第4話

 シアリスの社交界デビューは上々の結果だと言って良い。午前は静かなものだったが、午後には多くの訪問者あった。と言っても手紙を届けに来たお遣いか、郵便を生業にしている業者だったため、取り立てて語るべきことはない。

 郵便で届けられた手紙であれば、返事は遅れても問題はないが、遣いが直接持ってきた手紙に対しては、すぐに返事をしたためて遣いに持たせなければならない。それが貴族としての礼儀なのだが、それがなかなかに煩わしい。特に日に何人も手紙の遣いが来ると、ホールは彼らの溜まり場のようになる。

 それはデラウも同様で、シアリスと筆頭執事とともに執務室に篭もり、返事の手紙の作成に忙しくするしかない。

 手紙の内容はほとんどが求婚・縁談・見合いの要求である。デラウも独身であるし、シアリスは若く将来有望である。地方の田舎貴族ではあるが、それでも伯爵という位は十分な威力がある。商家の娘に、貴族の血縁などなど、選り取りみどりではあるものの、今回は断りの返事に終始した。

 こういった面倒事を避けるために、貴族は幼いうちに許嫁を親が決める。許嫁の居ないシアリスは、つまりは独身界に現れた超期待の星と言うところなのだ。一通りの社交辞令を終え、すっかり夜になってから、残りの郵便を見た。内容は商談か、純粋に交友を深めたいというものもある。

 その中に一通、気になる封書があった。封蝋には『冒険者商会』の文字が打ってあり、差出人はウルトピーノ=オルセウスとなっている。聞いた事のない名前だが、その匂いには覚えがある。魔力の香りとでもいうのか、独特の、影の力に似た香りだ。

 封を切り手紙を取り出す。簡素な紙には何も書いてないように見えた。不思議に思ってしばらく眺めていると、インクが染み出すように紙の中央から広がり、それが細く枝分かれし、整列し始め、文字となって一文を作った。

(南門商会支部にて正午)

 本当に簡潔な一文である。時間は示されているが、日は記されていない。既に夜となっているので、今日ではない。どの道、郵便が届いたのは昼過ぎである。

 こんなことをできる知り合いの心当たりは一人しかいない。どうやらトピナの本名はウルトピーノと言うらしい。本人にしか読めないような魔術が掛けられていたようだ。この程度の内容ならば読まれても問題ないだろうが、用心してくれることはありがたい。シアリスはそれを影のなかにしまうと、さっさと火を吹き消して、就寝したふりをすることにした。


 デラウは朝早くから出掛けて行った。貴族のしがらみと言うやつだ。シアリスは体調不良と言うことにして、部屋に引きこもる。昼になる頃に起き出して、こういうときのために用意してある襤褸ボロの服を着て、窓から抜け出した。もちろん置き手紙で、執事の心労を少しでも緩和することは忘れない。少しくらいのヤンチャは、これくらいの年頃なら当たり前だ。それにシアリスは少し前までは一般市民のような軟禁生活だった設定だから、貴族生活より慣れていることになる。

 収集家襲撃事件から一日明け、街は落ち着きを取り戻していた。魔物が侵入したからと言っても、それは既に退治されたことだし、被害もほとんどなかったのだから、無関係のものには雑魚が侵入したとしか思えなかっただろう。

 正午近くの大通りの人混みはなかなかのものだ。前世のときも人混みに紛れることが多かったシアリスにとっては、この程度の人混みだと物足らないくらいではある。それに吸血鬼は普段は目立つ容姿で人の目を惹き付けるが、やろうと思えば誰も気にしないほどに気配を潜め一般人に紛れ込む能力があった。

 ミクス領オナイドの市民街の街並みは、色彩豊かと表現するのが良いだろうか。至る所に旗や植物が飾られ、色とりどりの看板、街行く人も鮮やかな衣装を着ている。街全体が豊かな証拠だ。

 シアリスの目的地である南門は、泊まっている屋敷から三十分ほど歩く必要がある。子どもの足ならば、四十分程度を見ておけば間違いないだろう。土地勘のないシアリスだがその足に迷いは無い。本来ならば冒険者商会の位置など把握していない。それでも迷わずに来ることができるのは、夜のうちに下見したからである。

 大きな街ともなると、冒険者商会だけでも二・三の支部を持っており、冒険者たちが持ち寄る出土品の買い取りやアトリエの探索の管理がされている。そういった所に冒険者たちはタムロし、情報交換や同行者の募集をするのだ。

 建物に入るとき、どこからか視線を感じたが、人が多すぎて誰のものかはまではわからなかった。監視役が居るのかもしれないが、もしかしたら罠の可能性もある。だが、シアリスは気にせずに冒険者商会の建物に入った。もちろん、そんな所に集まるのは、腕っ節に自信のある者ばかりである。小さな子どもなど一人もいない。そこにズカズカと入り込んできたシアリスに皆の視線が注がれるかと思ったが、あまり気にする者はいなかった。用事を言い付かった小間使いとでも思われているのだろう。

 冒険者商会の建物は立派なもので、石造りの一階と木組の二階と三階で構成されており、広いホールと吹き抜けを備えてある。そのホールには何人もの屈強な者たちがたむろしており、報酬を山分けしたり、地図を広げてアトリエの場所を確認したりと、かなり賑やかだ。

 受付らしきところにはカウンター、その奥には事務所があり、何人かの係が書類仕事や出土品の鑑定のようなことをしていた。暇そうにしている初老の男に、カウンター越しに話しかける。カウンターには鉄の格子が嵌められており、銀行のような厳重さだ。高価なものを扱っているし、報酬用の現金もあるに違いない。カウンターは一段高くなっているため、シアリスの背丈ではギリギリ目を出せるくらいなので、背伸びして声を掛けるしかない。

「すみません。ウルトピーノさんはいらっしゃいますか」

 受付の男はチラリと眼鏡越しに誰が話しかけてきたのか見て、カウンターから覗き込むようにシアリスを探してから、何も言わずに書類を引っ張り出して眺める。小さな紙切れは、なにかのメモのようである。トピナからの手紙が必要になるかと思い、手に持っていたが、受付の男はシアリスを特に気にすることもなく、上を指差して言う。

「二階に上がって右の部屋だよ。第二会議室って書いてあるところだ」

 簡潔である。シアリスは礼を言って階段に上がった。二階の吹き抜けのある回廊には、幾つものの頑丈そうなドアが並んでおり、その一つの部屋に第二会議室と書いてあった。

 そのドアの前に立ち止まり、ノックの前に中の気配を探る。人間の肉体の限界まで押し上げた聴覚で音を聞くが、中からは全く、不自然なほど全く音がしない。どうやら部屋自体に防音の結界のようなものが張られているらしい。音では気配は感じ取れなかったが、知っている匂いが三つ、感じ取ることができた。トピナとオノンと、狩人ルシトールである。

 ルシトールがいるとなると、穏やかな話し合いにはなりそうにない、とシアリスは思いながらも扉をノックした。扉を叩くと、結界が消えるのが感じ取れた。突如として、中の気配が探れるようになる。

「誰だ」

 オノンの声が聞こえた。シアリスは返す。

「あなたのシアリスです、オノンさま」

 少しキザったらしく言ってみる。ルシトールが立ち上がって抜刀しようとした音がする。それをオノンが制したらしく、ルシトールは後ろに下がった。

「ゆっくり扉を開けて入ってきて。不自然な動きはしないようにね」

 オノンの声から緊張が感じ取れる。警戒されるのは少し悲しいが、仕方のないことだ。シアリスは言われた通りにゆっくり扉を開け、中に入る。そこに剣をいつでも抜けるように警戒するルシトール。大きなテーブルの向こうの椅子に、腰掛けたエルフのオノン。その向こうの窓際のソファに、気怠そうに座っている魔術師トピナがいた。

 ゆっくり扉を閉める。わざと背中を見せて、敵意がないことを強調する。振り返って微笑し、丁寧な貴族のお辞儀をする。

「お招きにより参上致しました。歓迎して頂き感謝いたします」

 オノンの横でルシトールは剣の柄に手を掛け、シアリスを睨みつけている。とてもではないが歓迎しているという雰囲気ではない。

「どうやってここまで来やがった。どうして、その姿のままでいられる……?」

 ルシトールが噛み締めるように声を出す。この部屋には大きな窓があり、日当たりも良い。吸血鬼の力を削ぐための対策なのだろう。正午のため日は高く、窓からは直射日光は差し込まないが、従徒であったならこの明るさでも充分に効果はある。

「歩いて来ました。もし、僕が日中に出歩けない体であったなら、どうするおつもりだったのですか?」

「そんなわけが……」

 ルシトールは不気味なものを見るような目で、シアリスを見据えている。冷や汗が伝い、顎から落ちた。吸血鬼が日光に弱いことは、彼ら狩人にとっては常識である。何かを言おうとするルシトールを抑え、オノンが割って入る。

「ルシトール、少し落ち着いて」

 今にも飛びかかりそうなルシトールを制して、オノンはシアリスに向き直る。

「シアリス、あなたは本当のシアリスなの? そして、本当に吸血鬼なの?」

 オノンはあらゆる可能性を考慮してそう尋ねた。オノンはシアリスの夜の姿を見たことがあるし、一緒に影の力を使って空を飛んでいる。疑う余地はないが、日の光に当たっても平気な吸血鬼は見たことがないということだ。

「オノンさま、まずは謝罪をさせてください。正気を失い、オノンさまに爪を立てるなど、我が一生の不覚です。申し訳ありません」

 オノンは傷付けられた方の腕を上げてみせる。かなり深く爪で抉られたはずなのに、その絹のような肌にはほとんど傷は残っていなかった。

「この程度、エルフにとっては何でもないわ」

 シアリスが口を開いた直後、ルシトールが動いた。一足でテーブルを飛び越えると同時に抜刀し、シアリスの首筋に刃を当てる。皮膚が薄く切れ、赤い血が滴る。既にルシトールは鎖瓶薬を飲んでおり、臨戦態勢にあったようだ。

「問答の必要はねえだろ。吸血鬼と話し合いなどできるか!」

 ルシトールは叫んだが、シアリスは動かなかった。もう少しで首を切り落とされるところであるのに、表情一つ変えず汗も垂らさない。ただ小さく溜息をつくと、ルシトールに憐れみの目を向ける。

「……ルシトールさんもこういった無駄な駆け引きはやめませんか。あなたも気付いているはずです。あなたは僕に勝てない。剣を止めたのは、それがわかっているからだ」

「黙れ! 首を落とされたいのか!」

「ルシトール」

 オノンがゆっくり呼び掛ける。

「さっき話した通りよ。こんなところで殺り合えば、被害が大きくなる。剣を引いて」

 オノンがいつもの優しい口調とは違い、有無を言わさぬ力強さのある声色で言う。シアリスはそれを補足するように畳みかける。

「ルシトールさん、僕は吸血鬼でもありますが、同時にメネルの貴族でもあるのです。そして、僕が日の光に当たっても問題ない以上、あなた達は僕を吸血鬼であると証明する方法を持たない。ああ、あなたには、もう一つの証明方法がありましたね。外に居るあなたの連れに会わせて下さい。どうして僕が正気を失ったのか、直接本人に聞いてみたいので」

 外に待機しているルシトールの仲間、少女と女戦士のことを知っていると、暗に示す。もし、敵対するならば、彼女たちも無事に済まないと伝えてみせる。それにシアリスは、本当にもう一度、あの少女に会ってみたいと思っていた。心構えをして挑めば、血への渇望を抑制できるのか実験してみたい。

 現代のメネルたちが使う、吸血鬼を暴くためのもっとも簡単な手段は、直射日光のもとに晒すことだ。そうすれば変装を維持できず、吸血鬼としての本性を表す。そして、それをシアリスに行った場合、告発者は虚言を疑われることになる。不滅者は日の下でも、変装を維持できるからだ。しかもそれが貴族の子息となれば、捕らえられ、獄門ゴクモンという事態になりかねない。それをルシトールは理解しているからこそ、刃は止まったままなのだ。

 シアリスはすでに勝っている。デラウが貴族の地位に固執しているのも頷ける。こういった事態になったときの保険としての意味があるのだ。

「てめぇこそわかってねぇな。この剣は銀でできた不死斬りの魔剣だ。日の光で証明できなくても、殺してしまえば、正体を現すだろ」

 それでもルシトールは退かないのは、さすがと言うべきか、愚かと言うべきか。

「不死斬りですか……。そんなものもあるんですね。ではその剣で、僕を本当に殺せるか試してみますか?」

「この状況でよくも……」

「あなたが刃を当てているそれ、本当に首だと思いますか。そこを切り落とせば、僕が死ぬのか、さぁ、早く試してみてくださいよ」

 シアリスは突き出された切っ先に首を強く押し当てる。さらに血が流れ出し、シアリスの服を汚していく。

「やめろ、二人とも! いちいち挑発しあっていたら、話もろくにできない!」

 オノンが立ち上がって怒鳴る。

 これだけ大声でをしても、外から誰も駆けつけてこない。更に外の音は聞き取ることができるという優秀な結界だ。暗殺にも応用できるかもしれない。トピナの魔術か、オノンの精霊の力なのだろうか。

「オノンさんよ。吸血鬼ってのは、こういう生き物なんだ。適当なことをぬかして、人を惑わせ場を支配する。自分が生きるためなら平気で噓をつく。薄汚ねぇ化け物なんだよ!」

 それについては否定できないな、とシアリスは心の中でつぶやく。だんだん面倒になってきたシアリスは、オノンに視線を向けて言う。

「埒が明かないな。この人殺してもいいですか、オノンさま」

 物騒な物言いだが、オノンも痺れを切らしつつあった。

「やめろ、シアリス。ルシトール、貴様もこれ以上やるというのなら、私も敵に回すことを覚悟しろ。お前は吸血鬼だけでなく、エルフも敵に回して生き残れるつもりか」

「な……⁉ お前どっちの味方……」

 さすがのルシトールもその言葉には動揺したようで、オノンの方を振り返ってしまう。その隙を逃す、シアリスは突き出された剣を持つ腕をつかむと、捻り上げて握力を奪った。本当はデラウのように、投げ飛ばして抑え込むくらいしたかったが、今のシアリスの体格では難しい。剣が床に落ち、甲高い音が部屋に響く。ルシトールはすぐに掴まれた手を払い除けると距離をとる。武器を拾おうとすれば、その牙に首を晒すことになる。距離を取るのは正しい判断だ。シアリスは素手ではあるが、吸血鬼の牙と爪は、刀剣よりも鋭いことをルシトールはその身をもって知っていた。

 シアリスは追撃せず、床の剣を拾い上げる。

「こういうヤカラと話し合いをするときは、武器は取り上げて置かなければいけませんね」

 オノンは椅子に座りなおすと、テーブルを軽く二回叩いた。

「二人とも座りなさい」

 まるで説教をする母親だなと、シアリスは思った。となると、ルシトールとシアリスは、年の離れた兄弟か。武器を奪われたルシトールは、痺れた腕を庇いつつシアリスを睨みつけていたが、シアリスが椅子に座ったのを見て、彼も席に着いた。

 そういえばとシアリスは思い出して、反対側の窓際に座るトピナを見やる。彼女にしては大人しすぎる。腕を組み、目を瞑ったまま微動だにしない。いや、若干揺れている。どうやら船を漕いでいるようだ。

(一応、人類の敵なんだけどな、僕……)

 こちらの緊張とは対象的なトピナに呆れる。魔術師とは皆こうなのかもしれない。シアリスは取り上げた剣を机の上に置く。その刃には血が滴っていたはずだが、それはすでになくなっている。傷つけられたはずの首筋も綺麗に治っており、服も血の一滴に至るまで消えていた。不死斬りと言っていたが、その効果の程には疑問が残る。

 オノンは二人が座ったのを見届けると、少し間を置いてから口を開く。

「さっき吸血鬼の見分け方について、何か言っていたけれど、あれはどういうこと?」

 シアリスはオノンの言葉を聞いてルシトールも見る。

「おや、あの少女について話していないのですか? オノンさまに味方かどうか訊いていましたけど、とんだ味方もいたものですね」

「少女……、ミラノルのことね」

 どうやらルシトールの連れの少女はミラノルと言う名前らしい。

「なんの話だ」

 ルシトールはとぼけて見せるが、もはや意味をなさない。

「はぁ、話が進みませんね。では、僕の方から話をしましょうか。この話を聞いたら、そちらの話も聞かせてください。そうすれば公平でしょう?」

「知るか、お前に話すことなど……」

 オノンがルシトールを睨む。彼は口籠りながらつぶやいた。

「……話の内容による」

「よかった。では……、そうですね。ルシトールさん、あなたが知っている吸血鬼の特徴を述べてみてくださいませんか」

 こちらから話すと言っておきながら、結局、ルシトールに話を振る。ルシトールが渋々といった感じで言う。別に特徴を言うくらいならば、何の害もない。

「……牙があり、血を吸い、人に化ける。不老不死で、高い再生能力を持ち、心臓を完全に潰すか、首を落とさなければ殺せない。にんにくの臭いを嫌い、銀に弱い。日の光で弱体化し、夜しか活動できない。嚙みついた相手を吸血鬼化して数を増やす。……虚言で人を惑わせ、生き汚い。人間にとっては害獣でしかない。……雑把ザッパに言えばこんなところか」

