第4話 花瓶事件とスープ事件






「――くしゅんっ」


 部屋に入った瞬間、大きなくしゃみが出る。


「大丈夫ですか、奥様。着替えが終わりましたらすぐにあたたかいお茶を用意いたします」

「ええ、ありがとう。お願いするわ……」


 すぐにドレスを脱いでローブを羽織り、濡れた髪と肌を拭く。

 アンヌは別のドレスを用意しながら、申し訳なさそうに肩を落とした。


「エリナが本当に申し訳ありませんでした。よく言って聞かせますので」


 アンヌはものすごく気に病んでいる。

 リリアーナはそんな姿を見て、柔らかい微笑みを浮かべた。


「ふふっ……こんなこと、なんでもないことよ。私もエリナも怪我をしていないし、アンヌもあまり抱え込まないで」

「奥様……」


 リリアーナは穏やかに話を終わらせた。


(怒ってないわよ。怒ってないからね? そう、皆に伝えておいてね?)


 女主人としてはもっと毅然と使用人を監督するべきなのかもしれないが、度を超すと使用人いじめになりかねない。それをすると悪妻度が上がる。


(悪妻化は絶対にノー! だから私は穏やかに済ませます!)


 そもそも他人に怒ることに慣れていないリリアーナは、怒る加減がよくわからない。叱るにしても、微妙なバランス感覚が必要だ。


(家政婦長からも指導が入っているだろうしね。家政婦長の方が叱るのには慣れているだろうし、私は寛容な立場を取らせてもらうわ……)


 家政婦長には負担をかけてしまうけれども。次の機会に声をかけておこうと思う。


 そうしているうちに着替えが終わり、アンヌはすぐにお茶の用意をしにいく。優秀なメイドである。


 部屋に一人になり、リリアーナは大きく息を吸い込んだ。


「はああぁぁぁぁ」


 特大のため息を零す。


(びっくりした……一瞬死んだかと思った……)


 花瓶が飛んで来た時の光景が目に焼き付いている。

 重い花瓶が宙を舞い、リリアーナのすぐ上に来て――そして床に当たって割れた。

 一歩間違えれば割れていたのは自分の頭かもしれない。それぐらいの迫力だった。


 今更ながらに震えが込み上げてきて、ぎゅっと自分で身体を抱き締める。


(大丈夫、大丈夫……生きているし、誰も怪我していない……私は運がいい……)


 もし怪我をしていたら、穏便に済ますことができなかった。大騒ぎになっていただろう。そして一番危なかったのは自分だ。


(運が良かったわ。ええ、私は運が良かった)


 震えが収まったころに、アンヌが戻ってくる。ハーブティーの一式を持って。香りがリリアーナの心を落ち着かせ、リラックスさせてくれた。

 ちょうどいい温度のハーブティーをゆっくりと飲んでいく。寒さも、怖さも、ハーブが優しく癒してくれた。


「ありがとう……ここはもういいわ。自分の仕事に戻って」

「はい、奥様」


 ハーブティーを飲みながらぼんやりと椅子に身体を預ける。

 一人になって、身体があたたかくなって、ようやく落ち着いてくる。


 自分の着ているドレスに視線を落とす。

 今朝着ていたドレスも、このドレスも、どちらもとても着心地のいいドレスだ。

 きっとかなり高価なものだろう。侯爵家が侯爵夫人のために用意したものなのだから。


 実家にいたころは、こんな素晴らしいドレスを着せてもらえることはなかった。


 ――ドレスも、普通は嫁の実家の用意した支度金で仕立てるものなのだろうが。

 エルスディーン家は、ヴァレンティン家からは銅貨一枚受け取っていないはずだ。


 あの家が、リリアーナのためにわずかな金銭も労力も気遣いも出すはずがない。


 この部屋もドレスも、食べるものも、そしてリリアーナ自身も、すべて侯爵家のものだ。

 すべて跡継ぎを作るためのもの――……


(そんな立場で初夜キャンセルして、子作りキャンセルもしようとしてしまっている……)


 自分がものすごく悪いことをしている気がしてくる。


 侯爵家に寄生している悪妻のような気がしてくる。

 というより悪妻そのものだ。


(ま、まずい……エリナ、早く侯爵様と恋仲になってー!)



◆◆◆



 ――その日の夕食は、決めた献立通りの根菜のポタージュ、鴨のロースト、白いパンにワイン、そしてデザートにフルーツタルトが用意されていた。


(さすが侯爵家! 最高に美味しいそうだわ!)


