第6話

 迎えに来た馬車は、屋根と扉がなければ辻馬車かと思えるほど質素なものだった。馭者はルシトール、ミラノル、エヴリファイの三人に、すぐに乗るように促した。彼はどこかうつろな表情をしており、ルシトールの軽口も無視した。

 城への道は整備されてはいるものの、岩山に造られたジグザグの山道である。多少の揺れは覚悟しなければならない。その分、時間も掛かるので、到着するときには日は落ちているだろう。

 黄昏色タソガレイロに染まる道を登るうちに、ミラノルは昔のことを思い出した。

(昔、この道を通ったな……。ああ、そうか、わたしの家があったんだ)

 何度も行き来した道である。三千年以上経った今でも、同じような道であることに懐かしさよりも驚きのほうが上回った。

(なんだ……。因縁ない相手だと思っていたけど、割とあったみたい)

 城はアトリエの上に建てられているとシアリスは言っていた。そのアトリエこそ、過去にミラノルが暮らした場所であり、死んだ場所でもある。その思い出の場所を、吸血鬼が汚すことを許すことはできなかった。

 城壁にある大きく頑丈そうな門を潜ったとき、ミラノルが異変に気が付く。

「ルシトール、すぐに霊薬を飲んで!」

 いきなり叫ばれても動揺せず、ルシトールは首にかけた鎖瓶薬を飲み干す。それとほぼ同時に、空気が変わるのを感じた。馬車はまだ走っているが、ミラノルは扉を開け、外に出ようとする。エヴリファイはその小さな体を変形した手で掴むと、外へと飛び出した。ルシトールもそれに続き、飛び降りる。速度が出ており、着地に足を取られて回転するも、無傷で立ち上がる。下草と霊薬の効果で助かった。走っていた馬車はその数瞬後に横転し、バラバラと砕けて屑鉄と木片に化す。馬も馭者もいなくなっている。

 馬車の外は先ほどまでの光景とは全く違っていた。

 後ろにあるはずの城壁はなく、前にあるはずの城はない。先ほどまで暗くなっていたはずの空は、澄み切った青色である。そして、日が昇っていそうな空なのに、太陽の光はないのが、違和感を助長する。自然の空ではない。

「ルシトール、気を付けて! ここはアトリエの中だよ!」

 ルシトールの少し離れた後ろの方で、エヴリファイの手からミラノルが地面に降ろされながら言う。

 アトリエ。シアリスから話は聞いていた。しかし、それは城の地下にあるということだった。いつ、自分たちは地下に潜ったのか。その疑問が一瞬、ルシトールを支配しようとするが、すぐにそれを払拭フッショクすると剣を鞘から引き抜き、構える。それは無意識の行動だった。前方に構えた刃に、斬撃が叩き込まれる。金属音が響き、ルシトールの体は背後に吹き飛んだ。

「ほう」

 感心したような声が聞こえた。ルシトールは一回転して着地する。攻撃を防げたのは、構えを怠らなかった鍛錬タンレン賜物タマモノでもある。とはいえ、攻撃が見えていたわけではない。本当に偶然に防ぐことができた奇襲である。もし、武器が上等な魔剣でなければ、そのままなます斬りにされていた。

 アドレナリンが一気に噴き出し、ルシトールの瞳孔が開く。そのうしろに、ミラノルとエヴリファイが攻撃に備えて配置についた。

(シアリスは? 裏切られたのか? 話が違うぜ、くそっ)

 ルシトールたちの前には、大剣を構えたデラウが立っていた。段取り通りであれば、ここで心を失くした奴隷たちが襲い掛かってくるはずである。シアリスも合流し、なるべく無傷で奴隷たちを無力化する予定だった。

「デラウ・オルアリウス……。なんだ、茶番はしないのか? 馳走チソウを楽しみにしてたんだがな」

 ルシトールが軽口を叩くが、その額からは汗が噴き出している。デラウが鼻で笑う。

晩餐バンサンは君たちだ、とでも言ってほしいのかね?」

「……はっはっは! あんた、道化にでもなったほうがいいじゃないか?」

 ルシトールは話を繋ぎながら、戦闘に特化した頭脳を全力で回転させる。

 戦えるのか? 撤退するべきか? 出口は? シアリスは?

 少なくともここからの撤退方法がわからない以上、背中を見せる選択肢はない。その考えを感じ取ったのか、エヴリファイが一歩前に出て、ルシトールの横に並ぶ。デラウは吸血鬼の力を使っていない。ここはシアリスの話通り、ミラノルを警戒しているのだ。これならまだ勝ち目はある。ルシトールはそう思い込むことにした。

「我が根城にようこそ。どうも私は、君たちのことを侮っていたようだ」

 デラウが一礼する。

「今更、人間らしく振舞う必要はねぇよ、吸血鬼。てめぇも息子も、まとめて棺桶に入れてやるよ」

 とにかく話を引き延ばして、状況が好転することを祈るしかない。だが、それを許すデラウではなかった。ルシトールには、彼の体が低く沈み込んだように見えた。霊薬により鋭敏になった感覚が、その動きを捕らえる。デラウの振り上げられた剣閃が、ルシトールの刃と交錯し、耳をツンザく高音を立てる。弾かれた魔剣を、筋力をもってして御すると、上段からデラウの頭部に一閃。しかし、それは彼の大剣に防がれる。一瞬、デラウの動きが止まり、その隙をエヴリファイの伸びた指が襲う。ルシトールの巨躯が押し戻され、エヴリファイの指は空を切る。そのまま五本の指は伸び続けデラウを追うが、軽々と振るわれた大剣がそれを払い除ける。

 エヴリファイの伸縮し硬化する右腕は、様々な用途に使えるが、戦闘においても有用である。金属の強度がある上に、鞭のようにしなることで、切断することも難しい。

「面白い術だ。固くしなやかで、ワズラわしい。だが、軽いな。それでどうやって私を倒す気だ」

 デラウが不思議そうにエヴリファイを見やる。挑発で相手の動揺を誘うのは、戦いの基本である。普通の人間であれば、戦うことで息が上がる。話しながら激しく動き回ることは、体力を余分に消耗するだけだが、デラウはそんなことは気にしない。

「そうか。貴様も魔物か。シアリスはホムンクルスのことを訊いてきたのは、貴様がいたからか。変わった臭いのメネルだとは思っていたが……」

 一人で納得するデラウに対し、二人は気にせず畳みかける。

 カワし、受け、跳ね、回り込む。必殺の応酬が、長く続いたように感じた。それは一分ほど戦いだったが、ルシトールには何時間にも感じた。霊薬の効果はまだ充分に残っているが、こんな戦いをしていては、ルシトールの体力は長くは持たない。それはエヴリファイも同様である。変形には相応のエネルギーを使う。効率的な変形で消耗を抑えてはいるが、いままで体験したことがないほどの速度でそれをしたことで、自身の体力がどこまで持つのか判らなくなっていた。

 この状況を打開できるのは、自分しかいないとミラノルは考えていた。二人は善戦しているが、デラウの無限の体力には敵わない。ミラノルの魔術は切り札にするとルシトールは言っていたが、そんなことを言っていては先に力尽きることになる。今は予定外の事態であった。全力を出せずに負けることほど、悔しいことはない。

 今ならデラウがこちらを警戒していない。アトリエ内の魔力を集め始める。口ずさむのは古代魔術で使われる言語である。その言葉は失われて久しいが、ミラノルにとっては馴染み深い言葉だ。歌のような呪文が空間に満ちていく。

(デラウはまだ気が付いていない……。やるなら今しかない!)

 呪文を唱え終えると、ミラノルは両手を頭の上に交差して掲げた。それは傍から見れば背伸びをしたように見えただろう。目の前で命のやり取りが行われているところで、随分と暢気ノンキに写るだろうが、本人はいたって真面目である。掲げた手の先、ミラノルの頭上、数十メートルの場所に、彼女よりも数倍大きな薄く光る巨大な球が作られていた。目立つことこの上ないが、デラウが戦いに夢中になっていることを願う。掲げていた両手を前に突き出し、狙いを定めた。

 デラウの一撃が、ルシトールの首を掠めた。これだけでも致命傷になりえる威力だが、霊薬が皮膚を守り、傷は小さかった。それでも痛みは感じる。少しひるんだルシトールにデラウは容赦なく剣を振り下ろそうとした。その攻撃の隙を、エヴリファイが硬質化した右手で突く。ルシトールを庇うのではなく、攻撃に転じた。これは非情なわけではない。お互いに信頼しているからこそできる芸当である。結果として、デラウの攻撃はルシトールに届かず、三者は距離を取って一瞬の時間が生まれる。

 その瞬間を待っていたミラノルは、魔術を解放した。上空に浮かんだ球が無数の光線へと変化し、その光線は曲線を描きながら加速し、デラウへと襲い掛かる。視界外からのこの魔術に反応するのは不可能なはずである。

 それはルシトールも同じで、攻撃しようと前進しようとするところを、エヴリファイの指が絡めとり動きを止める。

「なんだ⁉」

 腰に絡みついた何かに、悲鳴に近い声を上げながら後ろに引っ張られ転がる。その瞬間、デラウの居た位置に無数の光線が雨のように降り注ぐ。光線は衝突すると破裂し、地面がエグれ、土埃が舞う。さっきまでいた場所が消えてなくなるのを見て、ルシトールは背筋が寒くなった。

(魔術……? ミラノルがやったのか?)

 その動揺のせいで反応が遅れた。土煙の中から飛び出してきた影は、ルシトールもエヴリファイも飛び越えて、ミラノルの方へと駆け出した。

 デラウも無傷では済まなかった。額から血を流し、上半身の服は破れている。だが、まだ吸血鬼の力は使っていない。人の身のまま、あの魔術の雨を生き延びたのだ。そして、この戦いの要となるミラノルの隙を、決して見逃すことはしなかった。駆け出したデラウを止める方法は、ルシトールもエヴリファイにもない。二人が追おうとしたときには、デラウの凶刃がミラノルの目前まで迫っていた。

 ミラノルは気が付いていなかったが、デラウは二人との死闘を演じる間も、決してミラノルから目を離さなかった。常人には不可能な認識能力で、この少女を殺すことを意識していたのだ。ミラノルはまだこの体での魔術に慣れておらず、さらには実戦経験の少なさがアダとなった。

 ミラノルの首に大剣が届こうとしたとき、その間に割って入った者がいた。デラウの突撃を止めることができる者など、どれだけ体格があろうとも、常人には不可能である。だが、止めに入った者の体は小さく華奢である。それが、ドラゴンの首でも斬り落としそうな大剣を受け流し、ミラノルを抱えてデラウと体を入れ替えるという離れ業までやってのけた。

 シアリスである。

「遅くなりまして、申し訳ありません。間に合って良かった」

 シアリスはミラノルを降ろす間も、デラウからひと時も目を離さず、剣を構えたままである。ルシトールとエヴリファイも同様に脇を固め、デラウを見据えた。

 シアリスの剣は子どもの体格からすれば大剣のようなものであるが、彼はそれを軽々と持っている。彼の体重では剣に振り回されそうなのに、デラウの剣を弾いたことにルシトールは舌を巻く。が、それは表に出さずに口を開く。

「遅いんだよ! あやうく勝っちまうところだったじゃねぇか」

 息も絶え絶えながらも、悪態と強がりを言えるのはさすがだ。

「どういたしまして。けれど、お礼は後にしてください」

 シアリスはその軽口を相手にせず、状況の把握に努める。何らかの魔術が使われ、地面にクレーターができている。ルシトールの汗の量からして、それなりに善戦したことが認められる。そして、額から血を流すデラウの姿を見て、少し口角を上げた。

