第8話 エルスディーン家の会計係





 午後は、執事に政務室に案内される。

 政務室は侯爵の仕事の補佐をするための部屋で、月に三日ほど役人が集まるのだという。


 広々とした部屋には、整然と片づけられた机や、やや散らかった机、いくつもの書類棚が並んでいて、壁には大きな地図がかけられていた。


「いまはこちらにはいませんが、月末ともなると情報官、財務官、執政官が揃いますよ」


 執事の説明によると、情報官は領地内外の情勢の把握、財務官は侯爵領の税収や資産の管理し、執政官は領地の行政全般を司っているという。

 彼らがいるからこそスムーズな領地運営ができるのだとか。


「頻繁にこの部屋にいるのは、会計係のサイモン・グレゴリーですね」


 執事がそう言った瞬間、扉が開いて細身の男が入ってくる。

 彼はリリアーナを見て驚いたように目を見開いた。


「ああ、ちょうどよかった。奥様、彼が会計係のサイモンです。当屋敷の帳簿管理を一任されています」


 執事がそう言うと、会計係が恭しく頭を下げた。


「初めまして、奥様。サイモン・グレゴリー――エルスディーン家の会計係です」


 落ち着いた低い声。一部の隙もない身なり。


(真面目そう)


 それがリリアーナの感想だった。


「初めまして、サイモン。あなたのような人がこの屋敷を支えてくださるなんて心強いわ。よく励んでね」


 他の使用人と同じように声をかけながら、心の中でぽつりと呟く。


(もし私が誘惑しても不正はしないでね)


 小説では、彼は平民出身で、貴族の美しい女性であるリリアーナに特別に目をかけられたことで心を揺さぶられる。


リリアーナが個人的な相談事などするうちにサイモンはリリアーナに対して好意を抱き始める。それを察してリリアーナは「困っている実家を助けたいの。あなただけが頼りなの」と頼み込む。


 サイモンは、一度だけと不正をしてしまう。帳簿を改竄し、送金してしまうのだ。


 だが、一度では終わらなかった。サイモンはリリアーナに頼まれるたびに不正に手を染めていく――……


(とんでもない悪妻だわ!)


 本当に、人としてどうかと思う。


(金策を相談するとしたら会計係の彼だろうけれど、破滅まっしぐらかもしれないし深入りしないようにしないと)


 リリアーナは会計係には関わらないように決め、政務室を後にした。



◆◆◆



 次に案内されたのは、屋敷の一角にある図書室だった。

 執事に導かれて、重厚な扉を開ける。

 その先に広がっていた光景に、思わず息を呑んだ。


「素晴らしい蔵書だわ……」


 壁一面が、天井まで届く書架で埋め尽くされていた。そこにぎっしりと並ぶ書物は、かなり歴史のある古いものから、比較的新しいものまで多種多様だった。


 本などほとんど見たことのないリリアーナは感嘆しながら室内を眺め回した。


「ここは旦那様の方針で、使用人にも開放されております」

「まあ……素晴らしいことね。皆が学べるなんて、なんて良い考えなのかしら」


 貴族の蔵書が使用人にまで開放されているなんて。

 実家のヴァレンティン家では絶対にありえなかったことだ。


 リリアーナは最低限の教養を学ぶために読書も義務付けらえていたが、屋敷の使用人は近づくことすら許されていなかった。

 そしてリリアーナの弟と妹はどちらも本にも勉強にも興味がなかったため、近づこうとすらしていなかった。


 しかし、この侯爵家では違うようだ。

 勉強する気があれば、この素晴らしい蔵書でいくらでも学べる。


 難しい歴史書もあれば、軽い文体の小説本もある。子ども向けの優しい本や、料理本も並んでいる。


「奥様もご自由にお使いください。読みたいものがありましたら、リクエストもしていただいて大丈夫ですよ」

「まあ……」


 読みたい本をリクエストまでできるなんて。

 侯爵家の度量の大きさをしみじみと感じる。


 ここで働ける使用人たちはなんて幸せなのだろう。


(私も雇ってもらえないかしら)


 本末転倒なことまで考えてしまう。

 いや本当に。

 使用人の仕事なら慣れている。掃除洗濯、針仕事は一人前だ。特に刺繍は手慣れているし、自分でも自信がある。


「今日は、ここを堪能させてもらってもいいかしら?」

「かしこまりました」


 執事は一礼して、図書室の外へと出ていった。

 図書室で一人きりになったリリアーナは、うきうきしながら書架の前を歩いていった。


 書架の合間に隠れるように置かれていた立派な椅子を見つけ、腰を掛ける。

 そこから膨大な蔵書の数々を見つめた。


 まるで本の海だ。

 そして知識の海。


(さて……いい金策はあるかしら?)


 実家に送るお金を稼ぐためのヒントがないか――

 ため息をつきながら一冊の本を手に取る。美しく装丁された古い書物を、優しく、丁寧に、壊さないように。傷つけないように開いていく。


 ――結局のところ、一番リリアーナの頭を悩ませるのは金策だ。

 実家からの要求をいつまでも無視できない。


 あんな家でも生まれ育った家であり、あんな父親でも実の親なのだ。

 そして、放っておくと要求がエスカレートしてくるはずである。何をしでかすかわかったものではない。


 こればかりは誰にも頼れない。

 自分一人の力で何とかしないとならない。


 本を丁寧に閉じて、慎重に棚に戻す。今度は本の背表紙を順番に眺めていく。

 領地の運営、商売の手引き、資産の管理――どれも貴族の仕事に必要な知識だが、いまリリアーナが必要としているのはもっと具体的なものだ。


(簡単にお金が儲かる方法……なんて怪しい情報が、侯爵家の図書室にあるわけないわよね……わかっているけど。わかっているけど。宝の地図とか、へそくりとか挟まっていないかしら)


 もしくは表紙を開けたら中がくりぬかれていて、金貨が詰まっているとか。


(――いえ、それを持っていったら泥棒よ!……だめだわ。疲れてきてるわ)


 ありえない妄想まで湧いてきた。かなり疲れている。


(この辺りは魔術関連かしら……『現代魔術理論』……うう、わからない言葉ばかり……『古代の魔法』……? こっちの方が、内容は優しそう……)


 その時リリアーナは、一冊の本が気になった。背表紙には『グランティーヌ植物図鑑』とある。

 手に取ってそっと開いてみると、色鮮やかな、そして活き活きとした花たちが紙の上で咲き誇っていた。


(なんて素敵……! 刺繍にしてみたい……)


 うっとりとその本を眺める。見れば見るほど繊細で美しいタッチだった。


(この本、借りていってもいいのかしら。部屋でゆっくり読みたいわ……)


 ちゃんと執事に聞いておけばよかったと思いつつ、本をそっと棚に戻す。そして場所と背表紙をしっかり覚えた。


(そういえば……図書室はエリナとレイヴィスが急接近する切っ掛けになる場所だったわね)


 天真爛漫なエリナが勉強しようとしている姿勢にレイヴィスが感心し、彼女に少しずつ勉強を教えて親睦を深めていく。


 雇い主と使用人という関係から、先生と生徒に――そして友人になり、いずれ恋人に――……


 そのとき、図書室の扉が静かに開いた。


(誰かしら? 勉強の邪魔をしたら悪いわね……そろそろ部屋に戻ろうかしら――)


 書架の間から入口の方を覗き、思わず息を呑み、身体を固くした。


 そこにはレイヴィスが立っていた。

 落ち着いた佇まいは美しく――しかしどこか緊張しているようにも見えた。

 だが、リリアーナはそれどころではなかった。


(主人公のエピソードを奪ってしまった……?!)





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