 昼間のことは忘れることにして、豪華な夕食に集中する。

 食堂にいるのはリリアーナとメイドたちだけで、レイヴィスはいない。説明されていた通り、王城で過ごすらしい。


 なので、とっても気が楽だった。


 さっそくポタージュから食べようとして、スプーンで一口目をすくった時――その姿勢のまま固まった。


(――どうしましょう)


 ポタージュの中に虫がいる。

 とても大きな虫が、瀕死の状態で。


(ここは、どうするのが正解なのかしら)


 虫自体は慣れているので慌てはしない。

 実家では虫の入った食事や、一晩おいて腐ったスープ、血抜きを失敗した臭い肉、カチカチになった古いパンや、カビの生えたパンも食べていたから。


 おかげで胃は鍛えられている。

 なのでおそらくこのまま虫を避けて食べても平気だろうが――


 もしくは皿ごと床に落として、食べないように済ませるか。


(いいえ、お皿が割れたら大変よ。私はお皿一枚弁償できないだから!)


 もしくは指摘するか。指摘してもいいのだろうか。虫くらい黙って食べるように怒られないだろうか――実家のように。


「――奥様、どうなさいました――きゃああ!」


 食事の手が止まったリリアーナを不審に思ったアンヌが覗き込んできて、悲鳴を上げた。


「えええぇえ?!」


 エリナも悲鳴を上げている。


 ――どうやら、食べなくて正解らしい。


「困ったわね。この虫、まだ生きているの。配膳中か、調理の最後の方に入ってしまったようね」


 リリアーナは虫をスプーンですくったまま、冷静に言う。

 メイドたちは顔を引きつらせていたが、リリアーナは気にせず続けた。


「調理の最初の方に紛れ込んでしっかり火が通っているならともかく、これだとみんながお腹を壊しかねないわ。念のために料理長を呼んでもらえる?」

「は、はい」


 アンヌが外に出る。

 リリアーナはその間、他の料理を食べる。待っておくべきかもしれないが、お腹が空いて仕方ない。


 アンヌはすぐに料理長と一緒に戻ってきた。

 料理長はリリアーナの前で床につくぐらいの勢いで頭を下げる。


「大変、申し訳ありませんでしたあぁ!!」


 大声が屋敷を揺らす。

 その余韻が消えてから、リリアーナは静かに声をかけた。


「顔を上げて」


 おずおずと顔を上げた料理長は、顔色が真っ青になっていた。

 リリアーナは椅子に座ったまま、穏やかに微笑む。


「あまり気に病まないで。虫はどこにでもいるものだから。それに口をつける前だったもの」

「――でも、このポタージュは危ないかもしれないから、処分してもらいたいの」

「もちろんです!」


 火を通しなおせばまた食べられるとは思うが、念のため。

 使用人たちも事情を知れば食欲が湧かないだろう。


「私だけならともかく、皆に何かあったら大変だから」

「誠に申し訳ございませんでした。これからは一層気をつけていきます」

「ええ。もしも、万が一にでも、旦那様に何かあったら大変だから……」

「……奥様……もちろんです! 台所の掃除を徹底し、調理中や配膳にも気をつけていきます!」

「お願いね。そうそう、この鴨のロースト、本当に美味しいわ。パンの香りもいいし、ワインも美味しいわ。デザートのフルーツタルトもとても楽しみ」


 待っている間に食べていた分の感想を言うと、料理長は一瞬ぽかんとして、そして少し涙ぐみながら頷いた。


「ありがとうございます、奥様……これからますます精進します……!」




◆◆◆



 ――食事が終わり、夜。

 寝間着に着替え、リリアーナは自分のベッドで横になる。


「ふう……今日は色々あったわね……」


 女主人の仕事を説明してもらいながら、屋敷のことと使用人たちのことを教えてもらい、危うく死にかけて、風邪を引きかけて、美味しい料理を堪能して――……


(それにしてもあのフルーツタルト! 最高だったわ! 明日もリクエストしようかしら)


 思い出すだけで頬がとろける。幸せな気持ちがよみがえる。

 あんなに美味しいものは食べたことがない。


(さすが侯爵家だわ。それにしても、ポタージュはもったいなかったわね。とても美味しそうだったのに……でも、食中毒を起こすと大変だもの……)


 とはいえ、これからは衛生管理ももっと徹底してくれるということだから安心だ。


(明日は何が食べられるかしら……)


 楽しみでしかない。

 本来なら献立を考えるのは自分一人でやらなければならないのに、リリアーナはすっかりみんなに任せるつもりだった。職務怠慢かもしれないが、プロに任せて、リリアーナはあくまで提案を了承する形が一番いい。


 それで、時々、たまにだけ、自分の食べたいものをリクエストできたら最高だ。


(美味しい食事のため、そして修道院に入る未来のため、明日も頑張らないと……)







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