第3話
廊下を誰かが音を立てて歩いてくる。シアリスの従徒、ファスミラだ。わざとらしく音を立てるのは偽装のためだ。常に音を立てない人間など不気味すぎる。ノックの音が響き、ファスミラが部屋の中に入ってきた。
「おはようございます。朝食のご準備が整いました、シアリスさま」
ファスミラはかなり機嫌が良さそうだ。人の血を飲んだからだろうか。
「ああ、おはよう。すぐ行くよ」
普通は着替えなどを手伝うのだろうが、シアリスにその必要はない。夜眠る必要がないので、着替えの時間を気にすることがない。既に準備は整っていた。デラウは翼で服を作っているが、シアリスは何となく落ち着かないため、普段は用意された服を身につけるようにしていた。まだまだ完全な偽装には時間が掛かりそうだ。
朝食の席には既にデラウがおり、朝食を食べていた。
「おはよう、シアリス。よく眠れたようでなによりだ」
「おはようございます、父上。今日もお忙しいのですか」
「うむ。やることは尽きんよ」
適当な社交辞令を交して、シアリスも朝食の席に着く。ここには人間たちの目があるから、偽装は丁寧に行う。
テーブルには、卵にサラダ、燻製、漬物、パンなどなど様々な物が並んでいる。シアリスはそれらを十分な量食べた。どれも美味しそうな料理ではあるのだが、残念ながら今のシアリスにはただの物体でしかない。料理人には悪いが、どれだけ美味しく作ろうとも、吸血鬼の食欲はそそられない。味覚がないわけではないので、人が食べたとき、それを美味しいと感じるかどうかの判断はできる。明らかに腐っているものを、美味しいと言って食べてしまうことはないが、感想には注意が必要だ。もっとも幽閉暮らしだったシアリスの生い立ち(これも偽装だが)から考えれば、どんなものでも美味しいと言って食べるのは、違和感がないはずだ。
デラウはさっさと朝食を済ませ、席を立った。去り際にシアリスに声を掛ける。
「後で執務室に来なさい」
そう言って去っていった。何の話だろうか。彼の方から話があると言ってくるのは珍しい。昨夜、エルフに正体を明かしたことがバレたのだろうか。もしそうであるなら、残念だがエルフを殺せと言われるだろう。いや、既に父が殺したあとかもしれない。
朝食も早々に、ソワソワとしながらデラウの執務室へ訪れたシアリスは、父に何用かと問うた。
「随分と従徒に甘くしているようだな。生き血を飲ませたのか」
そっちの話か。胸を撫で下ろす。
「ええ、狩りに連れていきました。役に立ちましたよ」
デラウは小さく「そうか」と言って、窓の外を見つめた。
「わかっているとは思うが、従徒は友人にはなり得ない。従徒が力をつければ、束縛は緩む。ヤツらを縛っているのは、生への執着と恐怖に過ぎない。ゆめゆめ忘れぬことだ」
「かしこまりました」
従徒の生死は、本体である不滅者の意のままではあるが、もし従徒が覚悟を持って逆らえば、処理をするしかない。完全に意識を奪って操り人形にすることもできるが、そうなれば臨機応変が効かなくなり、役に立つ場面は限られてくる。デラウの従徒や、ファスミラのように、人間として潜伏させることはできないだろう。デラウとしては、生かさず殺さずの状態にしておくことが望ましいのだ。
デラウはシアリスをその生気のない目で見つめる。
「それで、影の中に何人捕えておる」
「……お気付きでしたか」
デラウはシアリスの影の中に潜む者を、何らかの感覚で察知する。それがどれ程正確であるか、隠し通すことできるか、試してみたかった。シアリスは影の力を解放して、中から人を取り出した。昨夜の倉庫でどさくさ紛れに捕らえた三人の盗賊である。彼らは眠るように意識を失っていた。
「一人は従徒にできそうでしたので、攫って連れてきました。他二人はオヤツにでもしようかと思いまして」
「別にどうしようと構わんが、死体の処理には気を付けなさい。それとあまり長く影の中に閉じ込めておかぬことだ。血の味が落ちるぞ」
初耳である。人を攫うとき、影の中に閉じ込める方法は習った。しかし、味が落ちるとは聞いていない。
気を失い、身動きが取れなくなった者ならば、影の中に生きたまま閉じ込めることが可能である。影の中では、行動を制限し意識を混濁させることが可能だ。しかし、意思の強い人間ならば、脱出されることもあるという。だから長時間、影の中には入れておくなとは習ったが……。
「従徒の血が飲めぬのと同じ理由だ。影の力は便利だが、ものに影響を与えすぎる。長時間留めておけば、人の身では持たずに死に至る。力が染み渡って味が落ちる」
「そうなのですか」
従徒の血は、自分の血のようなものである。飲んでも美味しいとは感じない。従徒と吸血鬼との影の力による繋がりが、それを拒絶するのだ。影に閉じ込めた人間には、影の臭いが染みつく。異臭がする肉を食べたいとは思わないのと同じことだ。
「ついてきなさい」
デラウが執務室の横の扉を開けた。城の構造上、そこにはほとんどスペースがないはずだ。収納だろうと思っていたので、不思議に思い覗き込む。案の定、そこには棚に
「この隙間だ」
それだけ言うと、デラウは影となって、棚の奥の小さな亀裂の中に消えた。シアリスは少し困惑するも覚悟を決めて、その中に入り込む。
中は水道管のパイプのようになっているが、かなり細い。途中で曲がりくねり、多数に分岐している。どんどん下の方に進み、パイプの切れ目から抜け出すと、たどり着いたのは城の地下であった。城内部はかなり探索したつもりだが、不滅者専用の通路があるとは、全く気が付けなかった。
地下はいわゆるダンジョン、地下牢獄となっており、使われないときは誰も近寄らない。隠し部屋もいくつかあるが、緊急時の避難用や、使われていない宝物庫程度のものである。
デラウは更に奥へと下へと進んで行き、行き当たったのは小さな牢獄の扉である。扉は朽ち気味で、蝶番は外れそうだ。その小さな扉の穴に、デラウはどこからか取り出した鍵を差し込んだ。
デラウが扉を開けると、そこには庭園が広がっていた。よく手入れの行き届いた庭園には、地下とは思えない程の陽の光がさしている。物理的にありえないことかだ。
「これは、魔法……、ですか」
そうとしか思えなかったため、そう呟いた。
「そうだ。正確に言えば、魔術。もっとも魔力の純粋な使い方、空間魔術だ。古代の魔術師が作り出したアトリエの空間を、そのまま利用している」
アトリエとは言えば、魔術の研究所のようなものだと書物の記載を思い出す。エルフとメネルの戦争の後、古代魔術師と呼ばれた存在はエルフによって駆逐された。だが、古代魔術師の遺産として、世界各地には『アトリエ』と呼ばれる異空間を有した建造物が残された。
「空間を転移したのですか? どこか別の場所に……」
「いいや、ここはあの地下牢だよ。オールアリア城はアトリエの上に建てられた、世にも珍しい城なのだ」
地下牢に偽装された空間が引き延ばされて、このようになっているのだ。いったい、
古代魔術師というものは、どれだけの力を持っていたのだろうか。気になるところではあるが、残念ながらそれを知ることは、長年の研究でも明らかになっていない。
もう一つ、シアリスは気になったことがある。確かアトリエはそれぞれが防衛機構を持っており、侵入者に対して容赦しないと書いてあった。
「危険ではないのですか」
「問題ない。ここはとうの昔に無力化され、探索し尽くされておる。今はその空間を残すのみだ」
デラウによれば、この空間は千年ほど前に無力化され、オルアリウス家が接収した。そして、様々な物品の保管や、秘め事の場所として利用されてきた。アトリエ内には水が湧き出しており、気温も安定しているため、戦時には食料品の保管庫や、一時的な避難所としても使われたらしい。そして、この空間こそ、デラウが欲したものなのだと言う。彼は歩みを進め、シアリスもそれに続いた。
奥に進み、庭園を抜けると森が広がっていた。まるで自然の中のように、鳥の囀りや川の流れる音が聞こえる。驚いたことに鹿の群れが逃げていくのを目撃した。
「これは……、一体どれほどの広さがあるのですか。川まであるとは……。それにあれは野生の動物ですよね……」
「広さか、正確にはわからんな。オールアリアの城下町一つ分は優に入るだろう」
山間部にあるオールアリアの城下町は、決して広くはないが、それでも二万人以上の人間が暮らしている。それと同じだけの大きさの空間が城の地下にあるとは信じ難い話である。領地が倍になるとするならば、オールアリア城はその見た目以上の価値があるという事だ。
森を抜けると小高い丘が見えた。そしてその麓に小さな村が広まっていた。数百人規模だろうか。小麦畑や水車まであり、まるで地下とは思えない。
「あれは……」
「我がもう一つの領地。奴隷の村だ」
この吸血鬼は奴隷たちを、大規模に秘密裏に畜産するための空間を望んでいた。そして、その条件を満たした場所が、このアトリエだったのだ。云わば、ここは人間牧場。血液生産工場であった。
一人の人間がこちらに気付き近付いてきた。いや、それは人間ではない。従徒だ。デラウの三人の従徒の最後の一人である。従徒は質素な服を着た長身の男の姿である。どこか儚げであるが、立ち姿からは他の従徒とは違った自信が見て取れた。
「ご主人さま。あなたがここにお越しになるとは珍しい。では、そちらの方が……」
「そうだ、我が子シアリスである」
従徒は恭しくお辞儀してみせる。
「初めましてシアリスさま。私はミグシスと申します。それで本日はどのようなご要件でしたでしょうか」
この従徒は、他の者とは違う。人の生き血を飲んでいる。そしてそれをデラウは容認しているようだ。デラウの右腕としての、特権があるのだ。
「今は……、村人たちは居ないのですか」
何となく奴隷と呼ぶのは憚られた。
村の家(というか小屋に近いが)の周りには、桶や農具が置いてあり、生活感が溢れている。だが人の姿はない。
「ほとんどの者は畑仕事に出掛けているのですよ。健やかな生活は、味の善し悪しに直結しますから。なるべく自給自足を心掛けさせているのです。休んでいる者を起こしましょうか」
「いや、結構。なるほど……、なるべく自然な状態を維持しているのですね」
確かに不健康な人間の血は、あまり美味しくない。特に悪いもの食っている人間は不味い。噛む前から嫌な臭いがする。
「そんなことより、シアリス、先程の三人を出しなさい」
デラウが話を断ち切り、シアリスに言う。この異空間の衝撃に忘れていたが、影の中の盗賊のことを思い出した。影を広げ、三人の捕らえた盗賊を引っ張り出す。
「ここに連れてきたということは、この者たちもここで生活させるのですか? しかし、この者たちは無法者です。他の村人たちと不和を起こすのでは」
「問題ありません。そのために私が監督しているのです」
「ああ、それでずっとここに詰めているのですか」
今までミグシスとは出会わなかったのは、そういう理由だったのだ。
「ああ、待ってください。こいつは……」
三人を連れていこうとミグシスが影を広げたので、シアリスは止めた。連れていくのは二人だけにしてもらわねば、この細身の男は従徒にするのだから。
(待てよ。もし、従徒にできる人間の性質が遺伝するのだとしたら、この男を種馬にして、繁殖させるのはどうだろうか。何年かの時間は必要になるが……)
