第9話 夫とのぎこちない会話
まずい。まずい。まずいまずいまずい。
リリアーナの心臓が早鐘のように激しくなる。
このままではエリナの大切な「恋のきっかけエピソード」を壊してしまう。
それはいけない。
リリアーナが望んでいるのはあくまで自分の破滅の回避であって、それ以外は物語を極力壊すつもりはない。
(旦那様が本を探している間に、こっそり抜け出さないと……!)
息を潜めて動かないようにしていると、レイヴィスがまっすぐこちらに向かってきた。
(ええええええええっ?!)
リリアーナは心の中で絶叫した。こっそりと背後や周囲を見るも、書架に囲まれていて逃げ場がない。このままでは追い詰められる。
(追い詰められる前に――動く!)
あえて前に。
飛び出すと、当然レイヴィスの前に出る格好になる。
目が合い、レイヴィスの動きが一瞬止まった。
「私のことはお気になさらずー!」
リリアーナはレイヴィスの横をすり抜ける。
それはうまく行き、そのまま出入口を目指した――その瞬間。
「――待て!」
リリアーナの足が止まる。
命令されていることに慣れている身体は、竦んだように動かなくなった。
「待ってくれ」
背を向けたまま硬直していると、今度は懇願するような声が背中にかかる。
リリアーナは完全に動けなくなった。動悸が激しくなり、息が詰まる。
「――君と、話がしたい」
その声は、こちらの様子を窺うような慎重なもので、高圧的な響きはなかった。
リリアーナも少しずつ冷静になってくる。
(まさか、私が主人公のエピソードを奪えるわけがないわ……)
悪役である悪妻が、主人公に成り代われるわけがない。
きっとこの後のどこかで、いやもしかしたら既に、図書室で会って愛を育んでいるはず。
リリアーナはゆっくりと振り返り、レイヴィスと向き合う。
こうして彼と正面から向き合うのは、考えてみれば初めてのことだった。
「……元気か?」
「は、はい。皆さんによくしていただいています」
「そうか」
気まずい空気の中で、ぎこちなく会話する。
レイヴィスは少し言葉を探すように視線を泳がし、リリアーナを見た。
「……花瓶が飛んできて水を被ったと聞いたが、身体は大丈夫か?」
「あ、ありません。誰も怪我をしていないはずです」
――報告が行っているなんて。
リリアーナは「誰も」の部分を強調して答えた。
「……スープに異物が混入していたと聞いたが……」
全部把握されている。
リリアーナのここ数日の行動はすべて報告されていると思って間違いない。
「そちらも、食べる前でしたから大丈夫です」
「そうか」
「…………」
沈黙が広がる。
「リリアーナ」
「は、はい」
改まって名前を呼ばれ、リリアーナは俯きかけていた顔を上げた。
レイヴィスと、目が合う。
そして思わず逸らしてしまう。
「……俺は、怖いだろうか?」
「えっ……」
「どうして俺から逃げようとするのか、理由を知りたい」
その声は少し寂しげで、リリアーナは言葉を詰まらせる。
――考えていなかった。
(言い訳を用意していなかった……!)
自分の間抜けさにびっくりする。
とはいえ「なんとなく」で済ませられる雰囲気ではない。
リリアーナは必死に頭を働かせた。
(この時点では、エリナと旦那様はまだ恋仲ではないわよね……?)
恋仲だったらそのことを理由にできる。「他に好いた方がいらっしゃる方となんて……」――とか言って。いやそれも政略結婚の妻には失格だが、理由にはなる。
しかし恋仲でなかったら、とんだ妄言だ。
そんなことはないと断言でもされたら逃げる理由がなくなる。
リリアーナは考えた。
必死に考えた。
そして――
「えっと……お……男の方が怖いのです……」
目を伏せ、身を縮こまらせて、震えながらそう言った。
レイヴィスが短く息を呑む。
「旦那様がどうということではなく、男性が怖いのです……」
勢いで言ってしまった口から出まかせだったが、これはもしかしたら最善手かもしれない。
レイヴィス個人が嫌いなわけではない、男性が怖いのだと言えば個人否定にならない。
しかもこの後――離婚した後に修道院に行く理由にもなる。
(とてつもなくナイスな理由だわ!)