 最後は取ってつけた言葉だ。

「素晴らしい。さすがは専門家。全くもって、全然、違います」

 シアリスは馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべて、ルシトールを見やる。

「ここまで見事に引っかかってくれていると、この嘘をばら撒いた張本人たちは笑いが止まらないでしょうね。いや、良かった。これからも無駄に吸血鬼の従徒と戦って、無意味な人生を送る必要がなくなるのだから。僕との出会いに感謝してください」

 一つ言われたなら、二つ返すのがシアリス流である。が「簡潔に話して」とオノンに叱られる。シアリスは肩をスクめて見せる。

「吸血鬼はメネルたちに嘘の情報を流して、自分たちの安全を確保する企みを始めました。結果として、メネルたちは吸血鬼を真に退治する方法を忘れ去り、不毛な戦いを強いられることになったのですよ。今、あなた達が吸血鬼だと思っているものは、従徒……、つまりは吸血鬼によって、その力を与えられたメネルであり、真の吸血鬼は陽の光で弱りはしないし、メネルとして周囲に完璧に溶け込むことができるのです」

 ルシトールが鼻で笑う。

「馬鹿なことを。オレが持っている手記には、吸血鬼との戦いが事細かに書いてある。お前たちがいかに狡猾で、信用できないかもな」

「ほぉ、過去の吸血鬼狩りの手記でしょうか? 何年ほど前のものですか」

「……百年ほど前のものだ」

 シアリスはやれやれと首を振る。

「この企みが始まったのは、三百から四百年ほど前のことです。知っての通り、吸血鬼に寿命はありません。メネルが考えもつかないような遠大な時間をかけることができるのです。その手記に嘘が書いてあるとは言いません。おそらく、その狩人も騙されていたのでしょう。あなたは僕の存在を否定できますか。陽の光に当たっても正体を表さない。メネルの、しかも貴族として活動する吸血鬼の存在を、否定できるのですか」

 吸血鬼は昼間しか活動できないため、貴族として通常の職務をこなすことは、この時代では困難である。この世界の夜の闇は深く、吸血鬼には有利だが、メネルとして溶け込むことは難しい。偽装できても浮浪者や犯罪者のような、日中に見かけない人間である。

 ルシトールは反論しようとしたが、今この瞬間も出歩いているシアリスの存在は否定できない。言葉を選んでから口を開く。

「……お前は養子なのか。どうやってオルアリウス家に入り込んだ」

「ああ、そこは気になりますよね。僕とデラウは血の繋がりこそありませんが、正真正銘の親子ですよ。デラウが僕を作り出したのですから」

 子どもの存在を隠していたなどというエピソードなど、ルシトールは知る由もない。養子として人間に化け入り込んだと思ったのだろう。

「つまり、デラウも吸血鬼だと……?」

「そうですよ。おや、気付いていませんでしたか」

 事も無げに言ってのけるシアリスに、ルシトールは苦虫を噛み潰したような表情をして黙りこくった。それもそうだろう。数日前までは、吸血鬼相手に吸血鬼退治の作戦を語っていたのだ。黙ってしまったルシトールに替わり、オノンが続ける。

「人間が知る吸血鬼の伝承が嘘だとして、何故、ここでそれを話すの? あなたの目的は何?」

 シアリスはその質問には答えず、オノンを見つめる。

「オノンさまも吸血鬼のことについては詳しくないのですか。長命の種族であれば、吸血鬼の伝承も伝わっているかもと思っていたのですが」

「エルフと吸血鬼は、あまり関わりがないの。吸血鬼という存在自体、メネル社会に関わるようになって初めて知ったくらいよ。魔物の伝承は多く知っているけど、吸血鬼については……」

 シアリスは少し考える。デラウが二千七百年ほど前に生まれたとして、そのころに他の吸血鬼も誕生したとするなら、エルフとの戦争のあとに、吸血鬼は誕生したことになる。エルフとの交流が絶たれて三千年ほど経つから、メネル社会に潜む吸血鬼という魔物を、エルフが認知していない可能性は充分にある。しかも、何故かデラウはエルフに興味を示さなったし、シアリスもオノンに対して食欲が湧かなかった。吸血鬼はあくまでもメネルの敵なのだ。

 シアリスは椅子に座り直すと姿勢を正し、真面目を装う。

「……僕の目的は一つです。デラウ・オルアリウスを殺したい。それだけです。しかし、僕一人ではそれは不可能に近い。デラウは三千年近く生きてきた、化け物の中の化け物ヴァンパイア・オーバーロード。ですから、お願いしたいのです。あなた達の力を僕に貸していただけませんか」

 オノンもルシトールも、シアリスの顔をまじまじと見た。その表情からは考えを読むことはできないが、嘘をついているようにも思えない。

「……さっきから訳が分からん。オレは一体何と話をしているんだ? こいつはなんなんだ……」

 ルシトールはただただ困惑するばかりである。シアリスの目的が全く分からない。彼がルシトールを殺そうと思えばいつでも殺せるのかもしれないが、その様子は全くない。取り入って何かを成そうとするには、遠回りすぎるし、代償に対しての利点が少なすぎる。魔物の考えていることは人には理解できないはしないだろうが、メネル社会に溶け込もうとしている吸血鬼ならば、ある程度の思考は読める。多くの吸血鬼を狩ってきたルシトールならば尚更だ。

「理由はなんだ。なぜそんなことをする」

 シアリスはルシトールの目をしっかりと見た。

「あなたは……、あなたには信じていただけないかも知れませんが、僕には良心と理性が存在するのです。僕には人として生きていたときの記憶が残っている。人としての倫理観がある吸血鬼が、毎日どのような苦しみの中で生きているか……。いえ、すみません。それはどうでも良いことでした。僕の言いたいのは」

 シアリスは少し言葉に詰まった。何かを思い出したかのように表情を厳しくすると、それを隠すように掌で覆った。そして自分の額から口元まで、その爪をもって引き裂いた。血は吹き出さず、その切り傷からは暗い闇だけが覗いた。

「許せないだけです。ヤツはメネルを家畜としてしか見ていない。虐げ、犯し、食らう。ヤツと同じ空間にいるだけで反吐が出る。私は奴が、生きているだけでも耐えられない……。理由はそれだけです。それに、あなたは吸血鬼を害獣と呼びました。人を殺した害獣駆除に、他の理由が必要ですか」

 手を下ろしたシアリスは、傷一つない姿に戻っていた。

 ルシトールは何かを言おうと口を開けたり閉じたりしているが、言葉が見当たらないらしい。オノンはシアリスを真っ直ぐ見つめているが、何も言おうとしなかった。トピナは、船を漕いでいたのが、いつの間にかソファに横たわって完全に寝る体勢だ。

 シアリスはその様子を見て、なんとも言えない顔をして言葉を続けた。

「もちろん、協力してくれるのであれば、あなたたちにも利点はあるはずです。僕の渡せるすべてを、差し上げましょう」

 ルシトールは口を強く結ぶと、出口の方に歩き出した。シアリスは立ち上がると、取り上げていた剣の柄の方を差し出した。ルシトールは横を通り過ぎるとき、取り上げられた剣を受け取ると鞘に収める。

「ルシトールさん、帰られるのであれば、一つ……。あなたたちはデラウに目を付けられています。しばらくは行動に気を付けておいてくださいね」

「……。お前の言っていることのほとんどが理解できねぇ。けど、とりあえず、今は殺さないでおいてやる」

 ルシトールはそれだけ言うと、扉を乱暴に閉めて出て行った。シアリスと見送ると、再び席に着く。

「ふーむ、フラれてしまいましたね」

 シアリスは残った彼女の返事を待つ構えだ。部屋に沈黙が訪れる。

「トピナ、どう思う」

 名前を呼ばれたトピナは跳ねるように目を覚ます。オノンは振り返った。

「まさか……、寝てた?」

「な、なに? 寝てないぞ。全部聞いてた……!」

「あんたね……」

 シアリスは二人のやり取りを眺めて、この奇妙な組み合わせを不思議に思う。

 彼女たちと出会ったあと、エルフについて図書室にて調べてみた。エルフという種族とメネル族の関わりが絶たれてから、永い時間が経っており、蔵書はほとんどなく、神話か物語のような語り口のようなものばかりであった。

 その昔、エルフとメネル……、特にメネルの魔術師は、争い、殺し合い、種族を分断する酷い戦争をした。結果としてメネルは負け、古代の魔術師は滅ぼされ、ほとんどの魔術は継承が途絶えた。

 その後、エルフとメネルの隆盛は逆転した。それまでは永遠に近い生命力と、精霊を操る力、そこを根源とした知識により、エルフはメネルを下等な種族として扱っていた。しかし、戦争により数の激減したエルフは、メネルの繁殖能力に負け、その生息地を追われたのである。

 エルフは寿命が長い分、出生数は低い。新たな子が産まれるのは、数十年あるいは数百年に二・三人とだという。戦いのない時代ならばそれで問題はなかったのだが、戦時においては致命的である。

 結果としてエルフは歴史の表舞台から姿を消し、戦争に負けたはずのメネルが、世界を席巻した。エルフは森に隠れ住むようになり、いつしか森の妖精と呼ばれるような神話の存在となった。そして、それまでただの「小人ナヌス」と呼ばれた種族は、恒人メネルと、名乗るようになる。

 エルフは魔術師を敵対視しているし、魔術師はエルフを恐れているはずである。特に長寿であるエルフは、過去を大切にし(あるいは引きずり)、メネルという種族自体を敵視しているということは、書物にははっきりと記されていた。

 それであるのにも関わらず、この二人の関係は良好に見える。

「あ、シアリスだ。おーい」

 トピナは寝起きの瞳にシアリスを認めると手を振ってくる。この能天気さが二人の関係を良好に保っているのかもしれない。

 エルフのオノンは、眉間の強ばりを指でほぐしながら、シアリスに向き直った。

「私たちはあなたに協力するわ。あなたには恩があるし、それほど凶悪な吸血鬼がいるのなら、放っておくわけにもいかないもの」

 シアリスは感謝の意を込めて頷いた。

「あなたならばそう仰って頂けると思っていました」

 トピナが欠伸を一つして、疑問を呈す。

「吸血鬼? そういえばシアリス、吸血鬼なんだって? あんたみたいな吸血鬼いるんだねぇ」

「トピナ。もうその話は終わったから」

「え?」

 オノンはトピナを置いて、話題を変える。

「もう一つ、あなたには聞いて置かなければならないことがあったの。と言うか本来、そちらが本題だったのだけど……」

「囮作戦のことですね。もちろん忘れていませんよ」

 色々ありすぎて忘れ去られてそうだが、シアリスたちは本来、オノンを狙う黒幕を炙り出すための作戦を行っていたのだった。

「オノンさまを襲った相手は正規軍でした。しかし、ただの正規軍ではありません。この街の守備兵に偽装した正規軍、という少し拗れた話なのです」

「正規軍に正規軍が偽装……。そんなのどうでもいい。誰をぶっ飛ばせばいいんだ」

 トピナが膝を叩いて急かす。

「クライドリッツ公爵ですよ、トピナさま。手を出すはやめた方が無難かと思います。公爵はこの国の五本の指に入る権力者、王家の血筋を引く者です。さっさと逃げた方が無難だと思いますが……」

 そう言い終えるか終えないかのうちに、にわかに外が騒がしくなる。何者かが大勢でこの冒険者商会に乗り込んで来たようだ。他の冒険者たちが慌てる音が聞こえるが、乗り込んで来た者たちはそれを無視し、階段を踏み叩く振動が届いた。

 シアリスたちの居る第二会議室の扉が蹴破られ、すでに抜刀している兵士たちがなだれ込んできた。この街の衛兵のようである。オノンもトピナも戦闘態勢を取るが、それが正規軍だと確認すると、すぐには攻撃しなかった。ここで暴れても多勢に無勢である。

 そのまま切っ先を突きつけられたシアリスたち三人に、隊長が言い放つ。

「精霊使いのオノンと、魔術師トピナだな。拘束させてもらう。抵抗せず武器を捨てろ!」

 どうやら黒幕は隠れるつもりすらなくしたらしい。秘密裏に拘束できぬならばと、堂々と捕まえにきた。

「随分と乱暴ですね。この街を救った英雄に対する態度とは思えませんが」

 シアリスは剣を突きつけられながらも冷めた声で言う。

「隊長。子どもも……拘束しますか」

 兵士が一瞬躊躇してから、命令を待つ。

「全員、拘束する」

 隊長は躊躇することなく告げる。

 オノンもトピナも大人しくしている。ここで暴れて脱出も可能かも知れないが、抵抗した時点で罪状は確定することになる。とはいえ、ここで抵抗しなければ、トピナやシアリスはいざ知らず、オノンの命はないだろう。

「罪状は」

 オノンが無表情に言う。

「……貴様たちは都市内に魔物を引き入れた罪に問われている」

 馬鹿な話しだ。余りにも突拍子もない。罪などどうでも良いのだろう。とにかく捕らえて、その後、何処かでにでもするのだろう。あるいは逃走したとでも言って、クライドリッツ公爵の手に渡るのかも知れない。

 シアリスが少し暴れるかと考え始めたころ、オノンが首を振った。

「分かりました。大人しく捕まります。それと私の武器はかなり貴重なもの。丁重に扱ってくださると助かります」

 オノンが弓と短剣を机の上に置くと、頑丈そうな木製の手枷を持った兵士が近付いた。何らかの魔術的な紋様が書いてある。特殊な拘束用の道具のようだ。特に抵抗することもなく捕まったオノンに倣い、シアリスとトピナも手枷を掛けられ、連行されることとなった。


 ◆


 かなり長く馬車に揺られる。

 何人もの唾が吐きかけられた、年季の入った生臭いずた袋を被され、手足を縛られ猿ぐつわを噛まされ、乗り心地の悪い荷馬車に揺られるのは、吸血鬼の体でも非常に不愉快である。このような連行の仕方には、誰を連れているか分からぬようにするためと同時に、虜囚の体力を奪い抵抗する気力を奪うという効果がある。

 オナイドの街の石畳の音が消え、土の道路を走っていた。この街の城に連れていかれる訳ではないことは、すぐにわかった。

 城門が開かれる音がして、乱暴に馬車が止められ、引きずり下ろされた。ロープで全員繋がれ、一列になって階段を降りる。徐々にカビ臭さが増していき、薄暗い地下牢へとたどり着いたようだ。

「おい、下がっていろ!」

 兵士の声が聞こえ、鉄の擦れる音が聞こえた。シアリスのずた袋と手枷が外され、背中を乱暴に押される。冷たい石畳の牢の床に体を打ち付ける迫真の演技。幼気な少年がそのようになれば、誰か手を貸そうとするものだが、残念ながら牢にいる先客には通じなかった。奇妙な呻き声のあと、悲鳴に近い叫びを上げる。

「待て! 待ってくれ、看守! こいつは別の牢に入れてくれ、頼む‼」

 鬼気迫る声は聞いたことがある。ルシトールである。

「黙っていろ!」

 看守が鉄格子を棍棒で叩くと、地下牢中に甲高い音が響く。嘆きを無視して、看守たちは鍵を閉める。トピナとオノンだけは手枷を外されず、動き辛そうにしていた。

 広々とした牢は虜囚を入れておくと言うよりは、戦時に捕虜を収監しておくためのものである。ここは城塞の地下なのだろう。向かいの牢も同様の構造となっており、オノンとトピナはそちら側に入れられた。ムシロも敷かれていない気遣いのされた部屋だが、男女を分けるくらいのことはしてくれたようだ。

「これはこれは、ルシトールさんではありませんか。これ程早く再会できるとは、思ってもいませんでした」

 シアリスは裾の埃を払いながら、ニヤニヤと言う。ルシトールは何も言わず、牢の隅でシアリスを睨んだ。ただでさえ危険な存在のシアリスであるし、いつ暴走するかもわからないと思っているのだ。

 ルシトールがいるならば、その連れの女が二人いたはずだから、向かいの牢に二人先住民がいるのかと思っていたが、シアリスの入った牢のほうが二人いて、向かい側には一人、ミラノルとか言う少女が入れられていた。

 恐らくは、この少女が吸血鬼を混乱させる力の持ち主である。今この場でシアリスが理性を失う可能性もある。そうなれば武器も持たないこの場の全員が死ぬことになるだろう。

 こちら側の牢のもう一人は誰なのかというと、体格の良いルシトールとは真逆の男である。このようなには見覚えがないが、その顔には見覚えがあった。一昨日の夜、パーティ終わりの吸血鬼退治の際には家政の着るドレス姿であったはずだ。今は狩人の着る、丈夫そうなシャツとパンツに身を包んでいる。確かに線が細く顔立ちは中性的で、女性と言われれば女性であり、男性と言われればそう見える。

「……吸血鬼か」

 彼はシアリスを見つめ独り言ちる。

「今日は可愛らしい格好ではないのですね。先日は自己紹介もできず、申し訳ありませんでした。ルシトールさん、紹介頂いても?」

 シアリスは、反対の牢の格子を掴みこちらを食い入るように見つめる少女と、中性的な男を指して言う。ルシトールが躊躇していると、先に少女の甲高い声が上がった。それはほとんど歓声に近い。

「すごいすごいすごい! ねぇ、わたしを見ても何ともないの? どうやってるの⁉」

「ミラノル、騒がないでくれ。こいつを刺激するな……」

 ルシトールがいつでも飛び掛かれる体勢で言葉を絞り出す。この男は小心だなと、シアリスは口には出さない。この状況でシアリスが暴れれば、どうやったって助かりはしないのだ。それをこいつはわかっているのに、最後まで抵抗するつもりなのだ。そういう男だからこそ、生き延びてこられたのかも知れない。