従徒の補充をいつでもできるようになるし、その味は格別だ。シアリスは頭に浮かんだ考えを振り払う。長く生きているデラウが、この程度のことを思いつかないとは思えない。それに自分は、長くここに留まるつもりはない。
「こいつは従徒にしますので、連れていかないでください」
「承知しました」
ミグシスの影は残りの二人を持ち上げると、少しだけ浮かせて運び出した。この力を見るにミグシスの力は、ファスミラとは比べ物にならないほど強いようだ。おそらく、かなり長いときを従徒として生きているのだ。
デラウがポンと手を叩いた。
「よろしい。これからはお前もここを使いなさい。足りない血を補充するのも良いし、オヤツの保管に使っても良い。ただ、ここのもの達を殺すときは、私に許可を取りなさい」
「わかりました、父上。ありがとうございます」
まさかこれだけの規模の奴隷たちを抱え込んでいるとは全くの誤算だった。心の底からの嫌悪感を感じながら、シアリスはニコりと天使のような笑顔を作った。
◆
盗賊は無事(?)、従徒と成った。
狩りのときベッドに置いておく変わり身に、これで困ることはない。体格は違うが従徒はその主人である吸血鬼の姿に変化することは全く問題がなかった。
与えた名はナバル。ファスミラに虫の名をつけてしまったので関連付けて、ナバンスという、こちらの世界の夜蛾の名前をモジって付けた。
ナバルのボロボロの服を捨てさせて、貴族の従者らしいキッチリとした服を着せた。貧相な男であったが、かなりのイケメンに仕上げることができた。元々、出来が良かったのもあるが、どうやら吸血鬼の力は、姿を美しくする効果もあるようだ。人の群れの中に溶け込むのには、必要な能力なのだろう。
正直、ナバルを従徒にするにあたり、ただの数合わせ程度に考えていたシアリスだったが、どうやらとんだ拾い物をしたらしい。
まず、ナバルは吸血鬼の従徒となったことに、なんの戸惑いもなかった。むしろ不老不死の力を得たことに喜んでいた。それならば、デラウの従徒にならなかったことを喜ぶべきだろう、とは言わずにおいた。
盗賊として手荒なことにも慣れているし、影に潜むこともお手の物である。もしかしたら吸血鬼にするならば、こういう人間が向いているのかもしれない。元が犯罪者であるから、シアリスの良心も痛まないのも加点対象だ。
ついで彼は文字の読み書き、数字の計算ができた。貧乏貴族の三男として生まれた彼は、ある程度の教養を持っていた。なぜ、そんな男が盗賊の下っ端などやっていたのかというと、家族の借金のカタに売り飛ばされたらしい。その後、なんやかんやあってモキシフに拾われて、重用されていたようだ。オノンたちの襲撃時は、人手が足らないため、隠し通路の見張りをしていたとのことである。
もう一つ、彼は魔道具の扱いを心得ていることだ。頭目モキシフが魔道具使いであったため、その近くにいたナバルはそれらの知識を得る機会に恵まれた。
これはシアリスにとって、願ってもない収穫だ。この世界では魔法は限られた者しか使えないが、魔道具は使い方さえ知っていれば、誰でも使えるのだ。ほとんどの魔道具は、出土品としてアトリエから見つかる。中には魔術師が解析し量産可能な物もあるが、そのほとんどは複製不可能な古代の魔術で作られており、市場ではとても高い値段で取引される。
ファスミラが魔術を使えるのにも驚いたが、ナバルの知識も同等に価値のあるものだ。シアリスはとても運が良い。
運が良すぎて、運命だと思えるほどだ。シアリスの計画が具体的な形を帯びてきた。
「この魔道具はもう使えないのかな」
シアリスは指の先で、三角形の金属片をクルクルと回した。モキシフが使っていたトピナを拘束していた魔道具である。他にもいくつかの物品をどさくさ紛れに盗ってきたが、そのほとんどは魔道具ではなく、ただの武器や雑貨だった。
このモキシフの鱗(勝手にそう呼んでいる)は、オノンの爆破でほとんど飛散してしまったが、残っている原型のある鱗は三つしかない。そして、ナバルやファスミラが扱っても、彼がやっていたようには機能しなかった。
「ワタクシが思うに、やはりすべての鱗が揃わないと機能しないのかと。それに遠隔で操作する魔道具には、それを操作するための起点となる魔道具が存在するのです。おそらくカシラが……、モキシフが付けていた指輪の一つがそれだったのだと思います」
ナバルはほとんど盗賊らしさが抜けて、貴族の従者らしさが板についていた。この適用能力は元々の年齢も関係しているのかもしれない。
モキシフは確かに宝石のついた首輪やら指輪やらを、かなりの数付けていた。あれがすべて魔道具だったのなら、惜しいことを……、かなり惜しいことをした。オノンたちに渡してしまったのは失敗だったか。
ファスミラが話を引き継ぐ。
「おそらく、これは魔力を解放するための道具です。それがどんな仕組みかまでは……。けれど、この力に晒されれば、魔力が暴走することになるはずです。あのトピナとかいう女魔術師は、暴走する魔力を無理矢理消費することで身を守ったようです。普通の魔術師にできる芸当ではありません」
彼女も従者らしい話し方がかなり板に付いてきた。シアリスにも慣れてきたのか、従徒であることに諦めを感じたのか、色々と話すようになってきていた。
「なんとか修理することはできないものかな」
シアリスが何気なく訊ねると、ファスミラとナバルは顔を見合せた。
「なんだ?」
「その……、壊れた魔道具を修理できるような者は、既に絶滅しています。国内最高位となる筆頭宮廷魔術師でも、こういった特殊な出土品を修復はできない、と思って頂いた方が良いかと……」
ナバルが言う。それはそうだろうなとシアリスも思ってはいた。修理できるならば、仕組みが解っていることになる。そうなれば応用して新規の魔道具を生み出し、複製品がそこら中に溢れているはずだ。
「それって、常識だろ、ってこと?」
「端的に言えば、そうです」
シアリスはまだ生まれて数ヶ月である。この世界の常識をほとんど知らない。
「不思議なのですが、シアリスさまからはかなり知的な雰囲気を感じます。言動も行動も、教養と自信がある者、特有の気配がします。それなのに知識の欠落があるというのが不思議なのですが。生まれたばかりの不滅者というのは、みなそうなのでしょうか」
ナバルは恐れずに何でも訊いてくる。今まで一人で考えることが多かったので、何でも言葉にしてくれるのは思考の纏まりを得るのに役に立つ。
「さぁ? でも、生まれてすぐに何でも知ってる生き物の方が珍しいんじゃないか」
シアリスは適当に話をはぐらかした。前世の記憶が残っていることや、それが別の世界のことであること、自分は、今は吸血鬼だが人間を自認していることは、話す気はない。
◆
まだ日の高い午後に、暇を持て余しているとき、シアリスはデラウに呼び出しをうけた。
「お前もそろそろ社交界に立つときが来たようだ」
デラウはいかにも高級そうな手紙を読みながら、シアリスに言った。
「社交界? なにをさせるおつもりですか」
「パーティだよ。魔道具のオークションが開かれることになったのだ。兵や功労者の慰労会も兼ねて、大きなパーティが開かれることになった。なに、商人や位の低い貴族も来る、比較的大人しいパーティだ。お前の初めての社交界には、うってつけだと思ってな」
「なるほど。パートナーは必要ですか?」
「いや、成人前のお前には必要ない。私は……、愛妻家として通っておるから、連れてはいかん」
愛妻家とは皮肉ですね、との言葉は飲み込み、端的なやり取りで済ます。
「日時と場所は」
「七日後の夜、ミクス領オナイドの街だ。二日後の昼にはここを発つ」
「かしこまりました。準備を整えておきます」
吸血鬼としてのお出かけ以外は、城下町をお忍びで探索したくらいしかない。遠出の旅は初めてである。
オナイドはここから馬車で二日ほどかかる。山道を越える必要はあるが、街道も整備されているし道中には旅籠や砦もあるので、比較的安全だ。問題はとても退屈な旅になることだろうか。空を飛んで行けば、数時間で済むのに。
当然、昼間の活動が制限される従徒たちは、連れていくことは適わない。留守を任せるか、ずっと自分の影に隠しておく必要がある。そうなれば正体が明かされる危険は増す。余計な荷物は持ってはいけない。
そんなわけで、いつも静かな城内がにわかに騒がしくなった。連れていく従者、護衛の兵士の準備、十分な食料・衣服など、様々な物品が運ばれ、荷馬車に押し込まれていく。
こういったことはもっと前から準備するものなのではないだろうかと思って、休憩中の家令に訊ねてみると、その通りだとのことだった。
どうやら主催のクライドリッツ公爵(オルアリウス家の直属の上司である)は、思いたったら吉日、割といつも容赦なく日程を組むらしい。それに巻き込まれる部下たちはたまったものではないが、名君としても慕われている。王家の血筋であるのに、身分に貴賎なく寛容なので、領民・貴族ともに、公爵家は支持されていた。
城に残る従者たちは夜も寝る間もなく準備を進め、その努力の甲斐あって、正午を過ぎる前には城を出発することができた。
この世界での旅の道中で、特に気を付けなければいけないことは、やはり魔物の存在である。
一般人たちは旅をするとき、魔物から身を守るために傭兵を雇う。そして、傭兵たちは魔物から雇い主を守るために、鎖瓶薬と呼ばれるいわゆる
少量で効果を発揮するが、混ざり合って時間が経つと効果が無くなるものあるため、戦士たちは連なるような形の丈夫でカラフルな瓶に入れ、使用時には状況に応じて飲み分けたり、まとめて一息に飲み干せるようになっている。その瓶の形からいつしか
霊薬の材料・作成法・販売は免許制で厳しく国が管理しており、簡単には作ることはできない。
野盗や山賊と呼ばれるようなメネルの無法者も、そういった霊薬を使用する。が、正規品と比べれば質も劣るし、量も少ない。モキシフのようなエセ魔術師が、見様見真似で作ったものである。たまたま正規品を手に入れても、一度でも使用すればそれまでだし、使用期限も短いため、壮大な計画に使用するには色々と問題がある。
オルアリウス家の騎士たちも、それぞれ鎖瓶薬が支給されており、短時間とはいえ戦闘時には人間離れした能力を発揮することになる。現在では、常人が魔物や常人離れした魔術師などを相手取るための、必須手段となっている。父が過剰に人間を恐れ、隠れ続ける理由がここにある。不滅者の実力であれば、戦っても負けはしない。しかし、大挙として押し寄せられれば、どうなるかはわからない。
メネルはこの霊薬の発達によって、魔物との生存競争に勝ち、吸血鬼さえも敵としない最強の生物となったのだった。人が強くなったことで、吸血鬼たちは知恵を付けざるを得ない状況に追い込まれた。
そして、吸血鬼の偽情報により、出会っても対処方法が間違っているという状況を作り出した。もちろん、そのうちこのことに人間たちも気付くだろうが、それまでにどれだけの人が犠牲になるだろうか。あまりにも厄介すぎる敵に育ってしまった。
特にこの吸血鬼、デラウ。この期を逃さずに自分だけの血液ストックを作り出し、自分は領地を治める伯爵として安泰の地位にいる。いずれ時期が来たらシアリスは独り立ちし、デラウはシアリスと入れ替わって、またこの地を統治する。その後、また新しい子どもを作り出し、同じことを繰り返して、この地を安住の地とするつもりなのだ。
