ったあと、御影石で作られた大きな浴槽に体を沈める。翼のある蛇の像の口から、湯は大量に流れ出している。湯加減も少しぬるめで丁度良く心地が良い。
(戦いの前に、こんな気分になれるとは思ってなかったな……)
この街に来たのもシアリスの作戦の一環である。少ないながらもシアリスに感謝した。
湯の良い香りに包まれながら、天井を見上げた。自分の小さな掌を、持ち上げて眺める。
(少し大きくなったかな)
ミラノルは見た目だけで言うならば、メネルの年齢で十か十一である。成長の幅が大きくなる年齢だ。ミラノル自身、不安であったのだが、ホムンクルスが成長することができるのかという疑問があった。近頃は服のサイズが合わなくなり、実感が湧くほど体が大きくなり始めたので、その不安は解消されていた。ずっと小さな女の子のままなのは、生きていく上で色々不便なことが多すぎる。
この体を得てから二年と半年ほどだ。今まで少しずつたくさんの過去の記憶を思い出したが、それらはいずれも違和感に
この体は、以前の体とは違う。記憶は思い出してきたが、その記憶にある自分は、今の自分とは別人だった。考え方も、容姿も、習慣も、立場も、まったく別のところにある。ミラノルを作った魔術師は、どんな目的を持ってミラノルを作ったのか。この記憶を入れたのは、なぜだろうか。記憶だけを移す魔術など聞いたことはない。それならば魂をこの体に入れたのだろうか。だが、魂は記憶を保存するわけではない。記憶とは肉体の物理現象に過ぎない。
ミラノルは自身の状況を分析する。もし、あり得るとするならば、魂の形に肉体が引っ張られ、成長とともに記憶を蘇らせた可能性はある。だから、違和感も薄れるように馴染んできて、少しずつしか思い出せないのだ。
魂が肉体に影響を与えうるならば、肉体も魂に影響を与える。もう自分は、昔の自分ではないはずだ。
ミラノルの知識は、この一か月で飛躍した。リッチとの戦い、オノンとの精神の接触が、多くのことを思い出す切っ掛けとなった。さらにその知識が、知識の分析を可能にし、加速度的にミラノルは、過去の自分と融合した。ミラノルは魔術師であった。今や幾つかの魔術も思い出し、扱えるだろう。まだ完全にすべてを思い出したわけではないのが気掛かりだが、決戦おいて魔術は役に立ってくれるはずだ。
少し練習しておくかと思い立ったミラノルは、魔力を操り、お湯を浮かして増やしてみる。まさしく水玉となった湯は、浴場内を緩やかに回転しながら漂った。オノンの意識の中で、鯨に変身した感覚を思い出した。その感覚を手掛かりに、水玉をいくつもに分裂させたり、合体させたりして数分遊んでいると、突然、浴場内に悲鳴が響き渡る。
ミラノルは驚いて、悲鳴をした方を見る。そこには数人の裸の女性が浮き上がる水玉を見て、腰を抜かしているのが見えた。湯気で視界が遮られ、流れる湯の音で、他の客が入ってきていたことに気が付かなかったのだ。
慌てて湯の魔術を解いたのが、それがさらにまずい事態を巻き起こした。浮かび上がっていた湯が重力に引かれ落下し、大きな波となって破裂した。溢れた水が扉すら破って、人も物もすべてを洗い流し、廊下まで流れ出した。
ミラノルは部屋の隅の椅子に座らされ、目の前でルシトールとエヴリファイが豪華な食事をするのを眺めさせられていた。ここはミラノルたち一行に用意された部屋である。造りは豪華で、寝室は二つに分かれており、ダブルサイズのベッドが四つもあった。空腹で腹の虫が鳴るが、ルシトールはそれを無視した。我慢できなくなったミラノルは、重々しげに口を開いた。
「あの……、すみませんでした。もうしませんので許してください……」
ルシトールと出会ってから、こんな風に子ども扱いされたのは初めてのことである。宿の女将とルシトールから説教を受けたミラノルは、現在、大浴場を破壊した罪により、
「……反省したのか」
ルシトールがミラノルに言う。ミラノルは首を縦に何度も振り、肯定する。
「よし、食っていいぞ」
ミラノルはその言葉が言い終わらぬうちに立ち上がると、椅子にも座らずに食べ始めた。この体になってから、どうも腹が減る。それに我慢することが難しい。