「随分、男前になりましたね、父上。メネル風情に追いつめられるとは、息子として情けないですよ」

 デラウはシアリスを見て、何を考えているのかは表情からは読み取れない。

「シアリス、この悪戯者め。お前が何かを企んでいるのは知っておったが、その者らと手を組むとはな。一体、どういう風の吹き回しだ」

「いえ、なに。彼らに弱みを握られまして。あなたを殺すのを手伝う代わりに、助命をお願いしたのです。わかりやすい話でしょう」

 シアリスは適当なことを言って煙に巻く。デラウはそれを鼻で笑った。

「オーキアスを殺したな。明確な敵対行為だ。もはや、言い訳は聞かんぞ」

 デラウの最後の従徒であるオーキアスを、今さっき殺してきた。少し手間取り、アトリエへの侵入が遅れてしまったが、どうにか間に合わせることはできた。デラウが直接ミラノルたちを襲ったことで、色々と予定は変わったが、これで立て直すことはできた。

 デラウが一歩進み出る。四人となったルシトールたちは構え直した。吸血鬼の力を使えない今、有利になったのはルシトールたちである。シアリスは小声でミラノルに話しかける。

「ミラノル、あなたの力は守りにのみ使ってください」

 ミラノルはその言葉に何度か頷いた。まだ、危うく自分の首がねられそうだったことからの衝撃から立ち直れていない。これ以上、慣れない魔術を使って、危険を増すことは望むところではない。さっき使った魔術の威力は思った以上の破壊力で、ルシトールまで巻き込みそうになったことに、寒気を感じていた。

 シアリスも一歩踏み出し、デラウと対峙する。

 刹那セツナの緊張の後、少しの弛緩シカンがあり、空を切り裂くような一撃がシアリスに振り下ろされた。五歩ほどあった間合いは、デラウには一歩でしかなく、その一歩も見ることが叶わない。

 デラウの本気だ。

 その一撃をシアリスは体の捻りのみで躱すと、小さく踏み込んで剣を突き込む。それをデラウは足の動きで躱した。そこにルシトールの重い一撃が降る。それは大剣で防ぎ、押し戻そうと体に力を入れる。そこにエヴリファイの鞭と化した腕が襲い掛かる。これは防げず、跳び下がって避ける。合間を切らさずシアリスは距離を詰め、剣を振るった。

 シアリスの剣技は、ルシトールたちには独特に見える。貴族の優美さだけを追い求めた現代貴族の非実戦の剣技ではなく、傭兵のような荒々しさと力強さで戦う剣技でもない。まず、こちらの世界に剣技と呼ばれるような武術の体系は存在しなかった。それは対人戦闘の機会が少ない、この世界特有の弊害だろう。それに霊薬による身体能力向上も相まって、肉体を効率よく扱うという技術は衰退していた。もしかしたら別の国に行けば事情も変わるかも知れないが、少なくともこの国ではそうであった。

 それはデラウも同様である。貴族然とした立ち振る舞いから放たれる大剣の一撃は、相手を鎧ごと両断する。優雅でありながら力強い、貴族の剣。だが、シアリスから見れば非効率的だ。人体を破壊することに、それだけの力を使う必要はない。

 剣戟の音が響く。

 シアリスの剣と手の長さでは、デラウとの戦いは不利である。だが、それを退けるほどの技量をシアリスは持っていた。この戦いのために、自身の体を完全に把握ハアクし、改造し、磨き上げていた。吸血鬼の力をお互い使えない状況であるならば、シアリスは例え一対一でも負けるつもりはない。

 既にルシトールもエヴリファイも、シアリスの加勢することを諦めていた。デラウを圧倒しているのである。ここで割って入れば、足手纏いになりかねない。

 本来であればシアリスの体ではデラウの攻撃を受けきれるはずがない。ルシトールにはそうとしか思えなかった。リーチの差は速度で埋められるかもしれないが、体重差は覆すことはできない。そのはずであるのに、シアリスはデラウの剣をまともに受け止めても、吹き飛ぶようなことはない。そして、一撃はルシトールのそれよりも重い。

 誰も気が付いていなかったことだが、シアリスの体は常人のそれとは違っていた。吸血鬼なのだから当たり前だが、その吸血鬼からしても異常である。身長は百五十にも満たないが、体重は百を超えていた。シアリスはデラウと戦うために、筋肉と骨の密度を上げ、身体能力の底上げを図っていた。身長が伸びる変化に合わせ、デラウにも気が付かれるように肉体の密度を上げていたのだ。

 通常、吸血鬼の変身というものは、ある程度の形を何種類か決めておき、それと今の体を入れ替えるというものである。大規模な変形は大量の生命力を使い、複雑な変形は不合理な肉体を形成し、予期せぬ不利益をもたらす可能性がある。例えば、人型から巨大な竜に変身するとき、竜の構造を完全に再現しなければ、血管が詰まり、手足が壊死し、心臓が破裂する結果になる。そうなると巨大化と変形に使った生命力はすべて無駄となる。

 だが、それを可能にした吸血鬼、正確には言えば従徒がいた。収集家コレクタルだ。彼は肉体の根幹部分は変形させず、手足のみの形で他の魔物の形を再現していた。そこから着想を得たシアリスは、肉体の構造は変えずに、その密度を人間の形が保てるギリギリのところまで引き上げたのである。

 これは人体を熟知したシアリスにしかできない芸当だ。シアリスは前世に置いて、肉体の構造を理解し、破壊することに一生を捧げてきたのだ。そのことについては誰にも負けるつもりはない。彼の唯一の特技である。

 デラウの大剣をシアリスは剣で受けた。その一瞬の硬直の内に、相手の剣の刃の上を滑るように、自分の刃を走らせた。防御不能の一撃。シアリスの剣の切っ先が、デラウの右の手首を切り裂いた。決して深い傷ではないものの、メネルであれば致命傷だ。デラウが大剣を取り落とさなかったのはさすがである。しかし、素早く止血しなければ失血死する。

 人間形態のまま不滅者が死んだときどうなるのか、シアリスは知っていた。自分で試したのだ。結果として、死体はただの人として朽ちはじめ、シアリスは影の力そのものとなって、自身の存在を保護することとなった。肉体を再生するのに、何十人分という生命力を消費する結果となった上、影の力のみの状態を維持するのにも莫大な力を消費した。死ねば影の力を使わざるを得ない。

 そうなったときデラウは正気を失い、ミラノルに襲い掛かることになる。デラウの強大な影の力は活かされることなく、思考能力は低下し、シアリスに俎上之肉ソジョウノニクとされるだろう。後は力尽きるまで殺し続けるだけだ。

「終わりですね。おとなしく死んでくれたりはしませんよね?」

 シアリスが天使のような笑顔で言うが、デラウが左手に剣を持ち替え、右手を少し持ち上げて力を込めると、傷口から溢れていた血が止まった。だが、影の力を使った様子はない。純粋に肉体の操作だけで止血をしたのだ。シアリスは閉口する。そんな技は前世には存在しなかった。

「長くなりそう……」

 利き手を潰したことは大いに結構だが、左手に大剣を持ち替えたところで、デラウが弱体化するとは思えない。もう一度、左手を潰せれば良いが、同じ技は二度と通じないはずだ。

 デラウが背を向けて走り出した。

 突然の出来事に誰も反応できなかった。シアリスもそうである。デラウは突然振り向くと、シアリスたちとは反対方向に走り出したのだ。

「おい、追うぞ‼」

 ポカンとした顔でそれを見送ってしまったシアリスだったが、ルシトールの一言で我に返った。先に駆け出したルシトールに続き、シアリスとミラノルを抱えたエヴリファイが走り出す。

 シアリスはデラウの唐突な行動に驚いていた。シアリスの先入観である。デラウは誇りを重んじる、頭の固い吸血鬼だと思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。これはシアリスの誤算というよりは、デラウが演じきっただけだ。そして、その演劇をかなぐり捨てて行動することで、逃走の隙を作る準備をしていたと言える。

「あいつ、アトリエから出るつもりか⁉」

 走りながらルシトールがシアリスに訊く。

 このアトリエの特性の一つだ。外から入る一方通行の扉は、オールアリア城のどこかの境界(門や扉など)のどこにでも設置できる。だが、出口は決まった場所か、管理者しか使用できない。常時の出入り口として使われるオールアリアの地下牢にある扉と繋がる場所は、この位置からはかなり遠い。決して逃げられないようにするために、ルシトールたちは出口から遠い位置に放り込まれたからだ。

 もう一つの管理者しか使用できない扉は、奴隷の村にある。デラウは管理者ではない。このアトリエの管理者は、デラウの従徒であるミグシスである。ミグシスが思えば、いつでもアトリエの出入り口を使うことができる。

「村に向かっていますね。このまま、追い続けます」

 これ以上距離を離されるわけにはいかない。ミラノルの力の効果の範囲が、どれだけあるかは正確には判っていないが、十から二十メートルほどしかないとシアリスは予測している。そのことをデラウに気が付いかれたら、確実に逃げられる。

 全力疾走でしばらく走り続けると、ルシトールが遅れ始めた。もともとの体躯の大きさから持久力がある方ではないし、霊薬の効果も切れてきたようだ。

「先に行け……。鎖瓶薬を……。息を……整えて……」

 そう言い終える前には、すでにルシトールははるか後方である。シアリスは振り返りもせずに走り続ける。村までは真っ直ぐ進むだけだ。予備の鎖瓶薬も持っているようであったし、すぐに追いついてくるだろう。エヴリファイとミラノルが付いてきているのを気配で感じる。

 とにかく急がねばならない。ミラノルの力の効果範囲に、デラウを収め続けねばならない。


 村に着いたデラウは、ミグシスの姿を探した。一目で見当たらなかったため、その名前を叫ぶ。こうすればミグシスは姿を現さなければならない。ゆっくりと歩きながら姿を現したミグシスに対して、デラウは苛つきを覚える。

「扉を開けろ」

 一言だけ告げる。外に出て兵士に戦わせれば良い。ミラノルさえ仕留めてしまえば、シアリスがいようとも自分が勝てると、デラウは考えている。それで済む話だった。だが、ミグシスは両手を軽く上げて、何の話か分からないとでも言うように何もしない。

「早くしろ!」

 デラウはまた叫ぶ。後方にシアリスが迫っている。

「シアリスさまがお見えですよ? もう少し待ってから出られた方が、手間が省けます」

 この状況を見てもまだ、ふざけたことを言うようなミグシスではないはずだ。デラウはようやく違和感に気が付く。奴隷たちの気配がない。もし、外で仕事をさせているにしても、一人も村の中にいないことなどあり得ない。

 奴隷であった住民は、すでに避難済みであった。シアリスが戦いに遅れたのは、彼らを避難させるのにも、少し手間取ったからだ。彼らは強く洗脳されており、意識がオボロげな者もいた。そんな人物が四百人以上もいたのだ。オノン、トピナと力を合わせても、まとめて移動させるのは容易ではない。

 デラウ目の前にいる自分の従徒を見た。より深く、より詳細に見る。それは確かに自分の従徒である。影の力の繋がりも感じる。だが、何かがおかしい。

「貴様、ミグシスではないな……」

 一体、どうなっているのかは理解できなかったが、デラウの行動を素早かった。その胴体に手を突き入れると、心臓を引き抜き、潰した。従徒の体が地面に倒れ込む。ミグシスであった従徒の顔は、シアリスの従徒ナバルへと変貌した。

 シアリスが何かの小細工をしたのだ。ミグシスを殺し、デラウ自身に悟られぬように、ナバルにミグシスを演じさせた。従徒とその主である不滅者は、影の力で繋がっている。もし、従徒が死ねば、不滅者は気が付かないはずがない。そうであるのにも関わらず、デラウは、ミグシスが死んでいて、ナバルと入れ替わっていることに気が付くことができなかった。

 シアリスの従徒には、シアリスと同じ力が宿っていた。それは食った吸血鬼の力を引き継ぐという力である。シアリスはデラウの従徒の一人のモビクでそれを実験していた。モビクをナバルに食わせて、いつデラウが従徒の死に気が付くかの実験だ。結果、デラウはひと月の間、モビクが生きていると錯覚していた。