これは戦いだ。戦争なのだ。
吸血鬼たちは協力し合っているわけではない。それでも同じ方向性で動き続ける。それは彼らの目的は一つだからだ。
生きること。安全。食欲。
彼らは野生の生き物なのだ。知恵を持った野生生物。人間にとってこれ程厄介なものはいないだろう。
「シアリス……。シアリス? どうした。気分でも優れぬのか」
馬車の中で二人きりではあるが、ここでは人間として話さなければならない。デラウとシアリスは話すことも尽き、今は黙って馬車に揺られていた。少し考え事か過ぎたようだ。呼びかけられても気付くことができないとは、吸血鬼らしからぬ。
「失礼しました。どうやら揺れに酔ってしまったようです」
もちろん嘘だが、デラウにもそれはわかっている。
「そうか、まぁいい。ここからがミクス領だ。外を眺めてみなさい」
シアリスは言われるがまま、馬車の小窓を開けた。小気味よい風が中に入り込み、シアリスの赤い髪が揺れた。
田園が見渡す限り広がっていた。
稲穂が波打ち、陽が葉に反射して、風が目に見えるようだ。それだけならば見慣れた光景だ。しかし、それが目に見える限り、丘の上さえも飲み込んで、地表をすべて覆い尽くしている。山間部にあるオルアリウス領では、決して眺めることはできない。
シアリスはデラウの望むことに気付いた。
「わぁ、父上! 見てください! ずっと向こうまで畑が広がってますよ」
窓から身を乗り出して、子どもらしい反応を見せる。デラウは当然知っていることだが、まるでシアリスが今、発見したかのように言って見せる。外で守っている護衛の騎士たちが、笑って見守る。微笑ましい光景。
「この辺りは豊かな土地が広がっていて、国境に面している。幾度となくこの平原では戦が繰り広げられた。そして、この平原を突破されたとき、最後の要となるのが、我らが家、オールアリア城となる。オールアリアが抜かれれば、その先は王がおわす首都まで目と鼻の先だ。必ず守り抜くことが、我々オルアリウス家の使命だ。覚えておきなさい」
「はい、父上!」
そんな茶番を繰り広げつつ、穀倉地帯を抜けた先に、大きな城壁を持つ街が見えた。丘の上からそれを見下ろすと、いくつかの城壁に囲まれた区画があり、それぞれが砦としても機能するようだ。その外側にも溢れるように街が拡充しており、さらに多くの人が暮らしている。大きな国同士の戦争がなく、平和な時代が長かった証拠だ。
城壁の外の街並みを抜け、城門に近くとその門の手前に豪華な街馬車が見えた。先行した物見の兵が、到着を伝えていたらしい。
「ようこそ、おいでくださいました。歓迎しますぞ、デラウ殿! と、そのご子息殿!」
出迎えたのはこの土地の領主、ミクス伯爵。今回、クライドリッツ公の難題を押し付けられた犠牲者である。デラウたちは馬車を降りて、その歓待に答えた。
「ケーヒト殿、お久しぶりでございますな。手紙で伝えてはおりましたが、ご紹介します。我が家の跡取りとなる息子でございます。お見知り置きをお願いします」
「シアリスと申します。高名なミクス伯、自ら出迎えていただけるとは、恐悦至極でございます」
シアリスは、丁寧な貴族らしいお辞儀をしてみせる。
ケーヒト・ミクス伯爵は、茶色のヒゲをたくさん蓄えた、小太りの男である。剣を握った時代は若かりし頃に終わり、今では、いかに金銭か脂肪か貯えるかを競っている。同じ爵位のデラウとは、雰囲気も体格も全く違う。これは領地の違いである。貧しく武人肌のオルアリウス領とは違い、ミクス領では金に頭を悩ますことはない。もっともそれはそれで別の問題があるのだが。
「これはこれは、ご丁寧に。まさか、このような立派な子息を隠しておられたとは……。手紙を読んだとき、驚きましたぞ」
デラウは少しバツの悪そうにしながら、ケーヒトの軽口に答える。
「ええ、その辺りの事情は込み入っておりますので、ここでは……」
「おお、そうですな。ではこちらの馬車にお乗り換えください」
用意された街馬車は、今まで乗ってきたものよりも小さなものだが、造りは明らかに豪華である。財力の違いを見せつけるためかとシアリスは思ったが、どうやら単純にデラウらを持て成すつもりのようだ。会の準備に忙しいはずのときに、領主自らが出迎えるというこの歓待には、裏があるに違いないことは親子二人とも感じ取った。
◆
オノンとしてはここまで関わるつもりはなかったのだが、トピナの口車にまんまと乗せられる形となった。トピナはドレスが着たいだけだ。
先日のボヤ騒ぎの後、盗賊団ノヴァトラの頭モキシフを衛兵に突き出したオノンとトピナは、何のかんのと足止めされて、結局領主である貴族との面会を求められた。逃げてしまっても良かったが、エルフと魔術師の組み合わせなど、まず間違いなく自分たちしかいないので、見つかるのは時間の問題である。貴族の誘いを一般人が断るなど、それだけで犯罪である。それにやましい事がある訳ではないのに逃げることは、痛くもない腹を探られることになりかねない。
色々と誤算だったのは、ノヴァトラがかなりの大規模な組織だったということだ。いくつもの街に拠点があり、恐喝、強盗、密売、八百長賭博、横流し、人身売買。ありとあらゆる犯罪に手を染めていて、今まで捕まってなかったのが不思議なくらいの組織だった。貴族たちも頭を悩ませており、治安に責任を持つ騎士団は、血眼になって追っているところだったらしい。しかし、騎士団内部にすら内通者の存在が疑われることから、捜査の方は遅々として進んでいなかった。ここまで来ると、かなりの大物の存在を感じざるを得ない。貴族、それも強い権力を持つ名家。盗賊団の頭はモキシフであったが、それを影で操るものの存在が疑われた。
そんな中、巻き起こったボヤ騒ぎ。
小さな火だったが、オノンが精霊にお願いしたことは確実に履行されたようだ。まぁ、精霊はそんなことまでしてくれるわけではないのだが。組織は日の下に晒され、小さなボヤで壊滅的な被害を受けることになった。魔術師とエルフを敵に回したツケだ。
事件解決後、様々な盗品が押収された。持ち主がわかる物品は手続きを経て返却されたが、ほとんどの物は
慰労会という名のオークションパーティは、有力な商人や多くの貴族に招待状が送られた。
そこで得た資金は、兵士たちや被害者たちへの援助に当てられる。そして、電光石火で開催することで、腰の重い貴族たちや他領地の商人たちはほとんど参加できず、地元の有力者たちがアーティファクトを合法的に手に入れられる。もちろんそれは、ただの兵士たちの慰労会であるので、他領地の身分の高い貴族たちは参加などせず、気を使って断るのが筋なので、参加できないとしても仕方の無いことなのである。
メネルが考えることはよくわからないが、トピナの解説によるとそういうことらしい。一石二鳥だとか、三鳥だとからしいが、オノンにとってどうでもよいことだった。
それでもこの慰労会に参加したのは、オークションの売り上げの一部を今回の褒賞金に上乗せしてくれるからだ。すっかりメネル族たちの社会に馴染んだエルフは、金があれば様々なことができると学んでしまった。そういうわけでトピナとともに、兵士・商人・貴族に混ざって、功労者として参加したわけである。
立食パーティだったが、ドレスを着てドカドカ食べるわけにもいかないのが窮屈だ。トピナは色々な人たちと話しているが、オノンは遠巻きにされている。彼女自身もとくに馴れ合うつもりはなかったので、ちょうど良い。独りで葡萄酒を呑んで暇を持て余していたのだが、平和なときは唐突に終わりを迎えた。
「初めまして、エルフのお姫さま。シアリス・オルアリウスと申します。よろしければ、少しお話しをいたしませんか」
妙に可愛らしい声が、低い位置から届いた。
「シ……シアリス……?」
「ええ、初めまして!」
数ヶ月前とは雰囲気も髪色も違う。あのとき、盗賊団に捕まっていたところを助け出されたときは、吸血鬼だとすぐにわかった。いや、相手が隠す気はなかったからだ。
今は違う。近付いてくるのさえ感じなかった。赤銅色の髪に、青く澄んだ瞳。吸血鬼だと認識した今でも、メネルにしか見えなかった。もし、シアリスという名を言われなければ、すぐには気付けなかっただろう。
「どうしましたか? 顔色が悪いですよ」
いつかまた会うかもしれないとは思ってはいた。それでもこれだけ早く会うとは、しかも人がこれだけ多いところだとは思わなかった。
「ええ、ごめんなさい。少し飲みすぎてしまったみたいね。初めまして、シアリス……さま。どうぞ、オノンとお呼びください。お会いできて光栄です」
「では、どうぞ僕のこともシアリスとお呼びください」
儀礼的な挨拶を交わして、二人は当たり障りのない会話を続ける。と言ってもシアリスは、敢えて子どもらしく振舞って、突っ込んだ質問をしてきた。
「冒険者の方を初めて拝見させて頂くのですが、こんなに可憐な方だとは思っても見ませんでした。もっと厳つい、丸太のような腕の方たちかと……」
「……お褒めの言葉として受け取らせて頂きますわ。冒険者のほとんどが、浮き出た筋肉を正義としていますから、認識は間違っていないかと。残念なことにエルフ族は、あまり筋肉が浮き出る体質ではないのです」
オノンは微笑で答えた。シアリスもにこやかに話を続ける。
「そうなのですね。そのドレスも良くお似合いですが、変わった形のものですね。それは一族の伝統のものなのでしょうか」
オノンのドレスは一見するとただのワンピースに見えるものの、よく見るとスカート部分は二股に別れたパンツ状になっており、構造的にはオーバーオールに近いものだ。白一色のそれはシンプルながらもエルフの美しさを際立たせている。
「ええ、その通りです。動きやすさと美しさを両立するように作られています。故郷から持ってきたものの一つです」
目の前の少年が微笑しながらゆっくりと頷く。
「エルフ族の方々は余り社交的ではないと伺っていたのですが、あなたからはそのような印象を全く受けません。やはり書物など当てにならないものですね」
「私が例外なだけですわ。他のエルフたちはみなメネルを恐れていますから」
「恐れる? エルフ族はみなメネルなどよりずっと強いのでは……」
「確かにエルフ族の個々としての能力は、メネル族と比べれば強いものかも知れません。しかし、メネルにはメネルとしての強みがあるのです。エルフはそれを警戒しているのですよ」
「へぇ……」
オノンとしては、何故シアリスがここにいるのかと、今すぐにでも問い詰めたいところだが、初めましてと言われてはそうもいかない。彼は命の恩人である。恩を仇で返すのは信条に反する。例えそれが吸血鬼であったとしても。
二・三言言葉を交わしていると、いつの間にやら周りに人が集まり始めていた。話しかけようとしていた人物たちは、どうやら切っ掛けを探していたらしい。その中に貴族はほとんど居らず、商人や兵士たちがオノンの話を聞きたがった。
「エルフ族は、みな弓矢の名手とお聞きしましたが、本当ですか」
「どうして冒険者なとどいう危険な職業に」
「ぜひともエルフの里と交易をしたいのですが」