――それに、完全な嘘というわけではない。
運命に逆らわずに生きていたら、リリアーナの行きつく先は最悪の地獄。実家に鐘を渡すために、他の男たちの妻になり、子どもを産んではまた別の男の元に行くという生き地獄。
そんなのは絶対に絶対に嫌だ。
「……申し訳ありません……妻としての務めを果たせず……」
「……そうか。しかし、私たちには貴族としての義務がある」
「は、はい……」
――やはり、納得はしてくれない。
仕方ない。そういうものだから。そのために金で買われたのだから。
(下手に断れば、力づくでされるのかしら……)
子どもを作るのに愛は必要ない。気持ちは関係ない。行為さえすればできる。
――怖い。
「――だが、無理強いするつもりはない。君の心の準備ができるまで待つつもりだ」
「……はい?」
思わず顔を上げ、レイヴィスの顔を見る。
そこにあったのは、リリアーナを一人の人間として扱ってくれているような、尊重してくれているような、そんな穏やかな――だが、やや緊張した表情だった。
「だから、普通に接してはくれないだろうか?」
「普通とは……どんな風にでしょうか?」
レイヴィスは少し困ったように、わずかに視線を落とした。
「顔を見て逃げられるのはさすがにこたえる。可能ならば、食事も共にしたい。タイミングが合わないことも多いだろうから、できる範囲でいい」
――本当に普通だ。
(それぐらいなら……)
確かに、それすら避けていた。
「はい……わかりました」
リリアーナが承諾すると、レイヴィスは安心したように微笑んだ。
ほんのわずかな微笑みに、初めて人間らしさを感じた。
彼は冷酷無比な人間ではなく、血の通ったひとりの男性なのだと、いま初めて実感した。
(私ったら……いままでなんて失礼なことを……)
冷酷な人だと決めつけて、恐れて、逃げて。
そして、いまも嘘をついている。隠し事をしている。
そんな自分が恥ずかしい。
恥ずかしいが、正直にすべてを告白することはできない。
心苦しさに、喉が詰まった。
「……で、でも、本当にいいのですか? 私の心の準備だなんて……いつできるかわかりません」
そんなものリリアーナの心ひとつでいくらでも引き延ばせる。
こんな大切なことを、そんな曖昧なものに委ねていいのだろうか。
「ああ。俺たちのペースで進めればいい。誰にも文句は言わせない」
力強い言葉と眼差しだった。
(やさしい……)
リリアーナは思わず感動した。
彼は、とても優しい。
「安心してくれていい。君のことは俺が守る」
「レイヴィス様……」
胸がいっぱいになりながら、リリアーナは戸惑いを覚えた。
(なんだか、話が変な方向に行っているような……)
守るだなんて、そんな愛する相手に言うようなことを、ただの政略結婚相手に言うなんて。
(いままでそんなこと、誰にも言われたことがないわ……)
勘違いしてはいけない。
レイヴィスは、エルスディーン家の当主としての義務を言っているだけだ。
大切にされているようだなんて、思い違いも甚だしい。
だが、このくすぐったいような、あたたかな気持ちを止めることができない。
「あと……俺は愛人はいないし、作るつもりもない」
「そ、そうですか。ごめんなさい。殿方は、その、愛人を何人も持つのが普通と思っていたので……」
「そういう風潮は確かにあるが、俺はしない。一人を守っていきたいと思う」
そう言って、少し微笑みながらリリアーナを見る。
「だから安心してくれ」
いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
わからないが、リリアーナはレイヴィスの瞳をまっすぐに見つめて微笑んだ。
「ありがとうございます。レイヴィス様」
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