 シアリスは実験の結果をもとに作戦を立てたのだ。ナバルにミグシスを食わせ、デラウに誤認させる。この場に誘い込むために。

「忌々しい‼」

 デラウはその力を自身へと奪い返すために、心臓から取り出した影の力を飲み込む。この従徒が正気を保っているのであれば、ここでは力を使えるはずだと、デラウは考えた。影の力を解放し、従徒から取り戻した力を自身に吸収する。これでアトリエの管理者としての力を使えるようになる。

 デラウが手をかざすと、空間に扉が作られ始めた。

 シアリスが遠くから叫ぶ。

「トピナさま!」

 デラウは自らの周囲に浮かぶ三角形の物体に気が付く。なぜ今まで気が付かなかったのか。村の中央付近に立つ、二人の女が目に入った。

 魔術師トピナの肩に、軽く手添えるように置く精霊使いのオノン。

 どうして彼女たちがここにいるのか。その疑問を紐解く前に、デラウの思考は途絶した。出土品『鱗』の作り出した力場が、デラウの心臓を通った。黒い力の奔流が、周囲の空気を巻き込んで爆発し、鱗はその力に耐えきれず霧散する。シアリスは片手を上げて、エヴリファイの歩みを止めさせた。これ以上近付くのは危険だ。

 デラウの吸血鬼の力を肌で感じる。エヴリファイから降りたミラノルも、相手の次の行動に備えるために身構えた。

 力の奔流が弱まり、空に伸びる一筋の黒い煙となる。その直線との地上の接点が爆発し、そこから飛び出した翼が、ミラノルに向けて凄まじい速度で迫った。シアリスとエヴリファイが割り込まなければ、彼女は鷹にサラわれる鼠の如く、上空へと連れ去られていただろう。

 攻撃をサエギられ、浮かび上がった影は、今までのデラウとは似ても似つかない姿であった。

 血管の浮き出た青白い皮膚。開ききった瞳孔。長く尖った耳。そぎ落とされたような鼻。背中から生えた蝙蝠のような大きな翼。猛禽を思わせる鉤爪。異様に伸びた鋭い牙。悪魔を彷彿とさせる姿のデラウは、甲高い声で吠えた。上空を旋回し、獲物を狙う。その血走った眼が捉えるのは、ミラノルのみである。

 シアリスの誤算は、デラウにはミラノルの力が覿面テキメンであることだ。収集家との戦いのときは、彼は理性を失っていたものの、言葉を使い、技術的な能力を使って戦っていた。シアリスも暴走したが、攻撃を受けたことで正気を取り戻すことができた。それに対して今のデラウの様子は、明らかに違う。もはや知性は感じられず、飢えた肉食獣のような狂気に満ちている。吸血鬼としての真の姿を晒していた。

 再び吠えた吸血鬼は、急降下を開始する。確かに速度はあるが、直線的すぎる動きだ。背を向けて逃げる獲物には効果的だが、迎え撃とうとする敵に対して行うものではない。デラウの目には他の敵対者の姿すら写っていない。ただ、本能に従って狩りをするだけの、野獣と化していた。

 シアリスとエヴリファイが身構えるが、その前にデラウが空中でよろめいた。離れた位置にいるオノンの放った三本の矢が、すべて命中した。矢はそれぞれ別の、常識外の軌道を描き、ほぼ同時にデラウを貫いた。矢は翼の付け根、右腕、右脚を撃ち抜く。すべてが致命傷ではなく、動きを止めるための攻撃だとわかる。

 クルクルと回転しながら落ちるデラウは、ミラノルの位置からかけ離れた地面に激突した。どんな魔物もこれだけの速度で墜落すればただでは済まない。土煙の中、起き上がったデラウも、無傷とはいかなかった。再生は凄まじい速度で行われるが、しばらくは(それでも数秒であるが)動くことは難しい。

 ようやく追いついてきたルシトールが、雄叫びを上げてデラウに突進した。例え正気を失っていても、この雄叫びを無視することはできない。デラウはルシトールを迎え撃とうとするが、トピナのイカヅチに大腿を貫かれ、体勢を崩した。ルシトールの振り下ろした一撃が、デラウを肩から切り裂く。不死斬りによる一撃である。全く痛みを感じてないようなデラウであったが、この攻撃には絶叫した。本能がその攻撃を避けるために、距離を取ろうとする。

 戦いは有利に進んでいる。この調子で相手を文字通り釘付けにすれば、あとは時間の問題だ。作戦通りに物事が進んでいた。だが、シアリスは少し残念に感じた。もっとデラウには楽しませてもらえると思っていたからだ。

 そもそもこの作戦は、はじめから破綻ハタンしている。

 シアリスの体力は、人間の状態では有限なのだ。寝る必要がないのも、食事を取る必要がないのも、作られた体だからではない。再現された人間の体は、影の力にからその力を補充している。食べる必要がないのも、寝る必要がないのも、影の力があればこそだ。このまま戦い続ければ、シアリスの限界が訪れたとき、二匹の吸血鬼によってミラノルは捕食されることになる。

 これは誤算ではない。はじめからシアリスは作戦を実行するつもりなどなかった。

 距離を取ったデラウを追い、シアリスは影の力を使ったその圧倒的な速度をもって、その首筋に自らの牙を突き入れた。


 シアリスの特殊能力は、本来はすべての吸血鬼に備わっているものなのかもしれないが、それを確かめる術はない。それをシアリスは意識して操ることを会得していた。

 血を飲むという行為は、生命力を取り込むための捕食である。だが、魔物である吸血鬼には、もう一つの理由がある。

 儀式だ。

 吸血鬼は、牙を使って皮膚を食い破り、そこから血を吸う。その牙にはもう一つの力がある。それは人間の魂を捕らえるというものだ。牙を差し込まれた人間は、魂を破壊され、魂を捕食される。吸血鬼の牙の一撃が、確実に致命傷となる理由である。これは吸血鬼の本能とも言うべき、儀式的な役割を果たす。吸血鬼はただ血を飲むだけでは、満足できない。噛みつき、魂を破壊することで、一時的な充足感を得ることができる。シアリスはこれを魔術的な儀式、不滅の魂を維持するための術の一部であると予測している。

 そして、噛みつかれても魂を破壊されない者もいる。魂が影の力で構成されている者である。それはつまり吸血鬼のことだ。吸血鬼が吸血鬼に噛みついても、その魂を破壊することはできない。

 シアリスはその破壊されない魂を吸収し、この魂をそのまま自分に取り込むことができた。これに気が付いたのは、本当に偶然である。収集家コレクタルとの戦いのとき、シアリスはミラノルの力の影響を受け、暴走してしまった。しかし、最後の残った自我によって、ミラノルをがむしゃらに襲うのではなく、収集家に噛みつき、その血と魂を貪った。そのとき、シアリスは収集家の魂を自身に取り込むことに成功したのである。本来であれば、肉体から離れた魂に、記憶などの物理的な要素は保存されないが、吸血鬼の場合は別である。その魂は影の力によって構成され、再生の際に記憶を取り戻すことができるようになっている。

 シアリスは取り込んだ魂に自らの意識を繋ぎ、記憶を再現し、力を吸収することができた。これはシアリスに与えられた特別な能力と言っても過言ではない。本来はすべての吸血鬼に備わったその力は、ミラノルの力に当てられたことによって暴走し、目覚めることになる。そして、その力に抗い、自我を取り戻したことで、操ることができるようになった。


(まぁ、そんなことは僕には関係ない)

 突き立てた牙から流れ込んでくるのは、血液ではなかった。

 デラウの記憶を感じる。二千と七百年と三十六年。ほとんどが曖昧で、霞がかったようにはっきりしない。

 そんなことよりもこの膨大な力を一滴残らず飲み干すことに苦戦した。シアリスの予想よりもすっと多い。デラウが貯め込んだ生命力は、五十万人分を超えていた。日々の体の維持のために消費してきた分を差し引いても、ほぼ毎食のようにメネルを捕食してきたに違いない。これだけの人数を犠牲にしてきたことを、多いと思うべきか、少ないと思うべきか。

 シアリスが溢れる影の力を制御しようとしていたところで、その意識は真っ白になった。

 体内に取り込んだデラウの記憶が、シアリスに話しかけてきた。

「シアリス、なぜ、こんなことをする」

 デラウの姿は、人の姿であった。いつもの、デラウだ。困惑しつつも平静を装い、デラウに言い返す。

「わかりませんか、父上。いや、あなたは理解しているはずだ。それとも忘れてしまったんですか? この世界に生まれたときに、下された命令を」

 デラウは沈黙した。シアリスは話し続ける。

「ああ、そうか。本当に忘れてしまったんですね。哀れだ。やはり、僕の行動は間違っていなかった。あなたは死すべき人……、いえ、失礼。死すべき吸血鬼だ」

 シアリスは大きな溜息を吐いた。

「だって、そうでしょう。あなたの晩年は酷いものだ。これだけの人数を虐殺してきて、最期はとして死ねると思っているのですか? ありえませんね。僕たちのような化け物は、壮絶で、最悪で、劇的な最期を迎えるべきなのです。だから、僕はあなたを殺す。自らが生み出した化け物に殺されるなんて……、すごく、劇的だと思いませんか!」

 シアリスは興奮するように言った。

 対してデラウは何も言わず、影となって消えた。これはただのデラウの意識の残滓だったのかもしれない。

 同時に白い意識は現実へと戻され、噛みついた首筋から溢れる影の力が、アトリエ内に霧散していく。

 

 黒い力が放射され、近くに居たルシトールとトピナを吹き飛ばす。倒れ込んだ二人に、オノン、ミラノル、エヴリファイの三人は駆け寄り、彼らを助け起こした。

「何が起こったの⁉」

 突然、体を投げ出されたトピナは、困惑した様子で叫ぶ。オノンは彼女を支えながら、その問いに答えた。

「シアリスが吸血鬼の力を使ったみたい」

「なんでだよ! 力は使えないんじゃなかったのか」

 ルシトールが起き上がりながら言うが、ミラノルが訂正する。

「使ってはいけないってだけ。シアリスは力を使うことはできたけど、使わなかっただけ。今のシアリスは、力を使っても暴走しなかった。わたしたちはシアリスに騙されてたみたい……」

 シアリスはミラノルの近くにいた。デラウよりミラノルの方が近くにいたはずなのに、吸血鬼の力を解放したあとも、彼女には目もくれずデラウに襲い掛かったのだ。聞いていた話とは違う。

 ミラノルがそう言う間にも、黒い力は渦巻く奔流ホンリュウとなって広がっていく。それは竜巻のように上空へと伸びると、空間の境界に当たり、四散していく。青空にしか見えないが、そこがこのアトリエの外壁、あるいは天井に当たる部分なのだ。

「シアリスは、いったい何をしたんだ?」

 トピナがその竜巻を見ながら言う。これでは近付くことは難しい。あの黒い力は魔力の塊だ。近付けば、肉体ともども魂までバラバラにされることだろう。

「シアリスが、デラウに噛みついたように見えた」

 エヴリファイが答える。

「それって……」

 オノンが口を開こうとしたとき、地面が揺れた。揺れは収まらず、地面がめくれ上がり、ひび割れ、傾く。それは地面だけではない。空も同様に破壊されていく。竜巻が周囲を削り取るように広がっていくのが見える。

「これは、まずいんじゃないか……!」

 ルシトールが風に飛ばされまいと、しっかりと踏ん張りながら叫んだ。ミラノルの腰を掴んで、彼女を風から守ることとも忘れてはいない。

 このままでは、ここも飲み込まれるのは時間の問題だ。だが、脱出するには、この竜巻を迂回して、出口を目指す必要がある。ミラノルの判断は早かった。

「みんな、わたしの周りに集まって!」

 そう言い終わったときには、詠い始めていた。ミラノルの周りに周囲の魔力が集い始める。皆が慌てて、ミラノルの周りを囲う。その数秒後に地面は崩れ、今まで立っていた場所は奈落へと変わっていた。ミラノルが作り出した部屋は、アトリエ内の空間に浮き、ルシトールたちを支えた。