それぞれ思い思いの質問をぶつける。みなエルフを見るのは初めてのことである。エルフ族とメネル族は、交流を絶ってから久しい。長命なエルフ族には僅かな期間でも、人からすれば戦争の憎しみを忘れ去るには十分な期間である。三千年前の戦争など、メネルにとっては、伝説上か神話の出来事に過ぎない。
すっかり輪から弾き出されてしまったシアリスは、さっさと姿を消してしまっていた。どうしてここにいるのか、どうしてまた私の前に姿を現したのか、オノンは気になって仕方がなかったが、そこは年の功。なんとか誤魔化して周りの相手を続けた。そうこうしていると小気味よいベルの音がホールに響いた。皆が話を止め、音のするお立ち台に視線を向ける。
「お集まりの紳士、淑女の皆さま。まもなく別会場にてオークションが始まります。今日は皆さま懐を暖かくして来て頂けましたかな? 今日の帰りには冷え冷えした懐で帰っていただきますぞ!」
笑いが起こる。スピーチを始めたのは小太りの男であった。ミクス伯爵である。その隣には長身の男が立っている。貴族然とした立ち振る舞いだが、どこか儚げな印象を受ける。オノンはまだ知らないが、彼こそがシアリスの父である。
「さてさて、すぐにでもオークションを始めたいところではありますが、会場の準備に手間取っておりまして、今しばらく葡萄酒をお楽しみください」
やたら大柄なタキシードの似合わない男が、大きなワイン樽を運んできた。
◆
この世界には魔物と呼ばれる生物がいる。
その中には、単体で国ひとつ滅ぼせるほどの力を持ったドラゴンから、粘菌の集合体であるスライムや、植物の魔物であるアウネウラ、人間と生息域の争いをしているオークやゴブリンなどなど、様々なものがいる。吸血鬼もその一種として数えられている。
魔物の定義はかなり
この世界では人間同士の戦いは、余程のことがない限りは起こらない。なぜなら魔物に対処することに兵力を割くことが多く、むしろ各国ともに協力し合うことの方が多いからだ。大きな国の成り立ちも、侵略占領によって吸収合併されるより、魔物討伐による同盟から王家婚姻による併合のほうが、圧倒的多数派だ。
そのため兵士と言えば、それら魔物を倒すことが主だった仕事となる。しかし近頃では、民間に霊薬が出回ったおかげで、その仕事すら無くなりつつある。傭兵の中には魔物を狙って倒す、賞金稼ぎのようなことをする狩人もいるからだ。
シアリスのここまでの知識は、書物や家庭教師から習ったものである。見たことがある魔物は、およそ魔物らしくない吸血鬼のみで、あまりピンと来ない。前世でもファンタジーの物語などほとんど触れたことないので、挿絵でもない限りはそれがどんな魔物でどんな特徴があるのかは判らない。ただなんとなく聞いた事のある名前の魔物がいるということは、前世との繋がりを感じさせる。が、それについて考察しても、シアリスには理解できるほどの前提知識がなかった。
到着するなりミクス伯爵に呼び止められたデラウとシアリスは、その豪華な城へと強引に連れて行かれた。街の喧騒から抜けた高級住宅街の一角である。
オールアリア城も豪華な造りではあったが、あくまで実利を重んじたものであった。連れてこられた城は、城ではあるのだが、居城か、あるいは屋敷と言ったほうが近い。もっともこの屋敷もミクス伯爵の別宅の一つでしかないだろう。
屋敷の一室に通された。ここの調度品もかなりのものである。余程の待遇をしなければならない相手に使う部屋だ。その部屋の中には、場にそぐわない格好の戦士一人が手持ち無沙汰に待機していた。
「街に吸血鬼が入り込みました」
シアリスはドキリとしたが、話をし始めたミクス伯が、デラウとシアリスのことを言っているとは思えない。
馬車の中で一通りの世間話を済ませたミクス伯爵は、席に着くなりいきなり本題を話し始めた。普通は茶の一杯でも飲んでから始めるのが礼儀だが、相当焦っていることがわかる。それに跡継ぎとはいえ、子どものシアリスまで同席させることさえ気にしていない。
「この者はその吸血鬼を追っていた魔物狩りの代表です。吸血鬼はこの辺りの住宅街に逃げ込み、その姿を
デラウは表情を変えずに、話の続きを促した。
「なるほど。それでどうしてそのような話を私に?」
「デラウ殿には、是非ともその武力をお借りしたい。吸血鬼が慰労会の会場に入り込んだとき、対処をお願いしたいのです」
デラウもシアリスも何かの罠かとも思ったがその様子もない。本当に吸血鬼が入り込んだのだ。そして、その問題を一人で抱え込んで、何らかの事件が起きたとき、責任問題を回避・緩和させるため、スケープゴートとして同僚であるデラウに話を持ちかけたのだと考えられる。
(全く、吸血鬼には縁があるのか。他の魔物も見てみたいんだけど……。この吸血鬼はデラウの知り合いか? だとすると話がややこしくなりそうだ)
シアリスは心の中で愚痴る。メネルたちのデラウの認識は、軍人気質の伯爵である。パニックが起きたときの指揮官としては心強いし、なにより戦闘能力に優れている。助けを求めるにはこれ以上ない人材という訳だ。
しかし、疑問がある。
「解せませんな。どうやって吸血鬼が、この街にはいりこんだことを知ることができたのですか。それになぜその吸血鬼は逃げようとせず、ここに留まっているのでしょうか。お聞かせ頂けるのでしょうな」
「それについてはこの者がお話します」
ミクス伯は腕を組んで黙っていたこの場に相応しくない格好の男を見た。明らかにあらくれと言った風貌の戦士の男は、ソファにどっかりと座っているが、既にソファが汚れている。体臭も酷いものだが、ミクス伯が気にもしていないのは、それほど切羽詰まった状況ということだろう。
「話すのはいいが……」
戦士は嗄れた声を出した。
「こんな優男と子どもに話して何になると言うのだ。それよりも、さっさと家を
シアリスは興味深いと思った。吸血鬼を見分ける魔術師がいるのか、デラウの方も興味を示すだろう。と思ってそちらを見たが、座っていたはずデラウはそこにいなかった。そこにいる誰もその動きを見切れなかったが、同じ吸血鬼であるシアリスでさえも、その動きをなんとか捉えることができた程度だ。メネルであるミクス伯も、戦士も、この不意打ちには反応すらできない。
デラウは戦士を床に押し付けていた。首を掴み、敢えて打ち付けず、ただ抑え込むだけだ。ソファを跨いで持ち上げて落としたはずなのに、戦士はダメージを受けていない。どうやってやったのだろうか、影の力使ったとも思えない。
戦士は何が起きたか分からなかったことだろう。デラウの囁き声で目が覚める。
「その点は心配及ばんよ。私はお前よりも強い。その血を受け継いだ我が息子も、吸血鬼を取り逃した貴様より役に立つぞ」
戦士は咄嗟に腰の得物を探すが、屋敷に入る前に取り上げられている。
「て、てめぇ、何のつもりだ」
戦士は強がるが声が出ていない。喉を押さえられているからだ。息ができないほどではないが、その手をどかそうとするもビクともしないらしい。
「お前のように学のない者には、この方がわかり易いだろう。霊薬がなければ何もできない出来損ないが……」
「父上、あんまりいじめないでくださいよ。話が進みませんので」
シアリスが助け舟を出す。どっちが保護者なのだろうか。
「デ、デラウ殿、ご子息の言う通りです。あとでこやつは私が罰しておきますので……」
デラウは渋々と言った様子で手を離した。何も言わずにジャケットの襟を正して立ち上がる。
「お優しいですな、ケーヒト殿は。シアリス、下々の者にはときに厳しく接しなければならんぞ。こやつらは躾てやらねば、増長するばかりだ」
「その通りでしょうね。ですが、その戦士も格の違いが理解できたでことしょう。さぁさぁ、お立ちください、戦士さま。そういえば、お名前を伺っておりませんでしたね」
シアリスはさりげなく、自分の三・四倍の体重はある男を片手で引き起こす。城の人間たちにはとても評判の良いスマイルで戦士を見つめた。
戦士は少し身震いしてから、シアリスから離れた。
「俺の名は……、ルシトールだ」
「そうですか、ルシトールさん。では今がどのような状態なのか、お聞かせください」
シアリスは席に戻ったが、ルシトールは立ったままだった。
「俺たちは一匹の吸血鬼を追っていた。これがそいつの手配書だ」
彼が懐から出したのは、古びたヨレヨレの紙だった。その紙には似顔絵が描かれていたが、それはまるで生きているように動くと、別の顔に変わった。男になり女になり老人になり若人になり。まさに百面相と言った様子だ。
シアリスにとっては初めて見る動く絵画だが、別に驚きはしなかった。動画のようなものだ、見飽きている。魔法によってこのようなことができるのは興味深いが、驚くほどのものでもない。魔法で動こうが科学で動こうが、シアリスには仕組みはどちらも理解できないから同じことだ。
デラウも驚いた様子はないが、その紙を真剣に眺めている。
「それは……何十年前の手配書だ。その吸血鬼で間違いないのか」
手配書には金額や発行元、そして発行年月日が書いてある。
「悪いけどな、旦那。吸血鬼に時間や年月なんて関係ないのさ。だからこの手配書は今でも有効だし、間違いねぇ。これこそ、こいつがここに留まっていることがその証拠だ」
狩人商会が発行した手配書の名前欄には『
「この吸血鬼は血を飲むだけじゃねぇ。出土品を集めて回ってるんだ。出土品を盗むついでに血を飲んでいるのか。血を飲むついでにそれを盗むのか。それは分からねぇが、こいつは偏執的に出土品を集めて、それで武装している。捕まえるのは至難の業なんだよ」
「なるほど。つまりはその
シアリスは合点がいったと、わざとらしく掌で音とたてる。ミクス伯がルシトールの言葉を補足する。
「そうなのですよ。ただ、オークション会場は厳重に守られております故、その場で凶行に及ぶということはないでしょう。めぼしい物品に目をつけて、それを買った者を襲うつもりではないかと考えております」
確かにかなり厄介な相手のようだとシアリスは感じた。潜伏した吸血鬼に付け狙われるほど恐ろしいことはない。
「けれど、今回はもう解決したようなものでは? 敵が来ることがわかっているし、吸血鬼を見分ける魔術師もいる。そこまで慌てる必要もないのでは」
シアリスは子どもらしく(言い方は可愛いらしくないが)楽観視した意見を述べる。それを否定したのはデラウであった。
「いいや、違うな、シアリス。これは負け戦だ。こやつは貴族の誰かか、その部下に成りすましている。既に成り代わられた者は死んでいるだろう。会場にてこの吸血鬼を見つけたとしても、暴れられでもすれば、人が多い会場だ。被害は避けられん。そこで会は終了。ケーヒト殿は責任を取らざるを得ないだろう」
「そういうことですか。そうなると先程ルシトールさまが申していた通り、虱潰しに家宅捜索……、ですか」
ミクス伯は肩を落としてため息をつく。憔悴しきった様子だった。シアリスは、ミクス伯がデラウをスケープゴートにするつもりだと考えていたが、どうやらそれどころでは無いらしい。既に貴族に被害が出ているこの状況に、かなり参っているらしい。
ミクス伯は話を続けた。
「現状を把握して頂けたようでなによりです……。デラウ殿が協力して頂ければ、会場での被害は最低限に収められるのではないかと……」
ミクス伯はまた溜息を吐いた。デラウは確認する。
「つまりは会場にて、
「そうですな。それしか方法が……」
