第1話 初めての「明日」

 ミアはいつも別邸の西側の窓を拭いている。


 毎回気がついたら、もうそこにいる。これがミアの人生のはじまり方であり、ほぼほぼ終わり方でもある。


 あと二時間もあれば、彼女は激しい胸痛に見舞われ、天に召されるのだ。


 助けを求めたこともあるが、他人と仲を深まる機会もなく、この別邸で二時間のミアとこっそり呼ばれる彼女は味方がいないのだ。仮に何かしらの行動を取ろうとしても、たかが下層メイドのためにわざわざ有能なお医者さんまたは治癒魔法のできる人を別邸まで足を運ばせることは難しい。


 ミア自身もよくわかっている。


 もうじきあの時がくる。と思った次の瞬間、心臓をひどく握りしめられたような痛みが全身を走った。意識が遠くなって、後ろに倒れかけたその時――誰かが自分を受け止めた。


「メイドさん、気をたしかに……」


(誰だろう。この優しい声……)


 少し顔を振り向いたら、海より青い瞳を見た気がした。もっとはっきり見ようとしたが、もうそれをする気力がない。


(大丈夫……次起きたら、まだ同じ日が始まるだけだから……)ミアがそう自分に言い聞かせて、そのまま気を失った。


 ところが、目覚めたらミアは自分がいつもの定位置ではなく、自室のベットの上にいることに気づいた。こんな始まり方、ミアは知らなかった。状況をうまく飲み込めなくて、ただただ戸惑うばかりだ。


 すると、ベットの足側に、青い瞳の男が座っているのを見た。


 男は微かな動きに気づき、ミアに視線を送った。


「気分はいかが?」と、男が聞いた。


「私はなんで……」ミアは少しかすれた声で聞き返した。


「ちょうど貴女……ミアだっけ?」どうやら名前が把握されている。ミアは大人しく頷いた。


「ミアが倒れたところを見て、治癒魔法をかけたんだ。淑女レディーの部屋に入るのが無礼な行動だが、メイドさんの病気はかなり深刻なもので、治癒ヒールの効果を確かめたくて、ここで待つのだ」


 まさか公爵邸で治癒魔法の使える人間がいるなんて、ミアは考えたこともなかった。治癒魔法は普通、高位貴族だけが有するものだが、公爵家の人間がそれを所持すること、ミアは聞いていない。


 でも、を探れば、この青い瞳の持ち主と一致する人物は確かに存在している。それがこの屋敷の家令ハウススチュワート――イアン・ルチェストだ。彼は代々ハルパレード公爵家に仕えるルチェスト子爵家の次男である。屋敷全般の管理を統率している彼は家令というより、一人娘しかいない公爵の仮の息子に近いのだ。


 ヴァイオレットと侯爵家の婚約があってもなくても、いずれハルパレード家の養子として迎えられ、公爵家を継承するような優秀な人間だ。


「昨日から丸一日寝込んでいるが、今の様子じゃ問題がないようだ」


(昨日……)ミアはこの言葉に実感を持っていない。


 でも、それはつまり――


「今日は……」一刻も早くイアンに礼を言うべきなのがわかっているが、

ミアは夢を見る心地で、それどころではなかった。


 彼女の人生は始めて明日一日目じゃない日を迎えた。


 一瞬の躊躇いがあるものの、イアンはミアの言っていることを理解した。


「ああ、これから毎日を迎えるのだ」


 イアンの言葉が引き金となって、ミアは思わず涙をこぼした。


「ごめんなさい……本当に、嬉しくて、つい」


 そんなミアに、イアンは黙々とハンカチを渡した。


「イアン様のおかげで、私は初めて窓拭き以外のことをしました。正直のところ、ベットに横たわるのも初めてですわ」涙の次はまるで赤ん坊のような無邪気な笑顔だ。


 この言葉の重さに感じないわけがないが、イアンはその感情を表に出さなかった。


「それはよかった」


「ぜひイアン様に恩返しさせていただきたいです」


「礼を言いたいのなら、ヴァイオレット様に言ってください」


「お嬢様に?」ミアは頭を傾けた。

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