「危ねぇ!」

 何もなくなった下を見ながら、肝を冷やしたルシトールが言う。

「これって……、古代魔術? どうなってるの⁉」

 トピナがミラノルを見ながら言うが、ミラノルに応える余裕はない。竜巻がすぐそこまで迫っていた。

(このまま、このアトリエを脱出する……)

 ミラノルがそう考えたとき、竜巻から伸びた無数の力の線が、ミラノルたちを包んだ部屋に直撃する。線はその壁を圧迫し、衝撃がみなを揺らした。天地が入れ替わり立ち代わり、激流を行く木の葉のように、ミラノルたちを翻弄する。それでも部屋の形を維持しようと、訳もわからないままミラノルは魔術を続けた。

 それがしばらく続いたとき、ミラノルの意識は途絶えた。意識が遠のくのを感じることもできないほどの衝撃が、彼女たちを襲った。


 ◆


 自分がどこにいるのか理解するのに数秒かかった。この皮膚を圧迫するような感じは、誰かの精神世界だ。ミラノルは誰かの精神世界へと、無意識のうちに入り込んでしまったのだと悟る。

 暗闇でどこにいるのかもわからなかったが、手探りで周りを確認すると、自分が小さなな筒状の物に押し込められているのだとわかる。天井を手で触ると、力を込める必要もなく蓋は開き、外に出ることができた。

 ミラノルが入っていたのは、大きめの青いゴミ箱だった。ビルとビルの間の路地。陰に置かれたそれは、誰にも気に留められることはなく、ただ日陰に存在している。気にするのは烏くらいだろう。外に出ようとすると、ゴミ箱は倒れてしまい、ミラノルは一回転して頭を打つ。悶絶して、しばらくのた打ち回るが、ここが精神世界だと思い出す。意識すると、痛みは完全に消えた。忘れないようにしなければならないのは、自分の体を完全にコントロールできるこの世界でも、肉体は精神に影響を及ぼすということだ。前にオノンの世界で鯨に体を変化させたとき、自分の意識も鯨に変わってしまい、魔術を忘れて元に戻ることができなくなってしまった。

 路地から外に出ると、そこはどこかの街。ビルが立ち並ぶ、商業地区である。コンクリートで作られた建物に、アスファルトで綺麗に舗装された道路。歩く人はみな着飾っているように見え、四角いカードのような道具を持ち、時折それを眺めて一喜一憂している。中には虚空に話しかけている人物もおり、どこか異様な光景だ。自分もあんな風にスマートフォンを、四六時中眺めなければ生きていけなかったことを思い出す。

(日本語……。この記憶は……)

 忘れていた言語が思い出されていく。話し声、看板の文字。理解できるようになると、目が痛くなり、耳鳴りがした。懐かしさも感じるその文字列の複雑さに、一瞬、眩暈メマイがする。

 そうだ。ここは故郷の街だ。自分が生まれ育った街の一角。これは自分の記憶なのかと考えたが、何かが違う気がする。

(シアリスの記憶……、なのかな)

 ミラノルはこちらの世界で生まれ変わったあと、ずっと探していたのにも関わらず、自分と同じような境遇の他世界の住人に出会ったことはなかった。

 前の人生では、元の世界に戻ることを研究し、古代魔術と呼ばれる空間を操る魔術を作り出した。結局、元の世界に戻るという試みはうまくいかず、不運にも早逝ソウセイしてしまったものの、日本という国で生きた時間よりは長く生きることになり、恋人となる人物とも出会うことができた。そして、今のミラノルという人生では、もう戻りたいとも思ってはいない。体感時間ではミラノルの生きた時間は三十年ほどのことだが、実時間では三千年も経っている。戻ったとしても、もはや人類すら残っているかわからないと思っていた。。

 諦めかけていたところに、こうして同郷の人間を見つけることができたというのは、嬉しいものだ。それが例え、吸血鬼と化していたとしても。

 けれど疑問が残る。シアリスは、ついこの間こちらに転生してきたばかりのはずだ。それなのにミラノルが知っている日本という国と、記憶の齟齬はない。考えもしなかったが、こちらの世界とあちらの世界では、時間の流れが違うのかもしれない。こちらの世界での三千年は、あちらの世界ではもしかしたら、数年に満たないのかも……。そうなると、自分は浦島太郎にはならないで済む。

 もう一つ、重要なことがある。

 あちらの世界では、人間以外の知的種族が存在しないことだ。

 この世界には、魔物や悪魔と呼ばれるような、話すことはできるのに、残虐過ぎて話し合いにはならない種族が多くいる。そういった種族が、もし、シアリスの中に宿っていたのなら、決して和解することはできないだろう。しかし、あちらの世界から来た人格が、吸血鬼に宿っているのなら、希望はあるはずだ。同じ日本人であるし、倫理感も価値観も近いはずである。

 シアリスは嘘をついたが、それは何かの事情があったのかもしれない。少なくとも元人間であるというシアリスの話したことは本当であった。ずっと心に引っ掛かっていた、吸血鬼に騙されているのではないかという、最大の疑念は払拭されたように思えた。

 多くの人物が行きかう道の中、ミラノルは明らかに浮いた格好である。戦いのための頑丈な革製の服に、小さなナイフまで下げている。それなのに通り過ぎる人々は、全くミラノルを気にしてはいない。ぶつからずに済んでいるところを見ると、認識していないわけではないが、気にはしていないようである。

(これは、ただ再現された記憶でしかない。オノンのときは森だった。シアリスの場合は、都会の喧騒ケンソウってわけね)

 ミラノルは自分を納得させると歩き始めた。どこかにシアリスがいるはずだ。それは人間の形をしていないかもしれないが、見れば一目でわかると根拠なく確信している。

 少しの間、歩き続け、何かがおかしいと思い始める。道に変化がない。それどころか同じところをグルグルと回り続けている気がする。試しに見つけた暗い路地に入ると、そこにはミラノルが出てきたゴミ箱が横たわったままだった。ミラノルはなんとなく、ゴミ箱を元の位置に戻した。曲がったつもりはないのに、同じところに戻ってきてしまった。精神世界では物理法則は無視される。

 路地の奥へ進み、反対側の道に出てみたが、今度は道路を挟んだ反対側にでただけであった。どこかに道をこじ開けることもできるが、他人の精神を無理矢理、弄繰イジクり回すのは危険そうだ。とにかく、何か変化を探さなければならない。

 ミラノルは呑気に、道の端の花壇の淵に腰掛ける。精神世界では時間の流れは速い。オノンの世界にいたときは、何時間も居た気がしたのに、外に出てみれば数分しか経っていなかった。今回も同じだとは限らないが、今は出る方法がわからないのだから仕方がない。

 道行く人々を観察していると、おかしなことに気が付いた。みなの顔がどこか曖昧なのだ。目も鼻も口もあるが、ぼやけたようになっていて、しっかりと認識できない。そして、同じ人物が何度も道を通り過ぎている。彼らもまたループしているのだ。だが、そうした通行人の中に、顔がはっきりと見ることができる人物がいた。彼はどこかおとなしそうで、印象の薄い顔をしているが、ぼやけてはいない。中肉中背、これと言った特徴はなく、服装も地味だ。だが、どこか目を引く。どこか不気味である。何故か見覚えがあった。

 ミラノルは立ち上がった。彼がシアリスだと確信した。今の美少年の姿とは似ても似つかない姿だが、他に選択肢はなかった。

 だが、話しかけようとして、やめた。

 彼がこの街でどんな行動をするのか興味があった。もしかしたら、別のシーンへと移れるかもしれない。ミラノルは彼の後ろに少し離れてつくと、あとをつけた。ほんの好奇心である。この小さな子どもの体は、ミラノルの思いとは裏腹に、たまにこういう行動をしてしまう。

 彼は路地、ミラノルが出てきた路地だ。そこに入っていった。ミラノルはその角から様子を覗う。彼は路地の途中にあるゴミ箱に目を付けると、何かを考えるようにそれを見つめ、蓋を開けて中を確認した。そして、また閉めると、もう一度開けてみる。その行動は、そこにあるはずのものがないということを、不思議に思っているように見える。

(何してるんだろう)

 しばらく観察していると、気を取り直したのかゴミ箱から離れ、彼は道の奥に進んだ。慌てて追いかけようとするが、その前に目の前が暗転した。鼻が潰れ、ミラノルは思わず後ろに下がる。壁にぶつかったのだ。意識を集中して、痛みを取ると、ようやく目が開けられた。

 別の街だ。家々が立ち並ぶ。先ほどとは違って住宅街のようだ。いわゆる閑静カンセイな住宅街と言うやつだ。昼の間は、ほとんどの住人は学業や業務のため、この街からいなくなる。味気ない色合いの、出来合いの家々が立ち並ぶ。ミラノルはこの場所にも見覚えがあった。

 道の先に、彼を見つけた。軽快な足取りで歩く姿を見るに、鼻歌でも歌っているのかもしれない。彼は、さっきは持ってなかった少し大きめのバッグを持ち、一つの家に入っていく。鍵を開け、玄関の中に消えた。

 良く知っている家だ。表札には『野呂』と書いてある。野呂美玲、前世の自分の名前を思い出した。ここは自分の家だ。ミラノルは混乱した。いつの間にか自分の記憶の中に迷い込んだのだろうか。だが、彼はいったい誰なのだ。どうして鍵を持っているのか。

 そうだ。思い出してきた。自分はあの男に会ったことがある。忘れようとしていた記憶。思い出そうともしなかった記憶だ。胃液が上がってきた気がして、思わず口を押えるが、少しの呼吸でそれは落ち着いた。

 奴が鍵を持っている理由は判った。美玲本人から奪ったのだ。嫌な予感がする。ミラノルは玄関のドアの前に立つと、一呼吸ついてから中に入った。

 玄関を開けた瞬間、笑い声が聞こえた。知らない笑い声。テレビの音が聞こえる。それはくだらないバラエティ番組で、お笑い芸人が面白くもない内輪ネタを披露している声だった。リビングの戸は空いており、暗い廊下に光が漏れている。家の中は記憶よりも雑然としている。家族の靴は、美玲のもの以外は揃っている。ミラノルは靴も脱がずに上がり込んだ。少し抵抗があったが、ここは本物の家ではない。そう言い聞かせ、リビングを覗いてみる。

 肺から絞り出したかのような、短い悲鳴が聴こえた。自分の悲鳴だと気が付くのに、数秒かかった。

 暗く、ブラインドの閉められたリビングには、テレビの光だけが辺りを照らしている。リビングの奥、ダイニングの椅子に、三人の家族が、頑丈なテープで巻かれ固定されていた。幼い男の子と、中年の夫婦。彼らは、自らの血だまりの中に腰掛け、生気なくテーブルを見つめている。彼らの首にある裂傷が、彼らが絶命していること告げていた。

 テレビを見て笑っているのは、特徴のない男だった。彼はソファ座り、バラエティを見て笑っている。その手には、血の滴るナイフを握りしめ、頬や服には返り血がまばらに飛び散っていた。

 ミラノルの上げた悲鳴には気が付かない様子で笑っている。

 この異様な空間に、自身を見失いそうになる。過去に戻り、野呂美玲として、この男を殺したくなる。だが、ミラノルはどこかに冷えた芯を持っていた。以前の自分では考えられないほど、冷静でいられた。それはこのホムンクルスの体のおかげか、自身が成長したからなのかはわからない。

「シアリス」

 静かに男に呼びかけた。男は振り返る。そのときには、その特徴のない顔は、シアリスの幼く美しい顔へと変わっていた。

「ミラノル。どうしたんですか、怖い顔で。あれ、どうして、あなたがここにいるんですか?」

 シアリスは一瞬で自分がどこにいるのか理解した。ミラノルは背筋に悪寒を感じた。彼の貼り付けた笑顔を、これほど恐ろしいと感じたことはない。

 オノンの精神世界とは全く違う。オノンは自身の意識を、大樹と化していた。それは無意識の現れだ。そして、エルフに相応しい精神の形に思える。

 だが、彼は違う。彼は相手に合わせて姿を変えた。まるで、自分自身の姿など無いとでも言うように。そして、無意識であるのに、意識があるように見える。この殺人現場にいることが、当たり前かのように振舞っている。どのような精神なら、そんなことが可能なのだろうか。