「そう結論を急ぎますな、ケーヒト殿。ルシトールとやら、貴様らの吸血鬼を見破るという魔術はどれほどの精度で、どれだけの規模で可能なのだ。何人その魔術師はおる」
デラウが割りと突っ込んだことを訊くので、シアリスは打つことない心臓が、またドキリとした。大胆にもこの吸血鬼は、直接、探りを入れることを選んだ。
「いや、そのような魔術があるとは聞いたこともない。その者と会わせて貰ったほうが早いか。ここへ連れて来い」
ルシトールは険しい表情で、デラウの話を聞く。
「悪いがそれはできねぇな。うちの専売特許だ。おいそれと明かせるもんじゃねぇ」
「ほぉ、まだ理解してないようだな」
デラウが剣に手を掛け、腰を浮かしたので、シアリスは立ち上がってルシトールとの間に入った。
「まぁまぁまぁ、父上。自信があるからここにおられるのですよ。なんにせよ、彼らの力を借りなければ何もできないのですし、今は時間がないのですから」
「ふん……」
デラウは腰を落ち着ける。シアリスは一息つくと、クルリと振り返ってルシトールとミクス伯を見た。
「考えがあるのですが、よろしければ一つ、子どもの愚かな戯言として聞いていただけますでしょうか」
およそ子どもらしくないシアリスが、無邪気な笑顔を向けた。
「まずはルシトールさまにも会場に入ってもらい、吸血鬼を探して頂きます。そのために会食の時間を長めにとってもらった方がよいかと。そして見つけた吸血鬼を父に知らせてもらい、その動向を追って貰います。吸血鬼が獲物をつけ狙い会場を出たところで、二人で取り押さえる。というわけです。獲物となってもらう人には気の毒ですが、会場で暴れられるよりは被害は少なくなるでしょう」
「ふむ。単純な作戦ではあるが、悪くはない。問題は……」
デラウはルシトールを見た。
「この者が吸血鬼を見つけられるか、それに掛かっておる事だな」
ルシトールは少し躊躇しているようだ。
「も……問題ない。そっちこそ見失うじゃねぇぞ」
再び二人の間に火花が飛び始めたので、ミクス伯が慌てて細かい話を詰める。
◆
会場の皆は酒が回り始めて、次第に声も大きくなり始めた。とは言っても上級市民たちの集まりである。喧騒とまではいかなかった。酔わせた方がオークションの価格も釣り上がるというものだ。
庭に面したバルコニーに避難したシアリスは、夜空を見上げていた。都心で育った前世のシアリスは、星をほとんど見たことない。田舎に行ったときに眺めた星空も、こちらの世界の星空とは比べ物にならない。街の灯りが少なく、空気が澄んでいるからだろう。
その彼の背後には、オノンが立っていた。
「あなたの扱いについて、私は決め兼ねている。あなたは命の恩人だし、友人の命を救ってくれた。この恩は返し切れない。けれど、あなたが……」
オノンは誰もいないことを確かめてから、シアリスの背中に語りかけた。シアリスは振り返って、にこやかに答えた。
「扱いなんて言い方やめてくださいよ。僕は普通の子どもです。あなたとも初めて会ったのですから、恩人だとか言われても困ってしまいます」
次は少し近付いてささやく。
「僕たちは身近な人間を襲ったりはしません。むしろ知り合いになったことで、ここの人たちは安全になったと言えるでしょう」
シアリスは溜息をついた。
「この話はここまでにしていただけませんか。僕の父に聞かれれば、あなたも僕も命はありませんので」
「……⁉ じゃあ父親も……。ええ、わかったわ。別の話題にしましょう」
気を取り直したオノンは前髪をかき上げて微笑んだ。
「あなたのせいで酷い目にあったわ。私は社交界なんて興味がないのに。あなたの言うことを聞いたら、こんな会にも出席させられるなんてね」
シアリスはニコリと微笑んだ。
「今回のオークションの売り上げの一部が、あなたたちの懐に入ると聞きましたよ。さすがに慰労会くらいには出席しておかないと、バツが悪いですものね」
オノンは目線を逸らして耳の裏を指先で掻いた。
「そんなことより、なんだか貴族だけでヒソヒソとやっていたみたいね。どんな企みごとかあなた知らない?」
「知っていますよ。厄介事がありまして。けれど、その話は我々には関係のないことです。それよりも……。いえ、少し待ちましょうか」
「何を待つの?」
にわかに背後が騒がしくなり、その音が近づいてくる。オノンが振り向くと、やけに派手なドレスを着た女が、フラフラとバルコニーへと出てくるところだった。
トピナである。オノンの相棒の魔術師だ。
彼女は体格が良い。冒険者としてやっていくには、やはり筋肉が必要なのだろう。肩の出たドレスはその筋肉と豊満なボディラインを強調している。シアリスの魔術師のイメージとはかけ離れているが、彼女は割りと有名な魔術師のようで、このパーティが始まってすぐに人に囲まれていた。そのため、シアリスは近付かないようにしていた。
「コラコラコラ、主役がなにをサボってんだよ! あたしに全部任せっきりにするわけ?」
「トピナ……。ちょっと飲みすぎよ」
相変わらず
「おっと、そちらのお子さんは? あんたの子?」
「なんでそうなるのよ……。シアリスよ。覚えてないの?」
「シアリス? さあ?」
慌ただしい出会いではあったし、顔を暗がりだったから仕方ないが、面と向かっても覚えられていないというのは、いささか問題がある気がする。トピナはシアリスに一歩の距離まで近付いてきて、その顔をマジマジと覗き込んだ。酒の匂いがする。
「子どもの知り合いなんてほとんどいないけど。近頃、知り合ったのなんて
「ああ、闇夜仮面のことは忘れてくださると助かります。ただの
トピナは眉間に皺を寄せて、シアリスの頬っぺたを両手で抑える。
「まぁ、いいや。あたしはトピナ。魔術師をしている。よろしく、シアリス」
トピナはにこやかにそう言うと、その手からシアリスを解放した。
「ええ、よろしくお願いします。さて、話の続きをしてもよろしいでしょうか?」
「なになに? なんの話をしていたの」
「まだ何も聞いてないわ。あなたが来るのを待っていた……、のよね?」
シアリスはニッコリと人好きする笑顔で答えた。トピナはがたいは良いし、喋り方も乱暴なところがあるものの、感性は女性的である。その笑顔に頬を赤らめている。それは主役二人が集ったバルコニーを眺めていた、他の来訪者たちも同じことで、男女に関わらずシアリスの玉のような笑顔に惑わされるだろう。
こういったことが狙ってできるようになったのは、吸血鬼としての性質なのだ。潜むときは全く目立たないのに、目立ちたいときは十二分に目線を集める。カリスマ性の陰と陽を使い分けられるのは、様々な場面で役に立つ。
「実はこれからお二方の腕を見込んで、お仕事を依頼したいのです。内容は……、ここでは人目に付きますので、場所を移してから話しましょう」
「というわけで、オノンさまには、また捕まってもらいます」
シアリスは事も無げに言ってのけるが、捕まるのはオノンである。まずエルフがわざと捕まるのは難しい。
会場とは少し離れた別の部屋で話していた。ミクス伯にはこの部屋を自由に使って良い言われている。
「それで、あなたたちがコソコソやっていた作戦がこれ?」
どうやらトピナも会場での違和感に気付いていたらしい。
「ああ、それはまた別件ですね。侵入者がいたので対処しているだけです。そちらに父がかまけているので、僕は自由に動くことができるというわけです」
「厳しい父親なんだ?」
トピナが同情するように言う。
「いえいえ、心配性なだけですよ」
オノンがトピナにシアリスの正体を話していないことに、シアリスは少しの驚きを覚えたが顔には出さなかった。シアリスとしては話してもらっても構わなかったのだが、オノンなりの敬意なのだろう。
「まぁ、とにかくです。僕が自由に動けるのはオークションが終わるまでです。その間に終わらせてしまいたい」
「……」
シアリスの提案とはこうである。
オノンを狙った誘拐犯は、今この街にいるとシアリスは予測していた。前回の襲撃、誘拐からその目的地に運ぶまでが早すぎる。かなりの焦りを感じる行動だ。
ここでオノンが独り、街をブラついていれば、黒幕は必ず何らかの行動を起こしてくるはずである。オノンには捕まってもらい、襲撃者に黒幕の元まで連れて行ってもらう。それができなければ、襲撃者を捕らえて聞き出せば良い。
「多分、今も狙われてますよ。というか、この会場にあなたを呼んだのも、その黒幕の差し金なのではないでしょうか」
「ハッ! 本気でエルフ食えば永遠の命が手に入ると思ってるのか。どんな化け物だよ、その人。笑える。あ、いや全然笑えないわ。ごめんね、オノン」
「別に気にしてないよ」
トピナが言うことは、もっともである。食べただけで命が延ばせるなら、エルフは今頃狩り尽くされているだろう。例え、その力が強大で、捕獲に甚大な被害が出るとしても、権力者の欲望は尽きない。
人を食べる吸血鬼でも、人の力を手に入れるわけではない。あくまでもその血から生命力を手に入れるだけである。例え魔術師を食べたとしても、魔術が使えるようなるわけではない。吸血鬼でさえそうなのに、ただの人間がそれを行っても、結果は見えている。
「それであたしは何をしたらいいんだ」
トピナがワクワクした様子でシアリスに訊ねる。
「トピナさまは、このままこの会場でパーティを楽しんでいてください。トピナさまの姿がここにあれば、オノンさまが孤立していると思われるでしょうから、襲撃の確率は上がるでしょうから」
「嫌だ」
トピナは即答で拒否した。シアリスもそう言われそうだなとは予測していた。
「実を言いますと、この作戦について、あなたには話す必要はありませんでした。相手側の作戦に乗って、トピナさまとオノンさまを引き離すように動けば良かっただけですから。それでもこうしてお話したのは、お二方に僕を信頼してほしいと思っているからです。どうか、オノンさまのことは僕に任せて頂けませんか」
「わかった」
トピナはやけあっさり引き下がった。
「わかって頂けて何よりです。パーティを楽しんでください」
「嫌だよ。一緒に黒幕はボコボコにする」
「全然わかってないしゃないですか!」
トピナはシアリスの両肩を掴んでその顔を覗き込む。
「お前のことは信用するよ、シアリス。けど、あたしだけ遊んでるなんて絶対に嫌だ。あたしだけ味噌っかすなんて、絶対許さないから」
シアリスの肩が強く握られる。普通の子どもであれば痛くて泣き出すだろう。
「しかし、作戦を実行するには……」
バンバンとシアリスの肩をトピナは力強く叩いた。
「わかってるって、要はあたしとオノンが引き離されたように見えればいいんだろ? 任せておけって」
「どうなさるつもりですか」
トピナはベルコニーに出て、何事かを呟き始める。呪文だ。シアリスはその囁き声を、耳をそばだてて聞き取る。オノンの魔法は願い事だったが、トピナの魔法は前に会ったときは、よく理解できなかった。この場合は、魔法ではなく、魔術というべきなのだが、そのあたりの知識は、シアリスは乏しい。
呪文は声と言うよりは、音だった。言葉ではなく、機械から発せられるノイズに近い。だが不快ではない。音楽だ。トピナの身体から、吸血鬼の影の力に似た気が湧き上がるのを感じた。それが音に乗って形を取ると、中庭にトピナそっくりの幻がその場に立っていた。さらにはその横に長身の美男子が立っていて、トピナの幻影となにやら意味深な表情で話し合っている。これならば目立つ上に、なかなか邪魔をしに来るものはいない。多少は時間が稼げるはずだ。