「ルシトール、彼と素手で殺り合うのは無理だ。諦めろ」

 中性的な男がルシトールを宥める。その声まで中性的であった。優男が名乗る。

「自分の名前はエヴリファイ。そちらの子はミラノルだ。シアリス・オルアリウス」

「ご紹介、痛み入ります。どうぞ、シアリスとお呼びください、エヴリファイさま、ミラノルさま」

「さま、なんていらない」

「わかりました。ではそのように」

「わ、わたしもミラノルって呼んで!」

 シアリスは頷く。短い会話だったが、エヴリファイの方が、肝が座っているようなので、ルシトールより話しやすい。いちいち話の腰を折られるのは面倒だ。だが、彼の話し方にはなにか違和感がある。その表情もどこか心ここに在らずと言った様相である。

「ねぇ、あなたが吸血鬼って本当なの? わたし、こんなに近くで話せるなんて初めてで……」

 シアリスは人差し指を立てて口の前に添える。

「あまり大声では……」

「ああ、ごめん。そ、そうだよね……」

「あなたたちはどのようなご関係なのでしょうか。三人で吸血鬼狩りをなさっているのですか」

 シアリスは思っていたことを述べる。ミラノルが鉄格子に齧り付くようにこちらを見ている。

「そうだよ。三人で、狩猟商会で働いているの。ねぇ、シアリスってやっぱり長生きしているの? 百年くらいは生きてる?」

「いいえ、ミラノル。僕はまだ二歳にもなっていません」

「二歳……⁉ じゃあ、わたしと同じくらいなんだ。おじいちゃんみたいな喋り方だから、てっきり年寄りなのかと……」

「おい、そんなことを話している場合か」

 ルシトールが割って入る。彼はなるべく情報を渡さないように心掛けているから、彼女の年齢の違和感なども質問されたくないのだろう。ミラノルが狩人商会員だと言ったときも、話を遮ろうとしていたのは気配でわかった。それにミラノルも気が付き、ルシトールを睨みつける。

「ルシトール、あなたは不公平だよ。シアリスは自分のことを明かしたのに、自分は何も言わずに出てきたなんて。あなたがそんな人だったなんて、わたしは不満だよ」

「いや、それとこれとは話は……」

「別じゃない。だいたいこんな貴重な機会を逃して、どうするつもりだったの? 協力的ななんてこれから一生掛かっても会えないよ。むしろ捕まって良かった。こうしてシアリスと話せる時間できたからね」

 ルシトールはシカめ面で黙り込む。大きな男が女の子にやり込められているのは、なにかのカタルシスを覚えるシアリスである。牙というのは、たった今ミラノルが考えた、吸血鬼を示す隠語だ。彼女は一息ついてからまた話し出す。

「わたしとエヴィはホムンクルスなの。エヴィが一番年上なんだけど、ルーシーが長男ってことになってるのよ。そういう設定ね。その方が違和感ないでしょ。小さな古代のアトリエでルーシーに見つけられてから、三兄弟っていうことにして生きてきたんだ」

 エヴィはエヴリファイのことで、ルシトールはルーシーと呼ばれているようだ。彼女は饒舌に喋る。どうも興奮しているらしい。吸血鬼と話せることがそんなに嬉しいのだろうか。

「ホムンクルス……? 本当か?」

 そう言ったのはトピナである。シアリスはホムンクルスという言葉に聞き覚えがなかったが、トピナの反応からするに、魔術関連の言葉のようだ。

「ああ、ごめんね。喋ってばっかりで……。ほら、吸血鬼に襲われてばかりだったから、こうやって喋れるなんて思ってなかったのよ。それより、どうしてあなたは襲いかかってこないの? 今、かなり我慢してる?」

 色々疑問をぶつけたいが、途切れずに質問をされてしまう。

「いいえ。おそらく僕は今、完全にメネルの状態ですので、問題ないのだと思われます。前回は少しだけ牙の力を使ったがために、暴走状態となってしまった……のだと思います」

「そういうこともできるんだねぇ。確かに今まで会ってきたのとは違うみたい」

「今は問題ないようですが、僕にあなたのその力を使わないでいただけると助かります。そうなれば、ここにいる全員を殺すことになってしまう」

 シアリスは心配そうにうつむく。ミラノルが悲しそうに言う。

「ごめん、シアリス……。それはできないの。わたしの力は操れるものじゃないんだ。だから、あなたが吸血鬼の力を使うと、影響を与えてしまうかもしれない」

 ミラノルが本当に残念そうに言うので、彼女が吸血鬼とすき好んで戦っているわけではないということが伝わってくる。できるならば、戦いたくないのだ。影の力を常に使わないと体を維持できない従徒は、彼女を襲ってしまうことになる。

「疑問があるのですが、収集家コレクタルを初めて見つけたとき、どうして逃がしてしまったのですか。その力があれば、逃亡できないのでは……」

 ミラノルは相手が吸血鬼だと判って力を発動するのではないとするなら、彼女の力に囚われたときには、既に吸血鬼は暴走状態にあるはずだ。

「ごめん。それも正直、わかってないの……。確かに、初めて収集家と会ったとき、あいつは襲いかかってきた。けど、逃げられたの。丁度、収集家を倒したときのシアリスみたいに……。もしかしたら、わたしの力が弱くなってるのかも」

「そうは思えないが」

 最後はエヴリファイである。彼らもミラノルの力について理解しているわけではないのだ。吸血鬼にとっては迷惑極まりない話である。

「ホムンクルス……、アトリエを守っているヤツらとは大分違うな。ヤツらはもっと……、感情のない人形のようだったけど」

 そう言ったのはトピナである。どうやら彼女たちにもこのことは話してなかったらしい。トピナはとても興味深げにミラノルを観察している。ミラノルはまじまじと見られ、少し照れたように顔を逸らした。

「わたしたちは特別だからね。ねぇ、エヴィ」

 エヴリファイは何かを言おうとして止めた。完全に肯定できる話ではなさそうだ。

「無知で申し訳ないのですが、ホムンクルスとはなんなのでしょう。人、ではないのですか?」

 シアリスには聞き覚えのない言葉だ。

「ホムンクルス、知らない? ほら人造人間的なアレだよ! なんか液体の中で、裸でプカプカしてて、ちょっと気持ち悪い感じの……」

 ミラノルが説明しようとするが要領を得ないため、トピナが説明する。

「魔術によって造られた、人型をした魔物、と言うべきだろうか。人間の形をしていなくても、知能が人間に近かったりすると、ホムンクルスと呼ばれたりもするが。アトリエを守護するために造られた、人造の魔物のことだ」

「その、こういうのは失礼な話かもしれませんが、アトリエから出てきたということは、知能を持った出土品アーティファクトと考えれば良いのでしょうか」

「うんまぁ、そんな感じかな」

 シアリスが思うところの、クローンかアンドロイドのようなものなのかと理解する。化学で造られた人間と魔術で造られた人間との違いはあるだろうが、似たような発想で造られたものだ。

「つまり、あなたたちは……、吸血鬼を狩るために生み出された、ということなのですか」

「んー、それはわかんないね。生みの親は多分ずう~~と昔に死んでるし。でもまぁ、多分そうなのかもね。だって吸血鬼に近付いただけで襲われるし」

 話がひと段落したところで、シアリスはもう一つの疑問を投げかけた。

「では、エヴリファイが、女装していたのは……?」

「似合うでしょ?」

 それだけの理由だった。エヴリファイは特に気にする様子もないので、ホムンクルスには性別がないのかもしれない。

 後で聞いた知った話だが、ホムンクルスはアトリエから離れると死んでしまうらしい。感情のないホムンクルスはアトリエの維持管理を行うために、古代魔術師が作り出した便利な道具でしかないのだ。トピナやオノンは、アトリエ探索をすることが生業だから、ホムンクルスと戦うこともしばしばあるのだという。そういったホムンクルスとは全く別の目的で造られたミラノルたちは、確かに特別と言えるだろう。

「話は終わったか。そろそろ本題に入らせてくれ」

 ルシトールが話の合間を見極めて言う。ミラノルが不満気な声で返す。

「本題って何」

「今、この状況だよ! どうしてオレたちは牢屋に入れられてる」

「それについては私に話させてくれ」

 オノンが静かに口を開いた。

 クライドリッツ公爵に命を狙われていること。おそらくだがエルフを食って永遠の命を手に入れたいと考えていること。ルシトールたちは完全に巻き添えだということを謝罪した。

「それでオナイドの城じゃなくて、ここに連れてこられたわけか。けど、オレたちまで捕まえる必要あるのかよ。意味がわからねぇ」

 シアリスが話し手に変わる。

「おそらくは体裁を整えるためでしょう。オナイドの街はクライドリッツ公爵の直接の支配領ではありませんから。ここで私兵を動かせば、例え配下の土地でも権利の侵害になり、貴族たちから批難を受けることは必至。しかし、反逆の罪を着せられた者は、直接、王による裁きが下されます。伯爵より地位の高い公爵の手に、対応を委ねられてもおかしくはありません。何人か捕まえておけば、誰が何をどのようにしたのか、有耶無耶ウヤムヤにできると考えているのでしょうね。魔物騒ぎの場に居合わせたものを全員捕らえることで、真実を隠そうとしているのではないでしょうか」

 ルシトールが大きなため息をついた。

「つまりオレたちは、反逆者?」

「そうでしょうね。ここで逃げても追跡され、拷問の末、さらし首でしょう」

「はぁ……。どうしてオレはいつもこう……、運がないんだ」

 盛大に嘆く。

「いちいち大袈裟なのよ。ルーシーはさ」

「死ぬかもしれないんだぞ? 死ぬかもしれないんだぞ⁉」

「うるさいぞ! 黙ってろ‼」

 看守室の扉の小さな覗き窓から、看守が叫ぶ。ミラノルたちは押し黙ったが、すぐに声を潜めて話し始める。

「……なんか、ルーシーが死んじゃいそうぉ」

 どうやらミラノルはルシトールをからかって遊ぶのが趣味のようだ。しかし、本当に彼女はホムンクルスなのだろうか、人間でも生まれてすぐにはここまで情緒が育つことはないのに、人形と称されるようなホムンクルスが、これほど感情豊かになるとは考え難い。エヴリファイは確かに作り物のような気配がするのに、ミラノルからはそのようなことはないと言うのも、シアリスの違和感に拍車を掛ける。

 そんなことを考えていると、看守室の方が騒がしくなる。この牢屋には看守室を通らないと入ることはできない。内扉と外扉があり、分厚い扉を二枚潜らないと通過できない造りだ。

 外扉が開かれ誰かが牢に入ってくるのが聞こえた。ミラノルたちは扉の方に視線を向けた。

 数人の兵士を伴って入ってきたのは、豪奢な衣装を身にまとった初老の男である。たっぷりの髭を蓄え、つばの広い帽子を被ったその姿は、いかにも魔術師然としている。シアリスはその顔に見覚えがあった。ミクス伯のパーティが始まったばかりのとき、クライドリッツ公爵の名代として現れた、公爵付き魔術師のノルバクスである。

 牢の前で立ち止まったノルバクスはオノンたちの方を向く。シアリスに気付いた様子はない。彼は少しの間、主要貴族にだけ挨拶して、早々にパーティを辞したので、シアリスとは挨拶すらまともにしていない。顔を覚えられている心配はないだろうし、今のシアリスは薄汚れた貧乏一家の息子といった風貌だから見抜くことは難しい。

「精霊使いのオノン。出ろ」

 兵士が牢の扉を開けると、別の兵の一人が言う。オノンはゆっくりと立ち上がると、扉に近付いた。トピナも立ち上がろうとするが、他の者は動くなと怒鳴られる。構わず格子まで近付いて、ノルバクスの顔をまじまじと見つめる。

「久しぶりだな、ノルバクス先生。ずいぶんと老けたようだ」

「問題児オルセウス。いつかやらかすとは思っていたが、魔物を街に入れるとはな。期待通りに失望させてもらえたよ」

 オルセウスはトピナの家名である。トピナが魔術学校に在学していたとき、ノルバクスは教師として在籍していた時期があった。魔術学校の数は多くはないので、国内にいる魔術師はそのほとんどが顔見知りであったりする。

「あんた、学校では不死性の研究してたな。それで合点がいった。だけどエルフを食べたって、不老不死なんかになれはしない」

 ノルバクスは片眉を上げて、その言葉を飲み込むように聴くと、少し間を開けてから顔を上げて笑い声を上げた。

「エルフを食う? 野蛮な発想だな。これだから冒険者などになる変人は困る。まぁ、ここで大人しくしているのだな。事が終われば、五体満足で出られるだろうよ」

 オノンが牢から連れ出されるのを見届けて、ノルバクスは話を切り上げようとした。オノンがノルバクスを睨め付けて立ち止まる。

「それで? 私はこれからどうなるのかしら」

「……」

 ノルバクスはその問いには答えず、彼女の体を下から上へ舐めるように眺める。

「怪我はしていないようだな。よし、連れて行け」

 牢の鍵が閉められ、オノンは引き摺られるように連れて行かれる。トピナは訳の分からない抗議の言葉を姿が見えなくなるまで叫んでいたが、内扉が閉められとすぐに黙った。それからシアリスを見て口を開く。

「それで? これからどうする?」

 打って変わって冷静である。シアリスは、こういうときの彼女は猪突猛進になるのかと思っていたから、少し意外に感じたが、彼女は魔術師であり、命懸けの探検を何度も熟している有名な冒険者であることを思い出した。

「ここで手をこまねいていては、オノンさまの命はない……。我々は人質の意味もあるのでしょうね。……トピナさまは魔術が使えない状況なのですよね?」

 確認をする。シアリスはこういったときに使われる道具などに詳しくない。魔術が使える者自体が少ないし、出会ってもの大抵は殺してしまうため、拘束することはない。

「見ての通りだ。トピナも同じだろうな」

 彼女の手に嵌められている手枷は、魔術師などを拘束するための道具なのだというのは予測できていた。トピナの魔術も、オノンの精霊術も封じられてしまっているのだ。

「僕がここで力を使えば、脱出することは可能ですが……。ミラノルの力で暴走することになる。ミラノルは力を抑えることはできないのですよね」

 ミラノルは肩を落として頷いた。

「ごめん……。力を使いコナせていたら……」

「いえ、気にしないでください。ルシトールさん、エヴリファイ、何か策はありませんか」

 エヴリファイはルシトールに目配せして、何かを確認する。ルシトールは黙っているが、何かを考えている様子だ。

「何かあるんですね?」

 シアリスがそれを察知する。だいたい考えていることはわかる。シアリスに情報を渡したくないのだ。彼らを説得するために、シアリスは言葉を続ける。

「無理やり脱出すれば、国から追われる立場になるかも知れません。ノルバクスは無事に出られると言っていましたが、あの様子では我々を生かして返すつもりはありませんよ。それに、あなた方は収集家コレクタルとの戦いで、オノンさまに助けられていますよね。このまま諦観テイカンを決め込むつもりであれば、人でなしのまま処刑されることになりますよ」

 吸血鬼に人でなし呼ばわりされたルシトールは顔色を変えた。今にもシアリスを殴り倒したいといった表情だ。だが、彼も馬鹿ではない。慎重に考える性格なだけだ。言われたことは理解している。しばらく腕を組んで黙っていたが、額に血管を浮かべて覚悟を決めた様子だ。

「牢を開けることはできる。エヴィがな。そのあとどうするのだ。看守室のあの扉はこちらからは開かないぞ」

 確かに内扉は分厚く、反対側から閂を掛けられており、普通の体当たりではどうすることもできない。

「それについては考えがあります。この格子さえ何とかしてもらえれば」

 シアリスは簡単に言ってのけるが、どうするつもりなのかルシトールは問おうとして止めた。聞いたところで何になるものでもない。

「エヴィ、頼む」

「わかった」

 牢の隅に座っていたエヴリファイは、ゆっくりと起き上がると鉄格子から外に手を伸ばす。扉に付けられている頑丈そうな錠にその手のひらをあてがうと、何かをする。

 シアリスの位置からはよく見えないが、手の動きがおかしくなり皮膚が波打ち、回転するのは見えた。ガチャリ、という音とともに、錠前が外れる気配がする。エヴリファイは静かに錠前を取り除くと、格子から手を引き抜いた。頑丈な錠前は破壊されることもなく、その手に握られている。

「素晴らしい。皆さん、格子から僕の様子を見ていてください。看守から姿が確認できるように」

 何がどうなったのか気になるが、今は訊ねている時間はない。シアリスは牢に中から看守がこちらを見ていないかを確認すると、扉に手を掛けた。扉は錆ており、動かせば大きな音を立てるが、シアリスはそれをゆっくりと持ち上げるようにして回避する。小さい体がギリギリ通れるくらいの隙間を開けるとそこから滑り出し、開けたときと同じ要領で扉を閉めた。看守室の覗き窓からは死角になる扉の前まで忍び足で近付いた。