「ここは……。私の家だからよ」

 絞り出すように声を出すと、シアリスは天使のような顔を傾げて、一瞬考えた。そして、ポケットからカードを取り出す。学生証だ。顔写真付きのそれは、ミラノルの過去の情報が乗っている。

「もしかして、美玲さんですか? へぇ、驚いた。世間は狭いというか。別の世界に生まれ変わったのに、またこうして出会うことになるなんて。とっても不思議ですねえ」

 シアリスのその言い方が、まるでなんてことないことを話しているようで、ミラノルは体の奥底から来る震えに耐えなければならなかった。これは恐怖だけではない。

「どうして。どうして、わたしだけじゃなく、家族まで殺したの」

 ミラノルは震える喉を押さえつけて、シアリスに訊ねる。

「ああ、これですか。まずは謝罪させてください。あなたが転生しているとは思ってもみなかったのです。これでは彼らを殺したのは、無駄でしたね」

 無駄。

「質問に答えてないわ」

 震えが治まっていく。ミラノルの怒りが、恐怖を克服し始めた。

「すみません。そうですね。あなたを殺したあとに、死体を回収しにいったのですけど、隠した場所に見当たりませんでして。確実に殺したと思ったのですが、なぜか奇跡的に生きていたんだと思ったのです。まさか、転生すると死体が消えるなんて、思いもよらないじゃないですか。それで隠しておいたあなたの荷物から、住所を確認して、帰ってくるのを待っていたのです。が、残念ながら、三日も待ったのに帰ってこない。だから、顔を見られているし、これはもう一貫の終わりかと、諦めていたのですが……」

 シアリスはいったん言葉を切った。

「でも、良かった。後悔していたのです。僕に贖罪の機会を頂けませんか。僕の最期はみじめなものでした。逃亡生活、孤独な人生、もう御免です。僕は新しい体と、新しい世界を手に入れた。これは神様がやり直しのチャンスをくれたとしか思えません。そして、殺してしまったあなたが、こちらの世界で生きているなんて。奇跡としか言いようがないですよ」

「なぜ、殺したの?」

「……」

 ミラノルはもう一度訊ねた。

「ですから……、あなたを待ち伏せするために、家にいる必要あったからです。そうなると、あなたの家族は邪魔ですから。もちろん、無闇に殺したくはなかったんですよ。リスクが高くなる。でも、あのときは僕も冷静じゃありませんでした……。結局、無駄に終わって、無駄に恐れてしまった。ずっと気がかりだったんです。あなたがどこに消えたのか。でも、これでスッキリしました。五十年もあなたを探し続けていたんですから」

 無駄。邪魔。

「シアリス。あなたは、わたしの家族の命を、無駄だと言うのね」

 シアリスはミラノルのその静かな怒りを感じ取ったのか、表情を引き締める。

「申し訳ありません。謝罪します。失言でした」

 その様子は本当に失言だったと思っているように見える。だが。

「じゃあ、わたしを殺したのは? わたしはあなたに何かした?」

 静かに言う。

「それについては、言い訳のしようもないです。あなたはただ生きていた。八つ当たりで殺されただけだ。それが理由です。僕の人生は、どうしようもないものでした。そういう人間の屑でした。でも、今は、今の人生では、そうならないように努めています! それは信じてください」

 ミラノルはそう必死に言うシアリスが、少し可笑しくて笑ってしまった。

「シアリス、わたしは二度の転生をした。これもすごい奇跡だと思わない? そして、あなたに会うことになった。どういう確率? 本当に不思議」

「そうですね。不思議です。こうして精神の中で、あなたと対話する機会を得ることができたのも、奇跡と言えるでしょう」

「そうだね。本当に、そう。そうじゃなければ、あなたやわたしが転生してるなんて、思いもよらないもの。一度目の転生では、家族のいる元の世界に戻ることを望んだ。二度目の転生では、家族を殺した犯人に出会った。本当に、不思議。この転生で、学んだことは多いけれど、二度目でようやく確信できたことがあるわ。あなたにも共有したい」

「それは興味深いですね。ぜひ、聞かせてください」

 ミラノルはシアリスを真っすぐ見つめる。

「人の精神は、体と不可分なものだということよ。体が変われば、精神も変質する。わたしは、前の人生の自分が、自分であるとは思えない。だから、あなたが、わたしやわたしの家族を殺したからといって、贖罪を求めたりはしないわ」

「それは結構なことです……、と言って良いのでしょうかね」

 ミラノルは首を横に振った。

「もちろん、精神は肉体に影響を及ぼす。もし、転生した先が、とてつもなく善良な一般市民だったとしたら、殺人鬼の魂も一般人に近付くはず。じゃあ、あなたはどうなの?」

 シアリスはミラノルの言いたいことを察した。

 もし、殺人鬼が、天性の殺人者である新たな最強の体を手に入れたなら。

「逆もそう。肉体は精神に影響を与える」

 ミラノルは静かに続けた。

「あなたは平気で嘘をつく。違うか。誤魔化すのが、本当にうまいんだね。口先で人を操って、自分のために働かせる。その場で思いついたことを並べ立てて、うまく人を納得させる。誠心誠意、謝罪しているように見せて、心の中では全く別のことを考えている。そうでしょう? その性質って、吸血鬼の性質? それともあなた自身の性質?」

 シアリスはしばらく押し黙った。そして、悲し気な表情を見せる。

「ミラノル……。さすがの僕も傷付きます。確かに僕は罪を犯しました。けれども、僕の心中を想像だけで語られる筋合いは……」

 シアリスはそれでもまだ諦めはしなかった。

「ここは、あなたの心の中だよ、シアリス。そして、あなたの中には、化け物は巣食っていない。あなた自身が化け物だから。これを見てよ」

 いつの間にか、家の床は死体で埋まっている。老人、子ども、女、男。幾数体の死者のどれの死体も喉を掻き切られ、手足はほとんどなく、虚空を見つめている。血が床を満たし、壁を這い、空間を満たしていく。それはシアリスが吸血鬼になってから殺した人物ではない。シアリスが生まれ変わる前、生前に殺した人たちだった。

「吸血鬼、殺人鬼。いったい、どれだけの人を殺したの」

 シアリスは無表情にそれを見つめる。なんてことない石ころでも見つめるかのように、死体の山を踏みつけている。

 シアリスは懐かしいものでも見るかのように、少しだけ笑った。

「シアリス、あなたは新たな人生を楽しむつもりのようだけど、そうはさせない。わたしが今ここにいるのは、それが理由だとわかった。神があなたを許したというのなら、わたしが代わりにあなたに罰を下す。そのためにわたしは蘇った!」

 どす黒い血液が、ミラノルとシアリスを包み、世界が暗闇に沈んだ。


 ◆

 

 ミラノルの保護がなくなったとき、トピナの守りの魔術も無力にも崩れ去る寸前であった。その少しの時間の間に、オノンは躊躇なく、自らの一部を捧げた。

 まずは後ろで結んだ豊かな髪を切り落とし、それを呼び水として、精霊に呼びかける。今ここにいる精霊は、闇。二匹の吸血鬼が生み出した黒い竜巻の中、呼びかけに応じる精霊は、その一つしかいない。

『う~む、奇妙なところで呼び起こされたな。我らの子よ、何が望みだ』

 精霊たちはエルフを我らの子と呼ぶ。その由来ははっきりとしないが、エルフは精霊の血を引くと言われている。そして、精霊は言葉を介さない。今、話しているのはオノンの体を通して形となった言葉である。正確には精霊がしゃべっているのではないが、精霊の意志であることに変わりはない。

「私に力を下さい。私にみなを守り、影を払う力を」

 暗闇の中、知覚することのできない存在が、オノンの頬を撫でた。

『おお、影を払うのに、闇ほど心強い友もおるまい。それで何を代償にする』

 闇の精霊との取り引きは、禁忌とされている。特にこれほどの強力な精霊とのやり取りは、闇の精霊でなくとも禁止されている。オノンは退くつもりはなかった。このままでは自分だけでなく、トピナ、ミラノル、ルシトール、エヴリファイ、そしてシアリス。城下街の人々や、城の外に避難させた奴隷だった人たちも、この力の濁流に飲み込まれるかもしれない。

「私の血を」

『それだけでは足らぬ。利き手ももらう』

「わかりました」

 たったそれだけのやり取りが、すべてを変える。

 体中の穴と言う穴から血が噴き出し、右腕がねじ切れるのを感じる。死よりも恐ろしい苦痛が、オノンを満たす。だが、苦痛とともに体に満たされるのは、闇。血の代わりに闇が流れ込み、右腕を形作る。金色の髪は、黒煙の如く揺らぎながら切り落とす前の形に戻り、美しい翠色の瞳は、黒に濁っていく。

 オノンが右腕を振るうと、トピナの守りを破ろうとしていた黒い竜巻は、その力を緩め、押し戻されていく。トピナが魔術の詠唱を止めると、守りの力は崩れ、辺りは月夜に照らされた。

 アトリエの外であることは、すぐに分かった。だが、辺りは一変していた。城の半分は吹き飛び、外壁はほぼなくなっている。その周囲にはまるで穴が開いたかのように、空間のゆがみが見て取れる。アトリエの内部がその穴から覗くことができるが、夜の岩山に、昼の草原や森が浮かぶ様子は、非現実感を漂わせている。

 オノンがもう一度腕を振るうと、竜巻は完全に消え去る。利き腕を失ったオノンは、もはや得意の弓を射ることは叶わないと思っていたが、闇の精霊は代わりの腕を用意してくれた。疲れ切ったオノンの体は膝から崩れ落ちる。左手を地面につき、なんとか体を支えたものの、倦怠感が全身を包んでいた。

(ありがとう、闇の精霊さん……)

 命まで持っていくことができたはずだが、闇の精霊はすぐには命を奪わないでいてくれた。多くの血を持っていかれたが、エルフの生命力であれば問題はない。まだ、体内に流れる闇の力を感じ取り、それを自身の力へと変えていく。徐々に倦怠感が薄れていき、オノンは顔を上げた。

 倒れているミラノルを守るように、ルシトールが彼女を膝上に抱いているのが見えた。エヴリファイがその側で、心配そうに二人を見ている。オノンの体の下に腕が差し入れられ、力強く持ち上げられた。トピナはオノンの体を支え、立ち上がらせる。彼女も片目から血を流し、両手が火傷のような変色と擦過傷を負っている。魔力傷が全身を蝕んでいるが、それでも彼女は元気であった。この頑丈さをオノンも見習いたいと思ってはいるのだが、なかなか叶うものではない。

「助けてくれたんだよな。ありがとう、オノン」

 オノンの変質した姿を見て、トピナが掠れた声で言った。オノンも声を出そうとするが、代わりに出たのは喘鳴ゼイメイである。オノンは咳き込みながら、残った左腕でトピナの肩をなで、言葉に答えた。

 竜巻の中央付近であった場所で、何かが立ち上がった。

 突風が巻き起こった。影がその風に乗り、まだ目覚めないミラノルに迫る。それに反応したのは、エヴリファイ一人である。彼は変形する右腕を盾としてミラノルを庇った。だが、影でつくられた爪の一撃は盾をすり抜け、エヴリファイの肩から胸にかけて、大きな亀裂を穿ウガつ。少し反応の遅れたルシトールが、不死斬りを振るって、影を斬り裂こうとする。小さな影はふわりと宙に舞うと、離れた位置に着地した。

 黒く澱んだような影を、小さく白い肢体に身に纏わせたそれは、シアリスであった。吸血鬼としての本性を示しながらも、まだ人型を保っている。

 オノンはトピナの腕を離れ、腰の短剣を左手に持つ。利き手ではないものの、左手で使う訓練は行っている。全員が疲弊した体に鞭を打ち、ミラノルを守るための態勢へと移った。

