第41話 断罪:最終弁明




 夜の政務室で、エルスディーン家当主であるレイヴィスは杖先を床に着き、金色の瞳でエリナをじっと見据えた。


「――そもそも、お前の話には根本的なところが欠けている」

「えっ?」


 エリナはぽかんと目を丸くする。その瞳の奥には焦りと戸惑いが浮かんでいた。

 レイヴィスは短く息を吐く。


「お前がすべて命令されてやったと言うが――そんなことをさせて、リリアーナにどんなメリットがある」


 その問いは、リリアーナ自身も驚いた。


 ――だが、確かに、そうだ。

 使用人をいじめることも、横領も、不貞も。


「すべて自分の立場を不利にすることばかりだ。どんな動機があれば、そんなことをする」


 普通ではありえない。

 筋が通らない行動をするには、それ相応の理由がなければならない。しかし、エリナの証言にはその理由が欠けている。


「さあ、言ってみろ。ただし、それがリリアーナを貶めるための虚偽ならば――」


 レイヴィスは言葉を一度区切り、杖を軽く握り直す。


「命はないと思え」


 部屋の空気は一段と重くなり、その場にいる誰も動けなくなる。魔法の明かりですら、その揺らぎを止められたかのように静止している。


 レイヴィスは、静かな怒りを宿しながらも、真実だけを求めてエリナを貫いていた。

 その姿は、まるで裁きを下す運命そのもののようだった。


 ――小説でも、ここまでの流れや言葉は違うが、同じようにどうしてこんなことをしてきたのか、悪妻に問いただしていた。

 悪行の動機が、レイヴィスには理解できなかったのだ。


 そして悪妻リリアーナは、レイヴィスを睨んで言った。


「――腹いせです」


 ――と。

 エリナは小説でのリリアーナのセリフをなぞるかのように言った。


 レイヴィスが表情を変えないまま、静かに彼女を見つめる中、エリナはどこか高揚した表情で続けた。


「旦那様に愛されない腹いせに、可愛いわたしをいじめたんです! 嫉妬です!!」


 涙を浮かべ、息を荒くしながら声を張り上げる。


「夜を共にしても、愛はないと気づいているんです! 旦那様の心はわたしの方にあるから、嫉妬でわたしを苛めたんです!」

「…………」


 レイヴィスは冷ややかな沈黙を保ったまま、ふっと息を吐いた。

 表情に感情は見られないが、彼の纏う雰囲気が鋭さを増していく。


「――ここが戦場でなくてよかったな」

「へ?」

「戦場でなら、既にお前を殺していた」


 レイヴィスは辟易したように息を吐き、再びエリナを見据えた。


「俺はお前に指一本たりとも触れていない。触れたいとも思わない。これ以上は本当に話を聞く意味はないな」


 ――そうして、審判者の心は決まった。


「主人を敬わない態度に、不真面目な勤務姿勢に職務放棄。器物破損。そして度重なる我が妻への危害――相応の罰を下す。己のしたことを長年かけて存分に後悔するといい」


 冷え切った声が政務室に響き渡る。誰も言葉を挟むことができなかった。

 ――だが、エリナだけは――この『物語』の主人公だけは、違った。


「どうしてそんな酷いことを言うの――わたしたちは愛し合って、わたしが侯爵夫人になるのに! 本当なら今頃、わたしのお腹にあなたの子どもがいるはずなのに――!」


 ずっと座っていたエリナが、勢いよく立ち上がってリリアーナを指差す。


「わたしが聖女なのに! その女より魔力が高いのに!」


 レイヴィスの瞳には冷たい光が宿り、エリナの言葉の愚かさを嘲るようだった。


「魔力自体はお前の方が高いかもしれないが、聖女と言う話はどこからきた? そんなに主張するのなら証拠を見せろ」

「しょ……証拠?」

「聖女である証拠だ。そこまで自信があるのなら、確固たる証拠があるんだろう? それとも、証拠もないのに聖女を詐称したのか?」

「詐称じゃない! ――だって、そうなるんだから!」


「……そうか。ならばいい方法がある」


 その言葉に、一瞬エリナの顔に喜色が浮かんだ。


「聖女の血にはエーテルが含まれているらしい。魔族の力の根源だ。魔族は聖女を見ると目の色を変えて襲いかかるらしいが、試してみるか?」


 レイヴィスには、少しも躊躇がなかった。

 その視線が突き刺さるように向けられた瞬間、エリナは顔を強張らせ、身体を震わせる。


「じょ、冗談ですよねぇ? ね? ……聖女を、そんな危険な目に遭わせませんよね?」

「確固たる証拠がないのなら試すしかない。一番手っ取り早くて間違いがない」


 レイヴィスには揺らぎがない。彼は真剣にその方法を提案している。


「――だが、たとえお前の方が魔力が高くても、俺が愛するのはリリアーナだけだ」


 レイヴィスが静かに語った言葉に、リリアーナの胸が高鳴った。


 ――愛。


 驚きが先に立ち、言葉の意味をすぐには受け止めきれない。

 自分の耳が聞き間違えたのではないかと思うほど、現実味がなかった。

 ――けれど、レイヴィスの真摯な表情に、それが偽りでないことを知る。


(勘違いしちゃいけない……)


 これは愛の告白ではない。

 自分は政略結婚で迎えられた妻――その立場ゆえに守ると言ってくれているだけ。

 きっとそれ以上の意味はない。


 ――それでも。

 胸の奥が熱くなるのを止められない。


 リリアーナは唇を軽く噛みしめ、目を伏せた。

 彼の言葉に甘えたいと思う自分が、わずかに顔を出しそうで怖かった。


「その女を、愛する……?」


 エリナの目が大きく見開かれていた。


「目を覚まして! その女は浮気をするわ! いずれ絶対レイ様を裏切るんだから! だいたい、レイ様だって――その女はお金で買った、子どもを生むためだけの女でしょ?!」


 エリナは必死に訴える。そこにあるのは憎悪や悪意ではなく、ただ純粋に――純粋に信じている『物語』だ。

 だがそれは、リリアーナ以外には通じない。


 通じていない。


「気安く呼ぶのは妄言としてもいいが――」


 レイヴィスは静かにエリナに近づく。

 瞳が鋭く光り、圧倒的な威圧感が室内に広がる。


「妻を侮辱するのは許さんと言っただろう」


 エリナの膝が震え、ついに力尽きて床へ崩れ落ちる。

 肩を縮め、怯えた表情を浮かべる彼女に、誰一人として手を差し伸べようとはしなかった。


 ――終わったのだ。何もかも。


「――だが、そうだな。最初はそうだった」


 言葉に続く沈黙に、リリアーナも思わず視線を上げる。

 レイヴィスは静かにこちらを見つめた。


「しかしいまは、命に代えても守りたいと思っている。リリアーナは俺にとっての運命だ」


 その言葉には一切の迷いがなく。

 まっすぐに向けられる瞳に、リリアーナは胸の奥が熱く震える。


 その姿も、その声も、太陽のようにリリアーナを包み込む。


「俺のすべてをかけて守り、一生愛し抜くと、名と紋章に誓っている」


 ――捨てられるはずの悪妻だったのに。


 レイヴィスの言葉は、リリアーナの胸を深く震わせる。

 目許には知らない間に涙が滲み。暖かい雫が頬を伝った。


 そして――その瞬間。


 ずっとリリアーナを縛っていた『何か』が、胸の奥で音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。


 ――そう、『物語』が。





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