 看守室の内扉をノックする。聞き間違いだと思われないように三回叩いた。中で驚いて椅子が倒れる音がする。

「だ、誰だ!」

 看守の一人が中から叫ぶ。どうやら見張りは二人居るらしい。

「すみません。お話があるのですが」

 シアリスがそう言うと、看守は慎重に覗き窓から牢の方を見るが、誰もいないために眉を顰める。

「こっちです、こっち。下です!」

 視界に入らなったシアリスは手を振りあげてアピールする。看守はシアリス以外の人間が牢にいることを確認すると、シアリスを見下ろす。

「貴様、どうやって抜け出した!」

 シアリスは耳を塞ぐ。

「そんなに大声出さなくても聞こえますって。実はご覧の通りなのですが、あの鉄格子、僕の体ならすり抜けますよ。それは少しまずいのではないですか」

 適当なことを述べる。年齢の割りには小さなシアリスでも、さすがに鉄格子を抜け出せるわけがない。だが、実際シアリスは牢の外にいるのだから、看守からしたら信じざるを得ない。幼い子どもだけが外に出ていることに安堵したのか、看守は「待ってろ」とだけ言うと、内扉の鍵を開け始めた。

 扉が開いた瞬間、シアリスはその隙間に身を滑り込ませると、飛び上がり看守の耳の穴に人差し指を突き入れる。浮き上がった体を捻り、力尽きた看守の体を足場にして跳ぶ。その勢いのまま、もう一人の看守の首に踵を叩き込む。その間、約一秒。剣を引き抜こうとしていた看守は、明後日の方に曲がった首を垂れ下げて、床に弛んだ頭部を叩きつけた。

 シアリスの体が扉の奥に消えた瞬間、ルシトールとエヴリファイは牢から飛び出し、徒手空拳でも戦おうとしたのだが、その必要はなかった。駆けつけたときには看守室は制圧されており、シアリスは既に看守の腰の鍵束を漁っていた。

「お前……、殺す必要があったのか」

「……彼らは悪人です。容赦する必要はありません。ああ、拷問して情報を引き出した方が良かったですか」

「いや……、まぁいい。それより本当に吸血鬼の力を使っていないんだよな」

 ルシトールが疑わしげにシアリスに問う。

「もちろんです。とはいえ、人体の能力を限界まで引き出していますから、あなた達が霊薬を飲んだときと、同等くらいの力は出せますよ」

 ルシトールはうすら寒そうに身を震わせた。死体から鍵束を奪ったシアリスは、トピナたちの入っている牢屋の扉を開けた。ミラノルとトピナも外に出る。しかし、トピナの手枷に合う鍵はなく、魔封の手枷から解放することはできなかった。シアリスは手枷を剣で断ち切るかと訊ねるが、トピナは拒否した。

「無理やり外すのは危険そうだ。そういったときのための魔術も掛けられている。炎上か、爆発か……、少なくとも無事に済むようなものではなさそう」

「どうしますか。ここで待っているという選択肢もありますが」

「そんなつもりはない。ノルバクスの首くらい、魔術がなくてもへし折れる」

 確かにその腕なら折れそうではあるという感想は置いておいて、シアリスはミラノルに近付いてみた。ミラノルはそれに気付いて顔をこちらに向ける。武器や鎖瓶薬を漁っていたルシトールがそれに気付き、声を上げた。

「おい、何をしている!」

 シアリスはその声を無視して手を前に出し、ミラノルがその手を取るのを待った。ミラノルも何気なくその手を取ると、シアリスはヒザマズいて、その手の甲に口付けした。そして、顔を上げるとミラノルの顔をまじまじと見つめた。

「どうやら触れても問題なさそうですね」

「その実験⁉ 今するの?」

 少し顔を赤らめたミラノルが呆れたように言う。

「離れろ!」

 ルシトールがその間に文字通り割って入った。子どものカップルの間に割って入る大男という構図に、トピナが吹き出した。ミラノルはそれにも呆れて天井を仰いだ。ルシトールは年齢の割には老けて見えるので、兄妹と言う設定より、父子のほうが違和感はない。

「ルーシーさ。嫉妬するのもわかるけど、ちょっと露骨過ぎない?」

「なんで、そうなるんだ! 俺はお前を守ろうと……」

「はいはい。オノンが心配だよ、急ごう」

 反論を封じられてルシトールは後頭部を指で掻く。ミラノルが生まれ落ちたときから、ルシトールは彼女に口で勝てたことはないのだった。


 ◆


 オノンの予想とは裏腹に、扱いは丁寧なものだった。

 連れてこられた場所はどうやら湯浴み用の部屋らしく、大きな湯船に花びらの浮かべられた湯が張られており、何人かの家政が準備をしていた。手枷をしたままでは服をぬがせられないと年配の家政がノルバクスに言うと、彼は服は鋏で切るようにと言う。仕方なくという風に家政が鋏でオノンの服を切ろうとするのだが、ノルバクスとそのお付の兵が部屋から出ていこうとしないので、年配の家政が濡れたタオルを武器にして彼らを追い払った。ノルバクスと兵士たちが部屋から居なくなると、家政たちはオノンの服をゆっくり、怪我をしないようにと切ろうとした。

「あなたたちはこれから何が起こるのか、知っているの?」

 オノンが問うが、家政たちは答えず、申し訳なさそうに目を伏せた。喋るなと命令されているのだろう。

 オノンの手足は細く、その肌はキメ細やかな紗のように滑らかである。彼女を見た者はよく勘違いをするのだが、その膂力は大の男でも敵わぬほど力強い。彼女はエルフなのだ。メネル族とは身体の出来が違う。本来、知識豊富な魔術師ですら、そのことを忘れてしまうのは、エルフとメネルが交流を絶って、三千年もの月日が流れたからだ。今のメネルの世に、エルフ族について詳しい者など全くいないと言っても過言ではない。

 要は、オノンは良くアナドられるのだ。見た目はか弱そうな女にしか見えないのだから仕方ないのだが、それが悪く働くときもあれば、良い方向に作用するときもある。そして、今は後者だ。ノルバクスはこの手枷を掛けたことによって、エルフを無力化できたと思い込んでいる。これを利用しない手はない。

 家政は四人。

 オノンは何気ない様子で横にいる若い家政の後ろに回ると、手枷をされた腕で器用に首を絞める。血液が突然止まったことにより、脳がショックを起こし若い家政は一瞬で気絶した。服を鋏で切ろうとしていたもう一人の家政は何が起きたか理解できぬまま、その顎を回し蹴りが綺麗に掠め、身を投げ出す形で倒れ込む。もう一人の家政は悲鳴をあげようとしたが、その口を手で塞がれ、鳩尾に鋭い膝蹴りを喰らい、その激痛で意識が遮断される。

 年配の家政が助けを呼ぼうとドアを開けようとしたが、ドアノブに鋏が突き刺さり、手を離した。その家政の背後に回ったオノンは囁く。

「声を上げたら、首の骨を折る」

 その声の迫力に、恐怖で染まった年配の家政は、自分の口を押さえ、従うことを身振りで伝えた。

「なんだ。なんの音だ!」

 不審な物音に気付いた、外で待っている兵が言う。オノンは年配の家政に誤魔化すように言う。

「な、なんでもありません。床が濡れていて倒れただけです」

「……そうか。気をつけろ」

 兵士が警戒を解いたのを気配で感じると、家政の首に手を添えながら誘導する。湯船の湯をかき混ぜて音を立てさせる。

「質問に答えたら無事に帰れるよ。他の者も皆生きているけれど、あなたが暴れればどうなるかわからない」

 年配の家政は震えながらも湯をかき回して、オノンの言葉に何度も頷いた。

「ここにはクライドリッツ公爵も来ているの?」

 家政は頷く。

「どこに居る?」

「四階の一番奥の部屋に……」

 その言葉だけ聞くと、オノンは家政を絞め落とす。

「ごめんなさい」

 倒れる彼女をゆっくりと床に寝かせると、少し考える。

 黒幕である公爵はここにいる。おそらくノルバクスがソソノカして、エルフを狙ったのだろう。まずは目的である公爵にお仕置するか。先にトピナたちを助けに行くか。いや、トピナたちに助けは必要ない。彼女たちならば自分のことは自分でなんとかする。それよりも自分のことだ。

 ドアの外には兵士と魔術師がいる。手枷には鍵穴は無く、繋ぎ目もない。何らかの魔術によって構成されている特別製だ。この手枷によって精霊術は封じられており、自力での解除は困難である。

 地下から来て三つの階段を登ったことから、この三階の部屋であることはわかる。窓の外はそれなりの高さがあるものの、オノンの身体能力ならば飛び降りることは可能だ。しかし、窓には鉄格子が嵌められており、密やかな脱出は難しい。

 さて、どうしたものか。と、誤魔化すために水音を立てながらドアの様子を伺っていた。すると何やら外が騒がしくなる。兵士が何かを叫び、ノルバクスが言い返している。慌てて駆け出す複数の足音。下階で何が起こったらしい。もちろん何が起こったかは、考えるまでもない。トピナたちが大人しくしているはずがないからだ。

 残った兵士はおそらく二人か。オノンはドアに突き刺さった鋏を引き抜く。それを武器に勢い良く扉を蹴飛ばし、部屋の外に飛び出した。兵士は、驚きはしたものの流石に警戒していただけあって、最初の手枷を武器にした一撃を手で防がれる。もう一人の兵が抜刀しようと柄に手を掛けるが、そこにオノンの倒れ込みながらの蹴りが差し込まれ、利き手の骨が砕ける音が響いた。兵士はその勢いで壁に後頭部を打ち付け、悲鳴を上げる間もなく気絶する。倒れ際、持っていた鋏を一人目の兵士の足甲に突き刺す。体重を乗せた鋏はブーツを貫通し、兵士の足を床に縫いつけた。決して深く刺さってはいないが、一瞬その動きを止めてくれれば良い。激痛と混乱で抜刀し損ねた兵士は、オノンの床から振り上げられた踵に顎を砕かれ、そのまま昏倒した。家政たちへの一撃と違い、容赦はない。

 倒れた兵士から剣とナイフを奪う。室内警備のために短めの片手剣に持ち替えられており、オノンの小さな手でも使いやすいのが幸いだ。ついでに胸元に掛けられた鎖瓶薬を貰い受けると、五本のうちの一本を飲み干す。回復力と持久力を上げる霊薬だ。鎖瓶薬に入っている霊薬は、メニル用に調剤されたもののため、エルフの体には効果が薄い。その中でも比較的効果があるものが、体力を回復させるものである。

 他のものは捨て置くと、オノンは階段を探す。廊下には他に見張りの兵士は見当たらない。兵士の数もそう多くはないのだろう。この城に連れてこられた移動時間から考えれば、ここはクライドリッツ公爵の直接の管理下にある城ではないだろうから、それほど多くの兵士を配置しているとは考え難い。

 ほとんど警戒せずに廊下を徘徊し、階段を見つけて登ってみる。段差で身を隠しながら、上階の様子を伺ってみる。四階は三階に比べて小さなもので、短い廊下に三つの扉があるのみである。その一番奥の荘厳な扉に二人の兵士が立っている。下の様子を伺いたくて仕方がないといった様子で、なにやらそわそわと話し合っている。下階から響く戦闘音は少しずつ大きくなっており不安感を煽るが、彼らは持ち場を離れるわけにはいかないのだ。ほかの部屋の中にも召使などがいる可能性はあるが、自分の領地から離れたこの城に、そう多くの側仕えを連れてきているはずもない。仮にいたとしても非戦闘員だろう。

 そう判断するとオノンは堂々と階段を登りきる。片手に抜き身の剣を持った少女にも見える女が階段を上ってくる光景に兵士らは一瞬息を飲むが、すぐにそれがエルフだと気が付いて抜刀する。

「とまれ!」

 そう言われて止まるのはまじめな者だけだろう。走り出したオノンを見て、一人は慌てて鎖瓶薬を飲もうとするが、その隙を見逃すほど甘くはない。手に持った剣を横向きに投げつけると、兵士は避けるために鎖瓶薬を飲み干せなかった。剣を手放したのを好機と見たもう一人の兵士が、オノンとの距離を一気に詰め、二歩分の距離からその剣を振り上げる。見事な一撃である。向かい合って距離を詰めあった者同士であれば、切っ先が相手を切り裂くだろう。狭い通路での下から振り上げる袈裟斬ケサギりであることも、避けることを困難にする。オノンはそれを避けようとはしなかった。

 手枷で繋げられた両手を掲げ、その剣の軌道を手枷で遮る。少しでも間違えば手を切り落とされる行為だ。手枷は魔術によって補強されているものの、所詮は木製である。十分な速度に達した金属製の刃であれば破壊できる。

 オノンの目論見通り、手枷は両断された。もし、この兵士が霊薬を飲んでいれば、さすがのエルフであっても見切ることはできなかったはずだ。すぐに距離を詰め、得物を手放すことで敵の攻撃を誘ったのだ。手枷にはトピナが警戒するような、無理やり外そうとすれば発動するような罠はなかった。オノンはそれに気が付いていたわけではない。上手くいったのは僥倖だった。

 手枷によって速度を落とした斬撃は、オノンの頬の皮膚を薄く切り裂いたのみとなる。後ろに飛び退いた彼女は、手のひらを二人の兵士に向ける。

「精霊さん、お願い!」

 オノンの声が廊下に響いたときには、兵士たちの体は突風によって浮き上がり、廊下に置かれた調度品とともに、奥の扉を打ち破って吹き飛んだ。オノンは精霊の怒りを感じる。手枷によってオノンとの繋がりを封じられたことに怒っているらしい。その真心にオノンは感謝すると、奥へと進む。兵士たちは壁に打ち付けられ、完全に伸びている。先ほど投げた剣が、壁と扉の間に突き刺さっていたので、それを引き抜いて扉の奥へと進んだ。

 暗い室内は広く、荘厳な扉に負けないほどの豪華さである。中には大きめのテーブルと何脚かの椅子。そしてその奥には、シャの掛けられた大きなベッドが鎮座チンザしている。それであるのに掃除は行き届いておらず、異様な臭気が部屋に充満していた。そのベッドの上で何者かが蠢いている。

 肉塊だ。暗闇のベッドの上に肉塊が蠢いている。それは定期的に動き、何かに覆いかぶさっている。白く細い何かが、ベッドと肉塊の間から伸びているのが見えた。人の脚だ。それは肉塊の動きに合わせて前後に揺れるものの、その動きには血の気がない。それが女の脚であり、肉塊のものではないことは判った。徐々に暗闇に目が慣れて、肉塊の全容が明らかになる。

 それは人の背中だ。分厚く垂れ下がった脂肪、それを包むために伸びきった皮膚にはシワが少なく、筋肉のつなぎ目だったであろう部分に、溝が暗く落ち込んでいるのみである。かろうじて人の形を保ったそれには、きらめくものが無数に見える。瞳かと思ったがそうではない。それは透明感のある宝石である。オノンは装飾品に身を包んでいるのかとも思ったが、それも違った。装飾品であるならば、宝石にはそれを体に繋ぎとめるための金属や紐など台座が必要であるのにも関わらず、その宝石にはそれらがない。分厚く垂れ下がった皮膚の表面にめり込むように、肉体に直接張り付いているのだ。

「魔物……?」

 思わず声が漏れる。肉塊の定期的な揺れが止まった。

「なんだ……。さっきから騒がしい」

 そういった声色はまるで楽器のように美しかった。それが醜い肉塊から発せられていることを認めるには躊躇いを覚えるほどだ。

「なんだ⁉ ここには誰も入れるなと言ったであろう!」

 肉塊がゆっくりと頭であろう部分を傾けた。オノンはその動きを見たことで、ようやく何が起こっているのか理解する。宝石を纏った肉塊は、ピクリとも動かぬメネルの女に乗りかかっていた。扉が吹き飛ばされても気にせぬほどに、それに夢中になっていたらしい。それから発せられた怒声に、オノンは我に返る。

「あなたがクライドリッツ公爵?」

 その声に少し驚いたように肉塊が震える。

「誰だ」

 オノンはどうするべきか戸惑ってしまう。いったい何なのだろうか、これは。

「……私はオノン。あなたが探していたエルフよ」

 肉塊の頭が持ち上がり、振り向くのがわかる。それが歓喜の表情に歪んでいるのが見えた。太く縄で占めた子豚のような腕には、白く生気を失った女の頭が握られていた。明らかにそれからは命が抜け落ちている。

「おお、おお、エルフか! ようやく仕事を果たしたか。でかしたぞ、ノルバクス。おお、おお、美しい娘ではないか。話に聞くよりも美しい。よくやった……、よくやっ……」

 肉塊はオノンが一人で立っているとは思いもよらぬようだった。だが、ようやく状況を理解したのか、人のものとは思えぬ顔色を、さらにどす黒く変えて叫ぶ。

「なんだ。ノルバクスはどこだ! 誰か、だれか居らぬか!」

 その叫びは空しく響き、誰も駆けつけない。オノンは片手剣を持ち直すと、クライドリッツを睨みつける。

「話を聞くだけに済まそうと思っていたけれど、どうやらそれ以上のことが必要そうね」

 ベッドの上で懸命に逃げようとする肉塊は、その体重と柔らかなシーツと女の死体に動きを制されて、もがく。そして死体と一緒にベッドから転がり落ちた。


 シアリスたちは初めに駆け付けた数人は対処したものの、その後に駆け付けてくる兵士たちに大いに苦戦を強いられてしまう。こちらは戦える者は三人に対して、相手は三十人ほどの人数がいるのだ。クライドリッツ公爵は、この城砦に小隊規模の兵士を連れてきていたらしい。これは公爵の護衛としては少ないくらいだが、生け贄を扱う邪法を行う前提で連れてきた護衛ならば、内部告発の可能性を考えれば多いと言えるかもしれない。