 二度目だ。シアリスの吸血鬼の力が暴走し、ミラノルを襲うことは二度目である。その先入観が一瞬対処を遅らせた。

 シアリスはミラノルに真っすぐ突っ込むのではなく、影となって姿を隠した。破壊されたアトリエからの明かりはあるがで、陰影はまだ濃い。影と化したシアリスを捕らえられる者はいなかった。

 シアリスが姿を現したとき、すでにその牙はオノンの首筋に深々と突き刺さっていた。

 吸血鬼の牙は、致命の一撃である。爪も、その膂力も、致命的な攻撃力を持ってはいるが、性質が違う。噛みついた瞬間、相手の魂を破壊し、捕らえ、取り込むのだ。

 トピナはできる限りの速度で対応した。彼女の掌には、霆の力が集約されている。触れた物を分解するそれは、吸血鬼の肉体でも関係はない。シアリスの頭部を掴むと、彼の頭蓋を顎だけ残して粉砕した。オノンの顔に彼の脳漿が飛び散る。力の抜けたシアリスの腕から抜け出したオノンは、彼の腹に短剣を突き刺し、それを背中越しに蹴り、身を離した。その後ろから飛び込んだルシトールの一撃が、シアリスの胸を刺し貫き、地面へと縫い付ける。

 シアリスの体はそこにあるが、すでにそれは抜け殻だった。新たな体を作り出し、数歩離れた位置に、新たなシアリスが誕生していた。彼の体は小さいので、再生は比較的容易いだが、それでも丸々作り変えることは、大量の生命力を必要とする。だが、今はそれも歯牙に懸ける必要はなかった。

 シアリスはその場でクルクルと回り、天を仰いで舞う。彼は目の前にいる、不死斬りを持ったルシトールさえも気にかけていない。

「素晴らしい。速度も、力も、今までよりも飛躍的に向上している」

 彼は眼球だけを動かして、流し目で満身創痍の四人を見た。

「もはや、戦いは終わりました。あなたたちは用済みだ。オノンのように苦しまずに殺してあげましょう。おや……」

 オノンは残った左手で、噛まれた首筋を押さえながら立ち上がり、弓を構えた。

「さすが、バジリスク並みの生命力ですね。あれ、フィニックスでしたか?」

 オノンはよろめきながらも、しっかりとした目線で、シアリスを捉える。

「シアリス……、正気を失っているわけではないみたいね」

 シアリスはまたクルクルと、狂ったように踊って見せた。

「どうです? 正気に見えますか?」

「……」

 その様子にルシトールは閉口する。トピナもオノンも、その様子から目が離せなかった。ルシトールはすぐに気を取り直し、舌打ちをして、剣を構え直した。

「だから、吸血鬼は信用ならねぇんだ! オノン、動けるなら、手を貸せよ!」

 手負いのオノンに容赦なく声を掛ける。仕方のないことだ。気を遣う余裕はない。たった三人で、吸血鬼の上位種と殺り合わなければならないのだ。エヴリファイの怪我も、ミラノルの様子も気になるが、もし、ここでルシトールが少しでも甘さを見せれば、吸血鬼は容赦なく全員の命を奪うことは、深く考える必要もなく明らかだ。

「あはは、僕と戦う気ですか? おとなしくしていれば、苦しませずに殺してあげますよ。いえ、僕の従徒にしてあげましょうか。あれ、そういえばエルフが生き残った場合は、どうなるんでしょうか……」

 オノンが闇でカタドられた矢を放つと、シアリスの立っている場所に、五本の黒い爪が現れ、その周囲を抉る。闇の矢は飛翔するのではなく、空気を伝うようだ。それは吸血鬼の影の力に酷似していた。シアリスはそれを後ろに跳んで躱すと、更なる追撃を自らの影の力で相殺する。土埃が舞い、シアリスは影で作ったマントを手で払った。

「あなたたちに勝てる見込みはありません。僕はデラウの力を取り込みました。もう僕に敵はない。ミラノルの力も僕には及ばない。それでも戦うことを選びますか? 話が通じるのですから、和解する道を選んでみてはどうですか?」

 どの口で言うのかと突っ込みを入れるべきだろうが、ルシトールもトピナもそんな余裕がなかった。オノンが口を開く。

「それはこちらの台詞でしょう、シアリス。あなたが本当にデラウの力を手に入れたなら、私たちなんか、相手にもならないのじゃない? それでもあなたは、そうやって言葉で誤魔化そうとするのは、思ったよりも強くなっていないからでしょう。私が死んでいないのが、その証拠よ。あなたこそ、このまま戦うつもりなの?」

 オノンがそう言うとシアリスは何も答えず、不敵な笑みを張り付けたまま、またクルクルと楽しそうに踊った。


 目を覚ましたミラノルは、立ち上がった。

 手負いのエヴリファイであったが、それでも彼女を庇いながら片膝をつき、手を差し伸べ助け起こす。ミラノルはその彼の怪我を見て取ると、それが致命傷であることを悟った。すでに血は流れて出ておらず、彼自身は平気そうな顔をしているが、ホムンクルスの構造は、メネルとほぼ同等である。ある程度の自己治癒はできても、これほどの深い傷を自らで治すことはできない。

「ありがとう、エヴィ。助けてくれて」

 ミラノルが怪我に手をかざすと、エヴリファイの胸の裂傷は跡形もなく消える。呪文も唱えることもなく、それはもはや魔術と言うよりは、神の奇跡である。

「ミレイ……、あなたは……」

 たった一言のやり取りで、エヴリファイは自らが作られた目的が成就されたことを知った。ミラノルの瞳には、深い悲しみと、叡智の光が宿っていた。彼女が、野呂美玲の記憶を完全に取り戻したのだと悟った。

「いいえ、エヴィ。わたしはミラノルだよ」

 ミラノルという名は、ルシトールが彼女を封印していた腕輪に書いてあった文字を、読み間違えてしまったところから来ている。だが、エヴリファイはそれを訂正しなかった。それは彼女が本当に美玲として、完成するのか分からなかったからだ。しかし、彼女は今でもミラノルだと名乗る。エヴリファイはその意思を尊重した。

「ミラノル、王からの伝言が……」

 エヴリファイが言葉を伝えようとするが、ミラノルはそれを遮った。

「ええ、そうだよね。わかってる。でも、今は目の前のことに集中しないと」

 ミラノルはシアリスを見つめる。


 シアリスはオノンの攻撃を躱すと、手を突き出して力を使った。地面を通して放たれた影の力は、幾本もの棘と化してオノンたちを襲う。不意打ちで地面から突然と生えた無数の攻撃を、すべて躱すことなどできるはずもなく、オノン、トピナ、ルシトールの三人は、体を刺し貫かれる。

 皮膚が貫かれ、血液が飛び散り、三人の心臓は停止した。シアリスは影が彼らを貫いたのを感じた。そのはずだった。だが、その影の棘にハリツケにされたのはシアリス自身である。驚くと同時に次の行動に移っていた。破壊された肉体を捨て、別の場所へと出現する。今度は少し距離を離した。何が起こったのか確認するためだ。

 新たな肉体を作り出すのに、一秒も掛からなかったはずだ。いくら霊薬を飲もうとも、別の場所に構成される肉体を、完璧に補足することなど不可能なはずだ。それなのに、シアリスの再形成された瞳に映ったのは、ルシトールの巨大な肉体から放たれる、大上段からの斬撃である。

 不死斬りが、シアリスの出来かけの脳を破壊した。思考が纏まらない。無駄なあがきだ。いくら破壊しようと、先に力尽きるのは彼ら。再生が阻害され、不死斬りの力が毒のようにシアリスを蝕む。

 破壊された脳の接続が切れる前に、その眼球に捉えた情報を整理する。

 ミラノルが立ち上がり、攻撃を指示している。ミラノルが指を差すと、他の者たちが声にも出さずに攻撃に移る。それは一つの群れ。言葉なくとも、伝わる意思。さっき、シアリスの影の攻撃を乗っ取ったのも彼女だろう。

(厄介なやつだ)

 新しい体がまた構成される。不死斬りの力を、無理矢理に突破する。大量の生命力を注ぎ込めば、再構成に問題はない。更にシアリスは破壊される数瞬の間に、影の力に別の指示を与えておいた。無数の肉体を作り出すことだ。どれか一つでも残すことができれば、時間を稼ぎ、思考を維持するための脳を残すことができる。

 数体の肉体から本物を見分けることは、ミラノルにもさすがにできなかったらしい。この肉体による攻撃を試みる。そちらに思考を裂くと、本体の動きが鈍くなる危険があるが、時間稼ぎ程度に使うことはできるはずだ。分身たちはただ体当たりをするように、ルシトールとトピナに飛び掛かった。二人はそれぞれ、その肉体を迎撃する。この作戦はうまくいき、一瞬のときを稼いだ。

 その稼いだ一瞬で、シアリスは影を放ち、無数の斬撃をミラノルへと叩き込もうとした。だが、その斬撃も、斬り裂いたのはミラノルではなく、シアリス自身の体である。

 ルシトールがその様子を呆然と見ている。

「なんだ。なんでさっきから自分を攻撃してる……」

 様子のおかしいシアリスを見て、もしかしたら本当に良心が残っていて、攻撃をしないように自分を破壊しているのではないか、という希望的な思考を抱いた。しかし、その思いを打ち壊すように、心の中に一つの声がルシトールに届く。

(私の術だよ。シアリスは正気。油断しないで)

 それはミラノルの声であるが、音ではなかった。

(ミラノル……、この術。心の中まで読めるのか……)

 今、ルシトールたちの思考は繋がっている。ミラノルによる魔術によって、視界を共有し、さらにその増えた視界を処理するために、脳の処理能力も拡大している。そして、会話を、空気を通さずにできるように、思考も共有し念話を送ることができる。これにより完璧な連携を可能にするという、精神を司る古代魔術の神髄だ。

(慣れてくれば、思考と伝言を分けることができるはずだけど、今は我慢して)

(思考と伝言を分ける……。思考と伝言を分ける……。思考と伝言を分ける……)

(ちょっと……。頭の中で、うるさい!)

