第3話 侯爵家の女主人
「呼び出して悪かったわね。話した通り、私のこの家での仕事を教えてほしいの」
執事と家政婦長には、朝の仕事が落ち着いたら部屋に来るようにと伝えていた。
――自分にエルスディーン家の女主人としての振る舞いを教えてほしいと言って。
「とりあえず、この家での流儀を一通り教えていってもらえるかしら。今日が難しければ明日からでもいいわ」
いずれ離婚するとしても、それまでは女主人としての責任を果たさなければならない。
床を共にしない上に無責任に過ごしていては、離婚の際にこちらの立場が悪くなる。
「かしこまりました。それでは、いまから始めていってもよろしいでしょうか」
「ええ」
――侯爵家の女主人ともなれば、やるべきことは多岐に渡る。
屋敷を案内されながら、日々の仕事を説明と実務を交えながら一つ一つ教えていってもらう。
まとめていくと、使用人たちの管理に家事全般の監督、そして社交が主な仕事となるようだ。
(まるで社長……いや取締役くらいかしらね。大変だけれど、悪妻度を上げないのはもちろんのこと、良妻度も上げておかないとね)
案内された先にいた使用人や、すれ違う使用人には名前を名乗らせ顔と名前を覚えるようにした。
エルスディーン侯爵家の女主人として恥ずかしい振る舞いをしないように。
そして使用人たちから反感を抱かれないように注意する。
「――奥様、夕食の献立はいかがいたしますか?」
台所に案内されたところで、家政婦長が尋ねてくる。
「それも私が考えるの?」
「はい、こちらも奥様の大切な仕事になります」
「それは責任重大ね……」
本当に女主人の仕事は多岐に渡る。熟練者にすべて任せておきたいが、そうもいかないのだろう。
「――旦那様は食事はどうされるのかしら?」
ふと問うと、執事が申し訳なさそうな顔をした。
「旦那様は王城の仕事が立て込んでいるため、しばらく帰ってこられないということです」
その言葉で、リリアーナの心はバラ色になる。
(ブラック職場万歳! ブラック王国ばんざーい!)
帰ってこないなんて、最高過ぎる。どうやって床を断るか悩む必要もない。
胸の中で大はしゃぎしつつも、表面上は冷静さを保つ。
間違っても喜んでいる素振りなど見せてはいけない。リリアーナは見えないところで腕の肉を摘まんで痛みに耐えつつ、悲しむ演技をした。
(――もしかして、初夜を断ったから気まずくなって帰ってこないとか……? まさかね)
冷酷侯爵様が、そんな些細なことでショックを受けるはずもない。
きっと本当に忙しいのだろう。彼の仕事もまた多岐に渡るのだから。
(貴族としての仕事に、魔術研究と防御結界の開発だったかしら? 外交と王族の相談相手もだったかしら)
想像を絶するぐらい忙しそうだ。家のことやリリアーナのことにかまけている暇などないだろう。
気を取り直して、こちらを見つめる執事と家政婦長の顔を見る。
「じゃあ、しばらくはあなたたちが料理長と相談して決めてくれるかしら。その場には私も同席させてちょうだい。この家の流儀を覚えていきたいの」
リリアーナは本心からそう頼んだ。
献立の決め方などわからないが、完全に人任せにするのは無責任と見られかねない。
慣れている人間に任せつつ、学ぶ姿勢とやる気を見せる。
「かしこまりました、奥様。まずは食材庫にご案内します」
家政婦長はリリアーナを屋敷の広い食材庫へと案内した。棚には豊富な保存食材や、新鮮な野菜、肉類、さらにはスパイスや調味料が美しく並んでいる。
「こちらの在庫を確認しながら、毎日の食事が飽きないように、メインディッシュは肉、魚、野菜など、バランスよくローテーションさせるのが理想です。今日は肉料理が良いでしょうかね」
家政婦長が言うと、料理長が頷く。
「そうですね。根菜のポタージュと、鴨のローストが良いかもしれません。デザートとしてはフルーツを使ったタルトなどはどうでしょう」
リリアーナの胸が躍る。想像するだけで美味しそうだ。
「いいわね。それで頼むわ」
頷くと、執事も家政婦長も料理長もどこか嬉しそうな雰囲気をしていた。
その表情を見て、リリアーナもほっとした。
献立を決めた後は、また案内を受けながら屋敷内を歩く。そしてメイドたちが熱心に掃除をしている光景に出会った。リリアーナ付きのメイドであるアンヌの姿もあった。
メイドたちの表情は真剣そのもので、この屋敷で働けていることに誇りを持っているようだった。
その時、花瓶を抱えたメイド――エリナが小走りで廊下を走ってくるのが見えた。
次の瞬間、絨毯の端に足を引っ掛ける。
「きゃあ!」
エリナが短い悲鳴を上げ、リリアーナの目の前で見事にひっくり返る。
その勢いで投げ出された花瓶が宙を舞い、リリアーナに向かって飛んでくる。
――避ける暇もなく、花瓶はリリアーナの頭上でくるりと回転した。
活けられていた花が、中の水が、リリアーナに降り注ぐ。
床に落ちた花瓶は、大きな音を立てて割れた。
「…………」
リリアーナは頭から滴ってくる冷たい水と、花びらを眺めながら、呆然と立ち尽くした。
首筋を垂れてくる水の感触や、濡れた花びらが額に貼りつく不快さで、ようやく意識を取り戻す。その間も水や花びらがぽたぽたと落ちてドレスを濡らし、身体に染み込んでいった。
「す、すみません、奥様!」
エリナは床に座り込んだまま、半泣きで謝る。
「――奥様! お怪我は?」
執事と家政婦長が顔面蒼白になって声をかけてくる。
場には緊張感が漂い、周囲の使用人たちが事の成り行きを見守っていた。
「…………」
リリアーナはゆっくりと深呼吸をし、軽く目を閉じた。
ここで混乱のまま大声を上げたり、怒鳴りつけることは簡単だ。だがそうすれば、使用人を虐げている女主人という絵面が完成してしまう。全面的にエリナの方が悪かったとしてもだ。
(そうなると、悪妻度が上がってしまう……! それだけは絶対に避けないと……!)
リリアーナは目を開けると、そっと頭の花を取り、微笑みを浮かべてエリナに声をかけた。
「大丈夫よ、エリナ。誰にでも失敗はあるものよ」
小さい子どもをなぐさめるように、優しく言う。
エリナはぽかんとしながらリリアーナを見上げていた。
「あなたこそ怪我はしていない?」
「あ……は、はい……」
「そう。よかったわ。どこか痛めているようだったらすぐに治療するのよ」
リリアーナはもう一度微笑み、近くにいたアンヌに声をかける。
「――アンヌ、着替えを手伝ってもらえるかしら」
「……はい。奥様」
アンヌはすぐにリリアーナの元にやってくる。
「エリナは、ここの片づけをお願いするわ。花瓶の破片には気をつけてね。それから、もう廊下は走らないようにね」
「……は、はい……申し訳ありませんでした……」
消え入るような謝罪の声が、屋敷の中にひっそりと響いた。
「次から気をつけてくれればいいわ。誰か片づけを手伝ってあげて」
リリアーナは背筋を伸ばし、前を向いて颯爽と歩いていく。
どんなみすぼらしい姿でも、侯爵夫人としての気位を忘れないようにして。
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