「これは……」
「ここでこうして置けばしばらくは誰も近付からないだろ。じゃあ、外で会おう」
さっさとバルコニーから外に飛び去ったトピナを見送って、オノンとシアリスは、囁き合う幻影を後目に、なんとも言えない気持ちでその場を離れた。
オノンは帰路に着くことを、ミクス家の執事に告げると、コートを返してもらう。馬車を用意するとのことだったが、固辞して歩きで外に出た。貴族街では見回りも頻繁に行われ暴漢が出ることも少なく、街灯も一定間隔で設けられているので、暗闇に足を取られることもない。
オノンは独りで歩いている。オノンたちは貴族街の内にある、ミクス伯爵の別宅を借りている。しかし、今、歩いているのは、貴族街にある公園に向かう道だ。こちらには人は夜になれば人はほとんど来ない。
「ふふふ……なんだか……。この間は罠に嵌ったけど、こんどはこっちが罠にかける番だなんてさ。ワクワクしない⁉」
シアリスとトピナは物陰に潜み、オノンの後ろをかなり離れて追う。トピナの裾を掴むシアリスの姿は、暗闇に怯える幼い弟のようである。しかし実態は、
「静かにしていてくださいませんか。作戦が台無しになりますから!」
オノンがわざと捕まり、その後を付ければ黒幕まで案内してくれる。相手は焦っているから、簡単に済むはずだ。
オノンが公園に入っていった。気配を感じ、シアリスはトピナを物陰に押し込む。にわかに背後が騒がしくなり、松明を持った兵士たちが連なって公園の方向に走っていく。装備はこの街の兵士の正規の物で、盗賊や傭兵が変装でもしているのかと思ったが、足取りには訓練を受けた兵士特有の規律がある。どうやら本物の兵士のようだ。
いよいよ黒幕は隠れることを諦めたらしい。
「よしよし、計画は順調ですね」
シアリスは頷く。正規の兵士たちを無実の一般市民の襲撃に使うようでは、もはや黒幕とは言えない。あとはオノンが上手く捕まってくれれば、確実な証拠となる。が、鋭い悲鳴と金属が擦れるような音が暗い公園に響く。トピナがニヤリと笑った。
「楽しくなってきた!」
シアリスの掴んでいた裾を引き千切る勢いで前に行こうとするので、なんとか握力を振り絞って止めた。
「どうしてそうなるんですか⁉」
今ここでトピナが出ていったら、乱戦になってわざと捕まるどころではない。それに正規軍とやり合うことになれば、こちらが悪人にされる可能性がある。しかし、シアリスの心配はよそに、オノンの居場所ではそれどころではない問題が巻き起こっていた。
オノンの回りに兵士たちが展開し、弓矢を構えた。みな、鎖瓶薬を既に飲んでおり、わざと捕まらなくも、これだけの数は分が悪い。こちらは徒手空拳である。本気で抵抗すれば逃げ出せるかもしれないが、こちらも無傷ではすまないだろう。
不意打ちは既に回避した。痺れ毒を塗った弓矢だろうか。だが、狙った場所は致命傷になる場所のようである。何本もの矢がオノンに襲いかかった。それを跳んで躱す。脱ぎ去ったコートに矢が突き刺さる。相手が捕まえる気ならば、そんな攻撃の仕方はしない。明確な殺意を感じる。
第二射が来る。これは避け切れない。
「風の精霊さん、お願い!」
オノンが叫び指差すと、無数に放たれた矢は軌道を変え、彼女をまるで避けるように飛び過ぎる。その矢はまるで意思を持ったかのように曲がり浮き上がり、反対の兵の元へと帰っていく。射手たちの悲鳴が上がった。自分たちの放った矢が自分へと帰ってきたのだ。包囲するとき、同士討ちにならぬように角度を考えて矢を放つのは基本中の基本である。訓練を受けているはずの兵士たちは思わずたじろいだ。自分たちが相手にしようとしているものが何なのか、ようやく思い出したかのようだ。奇襲は失敗し、既にこちらには無数の怪我人。それでも簡単に引き下がることはできない。
「囲め! 逃がすな!」
兵士たちは隊長らしき男の声を聞いて我に返ると、その指示に従って剣を抜き、オノンとの距離を詰める。
「いきなり攻撃してくるなんて、とても野蛮なのね」
オノンが挑発的に口元を歪めて言うと、隊長であろう男が額に血管を浮き上がらせて叫んだ。
「黙れ、エルフ風情が! 大人しく捕まっておれば良かったものを、話を複雑にしやがって……。大人しく降参しろ! でなければ命はないと思え!」
言っていることはめちゃくちゃである。ほとんど自棄の叫びだ。命令に従わざるを得ない立場というのは、厄介なものだ。けれど今は、捕まえてくれるなら万々歳だ。
「わかった。抵抗はしないから、優しくしてくれる?」
オノンは両手を上げて降参の意を示した。
「え、捕まってくれるのか」
隊長は拍子抜けしたように言う。
「よ、よし……、大人しくしていろよ。捕らえろ」
兵士たちがジリジリとオノンとの距離を詰める。罠を警戒しないわけがない。だが相手は初めから丸腰の女一人である。魔法が使えるからと言って、鎖瓶薬で強化された兵士複数人を相手取ることのほうが不自然である。
兵士の一人がオノンの手に手枷をしようとしたとき、それは起こった。
咆哮である。大型の獣の咆哮が公園の暗闇に響き渡った。それもすぐ近くで。ほとんど兵士たちがその叫びが聞こえた方へと視線を向ける。オノンも同様に、よく手入れされた森の暗闇の奥に耳と目を凝らした。木々がなぎ倒される音。視線の先の暗闇から現れたのは、三人の人間である。
先頭は正装の男であった。ガタイが良過ぎて似合っていない。その後ろには家政のドレスを着た女が、鮮やかなドレスを来た少女を、半ば抱えるように走っている。オノンたちのようにパーティをそのまま抜け出してきたような格好だが、それぞれ武器を持っているのが不釣り合いだ。
そして、その後ろには巨大な牙が見えた。人など一口で飲み込んでしまいそうな程の強靭で巨大な二つの顎。見つめたものを恐怖で凍てつかせる四つの眼。黒銀に輝く美しい毛並み。
双頭の魔犬、オルトロスである。
犬をそのまま巨大化させたような魔物だが、二つの頭が異様を漂わせている。魔物の中でも、その脅威度は上位に位置する大物である。
「有り得ない……。こんな街の中に!」
兵士の一人が絶叫した。街とはすなわち魔物に対する防壁に囲まれた安全地帯のことだ。それであるのにこれ程の大物が街中に出現したのだ。まさしく異常事態である。
オルトロスに追われていた三人は、兵士たちの姿を認めると、こちらに走ってきた。先頭の男が言う。
「アンタら、伯爵の兵だな! 助かったぜ……。あいつだ。あいつが
兵士たちはそんなことを言われてもなんの事かはわからなかっただろうが、少なくともこの魔物を放っておいて、エルフ捕縛を優先するなんてことは考えも及ばない。すぐそこは貴族街である。もし暴れられれば、街に甚大な被害が及ぶのは明白である。部隊長は混乱していたが、やるべきことは明白である。こちらは完全武装した兵士二十五人の小隊である。多少の手傷を負っているとはいえ、既に鎖瓶薬を飲み戦闘態勢なのだ。
「全員、聞け! 任務はここに放棄する! この魔物を討ち取るぞ!」
大きな返事とともに、兵士たちはオノンを包囲から解放した。本来の仕事はこちらなのだから、手際が良い。それだけではない。魔物はこちらの混乱した様子を見ても、なかなか襲って来なかった。さすがにこれだけの数の兵士を前に警戒しているようだ。
「その娘をこちらに寄越せ。でなければ全員死んでもらう」
オルトロスが唸るように声を出した。上位の魔物の中には人語を解すものもいる。だが、本来、オルトロスは喋る程の知能は持たないはずである。
「オルトロスが喋った……。こいつ……」
オノンはその違和感に疑問を持つ。その横まで引いてきた正装の三人組の男が叫ぶ。
「こいつはオルトロスじゃないぞ……。吸血鬼の変身した姿だ! 気をつけろ!」
オノンはその言葉を聞いてさらに混乱した。吸血鬼が変身してオルトロスになる? ありえない事だ。確かに吸血鬼は変身するが、あくまでも変装程度のものである。ここまで大きく姿かたちを変えることなど聞いたこともない。
オルトロスの口が赤く輝くのが見えた。
「まずっ……。地の精霊さん、私たちを守って!」
大地が盛り上がり、オノンと近くにいた三人組たちを取り囲むように壁を築かれる。オルトロスの双口から炎が溢れ出した。土の壁に阻まれているのに、その熱を感じる。
土壁が崩れ、周囲の様子が見えるようになる。緑の公園であった場所は一瞬にして焦土と化していた。一瞬でも判断が遅ければ、辺りの木々と同様に、消し炭となっていただろう。
兵士たちはほとんどが無傷ではすまなかった。死人が出ていないのが不思議なくらいだが、こういった魔法対策に使われる鎧を着込み、霊薬を飲んでいる。もっとも今ので、その鎧は役目を終えて、文字通り燃え尽きてしまった。倒れた兵士たちを避難させるために、動ける兵士が安全な場所へ担いでいく。ただの一射にて、残った兵士は半数になってしまう。
なんとか左右に躱した無傷の兵士たちは、挟撃するようにオルトロスへと襲いかかった。大型の魔物に対しては、まずは足元を攻撃してバランスを崩すのがセオリーである。四つの足への同時攻撃。どこかが躱されても、どこかで攻撃が当たる。よく訓練された完璧な連携だった。
しかし、オルトロスがとった行動は予想外のものだった。その場で座り込んだ。いや体が溶けて脚が脚でなくなり、代わりに巨大な蛇の頭がそこから生えだした。
四足の獣を攻撃しようとしていた兵士たちは、突然のことに驚くも、攻撃を止められるわけもない。何人かの兵士は蛇の頭を切り落としたが、不意を付かれた兵士の多くは数多の蛇頭に噛みつかれ、あるいは絞めあげられ、吹き飛ばされる。悲鳴と骨の折れる音が響く。
今度の姿は、多頭の蛇、ハイドラである。無数の蛇が絡まりあったかのような姿のそれは、包囲する兵士たちに牙を掲げて応戦した。
「なんなの、この魔物……」
オノンの口から言葉が漏れる。その横で、逃げてきていた正装の似合わない男が、呆然と呟く。
「嘘だろ……。こんな強いなんて聞いてないぞ……」
蛇の首の何本かが頭をもたげ、オノンたちの方に視線を向けた。その首は明らかに他の首よりも太くなり、長い。それは少し体を縮め筋肉を圧縮すると、一気に解放して四人へと跳かかった。
正装の男と、家政の女が剣を構えて迎え撃とうする。少女を抱えて躱しきれる攻撃ではない。オノンは術を発動しようとするが、先程の防御で精霊の力を使いすぎてしまった。再発動にはまだ時間が掛かる。
(やっぱり丸腰はまずかった。せめてナイフでもあれば……)
作戦のために敢えて武装をすべて置いてきたのだが、後悔するしかない。オノンの武器には精霊が宿っている。多少の連発には答えてくれるのだ。
眩い閃光が背後から放たれ、蛇の大きく開かれた口内に飛び込むのが見えた。
「なんなんですか、この化け物は」
蛇の首を両断したのはシアリスであった。彼は小さな体と細い腕で、自分の身丈に届きそうな長さのある長剣を振るっていた。そして、その荒々しさにも関わらず、その声は冷静である。切り落とされた蛇の頭は、黒い塵となって消えていく。襲いかかってきた蛇の頭をすべて払い除けると、倒れ込んだオノンたちを見る。