 トピナの怒鳴り声が頭のなかに響く。ルシトールの視界はトピナを一瞬だけ捉える。

(うわ、怒った顔も、かわいいな)

 ルシトールの思考が、他の皆に伝わり、ミラノルとオノンは噴き出した。トピナは少し呆然としながら、また怒鳴る。今度は念話ではなく、音が出た。

「なんで今、そんなこと言うんだ⁉」

「すまん! 違うんだ! いや、違わないんだけど……」

 ミラノルは、正直者にはこの術は突然使うことはやめよう、とも思いながら、トピナが顔を赤くしているのを見て、悪くはない気分になる。オノンの冷静な思考が伝わり、みなは気を取り直した。

(トピナ、ルシトール。この件は、この戦いのあとに話しましょう)

 彼女はしっかりとシアリスを見据えて牽制している。そのおかげか、また新しい体を作り出した彼は、動かずに四人を見つめていた。シアリスもさすがに攻撃を控えた。二度も攻撃が失敗し、自身を攻撃してしまったのだ。警戒するのも無理はない。

 シアリスは行動を顧みて、ミラノルがどんな魔術を使ったのか予想した。影の力による攻撃は、なぜか捻じ曲げられて自分に返ってくる。ミラノルの魔術であることは確実だ。ミラノルのその中に入っている人格が、強大な力を持つことは理解できる。だが、ここまでの魔術を使うことができるとは、想定外だ。シアリスは魔術については知識が乏しいが、トピナの魔術との比較から考えれば、圧倒的な力量の差がある。そして、彼女との会話で、彼女が何度か転生を繰り返していることがわかっている。その魂が、三千年も前に造られたホムンクルスに宿っているのならば、考えられる予想は一つだ。

 彼女は古代魔術師だ。

 古代魔術師はこの世界において神話的な力を持つ魔術師である。エルフとの戦争に敗れたものの、未だにアトリエという彼らの遺産が、この世界での商業の一部を担っていることを考えると、その実力は話に聞くよりも凄まじいものだとわかる。彼女は今、この世界で最強の存在となったのだ。

 シアリスは彼女を警戒しないわけにはいかない。彼女ら古代魔術師は、吸血鬼を創り出した。もし、ミラノルにもその知識があるのならば、吸血鬼を殺す手段、シアリスすら知らない知識を持っている可能性がある。

 シアリスは攻撃を躊躇う。どうやって彼らを仕留めるか。それだけがシアリスを支配する。シアリスは気が付いていなかったが、ミラノルの吸血鬼を惹き付ける力が、効いていないわけではなかった。それは緩やかにシアリスを蝕み、彼から逃げるという選択肢を削り取られてしまった。

 なぜ、吸血鬼は彼女を狙うのか。このミラノルというホムンクルスに与えられた力は、あくまでも副次的な効果に過ぎない。

 吸血鬼には魂がない。それは吸血鬼の体が、野呂美玲という魂を入れるための器として造られたからだ。吸血鬼は魂を求め、人を食う。それが吸血という儀式となる。そして、吸血鬼の体には、野呂美玲の魂を求める本能が刻まれている。ミラノルが吸血鬼を惹き付けるのは、野呂美玲、その魂が入っているからに他ならない。それは吸血鬼を造り出す術式を編み出した本人でされ知ることのない事実である。ミラノルやシアリスには、今後も理解はできない事柄だ。

 完全な不滅者であるデラウに対しては、その効果が特効となった。影の力から分離された収集家コレクタルには、ある程度の効果しか発揮しなかった。そして、魂を持った不滅者であるシアリスには、ほとんど効果を及ぼさなかったのだ。

(みんな、聞いて。影の力による攻撃は、わたしが何とかする。けど、さすがに近い距離からの攻撃は、防げないからそれだけは注意して)

 ミラノルが皆に告げる。彼女の視界は何らかの術によって、シアリスの影の力の動きを追うことができた。それは物質を透過しても感知できるようだ。この力を使って攻撃を予測し、幻覚と空間操作によって、相手に攻撃を返す術である。しかし、その発生速度には限度があるので、至近距離からの攻撃は防げない。

 こういった知識が、会話とともに流れ込んでくる。トピナは自分の知らない魔術の知識に興奮して、ミラノルに絡みたい気持ちを我慢していることが伝わってくる。

(トピナ……)

 オノンが呆れるので、トピナは反論する。

(待ってくれ。まだ、何も言ってないだろ!)

 トピナもルシトールも、このような力に慣れていないので、本心を隠すことができないのだ。オノンは精霊術を使うときの、精霊との対話と同じだと気が付いて、完全に操っている。強敵を前にしてこんなに混乱しているのは危険だが、問題がないのはこの念話が会話よりも瞬間的な意思のやり取りを可能にするからだ。加速した思考が、通常の会話では、何十秒も掛かる会話を、一秒も掛からずに終わらせる。さらに想像した画像や、行動する順番などを形而上ケイジジョウ的に伝えることが可能になる。ただし、リスクもある。長くこの術を続けていると、人格が他者の影響を受けはじめ、性格や記憶がゆがむ。もし、個を維持し続けたいのなら、使うべきではない術だ。

 それもあってミラノルは、少し焦りながら話を引き戻す。

(戦いは長くは続けられない。シアリスの体を破壊し続けても、こちらが先に力尽きる。だから、わたしがあいつを『虚無キョム』に落とす。そこなら、吸血鬼も再生できない)

 虚無についての知識が伝わってくる。魔術師であるトピナは、虚無について知ってはいるが、それについての詳しい知識はほとんど持っていない。ただ、虚無に落ちたものは、肉体だけでなく、精神、魂さえも消滅し、完全に消えてしまうと言われていた。現代魔術においては、それに触れるのは禁忌キンキとされている。

 ミラノルの知識により、虚無は世界中に存在して、物質界の裏側のような場所であり、そこは古代魔術師がアトリエの空間を作り出すために利用されるとわかった。そこに落ちた物質界のものは、虚無と同化して跡形もなく消えてしまう。そうなれば、再生する暇もなく消滅する。この力を使えば、例え相手がどんなものだろうと、物質界のものである限りは、完全に破壊することが可能だ。

 ただし、もちろん、これにはリスクが発生する。それを伝えようとしないミラノルに、エヴリファイは抗議の意を示した。

(ミラノル、それは承知できない)

 エヴリファイは魔術師ではない。魔術を使うことはできないが、アトリエで管理者として造られたこともあり、その知識は持っていた。

 ミラノルの考えは、虚無にシアリスを閉じ込めることである。虚無に簡易的なアトリエを創り出し、そこにシアリスを送り込んでから閉じることで、吸血鬼を再生させることなく消滅させる方法だ。アトリエを創り出すことはとても難しいが、オールアリア城の壊れかけたアトリエを使えば問題ない。だが、それを閉じるには、内部から操作する必要がある。つまり、自身も虚無に消える必要があるのだ。現在でも三千年前のアトリエが残っている原因である。エルフは古代魔術師を滅ぼしたが、犠牲なく安全にアトリエを閉じる方法を考えつかなかったのだ。

 その思念が伝わってくると、ルシトールも、トピナも反対した。オノンは何も言わず、シアリスを厳しく見据えている。

(自分がアトリエを閉じる)

 エヴリファイが言った。

(無理だよ。魔術で空間を閉じるしかない。シアリスはオールアリアのアトリエの鍵を受け継いでいると思う。空間に落としても、すぐに出てきてしまう。わたしの力でそれを妨害するしかない)

 ミラノルは提案を拒絶するが、エヴリファイは譲らなかった。

(ミラノル、自分にはアトリエの最上位の『鍵』を持っている。これを使えば、シアリスの鍵では外に出られない)

(どうしてそんなものを……。いえ、ネルがあなたに渡したのね)

 ネルとは誰かと、思わずトピナが訊ねるが、ミラノルたちはそれを無視した。

 『鍵』とは権限のようなものである。最上位の鍵であれば、他の鍵を上書きして、機能停止にすることができる。オールアリアのアトリエは、ミラノルが創ったアトリエであり、ミラノルの死後は、ネル、美玲の恋人が管理したはずだ。

 さらにエヴリファイは自分の胸元についた傷を見せた。先ほどミラノルが完全に治したはずだが、そこにはシアリスが付けた傷跡が開こうとしていた。

(体の限界が近付いている。これ以上、肉体を維持することはできない。自分にやらせてほしい。自分はそのためにここにいるのだと思う。君の覚醒を見届けたことで、ネル王から与えられた役目は終わった。自分にその役割を任せてほしい)

 この念話は、ミラノルにしか聞こえていなかった。エヴリファイがミラノルにお願いをすることなど、今まで一度もなかった。エヴリファイが、自分の死に場所を求めていることが、ミラノルに伝わってきた。ネルによって強制的に注入されたミラノルへの愛情と、自分の使命の重み。三千年の不毛な時間への絶望。そして、終わりを迎える歓喜。

 それらの感情がミラノルに伝わってきた。彼女にはそれを否定することはできなかった。

(本当にあなたはそれで良いの? まだ、何とかなるかも……)

 そう言いかけて、ミラノルはやめた。彼はネルを恨んでいる。ミラノルのことを恨みたいと思っている。エヴリファイの意思を無視した力が、彼を蝕んでいる。そして、彼の最期のこの行動は、彼自身の意思であると同時に、ネルの遺志であると感じる。エヴリファイを作り、ミラノルの蘇らせたネルの遺志だとしたら、エヴリファイは最期まで操られたままだ。

(構わない、それでも)

 エヴリファイの意思が伝わってきた。ミラノルはもう何も言い返さず、他のみなに伝える。ネルのことは伝えず、シアリスを閉じ込めることを伝える。それにはエヴリファイが犠牲になることも伝えた。これにはトピナが他の方法があるはずだと言うが、意外にもルシトールは反対しなかった。

(トピナ。エヴィの覚悟は伝わっているだろ。今、この場でシアリスを倒すしかない。あいつはもうオレたちの手に負える相手じゃなくなっている)

 シアリスは今、自分自身の弱点を克服していた。それは、溜め込んだ生命力の少なさだ。これを克服した不滅者に、今や敵はない。最大の敵であるはずのミラノルの力が、彼に及ばないとするならば、人類にとって最悪の敵となるだろう。

(だからって……、命を犠牲にしなきゃいけないなんて。それは黒魔術だろうが!)

 それはもっともである。黒魔術は、生命を犠牲にする魔術だ。それに虚無は現代魔術に置いての禁忌である。そこを利用するだけでなく、他者の命を使うことになれば、トピナの倫理観を徹底的に破壊することになる。

 オノンが慰めるように言う。

(トピナ、虚無は魔術師協会が語っているような場所じゃないんだよ。この戦いが終わったら、そのことについて話してあげる。エルフが知っている虚無についての知識を教えてあげるわ)

(でも、エヴリファイは……)

 それについては言葉にする必要もなく、エヴリファイの思いが伝わってきた。

(あなたの真心は忘れない、トピナ。だが、他に案がないのならば、やらせてほしい。君たちの力になって死ねるのならば、これほど光栄なことはない)

 エヴリファイの言葉に心打たれたトピナは、反対するのをやめた。ただ、吸血鬼を倒す方法を考えるのは止めなかった。この戦いには間に合わなくとも、新たな討伐方法を編み出すことを心に誓った。その思いにエヴリファイは感謝し、ミラノルも同じ思いを心に宿した。

 やるべきことは決まった。

 シアリスととにかく戦い、エヴリファイがシアリスに取り付く隙を作る。幸いなことに、こういった戦いは、二度目である。そのときは、シアリスは味方であったが。

 納得したトピナに変わり、オノンは躊躇していた。

 今のシアリスが本当に正気だとは思えない。オノンたちを救ったシアリスには、確かに真心があった気がしていた。シアリスを信じてみたいという気持ちが、まだ残っていた。だが、首につけられた牙の痕が、鼓動するたびに疼き痛む。

 その思いは共有していないつもりだったが、ミラノルの思念がオノンに伝わってきた。彼女はルシトールとトピナには話さなかったことを伝えてくる。

 オノンの心の中にいた、無意識の存在であるはずソラルが、シアリスを悪魔だと言っていたこと。ミラノルとシアリスは、かつては別の世界の住人であり、この世界に転生してきたこと。別の世界でもシアリスは人殺しの悪魔のような存在で、自分のことしか考えていない危険人物であること。そして、宿った肉体が、その邪悪な魂を助長する吸血鬼であるため、決して理解し合うことはできないこと。それらを告げた。

 衝撃的なことを幾つも言われ、オノンは困惑するが、そこは年の功である。動揺を抑えて、ミラノルに訊ねた。

(なぜ、私にだけそれを話すの?)

 ミラノルの思念は穏やかに言う。

(二人に今話しても、混乱するだけだから。それにこの中で生き残る確率がもっとも高いのはあなただと思うの。このことを誰かに知っておいてほしかった。エルフでありながら、魔術を嫌わないあなたに、知っておいてほしかったの)

 オノンはミラノルが古代魔術師であることに気にしていなかった。他の長寿のエルフたちがミラノルの存在を知れば、また同じような戦争が起こるかもしれないが、オノンはそれを誰かに話すつもりはない。ただし、彼女がある特定の存在であるのならば、話は変わることになる。

(あなたは、また古代魔術を広めるつもり?)