 狭い通路にて囲まれるのは防いぐことで、兵士たちは攻めあぐね、膠着状態となる。武装も整っていない脱獄囚に後れを取ることは兵士の沽券コケンに関わる。そもそも兵士たちは交代でこちらの体力を削り、霊薬の効果が切れるのを待てば良いのだが、たった数人に対して騒ぎを長引かせるなどあってはならないことだ。

 というのが、シアリスの用意した状況である。

 そもそも兵士たちは気付いていないが、鎖瓶薬による運動能力の底上げをしているはルシトールのみである。確保した鎖瓶薬は、看守から奪った二つと最初の奇襲で奪った二つの計四つ。霊薬の効果は一つにつき、約十五分なので一時間は効果を絶やさずに戦い続けることができる。もっともそんなに長く戦うつもりはない。要は兵士たちをこちらに引き付け、可能ならば魔術師であるノルバクスも引きつけることができれば、オノンは必ず脱出するというトピナの言に従った作戦だ。オノンさえ脱出してしまえば、あとはどうとでもなる。皮算用ではあるものの、それを成せるほどの実力をオノンは備えていることを、誰も否定しなかった。

 戦えるのは、シアリスとルシトールとエヴリファイの三人しかいない。

「がんばれ~!」

 ミラノルは呑気に後ろで応援するばかりで、トピナは手枷をつけたままボケーとしたまま、部屋の隅で戦いを眺めている。

 問題が訪れたのは戦い始めてから、最初の兵士が後退したときである。兵士たちは既に七人ほどが戦闘不能に陥っており、兵士たちはたったの数人を制圧できないことで、焦りを覚えていた。叱責を覚悟で上司に報告に向かった判断は悪くない。遅すぎる判断だが、シアリスたちにとっては悪くない判断だった。

 そして、慌てて駆け付けたのは、部隊長と魔術師ノルバクスである。

 魔術師というのは敵対するものにとって、とても厄介な存在だ。遠距離からの防御不能の攻撃、接近すれば罠に近い攻撃・防御、味方の能力を向上させる支援・回復の魔術。魔術師のよって得手不得手はあるものの、前衛を務める兵士に、後衛の魔術師という状況は、この時代の戦いでの鉄板と言える戦術である。魔封の手枷を付けられたままのトピナを見た兵士たちは、焦りつつもどこか舐めている。

 ノルバクスがやってきた今、この虜囚たちはお手上げだろうと兵士たちの間に安堵感が生まれる。その一瞬の気が緩んだ隙に、シアリスたちは後ろに下がり、奥の来客室になっている部屋に籠もり扉を閉めた。

 こんなものは意味のない行為だ。強化された兵士たちにこの程度の扉、打ち破れぬわけもなく、ノルバクスが呪文を唱えれば、部屋ごと吹き飛ばすであろう。兵士たちの間に失笑に近い空気が流れる。そのとき、突如として屋敷中に響き渡る轟音が部屋から発せられる。部屋の中で何が起こったのかと、すぐに突入しよう先頭の兵士が扉を蹴破った。後ろに押されるがまま、部屋に入った兵士は、そこに有るはずの床を踏み損ねバランスを崩し、悲鳴を上げて下階の床に叩きつけられた。

 部屋の中の床は崩れ落ちていた。ここは二階の部屋であるから、一階へと抜け落ちていたのである。上階の床は軽量化のため木製とはいえ、重装の兵士たちが何人乗ろうと崩れないよう、頑丈に設計されている。それをここまで徹底的に破壊するには、並大抵の力では及ばない。

 この事態に気が付いたのは、指揮官である部隊長であった。

「退避! 退避しろ!」

 そう叫んだときには、既に遅い。兵士たちがいた廊下の床は、シアリスたちがいた部屋から崩壊を始め、部屋を仕切る重い石の壁も伴って、二階部分は落下していく。筋肉の塊である兵士が折り重なって落ちていき、崩れた石の壁はその兵士たちを襲った。いくら霊薬で強化していようとも、これにはひとたまりもない。

「ちょっと、崩しすぎではありませんか」

 埃を払い除けながらシアリスは煙に向かって言う。そこには咳き込むトピナの姿があった。その手には既に手枷はなく、自由の身となっている。彼女の魔術の破壊力は凄まじいものであったが、ここまでとはシアリスも予想していなかった。

 どうやって手枷を外したのかというと、牢を抜け出したすぐ後のことである。手枷をどうにかしようとするトピナを見て、ミラノルが言い出す。

「それ、どうにかできるかも知れない」

「どうにか?」

「うーんと、多分だけど、簡単な魔術だから、文字を書き換えれば、はずせるかもしれない」

 この魔封の手枷は、出土品を模倣したものだ。トピナも、他の魔術師も、この手枷に書かれた紋様を理解しているわけではない。そういった効果がある、といった漠然とした理解のもと、模倣し使用している。それを簡単だと言い切るミラノルに、トピナは食いついた。

「古代魔術の知識があるのか?」

 トピナの興味が目的より手段に移ったのを見て、シアリスが軌道修正を図る。

「危険ではありませんか。無理に外せばどうなるかわからないのでしょう」

「そうかも」

「いや、やってみてほしい。すぐに見せてくれ」

 危険かどうかは二の次である。ミラノルが手枷に触れるのを見て、興味津々といった感じで見つめるトピナ。そして、結果は見ての通りである。トピナは手枷から安全に解放され、魔術の使用を許されたのだ。

「この城が脆いんだ。あたしは別に……」

 地響きが異様に続き、さすがにその様子に恐怖を覚え始めたころ、エヴリファイの声が響いた。

「集まれ! ここだ!」

 トピナは揺れる床を這うようにして、声のもとに急ぐ。ミラノルとルシトールが伏せるようにしているのを見つけ、トピナも同様にする。それとほぼ同時に地響きが最大なり、土埃で何もかもが見えなくなる。ミラノルとルシトールの叫び声が、聞こえたような気がするが、崩壊の音がすべてをかき消した。

 

 ノルバクスは崩壊する天井から逃れるため、後ろに下がった。しかし、床が崩れ始め、逃げられぬと悟った彼は、防御のための魔術を使い、周囲に防壁を張る。大質量には無意味かもしれないが、うまく力を受け流せば生き延びられるはずだ。複数の防壁をタイミングよく作成し、大きな瓦礫はいなす様に斜めに受ける。この瓦礫で屋根を作れば、さらに強固にできる。こんな使い方をしたことはないノルバクスであったが、経験と勘を頼りに、魔術を繰り返し放つ。

(オルセウスの問題児が……。このボロ城で、破壊魔術を使えばどうなるかくらい、少しは考えろ‼)

 怒鳴りたくなる感情を抑え、意識を集中し、瓦礫ガレキを選り分け、カワしていく。集中していたノルバクスは、自分の足元に小さな人影があることに気が付かなかった。


 ◆


 時間を遡り、夕刻。

 オナイドの街にいるオルアリウス家の筆頭執事は、あらゆる手を使って情報を集めていた。シアリスの置き手紙を頼りに、ウルトピーノなる人物を探した。そして、デラウにも報告を怠らなかった。と言っても、置き手紙には夕食までには戻る旨と、父には内緒にして置いて欲しいと書かれていたため、報告は夕刻の夕食前にしてしまった。

 叱責を覚悟したが、デラウは気にする様子もなく、報告を促した。

 シアリスはウルトピーノなる人物に会いに行き、姿を消した。その人物が居たであろう冒険者商会の支部にて、兵士が何人も突入し、彼女を捕らえたと言う噂もあった。捕らえられたものの中には、子どものように小さな人物もいたとのことだ。

「申し訳ありません。わたくしの責でございます」

 筆頭執事は再度の謝罪をしたが、デラウは許すとも叱責することもしない。

「出掛ける。付いてこい」

 それだけを告げると、筆頭執事と二人の側近の兵士だけを伴って屋敷を出る。デラウが馬首を向けたのは、ミクス伯爵の屋敷である。先日のパーティから二日、今は静かなものであった。デラウは馬を降りると取次ぎを待つことなく、大扉を勢いよく開ける。そして、ホールで叫んだ。

「ケーヒト・ミクス伯爵! られるか!」

 いったい誰が殴り込んできたのかと、兵士たちが飛び出てくるが、デラウの姿を見止めると儀礼に沿って敬礼する。しかし、軍人として尊敬されるオルアリウス伯爵は、それを気に留めることせず「ミクス伯は?」とだけ言う。兵士や家令たちが困惑していると、慌てた様子でミクス伯爵がホールに現れた。

「デラウ殿、如何なされましたかな。私はここに居りますぞ」

 デラウはミクス伯に一歩近付く。

「ケーヒト殿、手短に用件を述べさせていただきます。私の息子をどこにやりましたか」

 挨拶も無しにそう告げたデラウに、ミクス伯爵は困惑した。デラウの筆頭執事が進み出て、事情を説明する。

「なるほど。では城に連絡して、シアリス殿がいないか牢を確認しましょう」

「すでに確認しました」

「そうでしたか……。では、ウルトピーノと言う人物を探し出し……」

 すると衛兵隊長が進み出て、ミクス伯爵に耳打ちするように言った。

「ウルトピーノとは……、トピナ魔術師のことではないでしょうか」

 その言葉を聞いて、ミクス伯爵の顔色がみるみる青褪アオザめていく。その変化は心臓発作で倒れるのではないのかと思えるほどだ。デラウの嗜虐心シギャクシンがムクムクと頭をもたげた。傍から見れば息子のことに心を痛める父親に見えたことだろう。

「ケーヒト・ミクス。今、私は気が立っている。慎重に言葉を選べ」

 デラウが一歩近付いた理由が兵士たちには解った。自らの得物の間合いに、対象を収めたのだ。対象とは彼らの主人であるミクス伯爵である。まだ彼は抜刀していないが、ひとたび攻撃に移れば、誰にも止めることはできない。国家最強とも呼ばれる戦士、デラウ・オルアリウスとの戦いになるかもしれないという緊張が、ホールにホトバシった。


 オノンは剣を持ち上げると、その切っ先で肉塊を薄くなぞる。肉塊はそれから逃れようと身を引くが、残念ながらそれだけではこのユルんだ皮膚は刃を逃れることはできなかった。痛みで情けなく悲鳴を上げるクライドリッツ公爵に、オノンは口を鳴らして黙らせる。

「情けない。人間をやめても、痛みに弱いなんて。それでも貴族なの?」

 刃で刻まれた皮膚はひび割れるが血は流れない。亀裂からはどす黒く形容しがたいうねる蛆虫のようなものが溢れ出し、亀裂を覆うとそれを元の形に戻していく。

「血肉袋かと思ってたけど、蛆虫の袋だったのね」

 ベッドから転がり落ち、壁に張り付いて逃げようとする肉塊の脚に、剣を突き立ててその体を縫い留める。

「ぎゃああああ‼」

 絶叫が響く。

「早く話して」

「何を……、なんなんだ!」

 オノンは再度、ゆっくりと質問した。

「私の、弟は、どこ」

 水底のような冷たい声色でエルフは言う。

「お、弟? 何のことだ! 知らんぞ。わしは知らん‼ ノルバクスがやったことだ!」

 オノンは突き刺した剣を抉るように捻りつつ引き抜く。間髪入れず反対の脚に突き刺す。掠れた絶叫が城中に響いて、異常に気が付いた兵もいるだろうが、部屋を訪れる者はいない。

「ねぇ、そういうことが聞きたいんじゃない。言葉は慎重に選んで。私の弟をどこへやった!」

 クライドリッツ公爵は激痛に耐えながらも、それから逃れるために思考を巡らせる。

「わかった……わかった、待て。そうだ! エルフだな。エルフを捕らえたことなどないぞ! だからお前の弟など知らん……! お前の弟を捕らえていたなら、お前を追う必要などないだろう!」

 なるほど確かに、とオノンは一瞬考えたが、別に必要なのは一人とは限らないのだから、この肉塊の嫌疑は晴れないと思い直す。

「だから何なの? 知らないのなら知っていることを話しなさい」

「何が知りたいのだ! 私が知っていることなど……ぎゃっ!」

「ここで何をしていた。エルフを狙う理由は?」

 オノンは踵を肉塊に叩きつけるが、脂肪に弾かれてそれが効果的なのか判らない。それどころか体のどの部分を踏みつけたのかも判断がつかなかった。とりあえずグニグニのそれをねじるように踏みつける。

「わかったっ! 言う! だからやめてくれ!」

 この肉塊は本当に痛みに弱いらしい。情けない声を出しながら、身を捩ることしかできない。体を縫い留めていた剣も引き抜いてやると、顔と思わしき部分から大量の体液を流してもうやめてくれと懇願している。息も絶え絶えといった様子で、クライドリッツ公爵はオノンの方を見た。

「エルフの体が必要なのだ。エルフの体を奪えば、わしは不老不死になれる! この体も必要なくなる……」

 ノヴァトラの盗賊たちが話していたことは、当たらずも遠からずだったということか。食べるのではなく、体を乗っ取るつもりなのだ。

「体を奪う? どうやって……」

「それは……」

 肉塊が突然膨れ上がり、腹である部分が縦に大きく裂けた。黒く蠢く体内をオノンに差し向けた。跳んで避けようとしたオノンであったが、突如崩れはじめた床に足を取られる。ほぼ同時に起きた不測の事態が、オノンを襲った。


 崩壊の波が収まったが、高く舞い上がった土埃はまだ少し舞っていた。徐々に美しい月が辺りを照らし、雲一つない夜空が広がる。いつの間にか日はすっかり沈んでいた。

 城壁まで崩れているのは仕方のないことだ。定期的に手入れはされていたとはいえ、この城はずいぶん前から使われておらず、城としての役割は終えていた。昔の大きな戦いの後、この城はほとんど打ち捨てられた状態だった。

「無事か」

 エヴリファイの声が聞こえた。トピナが顔を上げるのと同時に、ルシトールとミラノルも降り積もった埃の中から顔を出した。

「どうなってんの、それ」

 トピナは、エヴリファイが右手を上に掲げているのを見て言った。彼の右肘から上は、木の枝のように分岐し広がり、屋根のハリのような形となって瓦礫を支えている。彼がトピナたちを崩壊する城から守ってくれたのだ。

「身動きが取れない。この石をどうにかしてくれ」

 古い城であったがゆえに崩壊は全体に及んだが、幸いなことに上階にはあまり重い建材は使われていなかった。それでもエヴリファイが支える瓦礫には、巨大な切り出した大岩もある。トピナたちは枝の隙間から這い出すと、巨石を三人で何とかどかす。エヴリファイの腕は巨石から解放されると、鞭のようにしなって元の腕の形に戻る。

「その腕……、それで牢の扉も開けたんだな」

 命が助かった直後に、トピナがエヴリファイの変形する腕にすぐに興味を移すのは、さすがと言うべきだろうか。ルシトールは、呆れたような面白げなよう表情で、トピナを見やった。その後ろの瓦礫が崩れ、その下から何者かが出てくるのを見て、ルシトールは身構える。大きな瓦礫を押しのけて出てきたのはシアリスであった。その手には一人の男の襟首が握られており、やせ細った男は埃にまみれて、完全に伸びてしまっているが死んではいない。

「そいつはノルバクスか」

 トピナが言った。シアリスは埃で真っ白になったノルバクスを、片手で持ち上げて見せる。

「かなり貴重な体験でした。魔法の防壁を複数張って、瓦礫が直撃しないようにしていましたよ。あのように手足のように魔術を扱えるものなのですね」

 ちゃっかり他人の防壁内で無傷でやり過ごしたシアリスは、崩壊が収まるとともに、ノルバクスを気絶させたのだ。シアリスはノルバクスの服を脱がせ、それを使って手際良く、猿ぐつわを作り、手足の自由が利かないように縛り上げる。

 瓦礫がシアリスたちのところだけほとんどないのを見て、トピナは首を横に振る。

「そんな使い方できるのは、相当の使い手だけだ。普通に使っただけでは、こんな重いものを防御魔法では防げない」

 トピナたちの様子を見てシアリスは納得すると、自分の服に付いた埃を払った。

「さて、そうなると……、オノンさまは無事でしょうか」

 トピナは思い出したというように飛び上がって、辺りを見渡した。

「オノ~ン! どこにいるだぁ!」

 その声に反応したのかは分からないが、盛り上がった瓦礫の山の一部が崩れ、その下敷きとなっていたオノンが立ち上がる。彼女は瓦礫を投げて落とす。凄まじい怪力だがその力に耐えられなかったのか、彼女の左腕は明後日の方向に曲がり、力なく垂れ下がった。だが、すぐにそれは元の形に戻り、瞬間的な治癒を見せる。

「随分と散らかしてくれたな」

 降りてくるなりそう言うと、裾に付いた埃を叩いて落とした。

「待って待って! あたしのせいじゃないよ! やれって言ったのは、シアリスだから!」

「僕は床を崩してと言っただけです。全部崩せとは言ってません」

 丁寧に否定すると、トピナは何かまだ言おうとするも、オノンがそれを遮る。

「どうでも良いことだ。それでお前たちは何者だ。なぜここにいる」

 その質問にトピナたちは混乱する。シアリスはオノンの体にまばらに張り付いた輝石を見つけた。それらには宝石を固定するための台座はなく、皮膚の中に入り込んでいる。

「トピナさま、下がってください。どうやら彼女は、オノンさまではなさそうです」

 トピナがその違和感に気付いていないわけもなく、悪い足場を器用に跳んで、オノンらしき人物から距離をとる。

「何者なの?」

 トピナがエルフに訊ねる。

「よくぞ聞いてくれた。わしの名は、エタノリス・クライドリッツ。この国の王である。平服せよ、魔術師トピナ。許しを請うのであれば、この城の破壊のことは、目を瞑ってやろう」