「まさかあれが例の
正装が妙に似合ってない男は、吸血鬼狩りのルシトールであった。
「あいつのガキ……か。父親もバケモンなら、子もバケモンだな」
「酷いな。助けてあげたのに」
シアリスは傷付いた表情を作る。
「ありがとう。助かったわ、シアリス、トピナ」
オノンが起き上がりながら言う。
「いったい何がどうなってるのさ。あれ、なに?」
トピナは持ってきていたオノンの武器を差し出しながら、のたうち回る多頭の蛇を見ていた。
「あんなハイドラ見たことない。首が伸びるやつなんて」
先程の攻撃は明らかに首が伸び、変形していた。ハイドラの首は大小様々で、切られればまた生えてくるものだが、変形して太くなったり、伸びるようなことはない。さらに切り落とした蛇の首は、溶けるように黒い灰となって崩れ去ってしまう。シアリスはその様子を見て、吸血鬼の影の力と同様のものだと感じとった。
シアリスとトピナという援軍の登場とともに、兵士たちは勢い付き、攻め手を増やした。蛇の頭が次々と切り落とされていく。逆に押され始めたハイドラは、その首を引っ込めはじめる。それは一つに纏まっていき、竜巻のようにそそりたった。それは一瞬真っ黒になり、手が生え、足が分かれ、今度は巨大な人型となる。
「サイクロプス!」
兵士の一人が叫んだ。一つ目の巨人である。その背丈は成人男性の五倍はありそうだ。その巨体に圧倒された若い兵士が、横から飛んできた巨大な手に掴まれた。兵士の悲痛な叫びも虚しく、巨大な手に握りつぶされ、血反吐を吐き出す。サイクロプスは彼を振りかぶると、シアリスたちに向かって投げつけた。
トピナが魔術による壁を作り出し、彼を受け止める。衝撃を殺すような柔らかい壁だ。投げつけられた若い兵士はまだ絶命していなかった。霊薬による強化のお陰だ。しかし、すぐにでも治療しなければ、命を落とすことは明白である。
シアリスは息を吸い込む仕草をしてから、声を発した。
「兵士諸君、聴け! この化け物は私たちで相手をする。動けるものは負傷者を抱え、今すぐに撤退せよ!」
父が命令を下すときの声色を真似する。子どもの声ではあるが、貴族然としたその口調に兵士たちは従わざるを得ない。そのように訓練を受けているからだ。撤退を開始しようとした兵士たちを止めようと、部隊長が声を出そうとするが、いつの間にか目の前に現れたシアリスに止められた。
「これだけ派手に暴れたんだ。もうすぐ守備兵が駆けつけるよ。あなたたちがここに、その格好でいることがバレると、まずいことになるのじゃないかな?」
隊長はその言葉を聞いて逡巡をする。この子どもはすべて知っている。こいつを殺すべきか。しかし、かなりの使い手。さらには貴族の子ども。撤退するしかない。だが、エルフは。この化け物は。
「……っ。撤収する! 一人も見捨てるな!」
隊長は半ばヤケになって叫ぶと、自身も負傷者を抱えて走り出した。
「ルシトールさん。あなた達は逃げないでくださいよ。狙いはあなた達のようですから。街の中に逃げ込んだら、あなた達、死罪じゃ済まされませんよ」
サイクロプスは兵士たちには見向きもしない。どうやら興味があるのは、こちらだけということらしい。シアリスの露骨な脅しに、ルシトールは逃げようとしていた足を止めた。街の中に化け物を引き込んだとなれば、それだけでも罪に問われる。
トピナがシアリスに、逃げ出した兵士たちを指して言う。
「おい、いいのかよ、シアリス。あいつら逃がして」
「まぁ、大丈夫でしょう。彼らがどこの部隊のものか判りましたから」
シアリスとしてもまさか正規軍に所属するものを動かしてくるとは思ってなかったのだが、黒幕は相当にイカレている。もはやなりふり構ってはいられないのだろう。
「それよりも目の前のこいつです。オノンさま、まだ戦えますか」
「問題ないわ」
サイクロプスは牙を鳴らして、その単眼でこちらを睨みつけている。いや、見ているのは一人だ。ルシトールの後ろにいる少女である。彼女がなんだというのだろうか。理由はわからないが、相手の目的がそれならば阻止するのみだ。
「ルシトールさん、こいつが
再度質問する。まだ答えないようなら先にこいつを殺す。
「そうだ! こいつが
殺さずに済んだ。
「吸血鬼というのは、こんな風に変身するものなのですか」
できないことはない。いくつかの形態は持っているし、骨格も変化させることは可能である。しかし、ここまでの大きく急激な変化はできない。そんなことをすれば生命力を使いすぎてしまい逆に力が弱まるうえ、慣れない肉体に脳が混乱して、最悪意識を失うこととなる。だが、目の前の相手が吸血鬼であることは、確実である。影の力は吸血鬼か、その従徒のみが使う力である。収集家の影の力を、シアリスは感じていた。
「知るか! 普通の吸血鬼なら、オレたちだけで楽勝だったんだ……」
サイクロプスは動かずにいる。どうやら警戒しているらしい。もし、この吸血鬼がパーティにいたのならば、オノンやトピナの実力は聞いているはずだ。それに、今さっき見せたシアリスの剣技も侮ることはない。ハッキリ言えば、収集家には勝ち目はないはずである。それでも逃げようとしないのは、大事な何かがあるということなのだろうか。
吸血鬼の力を解放できないのが口惜しい。
(一瞬だけだ。目だけに集中して、力を解放してみるか)
そういった使い方をしたことはないが、やろうと思えばできるはずだ。収集家にもシアリスが吸血鬼だとバレる可能性はあるが、どうせ殺すのだ。関係ない。シアリスは聳え立つサイクロプスの巨体をしっかりと目で捉えると、影の力を解放した。
「ぐっ⁉」
思わず呼気が漏れる。力は解放され収集家がどのようにして変身しているのか判った。それよりも問題は、何か強烈な力に干渉されたような気がしたことだ。この抗い難い感じは、血への渇望だろうか、それに近いものである。溢れ出ようとする吸血鬼としての本性を無理やり押さえ込んで、シアリスはなんとか平静を装った。
「シアリス?」
オノンだけが異常に気が付く。
「……失礼。問題ありません」
収集家がその異常に気付いたのはわからないが、サイクロプスの巨体を揺すって、天に向かって咆哮を上げた。自分自身を鼓舞する意味もあるのだろう。焦土と化した広い夜の公園、燻る火たちが咆哮の振動で揺れた。
象のような平らで丸い足が踏み下ろされ、地面が揺れる。一歩、二歩と踏み込んで、サイクロプスは間合いを詰めた。離れた位置にいたつもりだったが、彼には三歩程度の距離だったようだ。
巨大な手の平が振り下ろされる。シアリスたちは四方に散った。オノンは左に、トピナは右に。ルシトールたちは下がり、シアリスは前に出た。シアリスの髪を巨人の太い指がかすめていく。長い剣が地面を掻く。巨体の股を潜り抜けたシアリスの剣が巨人の踵を削った。しかし、それだけでは倒れない。
巨人はよろめくがまるで痛みを感じないかのようだ。蛇の頭を切り落としたときもそうであったが、こいつは痛みを感じていない。吸血鬼にとっては、痛みはただの情報に過ぎないが、肉体を制御するには必要不可欠なものでもある。それを必要としていないのであれば、この巨体のほとんどが、影の力によって作られた仮の肉体であると想像がついた。
本来、影の力をこれほど大規模に使うことはできない。
吸血鬼の能力を解放して見たとき、サイクロプスの体にはいくつもの出土品の魔道具が埋まっていた。胴体を中心に、頭肩肘腰膝など各所に埋まっている。魔道具の形は様々で、決まった形のものが必要ではないようだ。影の力に取り込んだそれから、その魔力を取り出し自身のものにし、影の力の中継地点のように使っているのだ。これは収集家が身に着けた、一種の技術である。
その技術とは裏腹に、影の力を使う本体は、とても小さくか弱く見えた。手足がなく、胴体と頭のみのそれは、吸血鬼、不滅者ではありえない。従徒、それも主人である不滅者を失った従徒だ。
繋がりの絶たれた従徒は死ぬ訳では無い。主人である不滅者との繋がりは、不滅者自身が望まぬ限り消えることはない。繋がりが絶たれるときというのは、罰として不滅者が従徒に与えるときのみである。不滅者と従徒というのは主人と奴隷の関係であるので、その解消は罰とは言い難いはずだが、吸血鬼の従徒は主人がいなければ、ただの醜く弱い獣である。主人との繋がりが肉体を維持し、影の力を行使するために必要不可欠なものなのだ。
主人をなくした従徒は、影の力を僅かしか使えず、再生するにも力が足らず、吸血鬼としての飢えに苛まれ続ける。陽の光で弱体化するだけの、ただの人と変わらぬ……、それ以下の存在と成り果てる。
では『
従徒と不滅者の決定的違い。それは、不滅者は生命力を影の力に転化して保存し、肉体を再生させ何日も血を飲まなくとも過ごすことができることだ。従徒にはそれはできず人間が食事をするがの如く、人間から血を奪い続けなければならない。常にリスクを背負いながらも、狩りを続けなければならない。生命力を貯蓄できる量が、圧倒的に少ないのだ。
おそらく収集家は、狩りのために出土品を使うことを覚え、更にその魔力を影の力に利用することを会得したのだ。収集家は、足らない影の力を出土品の魔力から補い、それを手足の代わりにし、骨格のように使って巨体を維持している。そして、必要ないときは影の中の異空間に仕舞い込んでいるのだろう。
そんなことをできるとは驚きである。シアリスにとって影の力とは、何千年もの間に使い方の確立された、便利だが古びた能力でしかなかった。それが今、目の前の弱りきった従徒の工夫によって進化しているのだ。
「ハハハッ!」
シアリスは小さく笑った。こちらに来て、吸血鬼と化してからの、初めての心からの笑いである。吸血鬼は笑わない。笑ったように見えることはあるが、心身を完全に操作できる吸血鬼にとって笑いとは自ら操作して行うものである。だが、今回シアリスは何故かそれを我慢できなかった。
オノンの放った精霊の矢がサイクロプスの瞳を貫き爆発する。頭部は燃えて弾け、上半分が無くなった。それでも巨人は動きを止めず、オノンを目掛けて拳を振り下ろす。オノンはそれを下がって躱した。地面が揺れ、土埃が辺りに舞う。
「こいつ、全然怯まない!」
オノンが嘆いた。どんなに鈍感な生物でも、脳幹を吹き飛ばされても気付かないようなものはない。
「だったらこいつはどうだ!」
トピナが素早く近付き、振り下ろされたままの巨人の手に触れる。触れた箇所が僅かに輝くと、そこから亀裂が無数に走りはじめる。巨人が手を動かしたのでトピナが離れると、まるで砕けるかのようにその腕が破裂した。
亀裂はサイクロプスの肩口まで迫り、腕はその自重によって地面に落ちる。その傷口からなにやら道具らしきものが零れ落ちた。体内にある魔道具が、トピナの魔術によって砕けたのだ。頭を砕かれても動じなかった巨人が痛みに吠えた。上体が浮き、胸が逸らされる。
そこに上空から影が飛び込んできた。黒い姿となったシアリスである。翼と影を纏ったシアリスは、もはや変装などしていない。吸血鬼としての本性を
「デーモン⁉」
ルシトールが叫ぶ。それを否定するのは、その後ろに隠れていた少女だった。
「あの子も、吸血鬼……!」