 ミラノルは言葉を選ぶように、少しだけ黙った。そして、言葉を紡いだ。

(わたしはこれ以上、誰かに魔術を教えるつもりはない。もう、この世界に影響を与えすぎたから、もう二度とそんなことはしない。わたしは、この世界に生まれたミラノルだよ。もう、元の世界に帰ろうなんて思わない。わたしは神を信じないから、誰に誓うこともできないけど、どうか信じてほしい)

 こうして嘆願されるのは、つい最近にもあったことだ。その人物は今、目の前でこちらを睨みつけている。

 五人の視線が、一人の少年に集中した。


 しばしの硬直状態の間に、シアリスは戦略を巡らせていた。といっても、数秒ほどであるが、ミラノルたちにとっては十数分程度の会話をしていたことを、シアリスは知らない。

 こうした経験は初めてである。シアリスは戦いをしたことがない。それは前の人生でも同じだ。シアリスは狩人だ。仕留めるときは、気付かれず、素早く、完璧に相手を無力化していた。

 こちらの世界に生まれたあとも、それは同じである。吸血鬼の体になったことで、それは強固になった。シアリスは相手の命を奪うことでしか、自分の存在を確認できない。そのためにこの吸血鬼の体は、まさに天の与えもうた才覚である。

 ただ、殺しがだんだんとつまらなくなってきていた。

 吸血鬼の体は強すぎる。人間であった頃は、肉体の限界を追求した行動、隠蔽と逃走のスリルがあったが、今はただの殺戮である。そこで考えついたのが、デラウを殺すことであった。凶悪で自分より強い者を狙えば、達成感を味わえると考えた。ミラノルたちは、デラウの力を奪うために利用されたと思っているだろうが、そんなものは二の次である。ただ、強き者を殺すことで満足感が得られるかも知れない、という純粋な考えだった。計画は楽しく、オノンやルシトールを懐柔し操ることは、満足感を得ることができた。誤算があったとするならば、デラウを殺したところで、どこも面白くなかったことだ。

 だから、目標を変えた。

 楽しそうな獲物は、目の前にいた。シアリスは計画を変更した。いや、シアリスに計画などない。常に突発的で、刹那的だ。こちらに来てからも、そこに違いはない。誰にも本心は明かさず、明かす本心もない。

 それこそがシアリスの本質である。

 彼はミラノルを見た。

「待ってください。暴走してしまったんです。今は正気に戻りました」

「……」

「オノンさま、申し訳ありません。すぐに怪我の手当てをしてください」

 オノンは口をつぐみ、ミラノルは溜息をついて、呆れたようにシアリスを睨み返す。

「あなたはいつもそうやって、相手を惑わそうとするんだね。本当のことなんて、一つも言わない。言ったとしても、それは相手を利用するため……。もう話し合いの時間は終わったんだよ、シアリス」

 シアリスの目が静かに冷たくなる。

「それで? このまま、殺し合いですか。とても野蛮じゃありませんか。僕たちのような異世界の人間が、この世界のルールに従う必要がありますか? あなただってもっと楽しいんだ方が良い。そうだ、僕と一緒にこの世界を旅しましょう。お互い分かり合えるはずです。どこかで安住の地でも見つけて、静かに暮らすのも良いかもしれませんよ」

 ミラノルは鼻で笑う。

「わたしを殺して、わたしの家族を殺して、まだそんなことを言えるなんてね。あなたとは絶対に分かり合えない」

 言い終えないうちにシアリスは消え、彼はミラノルの瞳に鋭い爪を突き入れようとした。それを防いだのはルシトールだった。ミラノルの目では捉えられなかった動きも、戦士であれば、的確に反応できる。斬り払った不死斬りで、シアリスの腕は切断された。オノンの闇の手が振るわれ、シアリスの体は真横に吹き飛ぶ。その体にトピナの放った霆が突き刺さる。最大出力のそれは脅威的な威力を誇り、シアリスの体をバラバラに崩壊させた。

 破壊されることを想定していたシアリスは、体を再生させた。いや、は語弊がある。彼は学習し進化している。地面に広がった自分の影の中に、いくつかの予備の肉体を作っておいた。体が地面から離される前に、その肉体の中に意識を移しておいた。肉体を複数体操ることは負担が大きいが、ただの肉塊であれば力の消費は少ない。その一つに意識を移せば、ほぼ遅延なく肉体を維持できる。

 その新たな肉体は、バラバラになった前のシアリスを見つめる四人の死角に、影の中から音もなく現れる。その死角からの奇襲の成功を確信したシアリスだったが、トピナの防御魔術に防がれてしまう。少し離れた位置にいたエヴリファイは、シアリスの動きをしっかりと見据えていた。彼の優れた感覚を思念で伝達することで、その対応能力はただ五人いるという状況を超越していた。一つの生き物と化した今の五人に死角はない。

 エヴリファイは地面に広がる影を感じ取った。今は夜だ。シアリスを殺すことはできないと思えるほど、その力は広がっている。ここから本体を見つけ出すことは不可能に思える。もし、見つけ出したとしても、先ほどのように次の体に移られてしまうかもしれない。シアリスを虚無に引き込むには、確実に本体を捕まえなければならない。

 その思念を感じ取ったミラノルは、上空へ魔術の光を放った。それはデラウに対して魔術を使ったときと同じものだ。あのときは焦りと不慣れさから、失敗をしてしまったが、今は違う。辺りは昼のように明るくなり、シアリスの周囲に伸ばした影が浮かび上がった。そして、その光は無数の光に枝分かれし、地面へと降り注ぐ。それはシアリスを狙わず、影の中の予備の肉体を的確に撃ち抜いた。ただ一つを除いて。

「っ⁉」

 この狙いは明確である。残ったこの肉体に入れと言っている。そして、予備の肉体など意味がないとのメッセージだ。

 予想外の攻撃に驚いたシアリスは、後ろに跳んで次なる攻撃を逃れようとした。降り注ぐ光の雨が、シアリスの視界を妨げる。その雨の隙間をトピナ、オノン、ルシトールが駆け抜け、シアリスへ迫った。シアリスは防御しようとするが、トピナが腕を破壊し、オノンの矢が脚を斬り裂き、ルシトールの不死斬りがシアリスの心臓を貫く。

 完璧な連携だった。もし、もう一つの体に移ったのなら、ミラノルの魔術が彼を仕留めることになる。シアリスの策は見破られ、もはや逃げ場はなかった。

 ミラノルの胸に、シアリスの爪に突き立てられる。

 誰もその動きを捉えることはできなかった。シアリスは予備の肉体が再構成される場所を、意図的に知らせていたのだ。何らかの理由で、ルシトール含む全員がシアリスの肉体の場所を感知していることはわかっていた。だから、シアリスはもっと完璧に擬態した。小さな数百匹もの小さな蟻となり、影に紛れて移動していた。収集家コレクタルが別種の肉体を模造したように、無数の小さな肉体に分かれ偽装したのだ。

 この奇策を見破ることはできなかったエヴリファイが、後ろを振り返ったときには、ミラノルの背中から胸を貫いて、シアリスの赤く染まった腕が見えた。切断されたミラノルの左腕が宙を舞い、シアリスの牙が、ミラノルの首に深々と食い込んだ。

 エヴリファイが叫んだ。

「エヴィ!」

 エヴリファイがミラノルを、エヴィと呼んだ。エヴリファイが振り返って、。シアリスはその違和感を覚えたとき、ミラノルの残った右腕がありえない角度で曲がり、シアリスの体に巻き付いていることに気が付いた。

 シアリスは気が付いていなかった。トピナの幻影魔術によって、ミラノルとエヴリファイが入れ替わっていることに。

 単純なトリックであるが、シアリスに魔術の知識がないことを、ミラノルたちはわかっていた。シアリスが本当に気付いていなかったことは、魔術を使った戦闘が、この世界ではとても重要だということだ。

 体を離そうとした。肉体が破壊されなったことで、シアリスはその肉体を捨てるという判断ができなかった。エヴリファイの変形した腕を体から引き剥がし、その場を離れようとする。下がろうと後ろに跳ぶが、何かにぶつかり動きが止まった。何にぶつかったのか理解できず、シアリスは手探りで、その壁を何度も触った。

 周囲はオールアリアのアトリエに見えるが、それは絵のように平面だ。目の前にあるガラスの壁の外側に描かれた虚像。

「空間が崩壊すると、認識することが難しくなる。その壁の向こうには、何もない」

 うしろに倒れていたエヴリファイが、半身だけを起こしてシアリスを見ていた。片腕がなく、肩から胸にかけての大きな裂傷。そして、左の胸には大きな穴が開いている。生きているのが不思議なほどの損傷である。

 シアリスはその言葉を無視して、自分の影を辺りに広げてみる。ここはドーム状になった狭い空間であった。シアリスは、デラウから奪ったアトリエの『鍵』をつかって、外に出ることを試みるが、反応は全くなかった。

「無駄だ。鍵の権限はもうない」

 シアリスは無表情でエヴリファイに近付くと、影の力で体を持ち上げ、その肩に爪を突き立てた。エヴリファイの口から苦痛の声が漏れる。いつも無表情なエヴリファイだったが、その顔がゆがむ。だが、それは苦悶ではない。笑みだった。

「……無駄だ。二人とも、完全に消え去ることになる。魂の一片も残すことなく」

 シアリスは何も言わず、影を使ってエヴリファイの肉を抉った。それでもエヴリファイは話すことを止めない。

「もう、ここから出ることはできない。鍵はもう壊した。誰も入ることも、出ることもできない。終わったんだよ、くそ野郎が! ミレイをお前の好きにさせるか! お前は負けたんだ‼」

 エヴリファイは自分を創った王が、なぜ自分に感情を埋め込んだのか、ずっと疑問だった。三千年もの間、動くことのないミラノルの体が保管された小屋で、ずっと考えていたことだ。だが、こうしてミラノルのために働くことができたことに、喜びを覚えた。これが王の意図したものなのかはわからない。ただ、少なくともエヴリファイは自由だった。

「憐れな奴だ。生まれ変わっても囚われ続けて、結局、それが原因で死……」

 シアリスは無表情にエヴリファイの首を掴み、声を止めた。

「そうですか。どれくらいでここはなくなりますか」

 徐々に空間が縮んでいることにシアリスは気が付き、いずれこの空間が潰れてなくなることを察知していた。手が離され、エヴリファイは口が使えるようになる。

「すぐだ。すぐにここはなくなる。虚無に飲まれ、すべてが終わる」

「そうですか」

 シアリスはその言葉を聞いても全く動揺せず、エヴリファイの残った左手を握り潰した。抑えた悲鳴が狭い空間に響く。

「なかなか死にませんね」

 そう言っておもむろにエヴリファイの片目を潰す。唸り声を上げて、エヴリファイは悶絶した。エヴリファイはシアリスを、残った片目で睨みつける。

「拷問などしても無駄だ。どうやったって出ることは……」

「わかっていますよ。出られないのでしょう。僕は負けた。それは残念です」

 シアリスはエヴリファイの腹の皮膚を爪で剥ぎ取る。

「けれど、それがどうしたんですか。どうでも良いことだ」

「……ここは虚無だ。魂さえも消えてなくなる。もう二度と、お前は生まれ変わることはない」

 シアリスはその言葉を聞いて、肩を落とした。

「それは楽しみです。そんな体験ができるなんて、ワクワクしますね」

 爪が深々と肋骨の間に差し込まれた。そして、無理矢理それを引き抜く。骨が肉から剥がれる音と、漏れ出す息が空間を満たす。

 エヴリファイは苦痛の中、目の前の美しい顔を見た。彼は死への恐怖も、痛みを与えることへの喜びも感じてはいない。この得体のしれない少年は、何も思っていない。シアリスにとって、死など取るに足らないものなのか。いや、違う。彼はそんなことすら、どうでも良いことなのだ。これはただの作業。拷問に意味などない。生きていることに意味などないのだ。

 エヴリファイは初めて恐怖した。

「悪魔……」

 空間が臨界を迎え、水圧に潰されるように歪んだ。虚無には光も音もない。

 エヴリファイの意識はそこで途絶えた。彼が最期に目に焼き付けたものは、天使のような少年の笑顔であった。

「せっかく生まれたのだから、楽しまないとね?」

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