今、ルシトールたちはかなり上等な服を着ていた。風呂上りに用意された服を着ただけだが、どの服もサイズがピタリと合っており驚いた。話によればこの宿に案内した使いの者が置いていったらしいが、おそらくシアリスの差し金だろう。デザインも今まで着ていた一張羅に近いもので、着心地も良い。いつもなら施しなど受けないと言うところだが、今はありがたく受け取ることにした。しかし、ルシトールはその上から、いつもと同じように鎧を付けたので台無しである。
一通り食べ終えると、ミラノルは久しぶりの満腹感に苦しんだ。ルシトールはつまようじで歯の掃除をしながら、何気なくミラノルに訊ねる。
「それで? どうやって湯を溢れさせたんだ」
説教のときはミラノルの説明は容量を得なかった。ルシトールは子どものやったことだからと宿の主人を誤魔化したが、彼女がそんな悪戯をするとは思ってはいない。
「いやあ、ちょっと魔術の練習をね……。貸し切りだと思ってたから……」
「魔術? トピナにでも教わったのか?」
ルシトールたちは常に一緒に旅をしていた。近頃、魔術を使えるようになったとするなら、教わる魔術師はトピナくらいしか思いつかない。
「ううん。その……、前に、知らないことを思い出すってことを話したじゃない。その記憶の中に魔術を使っているのがあって、戦いに役に立つんじゃないかな、と……」
「魔術……。前に話していたときは、どうでもいい記憶ばかりだと言っていたじゃないか。いつから使えるようになったんだ」
「この間のリッチとの戦いの後。でも多分、魔術を読み解けるようになったのも、この記憶のおかげだと思うから、もっと前からなんだと思う」
ルシトールは、ふ~んと鼻を鳴らすと、どこか遠くを見て考える。
「エヴィは? なにか変化はあったのか」
エヴリファイもミラノルと同じホムンクルスである。同じアトリエから見つかった、いわば兄妹のようなものだ。
「ない。だが、ミラノルの言動が変化したことには気が付いていた。知能の水準が上がった。今日は失敗をしてしまったようだがな」
ミラノルは肩を竦めた。ルシトールは、なんでそういうことを黙っているんだ、と独り言のようにつぶやいて、気を取り直し、溜息をついてから話し始める。
「わかった。だけど、戦いのときにはその力は使う必要はねぇよ。その力は計画に含まれていないし、まだ完全に扱いきれているとは言えないんだろ。悪い結果になるかもしれねぇ。まぁ、最後の手段に取っておいてくれ。誰にも教えるな」
「わかった。シアリスにも、トピナたちにも言わない」
いつもならここで、全員に絶対話すと、ルシトールをやり込めるところだ。
「なんだよ。拍子抜けするな。本当にミラノルか?」
ルシトールは冗談めかして言うが、ミラノルは少し気落ちしたような表情で、声を落として話す。
「わかってるよ。切り札に取っておくんでしょ」
「……なんだよ。なにか気に障ったか」
ミラノルは首を横に振り、残りのデザートを平らげて、肘をついて満足感を楽しんだ。脳に血液が回らなくなり、眠たくなってきたミラノルは、フラフラと立ち上がって、部屋の中央にある大きなソファに寝転がる。ソファは一度入り込むと起き上がるのに苦労ほど柔らかい。
「まだ昼だぞ。寝るなよ」
「ん~。むしろ今寝ておいた方がいいじゃない? どうせ戦うのは夜になるんだからさ」
まさにその通りで、デラウから送られてきた招待状は、晩餐に招待するというものである。戦うことになるのは、夜。吸血鬼の時間になる。
この場違いな高級宿に泊まれるのは、招待状を届けに来た筆頭執事の計らいである。汚れた体で居城に上げるわけにはいかないという、彼の意地であった。ルシトールにとって、風呂など赤子のころに入った以来だが、悪くはない体験だった。飯も腹いっぱい食べられて、貴族の生活も悪くはないと感じる。テーブルに肘をついて椅子の上でまどろんでいたルシトールは、呼びかける声で飛び起きる。
「ルシトール」
そのまま、テーブルの脚に立てかけていた剣を手に取り、立ち上がる。呼びかけてきたのはエヴリファイである。彼から話しかけてくるときは、ミラノルが危険なときか、敵が近付いてきたときだけだ。