シアリスの指がサイクロプスの胸骨を貫き、その中に隠れたものを掴み取る。シアリスの影の力が肉を削ぎ、巨人の胸部が炸裂した。血肉が雨のように降り注ぎ、皆のドレスを台無しにする。サイクロプスは残った腕でシアリスを振り払おうとするが、シアリスの黒い翼が触手のように変化し、その手に絡みついてねじり切ってしまう。
シアリスが手足を踏ん張ると、サイクロプスの胸部から血にまみれた肉塊が取り出される。胴体と頭しかないそれは、手足と思われる部分がいくつもの繊維で巨人と繋がっていた。どうやら収集家は、肉体を再生できないのではなく、手足を変化させることで魔物の姿を象っているようだ。
力任せに繋がった筋繊維と神経を引きちぎると、サイクロプスは一瞬硬直するが、すぐに力を失い、崩れ落ちるように倒れ伏せた。そして、跡形もなく塵となり消えていく。
舞い降りたシアリスの手の中には、収集家の本体がもがいていた。その肉塊の首筋に、シアリスの吸血鬼としての長く鋭い牙が突き立てられる。その瞬間、収集家は力を失い命尽きた。
しばらくの吸血の後、長い牙が引き抜かれる。誰も動けなかった。オノンたちはシアリスの異様に、驚きを覚えながらも味方だと思っていたし、ルシトールたちは混乱の極地にあった。
シアリスが息を吐いて空を見上げた。そして血の滴る口元を拭いもせずにルシトールたちを、人のものとは言えぬ赤い瞳で見つめた。
「その子どもを渡せ」
どこかで聞いたセリフであるとオノンは思った。サイクロプスがまだオルトロスだったときに言ったセリフとそっくりだ。オノンは脇目で三人組の一人である少女を見る。いったいこの痩せた少女の何が魔物を引き寄せるのか。
「オノン!」
トピナの声で目が覚める。眼前まで音もなくシアリスが迫っていた。爪が振り払われる。オノンは持ち前の反射神経でそれを躱すが、一瞬遅れた分、腕の皮膚を掠めた。血飛沫が舞う。掠っただけであるのにオノンはバランスを崩し、倒れ込んでしまった。当たれば確実に致命傷になる攻撃。今まで友好的であったシアリスが何故こんなことをするのか。オノンは考えたが、そこは歴戦の勇士であった。
トピナは叫びともに魔術詠唱の最後の一節を唱えると、霆の槍がシアリスに突き出された。シアリスはそれを手で弾くような仕草をするが、自分の足がオノンの矢によって地面に縫い付けられているのを気が付いていなかった。ほんのわずかの動き遅れがシアリスの防御を崩し、雷鳴を伴った閃光がその胸を直撃する。驚きを置き去りにして、シアリスの小さな体を、焼けた森の中へと吹き飛ばした。
闇の中に消えたシアリスを警戒して、オノン、トピナ、ルシトールとその仲間は、目を凝らして周囲を警戒する。だが、その警戒とは裏腹に、シアリスは姿を現さなかった。
「気配が……消えました」
少女のことを、身を呈して守っていた女が言った。
それとときを同じくして、大勢の足音が公園内へと流れ込んできた。みなが松明を持っているので、かなりの明るさになる。ようやく本物の街の衛兵たちが駆けつけてきたのである。大体の場合、間に合わないのが彼らの仕事だ。
明るくなった夜の公園は、燻る木々と燃え尽きた芝生、崩れたベンチや東屋、えぐれた大地。戦争でもあったのかという様相である。そこに居た、ドレスを着た五人は血にまみれた姿であった。兵士たちはその様子を見て、足を止めてしまった。どうすればこうなるのかという思考が、彼らを混乱させた。仕方のないことである。
「これ、どうするんだ? 黒幕は?」
トピナがオノンに近付いて訊く。オノンは自分の事だと言うのに、トピナに言われるまで完全に忘れていた。自分を襲った黒幕を探している途中であった。そして、黒幕の正体に気付いたであろうシアリスは、消えてしまった。
誰一人として今夜起こったことの全容が理解できぬまま、近付いてきた衛兵たちに事情を説明しなければならない。シアリスに関わると毎回こうなるのだろうか、とオノンは少しうんざりした。
兎にも角にも、シアリスとは話をしなければならない。自分たちはシアリスの変容を黙っておくことは可能だが、このルシトールとか言う傭兵あるいは狩人をどうするか、それが問題だ。
◆
シアリスもまた自分自身に起きたことが理解できないまま、人気のない所を探して街を
人の気配のないあばら家を見つけ、窓の隙間から入り込む。暗闇の中で自分の形を整え、落ち着こうと息を整える。吸血鬼は呼吸する必要はないが、人間のときの癖が抜け切っていなかった。
だが落ち着けはしない。
飢え。
これほどの血への渇望を感じたのは、生まれてすぐ以来である。確かにこの街に来てからは血を飲んでいないが、それも二、三日程度のことである。それだけで正気を失うほどの飢えを感じることなどありえないことだ。
あの子どもだ。ルシトールが連れていた少女。彼女に見つめられたとき、シアリスの魂に
(そうか。あれがルシトールの言っていた、吸血鬼を見分ける方法、か……)
自身の顔を爪で引き裂く。口元に垂れてきた血を飲む。こんな紛い物では満たされるわけもない。生き物の気配を感じ、反射的にそちらに視線を向ける。大きく肥え太った薄汚いネズミが一匹、部屋の角を走っていた。次の瞬間にはネズミはシアリスの牙に貫かれ、全身の血液を抜き取られていた。
足りない。全く足りない。
まるで空腹を誤魔化すために水をがぶ飲みしたときのような、得も言われぬ不快感が全身に満ちる。だが、僅かに血によって顔を覗かせた理性が、シアリスを正気に戻した。息継ぎをするように天井を見上げると、シアリスは人間の形へとその身を整えた。血に濡れた顔を袖で乱雑に拭き取り、手に持ったネズミのミイラを投げ捨てた。
(殺すか。いや、殺すのはまずい。ヤツらがなんと言おうと、自分は人間だと言えば良いだけだ。だが、デラウにこのことが知られればどうなるか……)
ルシトールたちはシアリスの正体を知った。父は許しはしないだろう。彼はときに臆病なくらいに慎重を
(このまま逃げるべきか? それとも……)
頭の中で思考がグルグルと駆け回り、良い考えが思い浮かばない。これもあの少女の影響だろうか。
(いや、待てよ。これは良い機会かも知れない)
堂々としていようとシアリスは覚悟を決めた。今の地位や生活に未練などない。デラウや人間が殺しにくるのであれば抵抗するのみ。
「楽しもうじゃないか。せっかく貰った第二の人生なのだから」
シアリスは今やもう人ではないのだ。
あばら家の隙間から外に出ると、シアリスは一人夜の街を堂々と歩いた。夜遅くに子どもが一人で出歩くような時間ではないが、街であった騒ぎのせいか、通りには意外と人が多く、誰にも咎められることなく泊まっている屋敷に帰ることができた。侍従たちには口々に、二度と独りで出歩くなと怒られた。何があったのかと聞かれたが、帰りたくなったので帰ったら道に迷ったと、適当に誤魔化した。風呂に入れられ(と言うよりかは洗い物にされた)、さっぱりとしたシアリスは、そのまま
今夜は大きなリスクを背負ったが、実りある一日だったと言えるだろう。そうおっもうことにした。充実した日々を送ることこそ、自我を保つための最良の方法だ。
落ち着きを取り戻したシアリスは、自分の中にある一つの力に手を伸ばした。収集家の力だ。それは体に馴染まず、シアリスの中で分離し、たゆたっている。不思議な感覚だ。今まで食した他の生命力にはこんな特性はなかった。
デラウは吸血鬼の血は飲めないと言っていた。だが、シアリスには飲むことができた。これはどういうことなのか、理解するには例外が多すぎる。収集家は主人を失くしたはぐれ従徒であるし、シアリスは人間の記憶を持つ、特別な不滅者である。ほかの不滅者の従徒だから血を飲むことができるのか、それとも、シアリスは吸血鬼を食せる吸血鬼なのか、収集家がはぐれ従徒だから飲むことができたのか。
これについては考えがまとまらず、堂々巡りするだけとなる。このことはデラウには話すべきではない。また秘密がひとつ増えてしまった。
だが、これは利用できるかもしれない。やるべきことをやるだけだ。
夜遅く、デラウが帰ってきた音が聞こえた。
どうやら怖がりな貴族たちを
デラウは世話焼きたちを下がらせると、寝室に入っていった。シアリスは寝巻きのままデラウのもとを訪ねる。もちろんノックで音を立てたりはしない。突然、寝室に現れたシアリスに驚きもせず、デラウは椅子に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
「お疲れのようですね」
「フン……。忌々しい貴族どもめ、いつか必ずその血を啜ってやる」
デラウは影の力によって、寝室に結界を張っている。音は漏れることはなく、近付いた者を感知する。そのためこの部屋の中では、人間であることをやめていた。
「ルシトールから何か話は」
「ルシトール? ああ、あの狩人のことか。『
ルシトールが死んでくれれば良かったと思う気持ちを隠そうともしない。自分の手を下さずに対処できれば、それに越したことはないと考えていたようだ。デラウの反応を見る限り、シアリスがバレたことは伝わっていないようである。ひとまずは安心した。
「となると、あの者たちが『吸血鬼を見破る方法』を持っていることは確実ですか。どのようにして見破ったのか、ご覧になられましたか」
シアリスは何食わぬ様子で探りを入れる。
「いいや。突然、会場で
「僕も近くまで行ってルシトールたちの戦いを眺めていたのですが、彼らが一体何をしたのかは判りませんでした。しかし、吸血鬼に対して、何らかの影響を与えることは確実です。収集家は逃げようと思えば逃げられたはずなのに、彼らにかなり執着していて、自我があるのかどうかも怪しい状態でした。あれは飢餓状態だったのではと考えていますが……」
デラウにとっては戦いを眺めていたことなど初耳だろうが、シアリスはパーティ会場には途中から抜け出していたし、それに気付かぬほどデラウは愚鈍ではない。ある程度の真実を混ぜることで、言い訳が立つ。
「つまり、奴らは吸血鬼を飢餓状態へと陥らせることができると? だが、奴が襲いかかって来たとき、私は奴らの近くにいたが特に影響はなかった。それにルシトールたちが何かをした様子もなかったが」
「おそらく何らかの条件が必要なのでしょう。あるいは不滅者には効かないのかも知れません」
不滅者に効かないのであれば、シアリスも無事だったはずだが、そんなことは話すつもりはない。デラウはシアリスに向き直り、話を先に進めるよう顎でしゃくって見せた。
「それで? 随分と熱心に語るが、どうしたいのだ。なにか提案があるから来たのだろう」
「ルシトールのことは僕に一任して貰えませんか」
「殺すつもりはないと言うことか」
「どのようにしてそれを行うのか調べあげ、禍根を絶たなければと考えております。そのうえで殺すべきか判断しようかと」
「そうか、ならば良い。好きにするが良い。どの道、奴には興味が失せた。あの程度の実力では、我が歯牙に懸ける価値もない」
この歯牙とは文字通りの意味だ。吸血鬼ジョークというところか。とにかくこれでルシトールと接触するための言い分と時間を稼ぐことができた。
「では」
話は終わりだ。シアリスは挨拶もろくにせずに早々に辞する。影となって消え、廊下にも出ずに自分の寝室へと戻った。ベッドに潜り込んで、また眠れぬ長い夜を過ごした。
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