 尊大な態度も話す内容も、いつものオノンではない。

「笑えない……。なんなの、こいつ」

 シアリスの記憶では、現クライドリッツ公爵は、エタノリスという名前ではなかったはずだ。さらに男性であったはずだし、少なくともエルフではありえない。ただ、クライドリッツ家は、公爵になる前は、小さな領地を持つ王家の一つであったことを思い出す。この国の王家との婚姻で、地位を約束され、公爵に治まったはずだが……。

「その姿……。オノンさまをどこにやったのですか」

 シアリスの問いにエタノリスはニヤリと笑った。

「オノン、オノンか。このエルフの名だったな」

 エタノリスは自らの体を指して言う。

「エルフの体は素晴らしい。メネルのものとは出来が違う。これでわしは完璧となった。これで……、わしは、わしは、永遠の命を手に入れたのだ! これでわしは、王も至れぬ力を手に入れた。世界を統べる神となったのだ‼」

「オノンさまの肉体を奪った、と? そんなことが……」

 そこまで言って、自分自身が本来の肉体に入っていないことを思い出す。

 一人で興奮するエタノリスを、冷めた目で見つめるトピナの後ろでルシトールが言う。

「こいつはリッチだ。他人の体を乗っ取って操る魔物だ。どうやらこの魔術師は、とんでもないものを呼び出していたらしいな」

 足元に拘束されて転がるノルバクスを指す。その言葉を聞いたエタノリスは、嬉しそうに不気味な笑みを浮かべる。

「よく知っておるのう……。その通り。わしはリッチとなり、長い時代トキを生きてきた。お前たちが考えも及ばぬほどの永い時間をな。ノルバクスはよく働いてくれたよ。そやつの知識は役に立った」

 など、デラウを知っているシアリスには失笑ものだが、今は横に置いておく。

 リッチとは、屍霊術シリョウジュツに傾倒した魔術師のなりの果ての姿である。屍霊術とは、魔術の一種で、死体や魂を操る術のことを指す。リッチは、その術を自分自身に使い、永遠に生き続けようとした魔術師が、肉体を失い、他者の体を乗っ取ることで生まれる魔物である。もともとの倫理観の欠如とともに、肉体を失った魂は壊れ、とても残忍で危険な魔物として、警戒されている。

「さて。お前たち、なぜまだ立ってお……」

 言い終えぬうちに、エタノリスは突然の嘔吐オウトをする。その口から吐き出されたそれは、黒い無数の粒である。長細いそれは瓦礫の上を這うように蠢き、隙間に入り込んで消えていった。三人はその異様さに動けずにいる。オノンを人質に取られているような状況なのだ。エタノリスは嗚咽オエツしながら、地面に舐めようとするかのように前屈みになった。嘔吐が収まると膝に手をついて起き上がる。

「くそっ、エルフめ……」

 口元を腕で拭いながら、不機嫌そうに何事かをブツブツとつぶやいている。シアリスは冷めた目で、エタノリスを眺め続ける。

(肉体が魂を受け入れていない……。まだ、あの体の中には、オノンはいる……)

 トピナはその隙に、ルシトールに聞く。

「あんたのその剣なら、やつを斬れる?」

 トピナはルシトールの剣について訊ねる。取り返したばかりのその剣は、ルシトール曰く、聖銀で造られた『不死斬り』である。リッチは吸血鬼とも並べて語られることもある、不死者と呼ばれる魔物である。不死斬りは、それら不死者を殺すために作られた魔剣であり、不死の根源である不滅の力を破壊すると言われている。

「斬れるかもしれないが……、オノンの姐さんも一緒に斬ることになっちまう。まずはやつを体から追い出さないと」

「どうやって追い出すんですか」

 シアリスが訊ねた。

「そ……それは……、多分、あの宝石をどうにかすればいいじゃないか」

 なんとも頼りない返答である。

「専門家じゃないのかよ!」

 トピナが言うが、

「吸血鬼の専門家だ。リッチのじゃねぇ!」

 と、ルシトールが返す。

「とにかくだ。あれが、あの宝石があのリッチの核だと思う。あれを破壊しない限り、やつは何度でも復活する。普通ならあんな風に体に張り付いてるものじゃねぇが……」

「どうやって、オノンの体から追い出すわけ」

「そんなもんはわからん! リッチ退治は兵士の仕事だ。商会でも専門家くらいしか詳しいことは知らねぇよ」

 リッチの数は少ない。しかし、厄介さでいえばリッチは魔物の中でも上位と言われる。それはリッチが、魔術を扱い、死体を操り強力な不死者の軍団を作り出し、その死者の兵が新たな死人を作り出し、軍団を大きくしていくからだ。一つの大陸を、死者の軍団で埋め尽くした、と伝えられているほどである。こういった騒動が過去にあったため、現在ではどの国も土葬ではなく火葬し、骨を砕いて地に返すことを、暗黙の上で決め事としている。

 つまりは初動が大切なのだ。リッチ本体が雲隠れし、強力な軍団が作られてしまう前に、駆除する必要がある。

 エタノリスはまた咳き込んでいる。

「とにかく、逃げるわけにはいかねぇ。姐さん方には悪いが、殺してでも止めねぇと……」

「けど、今なら操れる死体はないんだから、とにかく無力化できれば」

 ミラノルが言った。シアリスは話を聞いていたが、そう簡単な話ではないことはすぐに分かった。

「死体……、ありますよね。この下に」

 シアリスが足元を指して言うのと、同じくして周囲の瓦礫が持ち上がり始めた。顔色を悪くしてトピナとルシトールは、その下から現れたのは者たちを見る。瓦礫に圧し潰され、無惨な死を遂げた兵士たちが、光のない瞳でトピナを見ている。中には頭が潰れ、腕が明後日の方向を向き、上半身だけのものまでいる。

 暗闇の中、地面から這い出る死体の兵士たちは、見る者の正気を失わせる力がある。しかし、そこはその手のプロたちだ。トピナは破壊の魔術によって、這い出てきた死体が戦闘態勢になる前に、二度と動けないようにバラバラに破壊する。ルシトールは不死斬りを振るい、正確に死者の正中線上を切断し、完全に身動きを封じる。エヴリファイは腕を鞭のように変形させ、死体を遠くまで吹き飛ばした。

 動く死体は十数体程度である。大きな瓦礫の下敷きになり、身動きできない兵士たちもいるだろうから、この程度ならまだ問題ないとルシトールは考えていたが、ミラノルが袖を引っ張って後ろを見るように促してくる。

「ああ、これはまずいな……」

 崩壊した城の瓦礫の山から見下ろした先には、大きな平地が広がっている。そこにはこの城を廃城にしたであろう古戦場がある。その場所には、過去が蘇ったかのような光景が広がっていた。

 激しい戦のあと打ち捨てられた死体たち。すでに白骨化している死体の兵士たちは、錆朽ちた武具を手に取って立ち上がっていた。その数、およそ五百。もはや、数人で戦ってどうにかできる数ではない。

 その様子は壮観とも言える。月下に浮かび上がる、不気味な白骨死体の軍団。屍霊術師の力で蘇ったスケルトンの兵隊だ。

 こうなれば力を開放するしかないと、シアリスは覚悟を決める。ミラノルには申し訳ないが、死んでもらうことになるだろう。ミラノルと瞬間、目が合った。シアリスの考えが通じたのだろう。ミラノルはシアリスに一歩近づいて、その手を取った。

「わたしに……、わたしをオノンのもとに連れてって」

 その言葉を聞いたエヴリファイが、また一人の不死者を吹き飛ばしながら向き直る。

「ミラノル、まさか……。あの力は危険です。それにリッチに通用するかも……」

「わかってる! でも、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ‼ オノンを助けて、ここから逃げるには、これしかない」

「ミラノルの力を使えば、オノンさまを助けられるのですね」

 もし、その力に巻き込まれれば、シアリス自身もどうなるかわからない。ミラノルが吸血鬼か、あるいは不死者相手に特効を持つ力があるのならば、シアリスが近くにいることは、それもまた危険な行為である。

「シアリス……。多分……、ううん、絶対できる。信じてほしい」

 ミラノルには、これは自分にしかできないことだという確信があった。何かが自分を突き動かしている。これはホムンクルスとしての性質なのだろうか。何らかの作意が自分の中にある。だが、不快なものではない。

 ミラノルの真っすぐな瞳を受け、シアリスは頷いた。

「わかりました。信じます」

「どうせ死ぬなら、やれることやり切ってから、死のうぜ!」

 トピナが楽観的にいうので、その言葉につられてミラノルは少しだけ笑った。ルシトールは溜息をつくと、皆に告げる。

「試すだけ試すのはいい……。けど、他の誰かの命が危なくなったとき、オレはオノンを殺す。厳しいことを言うようだが……」

 トピナの顔色を覗う。だが、トピナは当たり前だと言うように言ってのける。

「わかった。そのときの判断は任す。あたしだといざとなったら、やれるかどうかわからないから」

 全員が頷いた。誰もやりたがらないことをルシトールは買って出たのだから、その覚悟を皆受け取ったのだ。

 シアリスとトピナが二人で道を開き、ルシトールとエヴリファイが後ろを守る。自然と生まれた隊列で、嘔吐に苦しむエタノリスに向けて前進する。まだ肉がついている死の兵たちは、文字道理、肉壁と化してエタノリスを守る。しかし、シアリスの神速の剣技と、トピナの破壊的な魔術を止めることはできない。ミラノルはそれに引き摺られる様に、一歩一歩進んでいく。エタノリスは距離を取ろうとするものの、体が言うことを利かないらしく、黒い蛆虫を吐き続けている。

 トピナの腕から発せられたイカヅチが、前を塞ぐ不死の兵たちを吹き飛ばした。一瞬、ミラノルとエタノリスの間に道ができた。その隙間に滑り込むようにミラノルは駆け出した。左右から不死の兵がそれを止めようと腕を伸ばすが、シアリスとルシトールが、それぞれ左右を守り、ミラノルに一切触れさせない。そして、ミラノルの小さな手が、オノンの額に触れた。

 瞬間、二人の間に、光が迸る。


 ◆


 騎士たちの先頭を走るデラウの剣は、まさに鬼神の如く冴えわたっていた。いつのも片手剣とは違い、愛用している騎馬戦用の大剣である。普通ならば片手で振り回せるものではないが、デラウはそれを棒切れか何かのように回転させる。

 デラウに付き従う兵士たちが、目の前にいる不死者の軍団にも、ひるまずに向かっていけるのは、デラウのその武勇に引っ張られているからだ。一撃で二・三体を吹き飛ばすデラウの剣を見て、兵士たちはいつもの数倍の力を発揮する。連れ従う二小隊・約五十人は、デラウの配下が十人、ミクス伯爵から借り受けた配下がほとんどである。そのいずれも精鋭であり、不死者の軍団にひるむことはなかった。

 それでも限界は存在する。人間は言わずもがな、走り通しである騎馬の体力は、限界が既に近い。このままではいずれスケルトンの数に圧倒されることとなる。すでに速度は落ち始めており、囲まれるのは時間の問題だ。

 スケルトンは不死者であり、血肉はなく、筋肉で動いているわけではない。骨格を利用して魔力による仮の魂を入れられ、意思を宿す。ただ斬り付けただけでは、動きを止めることはできない。骨を完全に砕き、脊柱セキチュウを破壊しなければ、延々と戦い続けることとなってしまう。デラウの大剣であればその重量によって破壊できるものの、他の騎士たちが持っている剣では、走る速度の落ちた馬上からの攻撃では、完全には倒しきることができなかった。

 乱雑に並んでいたスケルトンの軍団も徐々に隊列を整え始め、奥に進むにつれ騎馬隊を受け止める姿勢と成りつつある。このままでは身動きが取れなくなると感じたデラウは、馬首をり、走る方向を変える。正面から突撃するのではなく、斜めに走る。敵の隊列を撫でるように走り出した騎馬隊は自然と一列となり、前の味方が仕留め損ねた敵を、後ろの味方が仕留めていくというように、まるでのこぎりのように戦力を削り取っていく。

 防御側の隊列は、前方に兵力を集中させれば突撃に強くはなるが、横からの攻撃には弱くなる。現に砦へ向かう道は、正面は厚くなったものの、迂回することで厚くなった隊列を避けることはできる。しかし、まだ数百もいるスケルトンの軍団を突破するには至らない。それに砦へ辿り着いたとしても包囲されるだけだ。

 デラウは後ろにぴったりと付いてくる騎士の横に並ぶ。彼はいつもデラウに付き従う筆頭執事である。いつもは事務や予定の管理を行う彼だが、それは戦地にまで及ぶ。指揮官としてのデラウの右腕として、自身も戦士として戦うのである。

「私は徒歩で突破する。馬を頼む」

 端的な言葉を述べる主人を、執事は汗だくの顔で肯定する。まさかここで馬を捨てるなど普通の人間には考えられないことだが、デラウの武勇を間近で見てきた彼は、余計な質問などしなかった。

 デラウは馬上から跳び、スケルトンの群れに入り込む。執事はその姿が見えなくなるまで横目で追った。デラウが通り過ぎるところは骨片が散り、まるで小さな竜巻が舞うが如く、蛇行しながらも砦に向けて進んでいく。

 執事は騎馬隊の指揮を引き継ぎ、外側からスケルトンを削り取り、砦へ迂回して向かうことに集中する。彼にとってデラウが死ぬことなど想像することも難しいことである。それは正しく、例え何千の敵が相手だとしても、彼は必ず生還するのだ。


 ミラノルはゆっくりと目を開ける。暖かい日の光と爽やかな風が頬を撫でた。小川のせせらぎが近くで聞こえる。小鳥たちがせわしなく動き回り、小気味よい声で歌っている。

 自分は死んだのだろうかと思ったが、すぐに自分のやるべきことを思い出した。そして、この場所がどこであるかも。

 目の前に誰かが立っていることに気が付く。エルフだ。オノンだと思ったが、それは男である。彼が振り返って誰かに話しかける。話しかけられた人物の顔はカスミがかっており、よくわからないが、女性であることはわかった。おそらくオノン本人だろう。二人はオノンがパーティのときに着ていた、風変わりなワンピースを身に着けている。あの血にまみれて台無しになってしまった服は、オノンの故郷の服だったのかと思い至った。

(これはオノンの記憶? 彼はだれだろう)

 今、ミラノルに体はない。魔力のみで作られた姿が、ミラノルを象っている。魔力だけの存在とは、すなわち精霊である。ミラノルは精霊となることで、魔術を読み解き、それを破壊したり、学習したりすることができる。これをミラノルたちは精霊化と呼んでいた。どうしてこんなことができるのかは、ミラノル自身にもわかっていなかった。

 それはこの世の魔術師が垂涎するほど価値のある能力だが、同時にとても危険な力でもある。精霊となったあと、抜け出した体は完全に無防備になり、どんな刺激にも無反応になる。さらに精霊と化したミラノル自身も、あらゆる刺激を肉体という触媒を通さずに感じ取ってしまうことになり、精霊状態で攻撃を受けるようなことになれば、精神が崩壊する危険がある。

 前にこの力を使ったときは、起きた後も肉体と精神の乖離に悩まされ、手足は痺れ、食べ物すら碌に喉を通らず、眠ることすらできなくなった。衰弱したミラノルを助けるために、エヴリファイとルシトールはあらゆる手を尽くした。なんとか快復するも、この力は封印することに決めたのである。

 完全に肉体を抜け出すことは危険だが、体の一部を一時的に精霊化するというような使い方は、最小限のリスクで済むため今でも使っていた。トピナの魔封の手枷を外したのもその力である。封印することには決めたものの、その力を使わずにいられるほど、ただの子どもとしてのミラノルには、この世界は過酷カコク過ぎた。

 精霊化しエタノリスに触れたミラノルは、オノンの精神世界とも呼べる場所に入り込んだ。これはミラノルにとっても予想していなかったことだ。エタノリスによって乗っ取られた精神に対して、ミラノルの力は確かに作用した。オノンの精神に入り込むという、屍霊術の一種とも捉えられかねない効果を及ぼした。

 エルフの男がオノンに何かを言う。その声は袋の中でしゃべっているかのように掠れて聞き取れなかった。ミラノルが声に集中すると、徐々にはっきりと聞き取れるようになる。

「一緒に出ようよ、里から。オノン、一緒に行こう」

 彼はそう言った。顔はオノンにそっくりだが、声は男のそれであった。この男は、オノンの姉弟キョウダイ? ここはオノンの生まれた土地なのか。

「このままじゃエルフは……、この里は滅ぶ」

「どうしたの、ソラル。どうしてそんなこと言うの?」

 ソラルと呼ばれた彼は、懐から鎖に繋がれたペンダントを取り出す。鎖の先には、少し大きめの丸いチャームが付けられており、様々な模様が施され、地面に一番近い部分に小さな宝石が付けられている。それを中指に掛けて、地面に向けて垂らす。するとゆっくり揺れていたそれは、重力に逆らい、何かに引っ張られるように浮き上がる。

「それは?」

「面白いだろ、それに綺麗だ。精霊の力を使わずにこんなことができるんだ。しかもこれは、持ち主の思い描いた目的地を示すんだってさ。精霊にこんなことできないだろ? メネルたちはずっと発展しているよ。それなのに僕達エルフは、森の中で何もせずに過ごしている。いつかメネルたちはこの森に訪れて、僕たちを見て嘲笑うだろうさ。未開の部族がまだこんなところに住んでいた、ってね」