「敵か」
「いや、そうじゃない。話を聞いてほしいんだ」
ルシトールは驚きを覚えつつも、再び腰掛ける。エヴリファイが自分から話をしてくるのは珍しい。ルシトールは言わずにはいられなかった。
「お前……、不吉なことをするな」
「不吉? そうなのか?」
エヴリファイは知らなかった。
「命がけの戦いに行く前に、いつもと違う行動をするのは、不吉なんだよ」
「別にいつもと違う行動はしていないと思うが」
「お前が声を出すことが、今までどれだけあったよ。いや、まぁいい。それで? どんな話があるんだ」
エヴリファイが頷いて、口を開く。
「さっき、お前は自分に変化がないか聞いたとき、変化はないと言ったが、あれは嘘だ。ミラノルのような変化ではないが」
「どんな変化だ」
「体が重く、思うように動かなくなってきた。自分は間もなく機能停止するだろう」
「キノウテイシ? どういう意味だ」
「人で言うならば、死ぬということだ」
「……」
ああ、やはり不吉な話だったな。と、ルシトールは肩を落とした。エヴリファイとは仲が良いというわけではない。彼は話を好む性格ではないし、行動も大人びているのでルシトールが世話を焼く必要がなかったからだ。だが、二年以上も寝食を共に過ごした仲ではある。情が湧かないわけではなかった。信頼の置ける仲間であることは間違いない。
「そこまで深刻になるものなのか? ただの疲れ、とか……」
エヴリファイはゆっくり首を横に振った。
「そういう類のものではない。死をすぐそこに感じる。言葉で言い表すのは難しいが……、これは事実だ。おそらく、ひと月を待たずして、自分は消えるだろう」
エヴリファイの体は不思議だ。大きく変形できるのは右腕だけだが、全身も少しは変形できる。皮膚についた小さな傷程度なら、一瞬で
「そう……か。なにか解決策はないのか」
それも首を振って否定する。
「その必要はない。自分は生きるのに飽きた。ミラノルの記憶が戻った今、解決できるかもしれないが、その必要はない。このことはミラノルには言わないでくれ」
あっさりと死ぬことを選ぶと言われ、ルシトールは何も言えなかった。ミラノルがソファの上で寝返りをする。
「自分はお前に見つけられるまで、あの小さな部屋で多くの時間を過ごした。お前に見つけられたとき、これでようやく終わると思ったのだ。何もすることはなく、何も感じることはないはずの自分が、死を望んだ。それが、自分が初めて自覚した、自分自身の意思だった」
古代魔術師の時代は、三千年以上も前の話である。その中にいたホムンクルスは、アトリエができたときに造られたとするならば、彼もまた同様の時間を過ごしている。
「エヴィ……。だから、俺が部屋に入ってきたときに、なにもしなかったのか」
ルシトールは彼と出会ったときのことを思い出した。
ルシトールは、ミラノルとエヴリファイに出会う前は、護衛を生業とする傭兵であった。
傭兵の仕事と言うのは多岐に渡り、いわば何でも屋のように仕事を受けることがある。商人の護衛だけでは食ってはいけないのだ。ルシトールの場合は、腕は立つものの商人にこき使われるのが嫌で、固定の護衛になることはせず、行商の護衛で各地を転々とする、いわゆる根無し草のような生活を送っていた。収入は安定しないが、様々なものを見て回り、気楽に暮らす生活は、ルシトールの気性に合っていた。
今回の仕事は、商人の護衛ではない。老魔術師のアトリエ探索の手伝いである。そういう仕事は冒険者がやるものだが、今回の魔術師は、冒険者を雇った上でさらに自分の護衛に傭兵を雇うという、なかなかの怖がりだった。
アトリエ内の探索は途中まで順調に進んだが、結果としては、探索隊は全滅した。ルシトールと雇い主の老魔術師を除いて。
(あのとき、魔術師のじいさんには世話になったな。今度、土産でも持って訪ねてやるか)
アトリエ内を逃げ回り、出口も入口も判らなくなったとき、ミラノルとエヴリファイが居た、アトリエの最奥の部屋を見つけたのだ。そこはアトリエ内部とは思えない、場違いな場所であった。
