第42話 遥香の覚悟 3

「はる! はる!」


 私のことを呼ぶ声が聞こえる。

 桃を食べて、頭の中に違和感を覚えて、そのまま寝ちゃってたみたい。

 目に力を入れて、何とか瞼が開く。ピントが合わずにぼやけた視界に入る大きな木。大きな桃の木の根元に寝かされてるって気づくまで、また少し時間が過ぎた。

 強くなりたくて桃を食べたけど、私強くなったのかな? 寝たままじゃ、何もわからない。


「はる。気がついた?」


 さっきの声とは違う声の方へ目を向ければ、太陽に照らされて光る艶のあるストレートヘア。穏やかな微笑みを浮かべて私の名前を呼ぶ天然王子様。


「櫂さん。私、どうなったんですか?」


「はるは桃を食べてる途中で、気を失ったんだ」


「どれぐらい経ったんですか?」


「んー。そんなに大した時間じゃないよ。まだ太陽もそこにある」


 さっき桃を照らしていた太陽が、さほど変わらぬ位置で輝くのを見ながら安堵する。


「本当ですね。まさかこんなことになるなんて思ってもいませんでした。ご迷惑をおかけしました」


「僕は隣に座っていただけだからね。何もしてない。それに僕よりもはるのことを心配してた奴がいるよ」


 櫂が指を指したのは、私の体を挟んで反対側。

 黒い髪に切れ長の瞳。整った顔が歪んで、私のことを心配してくれてるのがわかる。


「心配してくれたんですか?」


「あぁ。痛みなどはないだろうか」


「はい。大丈夫です」


 私の言葉に心底ほっとした顔を見せた。

 その顔に、私の中にも嬉しさが湧き上がるけど。

 

「すいません。お会いしたことありましたか?」


 私の記憶の中にない顔。

 誰だっけ?


「はる? 尚だよ! 忘れちゃったの?」


「尚……さん?」


「あぁ」


「櫂さんのご友人の方ですか? すいません。私まだ頭がぼんやりしてるみたいで」


 尚って呼ばれた男の人の眉間にうっすら皺が寄る。


「私は櫂の友人だ。其方が倒れたと聞いたものだから。気分が悪かったりはしないか?」


 眉間の皺もすぐに解れて、何事もなかったかの様に落ち着いた声。

 櫂とは違う低い声が鼓膜を優しく揺らす。


「もう大丈夫です。ありがとうございます」


「ならば良い。櫂、私はそろそろ戻る。彼女をきちんと送り届けてやれよ」


「尚っ……」


 櫂の呼びかけに反応することもなく、尚は即座に大きなボールを作り出して飛んで行ってしまった。まるでバランスボールに座る様な姿勢に、つい感心する。

 私、バランスボール苦手なんだよね。


「はるも、そろそろ戻る? 僕の家の方が近いけど、自分の家の方がきっと気楽だろうね」


 櫂が作り出した天馬に乗るのも久しぶりだ。

 背中に櫂の体温を感じながら、ゆっくりと空を飛ぶ。仙人島の上を軽やかに飛びながら、櫂が口を開いた。


「はるは何で桃を食べたのか覚えてる?」


 体と気持ちが落ち着くのを待ってくれてた気遣いに、心の中がほんわか温かくなる。

 

「覚えてますよ。強くなりたかったんです」


「どうして?」


「どうって……あの、倒したいんです」


「ふふっ。僕のことも覚えてるんだね」


 耳元で聞こえる櫂の笑い声。それは何だかくすぐったくて恥ずかしくて、顔に熱が上がる。


「はい……仙帝の側に居る人ですよね」


 その櫂を前に、仙帝を倒すだなんて、よく言ったわ。


「そこまでわかってて、そんなことを言うの?」


「櫂さんのこと信じるって決めたので、後は好きにして下さい」


「じゃあ、好きにさせてもらおうかな」

 

 少し聞かないうちに王子声への耐性薄まったのかな。さっきから心臓の鼓動が落ち着かない。

 櫂には誰か特別な人がいたはずなのに。



「ここが、はるが暮らしてた場所だっていうのは覚えてるよね?」


「はい。大丈夫です」


 私が桃を食べたことで何を忘れているのか、どこまで覚えているのか、それを少しずつ紐解いていくように櫂が声をかけてくれる。

 でも私、本当に何か忘れてるのかな? 

 自分でも心当たりのない記憶に、忘れたところで大した記憶じゃなかったんじゃないかって、そんな風に気楽に思う。


 小川が流れて、その脇にある癒しの大岩。その横に建つ自分の家。

 周りには草原が広がっていて、そんなところにたった一軒だけ存在する家。

 その景色に、どことなく違和感を感じるものの、それが何かわからない。

 

「今日は、はるもゆっくり休むと良い」


「ありがとうございます。そうします」


 家の目の前で天馬から降ろしてもらって、ここまで送ってくれた櫂に頭を下げる。

 仙人島でやるべきことがあったはずなのに、そんな忙しい櫂を付き合わせてしまった。


「どうして、仙帝を倒したいの? それは、覚えてる?」


 帰ろうと、もう一度天馬に跨がった櫂が投げかけてきた問い。

 仙帝を倒す理由。何だったっけ。


「あれ、何だか忘れちゃったみたいです。でも、どうしても倒さなきゃいけなくて」


 そのために強くなりたくて。倒したら、仙人島で暮らすの。料理を作って、屋台を出して。

 仙帝を倒した後、どうしようかと考えていたことは鮮明に思い出せるのに。

 倒す理由、それだけが思い出そうとしても、霧がかった様にぼやけてる。


「わかった。無理しなくて良いよ。また明日様子を見にくるね」


「忙しいのに、ごめんなさい」


「謝る必要はないけど。これ以上忙しくしないように、無茶だけはしないでいてくれるかな」


 いつものように王子スマイルを煌めかせて、櫂がその姿を消した。

 櫂を見送る景色は見慣れたもので、私の記憶の中にもしっかり残ってる。いつだって、ここから見送っていたはずだ。

 櫂の家は仙人島にあるから。

 それなら、私はこの島に独りで住んでるの?


 辺りを見渡しても、他に家は見つけられない。

 この島で、たった独り。

 なんでだろう。心の中を占める寂しさ。これまでも、独りだったはずなのに。


 泣きそうになるぐらいの孤独感が一気に押し寄せてきて、家の中に入ってしまおうと慌てて扉に手をかけた。

 その時、私の視界に引っかかった跡。

 私の家の隣、少し前まで何かが建っていた様な跡。

 ここに何かあった? 誰かいた?

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