 ソラルの手に握られているものを、ミラノルは見たことがあった。羅針玉ラシンギョクと呼ばれる魔道具である。これは出土品ではなく、現代の魔術師が出土品を模造して作り出した品である。彼が言った通り、持ち主が念じた場所を示すものだ。魔術の道具らしく、本人のイメージに引っ張られるため、使い方には注意が必要だが、一度行ったことのある町などに向かうには、とても便利な品である。さらに地図の上で垂らせば、自分の位置を指し示すため、軍事・測量・行商においても重宝され、かなりの需要がある。ただし、手仕事にて作られる工芸品であるため、供給が追い付かず、かなりの高値で取引されるので、一般人が手軽に手を出せる品物ではない。

 ソラルはそれをどこでどうやって手に入れたのか。少なくともメネルの文明から離れていては、手に入れられるものではないはずだ。

「メネルって……、小人ナヌスのこと? それって、魔術……だよね。危ないものだって教わったでしょう」

「オノン、少なくともこれは危険なものじゃないよ。それに爺さんたちが危険なものだって言ってるのは、古代魔術のものだ。これは新しく作られた、まったく別の系統の魔術さ。ううん、ごめん。危険なものかもね。だって、これがあれば僕たちの里は簡単に見つかってしまうかも。使い方によっては、もっと……」

「ねぇ、わかってる? ソラルはその道具に取り憑かれているわ。その考えが毒みたいに広がって、森を出ようなんて言ってるんだわ」

 ソラルはオノンの言葉に虚を突かれたような表情をして、それから大声で笑い出した。オノンの表情はよくわからないが、その様子を見て憮然としているのがわかる。

「確かにそうだね。そうだよ。でも、これは毒じゃない。一度根付いた考えは、どんな薬草でも取り除くことのはできない」

 一頻ひとしきり笑い終えると、ソラルはオノンに向き合った。

「ここ数百年で生まれたエルフは僕らだけだろ、オノン。それも双子で生まれたエルフは、長老でも見たことも聞いたこともないって言うじゃないか。これはさ、エルフとしての種としての生存本能が告げているんだよ。このまま何もしなければ、緩やかな衰弱の中、悲惨な滅亡を迎えるって。だから僕たちは何かする必要があるんだ」

「ソラル……。それって、本音じゃないよね?」

「……」

「退屈な里から出たいだけでしょ。一人で出ていくのが不安なんだよね。お父さんお母さんが怒るのがわかってるから、面倒に思ってるんだよね」

「オノン……」

「二人で話に行こうよ。みんなに理解ワカってもらってから、里を出ればいい。正直に話せば、みんな理解してくれるわ」

「オノン。わかってないのは、君の方だ。絶対に老人たちは許さないよ」

 オノンはソラルを真っすぐ見つめ、手をとって言った。片方は顔が見えないものの、美男美女の双子のやり取りに、思わず見とれてしまうミラノルであったが、自分のやるべきことを思い出す。

 その場から意識を移すと、二人は霞となって消えた。

(幻影……。これはオノンの記憶なんだ。この幻影に構っていたら、時間がいくらあっても足らない)

 幻影は消えたが森は消えず、見知らぬ土地に独りとなったミラノルは、急に不安感に襲われる。あたりを見渡すと、木々の奥に何かが蠢くのを発見した。川のせせらぎに隠された、何かが這いずるような音が聞こえる。美しい森に似合わぬ不気味なその音が気になって、彼女は足を進めた。

 地面に暗い影が這っている。何かの刺激臭が鼻を突いた。不気味な音と異臭を放ちながら、黒い小川が森の中を這っている。ミラノルはさらにそれに近付いてみる。それは川なのではない。液体でもない。小さな黒い蛆虫のようなものが一塊になって行進しているのだ。エタノリスが吐き散らしていた、黒い液体に似ている。それは森の奥へ奥へと進んで、道のようになっている。ミラノルはそれを辿って、森の中へと分け入っていく。

 少し進んだころ、いや、何時間も歩いたような気もする。奥に進むにつれて、足が重くなり、進む速度が遅くなっていく。その代わり、なぜか意識ははっきりしていて、思考からノイズが除去されていく。肉体から意識が離れたことで、肉体から受ける様々な不要な情報がなくなり、思考のみに集中できるようになったのだと考え至る。

 黒い蛆の道を辿っていくと、急に開け、森は消えた。その先の草原に一本の大きなニレの木がソビえている。黒い蛆はその木に蛇行しながら向かっていき、その幹に縋りつくようにして巻き付いている。蛆は何とかして枝葉を覆いつくそうとしているが、小鳥や鹿、蛇や小さな昆虫、狼に熊など、本来、敵対しあっているような様々な動物たちが、蛆を大樹から引き離そうと奮闘している。

 この大樹を守らなければと直感的に感じたミラノルは、前に進もうとするが、自身に足がないことに気が付く。いつの間にかミラノルという形もなくなり、意識のみの存在となった彼女は前に進むことも後ろに下がることもできなくなっていた。

 黒い蛆虫は、大樹を完全に覆いつくすことは難しいと考えたのか、枝葉に纏わりつこうとするのを止め、根元の手前に水たまりのように広がり、何かを象り始めた。

「話したな。僕を裏切ったな。裏切ったな、オノン!」

 黒い塊はソラルの声で叫んだ。怒気をはらむその声に、動物たちは驚いたように蛆への攻撃を止めた。蛆で象られたソラルは、何者かに取り押さえられているかのように、両腕を背中側に高く掲げている。

(違う……、裏切ってない……。みんなにわかってもらえれば……)

 その声はどこか遠くから聞こえた。

「オノン、僕の分身。お前を信頼していたのに……。いつか必ず……! 必ず……、必ず……」

 その嘆きとも怒鳴り声とも思えぬ声が、広場に響き、大樹の葉が揺れた。

 別の声が聞こえた。いつの間にかソラルの後ろには別のエルフが立っており、その手には剣が握られている。

「ソラル。オノンはお前を裏切ったのではない。我々、エルフを裏切らなかったのだ。お前はまだ若い。これからもお前に蔓延ハビコった魔術は、お前をサイナみ続ける。だが、この足がなければ、旅に出ることはできまい」

 ソラルの後ろに立ったエルフの男は、剣を振りかぶった。声にならない悲鳴が上がった。それはオノンのものなのか、ソラルのものなのか。

 二本の足が空を舞い、絶叫が聞こえた。

 手を止めてそれを見ていた動物たちが、毛を逆立てて牙をむき出しにする。狼がうなり声を上げ、熊が野太い声で吠えた。剣を持ったエルフに次々に襲い掛かる。

(ダメ!)

 だが、その声は届かない。ミラノルは叫ぶことができなかった。

 無防備になった大樹の枝に、蛆虫が登っていく。作り出した幻影に数を取られているからか、その動きは先ほどより緩慢だが、このままでは大樹は完全に食い尽くされてしまうだろう。守っていた動物たちは、尋常ではない様子で幻影を襲い、その事態に気が付いていない。

 自分が何とかするしかないとミラノルは考えるが、まるで重い水圧で圧し潰されたかのように、体は動こうとしなかった。

 体がないのだから、動くことはできないのは当たり前だ。だが、どうして見たり聞いたりすることはできるのだろうと考える。体がないから頭が冴えるようだ。そう思った途端、声が出た。どうやら精神世界では、自身の体を意識して保たないといけないらしい。自分の体を思い出して、その形を作り出す。

 叫んで動物たちを木の守りにつかせようとするが、聞こえていない。足の裏を意識すると、地面の感触がわかった。前に進める。木の幹に絡みつく蛆の群れに手を突きこんで払い除ける。けれど焼け石に水だ。こんな小さな手では、何の意味もない。箒でもあればと思うと、なぜか手に箒が握られていた。ミラノルは一瞬、躊躇トマドいを見せるが、今はそんなことを気にしている場合でなはい。その箒で蛆虫を払って落とす。だが、そんなものでは足りなかった。箒はいつの間にかミラノルの手になっており、まるでエヴリファイの変形する手のようだと思った。意識が体から離れてそれがまた溶けてしまい、思考のみの存在となると、今度もまた頭が冴えてくる。

 そうこうしている内に、黒い蛆は楡の木を完全に覆いつくしそうだ。最後のチャンスだ。思考が加速していくのを感じる。この蛆虫をオノンから追い出すために、自分にできることは何か考えた。

 自分ができることは、魔術を書き換えること。今、自分自身が魔術なのだ。箒を生み出したのも、その力に違いない。ならばできるはずだ。エヴリファイの右手のように変形する。手だけでなく、体まで完全に変形し、この蛆虫を洗い落とせば良い。

 突如膨れ上がったミラノルの体は、陸上生活には適応していない姿となる。ミラノルが想像しうる水を称える大きな動物。この世界にはいないはずの伝説上の動物。

 クジラだ。

 巨大な白鯨が草原に唐突に現れた。大樹よりも大きなそれは、頭頂部に付いた穴から潮を一吹きすると、その巨大すぎる口の中から大量の水を吐き出した。もちろん本来の鯨という生物にそんなことはできないが、今のミラノルには関係がない。無ければ生み出せば良い。

 辺り一面が水に覆われ、黒い蛆は堪えきれずに流される。不思議なことに動物たちには、この水は当たらないらしい。

(流されろ! この世界の外まで!)

 ミラノルが一吠えすると、黒い蛆たちは力なく流されるままになる。

 そして、水を吐き尽くした彼女は、息が苦しくなる気がした。皮膚に焼けるような痛みが走り、目がかすみ始める。何とか泳ぎ出そうと尾を懸命に蹴るが、陸上では空しく体が跳ねるのみである。鯨と化してしまったミラノルは、人間としての知能を失っていた。

 力を制御できず、ただ陸に打ち上げられた魚と化したミラノルには、何もできることはない。

 

 ◆


 ミラノルがエタノリスに取り憑かれたオノンに触れた瞬間、二人は糸の切れた人形のように力なく瓦礫の上に倒れてしまう。その二人を守るために、シアリスたち四人はスケルトンを倒すことに集中していた。

「いつまで続くんだ!」

 ルシトールが悲鳴に近い声を上げた。シアリス、トピナ、エヴリファイはその声を無視して、自分の場所を守ることに集中する。彼らの周囲一面は、完全にスケルトンに包囲されており、逃げることも退くこともできない。城の瓦礫の足場の悪さが、スケルトンの行軍を遅らせており、たった四人による陣地防衛は何とかなっている。が、今にもその防壁は崩れ落ちそうである。

 スケルトンはほとんど腐った骨格だけの魔物という特性から、その重量は軽い。突撃してきても、払い除けるのは容易である。しかし、払い除けてもスケルトンは骨格の形を崩して、その衝撃を受け流す。しばらくすると、散らばった骨がまた集まって形を元に戻す。とどめを刺す方法として、脊柱を完全に踏み砕くというのが主流であるが、この状況ではそれをまともに行うことはできない。深い追いすれば、防御を崩すことになる。さらに厄介なことに、砕かれ使用できなくなった部分を、ほかの動けなくなった骨格から流用して動き出すという、共食い整備のようなことまでやってくるのである。

 一向に減らない敵の数に、ルシトールが嘆くのも無理はない。四人の体力は無限ではない。吸血鬼であるシアリスも、その力を使わぬようにしているため、無限に動き続けることができるわけではない。その中でも特に疲労しているのは魔術師トピナである。もはや魔術のストックは尽き、今は奪い拾った槍を振り回しているが、普段から使っている得物ではない。霊薬を飲んではいるものの、疲労は溜まる一方だ。

 誤算だったことは、ミラノルが触れた瞬間、すべてが解決するだろうと、甘い考えをしていたことだった。ミラノルもオノンも目を覚まさず、エタノリスの力によって操られているスケルトンは動いたままだ。

 シアリスの手の皮は、既にマクヤブれ、ほとんど残っていない。握力がなくなってきたのを感じる。このままでは数にされ、シアリスは死ぬことになる。そのまま死んだままでいれば、ミラノルの力で暴走することはないかもしれない。だが、暴走しないようにしていたのは、ミラノルたちを攻撃してしまわないようにしていたためだ。それでは本末転倒である。このままシアリスが倒れてしまえば、五人とも命はないだろう。一か八か、吸血鬼の力を使うしかないと思い始めていた。

 そろそろ戦い始めて十分は経つだろうか。ルシトールとトピナが飲んでいた霊薬の効果が切れた。なんとかその力で保っていた戦線が崩れる。一体のスケルトンが、這いながらその隙間を抜けた。錆びた剣をミラノルに突き下ろそうとするが、シアリスの切り払いがその上半身だけのスケルトンを吹き飛ばす。最早、剣に切れ味はなく、潰れた刃が骨を砕いた。

 そこからはもう瓦解するしかない。シアリスを狙った攻撃をルシトールが剣で防ぐが、その背中にスケルトンの錆朽ちた剣が振り下ろされる。ルシトールは倒れるも、なんとかミラノルを守ろうと、その小さな体を巨体で覆い隠す。

 シアリスは横薙ぎに、潰れた刃でルシトールを狙った二体のスケルトンを吹き飛ばすが、その刃も限界を迎え、根元からなくなってしまう。振り下ろされたスケルトンの剣を右腕で受けると、骨の砕ける嫌な音が響く。シアリスを狙った次の一体に、トピナの槍が振り払われものの、その力はなくスケルトンの胸骨に弾かれ、蹴散らすことはできない。エヴリファイの指が伸び、絡みつくようにして関節を破壊し、周囲のスケルトン動きを止めるが、苦肉の策である。

 四人の体に、刃物としての役割は既にないボロボロの剣が、幾本も振り下ろされようとした。

 刃が体に触れようとするとき、凄まじい突風が一帯を襲った。いや、これは風などではない。シアリスたちが感じるのは、周囲のスケルトンたちが砕け、切断され、舞い散るときの、衝撃のみである。

 その風が止んだとき、辺りのスケルトンは一掃されていた。

「よく耐えた。あとは私に任せるが良い」

 剣に付いた骨片と泥を払いながら、シアリスたちの前に立った男が言う。

「父上、ようやく来てくださいましたか」

 デラウ・オルアリウスは大剣を肩に置きながら、振り向いて訊ねる。

「ひとつ、聞かせて貰おうか。なぜ、屍霊術師の本体を守っている?」

 まだ身動きの取れるトピナとエヴリファイが、オノンとデラウの間に割って入る。

「ただの屍霊術師ではありません。リッチです。オノンさまがそれに取り憑かれ、助けるために守っているのです」

 シアリスが早口で言う。少し焦る。みな、デラウの正体を知っている。そのことをデラウに悟られれば、命はない。頼むからおとなしくしていてくれ。

「……まさか、てめぇに助けられるとはな。とにかく、礼を言うぜ」

 意外にも冷静だったのはルシトールだった。ミラノルに覆いかぶさっていたのを解き、起き上がりながら言った。

「ふん、我が子を助けに来ただけだ。お前を助けたのではない」

 内心を知ってか知らずか、デラウは冷徹だ。

「オノン……、エルフか。リッチに取り憑かれたものが生きているとは思えんが」

「いえ、エルフの生命力にリッチも苦戦していたようです。賭けではありますが……」

「良かろう。では、しばらくの間、スケルトンどもの相手は私が引き受けよう」

 デラウは目にも止まらぬ速さで走り出すと、近付いてきたスケルトンが何体も吹き飛ぶ。まさに無双の者だ。デラウは吸血鬼としての力を使わなくともここまで強いとは、シアリスも知らぬことであった。

 とりあえずシアリスは胸を撫でおろす。だが、安心はできない。このままミラノルが目覚めずにいれば、デラウは躊躇いなくオノンを殺す。しかし、今の自分にできることはない。シアリスはオノンの近くに座り込み、落ちている大腿骨ダイタイコツを拾って、折れた腕の添え木とする。デラウがスケルトンを逃すとは思えないが、なにぶん数が多い。トピナも体を引き摺るようにして、槍を杖にオノンの近くに来る。座らないのは、座れば立てなくなる気がしたからだ。唯一、まだ二足で立っているエヴリファイに、シアリスは訊ねる。

「こんなにも長く意識を失うものなのですか。今はどういう状態なのでしょうか」

 エヴリファイにも答え難い質問だったようで、首を横に振ると、知っていることだけを説明する。

「私たちはこの力を、『精霊化』と呼んでいる。前に力を使ったときは、一瞬で終わったが、今は何が起こっているのか……」

 そんな話をしていると、ミラノルの眉間に皴が寄った。まるで夢を見ているかのような表情だ。トピナが二人の様子を見て言う。

「オノンとミラノルの魔力のつながりを感じる。もしかしたら精神がつながっているのかも知れない」

 シアリスは少し考え、皆に言う。

「二人に呼びかけ、起こしましょう。このまま目を覚まさなければ、父はオノンさまを殺すでしょう。どんな状態であれ、意識を取り戻してもらわなければ……」

 ルシトールはミラノルの額を撫でると、シアリスを見て頷いた。


 ミラノルは声すら出せなくなる。皮膚が乾き、瞼を上げていることも億劫オックウだったが、その瞳に移るものが気になり、目を開けたままでいた。その視線の先には、ソラルが何も言わずに立っていた。彼の眼は鯨と化したミラノルを見ているが、その瞳にはミラノルは映っていなかった。ただ、オノンを思っている。