そこには扉はなかった。廊下の一角に突如として、柔らかな芝草の生えた村のはずれ。小さな井戸。家禽がいたかもしれない囲い。赤い瓦屋根の小屋。ルシトールの故郷の村を彷彿とさせるような、
その小屋の中に、ミラノルとエヴリファイが居た。正確に言うならば、時間を止められたような状態で、封印されていたと言うべきだろうか。
ルシトールが
ルシトールと老魔術師は、彼らがアトリエに囚われたただの人だと思いこみ、一緒に脱出をすることになる。そのときのエヴリファイの言葉を思い出す。
「彼女が戻ったのなら、自分の役割は終わりだ」
そう言ったエヴリファイは、絶望しているようにも、希望が芽生えたようにも見えた。だが、ミラノルの説得によって、ともに脱出することになる。
あまりに知識の欠落しているミラノルのことを、他人に説明して預けるのには苦労するだろうし、エヴリファイに至っては、自分のことをホムンクルスだと言う。ほとんど、ミラノルに乗せられたという形で、結局、ルシトールが折れる形となった。彼らを見捨てて立ち去ることもできず、三人で旅立つことになってしまった。
そのあとは、なし崩しである。吸血鬼の襲撃が相次いだことで、ミラノルの能力が発覚し、狩人としての才能に開花することになる。
出会った始めの内は、エヴリファイがホムンクルスだとは思っていなかった。しばらく行動を共にして、ようやく認めざるを得なかった。自由になった彼は、自由を
だが、彼にはそれすらも重荷だったらしい。
「自分は外に出たときに、消えるはずだった。だが、ミラノルが魔術を書き換えた。それは無意識だったのだろう。自分を守るための無意識の力の行使だ」
エヴリファイはホムンクルスと思えないほど、感情を表現するようになった。
「だが、それも終わりだ。ルシトール、お前にミラノルのことは任せる。自分はもう疲れた。それに……」
ルシトールは次の言葉を待った。
「この戦い、命を懸けずには終われないだろう。そうであるならば、命を懸けるのは自分だ。それに嫌な予感がする。戦いは、ただ倒すだけでは終わらない気がする。だから、自分がミラノルを命懸けで守る。そのあとのことは、お前に任せる」
エヴリファイの表情は、いつもの冷ややかな表情ではない。力ある決意の表情である。ルシトールは力強く頷いた。
彼が三千年の時間を、あの小さな小屋で、どのような思いで過ごしてきたのかは、どうやっても理解はできない。それでもルシトールは彼の思いを汲み取った。端的に一言だけ、エヴリファイに言った。
「わかった」
ルシトールは少し笑った。
「予感がするだって? 随分と人間らしくなったもんだ。その決意、受け取ったぜ」
立ち上がったルシトールは、エヴリファイに近付いて手を差し出した。エヴリファイも立ち上がり、その手を取る。固い握手を交わしたところで、ミラノルがソファから落ちた。叫び声をあげて、床を叩いたミラノルは、起き上がると握手を交わす二人を見て、目を丸くする。
「何してんの?」
なんとなく照れ臭くなって、ルシトールは手を離した。
「男と男の約束事だ。さてと、いつまでここで待てばいいんだ? 迎えが来るはずだよな」
迎えが来たのだ。戦いが始まろうとしている感じ、ルシトールの筋肉が震えた。
「ミラノル」
ルシトールが振り返って呼びかけた。
「何?」
「引き返すなら今のうちだぜ。馬車に乗ったら、最後だ。この戦い、生き残れるかどうかわからない。死人が出ることは確実だ。それでも行くか?」
ルシトールは最後の確認をする。ミラノルは力強く頷く。
「もう引き返せないよ。シアリスと出会った時点で、わたしたちの運命は決まっていた。だから、覚悟はできてる」
ルシトールも頷き、ミラノルとエヴリファイに目配せした。
手荷物を持ち、装備の再確認をする。部屋の扉が叩かれるのを待ったが、誰も来なかった。気合を入れ直した三人だったが、結局、迎えが来たのはそのもっと後であった。さっきの馬車は、別の宿泊者のものであった。
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