 眠ってしまおう……。

 自らの死を、ぼんやりとした思考で考え始めたとき、誰かが体を触った。鯨の巨体の脇に聳え立つ巨樹の枝葉が、乾燥した肌をやさしく撫でたのだ。この木はなんだったか、なんでここにあるのかと考えたが、思考が纏まらない。

 誰かの声が聞こえた。野太い声だ。生まれたときに、初めて聴いた声に似ている。だが、音を捉えるのも億劫だ。

「ミラ……ノル……」

 遠くから聞こえるその声が鬱陶しい。眠ることができない。今までピクリとも動かなかったソラルが、ゆっくりと振り返って腕を上げる。どこかを指差している。平原の向こう、空の切れ目に横向きの楕円の穴が開いている。

「ミラノル!」

「オノン、目を覚ませ!」

 別の声が聞こえた。誰の声だっただろう。ミラノルって誰? オノン? また木が揺れ、ミラノルの肌を撫でる。それどころか地面が揺れている気がする。

「ちょっと、乱暴じゃないですか?」

「お前が起こせって言ったんだろ! そんなこと言ってる場合か⁉」

「女性を乱雑に扱うのは……」

「あっちは、もっとすごいことしてるぞ」

 穴の奥でトピナがオノンの襟首を掴んで、片手を往復させて両頬をビンタしている。

(トピナ……、あとでオノンに殴られるよ)

 そう思って、自分が誰だったのかを思い出した。

(そうだった。こんなことしている場合じゃない)

 自分自身の姿に戻るときだ。

 意識を人型にする。考えるための脳をつくる。手をつくり、足をつくり、目を開けたミラノルはすぐに歩き出した。楡の巨樹に近付くと手を伸ばす。幹にへばりついて内部に潜り込もうとする、巨大な黒く脈打つ蛆虫をその手に掴む。蛆虫はこの世のものとは思えぬ悲鳴を上げ、黒い液体を吐き出す。ひどく不快な触感にミラノルは吐き気を覚えるが、我慢して幹から引き剥す。

 何か気の利いたとどめの言葉を叫びたかったが、出てきたのは何ともつまらない言葉だった。

「この……、害虫!」

 ミラノルは思いっきり振りかぶって、蛆虫を穴に向かって放り投げる。蛆は勢い良く、重力すら無視して一直線に飛んでいく。

 ソラルがその様子をじっと見つめていた。ミラノルは彼に近付くと、静かに礼を言った。

「ありがとう。おかげで自分を思い出せた」

 ソラルの反応はなかった。これはオノンの心が作り出した幻影なのだ。だが、さっきソラルはミラノルを助けてくれたような気がする。反応がなくとも礼を言っておきたかった。ソラルはまた指差した。空にある穴の先に、ルシトールが抱えるミラノルの体が見える。早く出て行けと言われている気がして、ミラノルは肩を竦める。

 穴の方に向かって歩き始めるが、しかし、かなりの距離がある。

(面倒だ。飛んでいこう)

 そう考え、自身の背中に翼を生やした。学んだことは、自身の形を完全には変えてはいけないということだ。形を完全に再現してしまえば、思考までも変身した姿に引っ張られてしまう。肉体の形と、思考は不可分なものなのだ。

 翼は生やしたが、別にその羽ばたきで空気を掻いて飛ぶのではない。ただのイメージである。ミラノルは空中へ飛び上がると、穴のほうに向かって飛ぼうとする。その背中に、ソラルの声が届く。

「シアリスは悪魔だ。必ず殺せ」

 えっ、と振り向いたときには、ミラノルの思考は、穴へと吸い込まれていった。


 突如、オノンが震え、体が起き上がったので、驚いてトピナは手を離した。オノンの口から生き物とは思えぬような不気味な音が聞こえ、黒い液体が溢れ出した。更にオノンは口を天に向け、何かの塊を吐き出す。それと同時に、全身に付いていた宝石が、灰となって消えていく。

 宙を回転しながら舞うそれは、重力に負け、大きな瓦礫の上に叩きつけられる。それは黒い液体にまみれた臓器。脈打つそれは人の心臓のようにも、ブクブクと太った蛆虫のようにも見える。丸みを帯びた部分が、ゆっくりと開き、震えた。

「誰ぞ、わしの……体を……」

 か細く聞こえる声で、それはしゃべった。よく見るとその背中の穴の中には、不規則に小さな歯が並んでいる。その少し上には眼窩のようなくぼみと、鼻のような突起が付いており、赤子のようにも老人のようにも見える、醜く不快な顔が付いている。

 オノンが地面に手をついて、咳き込んで喘いでいる。黒い液体を一頻り吐き出した彼女は、腕でそれを拭いながら顔を上げた。

 それと同じくして、スケルトンたちはまるで弾けるように崩れ落ちる。瓦礫の山を囲んでいた、五百以上ものスケルトンが一斉に活動を停止し、バラバラと倒れこむ様子は、どこか滑稽コッケイにさえ思えた。

「オノン、大丈夫か?」

 オノンの背中をさすっていたトピナが心配そうにその顔を覗き込む。

「ありがとう、オノン。何とか無事よ」

「……よかった。それにしても下手を打ったな。リッチに体を奪われるなんて」

「それについては言い訳もできない。それよりも、どうして頬がこんなに腫れてるの?」

 静かな怒りを感じて、トピナは逃げ出そうとするが、後ろ首を取られてそれは叶わなかった。

「わ、あっ! 落ち、落ちる‼」

 夢か何かを見ていたかのように、何事かを叫びながら飛び起きたミラノルは、彼女を抱えていたルシトールの顎に頭をぶつけて悶絶する。ルシトールも不意打ちを食らい、静かに顎を押さえている。座っていたシアリスはその様子を見て、一息つく。

「どうやら二人とも無事みたいですね」

 エヴリファイがルシトールに代わって、ミラノルに手を貸し立ち上がるのを手伝う。

「ここは……、現実、だよね。やった! 成功した‼」

 ミラノルは飛び跳ねて喜ぼうとするも、体に力が入らず、倒れこんでしまいそうになる。エヴリファイがそれを支えた。

「どうやら、今回は、力が残っているようだな」

 ミラノルが不敵に笑って言う。

「フフフ……、わたしはこの力をマスターしたわ。完璧に、ね。これでわたしは敵なしってもんよ!」

 興奮したミラノルはエヴリファイに体を預けて喜ぶが、近付いてきた人物を見て、身を固くする。

 デラウである。スケルトンが動きを完全に止めたことを確認していた彼は、ミラノルなど眼中にないといった風に、一瞥もくれずに横を通り過ぎる。そして、瓦礫の上に力なく横たわる、不気味に脈打つ肉塊を鷲掴ワシヅカみにして持ち上げる。

「……リッチか。それなりの生きている個体だな」

 黒い蛆虫は身悶モモダえして、その手から逃れようとするが、デラウの猛禽モウキンのように発達した指からは逃れることなど誰にもできない。シアリスはデラウが彼を潰してしまう前に、情報を伝えておく。

「その化け物は、自らをエタノリス・クライドリッツだと名乗りました」

 デラウはその言葉を聞くと、ふむ、と言って何かを思い出しているようである。

「確か、五代ほど前の公爵がそのような名であったな。歴史書には、エタノリス公爵が屍霊術師の討伐を行ったという記述があった。とても偶然とは思えんな」

 これは厄介な政治的問題を孕んでいる。もし一族から凶悪な魔物が出てしまえば、その高潔であるはずの血脈に疑問が生ずる。さらに屍霊術は、魔術師と敵対している。国がその術者に甘い対応をすることは、魔術師たちとの軋轢アツレキを生むことになる。そうなれば国家運営にも問題が巻き起こるだろう。同時に、公爵という王族の系譜に連なる大貴族を罰することになれば、国家自体の弱体化を招くことになる。国にとっては、どちらにしろ最悪の事態だ。

 デラウが考えていると、蛆虫は声を絞り出そうと呻いている。だが、握られた状態ではうまく声が出せない。デラウは手を開けると、それは糸を引いて瓦礫の上に落ち、悲鳴を上げた。

 デラウは剣を振り上げとどめを刺そうとするが、それを止めたのは一番の被害者であるオノンである。

「待って。そいつには聞きたいことがある」

 オノンはトピナの手を借りてよろよろと立ち上がる。デラウは手を止め、オノンを見た。

「これに答えられる能力があるとは思えんが……。なにを訊こうというのかね」

 オノンは何とか一人で立つと、デラウの足元の蛆虫を見る。近付こうとしないのは、賢明だ。

「私が……、ここに来るずっと前に、エルフがこの地を訪れたはず……、私の弟が……。どこに行ったか教えなさい」

 黒い蛆虫の落ちくぼんだ眼窩ガンカが、わずかに動いた気がした。口を動かし、何かをしゃべろうとしていたが、そこから出てくるのは黒い体液のみで、言葉らしい言葉は出てこなかった。

「無駄だな。肉体を失った者の言葉など、譫言ウワゴトのようなものだ。例え知っていたとしても、正しいことは聞き出せまい」

 デラウが剣を再度振り上げる。今度は誰も止める者はいない。自身の危険を悟ったのか、蛆虫はその体をくねらせ何とか逃れようとするが、もはや前に進むことすら叶わず、ただただウゴメき、吐き散らすだけである。

 だが、何を思ったかデラウの剣を振り下ろさなかった。その代わり、分厚いブーツを履いた足を蛆虫に乗せ、ゆっくりと体重を掛けていく。蛆は大量の体液を吐き出しながら、それでも死ねず、落ちくぼんでいた眼窩が内圧によって盛り上がり始める。すべての体液が体から吹き出し、声も出なくなるが、まだ絶命していない。苦し気な痙攣のみが返ってくる。

 デラウはようやく満足したのか、足をしっかりと踏み下ろした。嫌な音を立てて、蛆虫は瓦礫のただの染みと化した。デラウの表情はどこか恍惚としたような、艶美な笑みを浮かべていた。


 ◆


 戦いの後、シアリスら六人は騎兵たちの馬に乗せられ、深夜の平原を進んだ。馬たちも疲れ切っていたため、兵士たちは歩き、シアリス・ミラノル・オノン・トピナだけが馬に乗り、あとは徒歩である。エヴリファイはまだ歩けたので馬には乗らず、ルシトールも重傷だったが、馬に乗ると折れた骨が痛いと言って固辞した。頑丈な男だ。馬も彼の巨躯を乗せずに済んで、どこかホッとしているようである。

 そして一人、敵側で生き残った魔術師ノルバクスは、自ら置かれた状況を嘆いた。彼は戦いの後、忘れ去られていることを期待し、骨の間を抜けて逃げようとしていたが、残念ながらトピナによって取り押さえられ、首を絞められ気絶した。本当に首を折ってしまうのではと心配したが、トピナもそこまでの力は残っていなかった。行きはオノンたちが虜囚となり、帰り道はノルバクスが虜囚となるという、なんとも因果インガ道程ドウテイとなる。

 その後、要請していた応援の百人規模のオナイド防衛部隊が到着した。既にリッチは倒されたことを知ったオナイドの街の兵士たちは、話に聞くデラウの威光を思い知った。五百ほどのスケルトンの軍団だと聞いていたのに、たったの五十人程度で被害を全く出さずに、討伐を成し遂げてしまったのであるから、どう考えても伝説級の活躍だ。

 手持無沙汰となった増援の兵士たちに下された命は、後始末である。崩壊した城の周囲にある死体を回収し、然るべき処置をしなければならない。面倒ではあるものの、命を懸けて戦うよりは、随分と楽な仕事だ。

 六人のうち、エヴリファイ以外の五人は重症であった。ルシトールは背中の打撲に、肋骨の骨折。ミラノルは怪我こそないものの、まだ体に力が入らない。トピナは全身に擦過傷と、魔術師特有の魔力傷(魔術の反動によって、精神異常や傷を負うこと)を発症し、妙にハイテンションだ。シアリスは利き手の骨折と全身の打撲。オノンは衰弱が激しく、馬で運ばれているときも落ちそうになるので、結局、兵士が支えるために二人乗りすることになる。美人のオノンを腕の中に収めることができたのだから、兵にとっては役得だったろう。

 帰りはほとんど誰も声を上げることなく、深夜の街道をひた進む。オナイドの街に付いたときには、疲労困憊ヒロウコンパイが限界に達していた。

 普通であれば街の城門は日が落ちれば閉められ、許可なく開くことはないが、今回はその許可を出すミクス伯本人が門にいるのだから例外である。城壁の上では防衛の準備が整えられつつあり、すぐ内部の広場にも兵士たちが集結しつつあった。

 民間人たちも何があったのかと起き出しており、広場近くは昼間のよりも喧騒に包まれている。これにはウトウトしていたオノンたちも、目を覚ますことになる。

 先に戻っていた伝令により、屍霊術師撃破の報は届いていたが、デラウたちが戻るまでは準備は進められる。その報せのあと、何らか不測の事態が起こっている可能性もあるため、準備は止めないというのが戦の定石である。それでもデラウたちが街道の向こうに姿を見せたときから、兵士たちは手を止めてしまっていた。上官たちもそれをトガめようとはしなかった。

 デラウたちが門を潜ると、大歓声に巻き起こり、深夜にも関わずオナイドの街は興奮に包まれた。デラウが馬を進めると、その脇にいたデラウの筆頭執事が大声で告げる。普段は落ち着いた雰囲気で、大声など出さない男だが、こういったときには広場全体に広がるほどの大声を出せる。

「オナイドの街の諸君、我が主デラウ・オルアリウスは、この街の安全を脅かした、不死の魔物リッチを打ち取った! リッチに捕らえられた、その息子シアリス・オルアリウスも無事である。今夜はその武勇を語りつつ、安心して眠りにつくが良い!」

 屍霊術師としか聞いていなかった兵士たちに、一瞬動揺が走るが、すぐにそれは歓声に変わった。リッチはかなり危険な魔物である。その存在は忌み嫌われ、この世界の仕組みに多くの影響を与えてきた。滅多に現れることはないが、その魔物を知らぬものはいないと言っても過言ではない。

 筆頭執事もちゃっかりしたもので、こうして主の名声を高める機会を見逃すつもりはない。実際にリッチを倒したのはミラノルであり、オノンたちであるが、すべてを解決したのはデラウであるというにするのは、既に話し合って決めていたことである。ミラノルもオノンも、これ以上、貴族のあれこれに巻き込まれるのは願い下げであったからだ。

 ルシトールはデラウが手柄を得て、さらなる権力を手に入れることを恐れたが、口は出さなかった。それにデラウが間に合わなければ、死んでいたかもしれないのは事実だ。ミラノルの力による解放が間に合わなければ、エタノリスをオノンごと殺そうと思っていた(スケルトンとの戦いに専念しすぎて、実行に移す機会はなかったが)という罪悪感も、おとなしくしていることに影響していた。

 リッチが出現し、オリアリウス伯爵が倒した。という英雄譚を吟遊詩人はこぞって歌い、あっという間に国内外に広がった。そして、その噂話の中には、リッチと化したのは、クライドリッツの系譜の人間だということも語られることとなる。この件についてはミクス伯爵によって箝口令が敷かれたが、人の口に戸は立てられぬとは良く言われたもので、話は国王にまで届くことになる。

 クライドリッツ公爵家はこれを否定したが、他公爵家からの突き上げにより国王は調査に乗り出し、今回の件のすべては明るみに出ることになる。これは、この事件以降のクライドリッツ家の活動が鈍化したことも、国王の重い腰を上げる一因となった。

 唯一の生き証人であるノルバクスは、公爵家公認の貴族付き魔術師であった。王の取り調べを受けた彼が、その後どのような末路を迎えたのかはわからないが、その捜査が円滑に進んだのは、彼の証言があったからだ。

 この国の五本の指に入る権力者のスキャンダルは、様々な界隈に影響を与えた。これにより多くの人間が路頭に迷い、死ぬことになる。だが、リッチや吸血鬼に支配され始めているこの国で、ただの人間が生き残るには相当な運が必要になることも、また事実である。シアリスが気にしてもいても、仕方のないことであった。できることは、なるべく自領内の安全を確保することくらいである。

 デラウには褒賞として様々な宝物が国王より与えられた。

 ミクス伯爵は図らずもリッチに手を貸してしまったという不名誉から、一週間の謹慎が申し付けられた。とても軽い処分ではあるが、現在の混乱した状況で、有力貴族を処分している時間はなかったのだ。

 戦いの後、皆は魔術による治療を受け、少しの療養をすることになる。その後、シアリス、デラウは多少の予定の延長はあったものの、自領へと帰っていった。ルシトール・ミラノル・エヴリファイは傷がいえる前に姿を消し、オノンとトピナは、療養後、貴族のゴタゴタに巻き込まれる前に、さっさと出発してしまった。

 療養の間、それら三組は会おうとはせず、連絡も取らなかった。シアリス自身、彼らに接触するのを避けたのは、下手な言い訳を作るのを避けたからである。

 今回の一件で、なぜ黙ってトピナたちに会いに行ったのかという疑問を、家臣たちに説明するのに、苦心したというのもある。それにこれ以上のつながりをデラウに知られるのは、危険だと思ったからだ。皆もそう考えたのかどうかは不明だが、結果としてはデラウからの追及もなかった。

 たったの十日足らずの出来事であったが、シアリスは感じるはずのない疲労感を感じた。だが、それ以上に、次の行動を起こすための手応えを感じていた。

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