第43話 閑話 尚の記憶

 もう二度と、この木を目にすることはないと思っていたのだがな――


 目の前に隆々と生い茂る桃の木は、私の中に残る最初の記憶の中の映像と、今も何も変わらない。

 この木には、感謝してもしきれないぐらい感謝している。この木のおかげで、私は生き延びて来られた。

 だが、それと同じくらい憎くて仕方ない。私から大切な人を奪い取っていく巨木。それにどうして手放しで感謝できようか。


 自分の中でせめぎ合う相反する二つの感情。

 整理をつけることのできない想いが、一周、また一周と私に桃の木を中心に旋回する軌道を描かせる。

 早く、島に戻らねば。櫂は遥香を連れ帰ってくるだろう。その前に、できる限り私の痕跡を消して、彼女の前から姿を消さなければならぬ。

 そしてそのまま、せめて仙人として普通の、京香の様な生活を送らせてあげるべきだ。

 

 遥香とのことは私が覚えていれば良い。

 私の時間が止まるその瞬間まで、私の記憶からはこれ以上誰も消させやしない。

 私が桃を口にすることは、もう二度とないのだから。


 それにしても、ここが仙人島の中だということを忘れてしまいそうになる。私がこれほど悠々と島内を飛び回って居られるとは。

 辺りに広がる静寂が、この場所がどういう場所かを教えてくれる。

 必要のない者は誰も近づかない場所。近づいてはいけないと、強く教えられる場所。確かに、何かを隠すにはここ以上の場所はないだろう。

 そして、私が育った場所だ。


 夏の熱気を含んだ風が木を揺らせば、その青い匂いが鼻の奥に広がる。

 この匂いに包まれて暮らして居たのは、もう何十年前のことだろうか。その幹の根元にうずくまって夜を明かし、根が張り出して凸凹とした地面を毎日駆けずり回った。

 仙帝から追われる立場の両親が、ここに私を隠したのは間違いではなかったはずだ。あらゆる所に手を回され、誰にも助けを求められなかった両親。そんな前仙帝の息子など、獅子に追われた兎。その兎が一人で育つには、こんな場所しか不可能だっただろう。

 

 だからこそ、今の私の罪は手にした桃の実の瑞々しさに負け、思わず口にしたことだ。

 毎日新しく生まれ落ちては消える実。それにどんな意味があるのか、独りの私には知る術もなかった。

 幼い頃の好奇心は何ものよりも優れているが、同時に何ものよりも罪深い。一口口にする度に記憶が欠けていくと、気づいたときには全て手遅れだった。

 両親の声も顔も、何も覚えていない。

 私の父の強さがどれほどだったのか、母の優しさは温かいものだったのか。無くしてはいけない記憶。

 それと引き換えに手に入れた力のおかげで、この場所から出ていくことができた。

 だが、それが何だというのか。

 大切なものと引き換えに手に入れる力に、何の意味がある?


 それなのに何故、皆力を求める?

 京香の気持ちがわからぬわけではなかった。仙人として暮らすのに、強さが必要となる場面はいくつもあるだろう。木偶を見て、恐怖に怯えた彼女の姿。今思い出しても、罪悪感しか生まれない。その恐怖から逃げ出したくて、桃の実を口にした彼女を責めることなんて私にはできない。


 仙人島で、まだ意識がはっきりとしない様な遥香の姿に後ろ髪を引かれながらも、私は私のやるべきことのために自分の島に戻る。

 目の前にある二軒の家。片方は遥香のために遥香のことを思って作った。私が暮らすためだけに作った島で、少しでも快適に過ごしてくれれば良いと、それだけを願った。

 それが、仙人にしてしまった私にできる、せめてもの償いだから。


 その横に並ぶのは、私の家だ。遥香に叱責され、何とか外見だけを整えたような張りぼて。室内に置いているものなんてない。外から帰って、床に横になるだけ。それだけのための空箱。

 そんなもの、跡形もなく消し去るのは動作も無い。仙力だけで作り出したものは、その欠片一つ残すことなく消すのが容易で良い。


 その場にあった空箱を破壊するための仙力を流し込む。私の力だけで作られた箱が、一気に崩れ落ちた。

 少しずつ塵となって空気に溶け込んでいく箱だったものを見ながら、遥香との日々が崩れたことを実感する。

 私は、何を間違えたのだろうか。

 私の全力で、遥香を守りさえすれば良いと、そう思っていた。

 

 京香のときの様に怖い思いをさせぬよう、用意したものがことごとく裏目に出ている。

 遥香は何を望んでいたのか。

 私の不調など、傷など気にする必要もないのに。 

 後から後から降り注ぐ後悔が、私の芯を切り裂いていくようだ。

 

 消え去っていく欠片も、もう数えられる程で、いよいよ全てが終わってしまう。 

 残りわずかな欠片たちが消え去る前に近寄る、櫂の気配。

 もう遥香を連れ帰ったか。

 もう少し、時間が欲しかったのだが。

 慌ててこれまで以上の仙力を注ぎ込む。仙力が注がれたと同時に、全てが消え去った。


 遥香が戻る前に、急いでその場を離れる。飛び去る直前に目にした、草の上の跡。

 しまった。消し損なった。

 いや、あれぐらいなら誰も何も思わないか。

 遥香の記憶に影響が出なければそれで良い。

 せめて、あの程度の痕跡を残すことを、微かにでも私が居た名残りを、遥香の側に残すことを許して欲しい。

 誰かに請うたわけでもない許しを繰り返しながら、私しか行けぬ場所へと向かう。


 来るべき日まで姿を消そう。遥香から私の色が消え、生活の場を仙人島に移す日まで。それまでは、せめて近くで遥香の身を守れるように。

 この場所であれば誰にも見つからず、この島で起こることを把握することができる。

 足を踏み入れたのは、私以外にただ一人だけ。思えば、初めてこの場に招いたときから遥香は特別だったのかもしれない。

 いや、私の目の前に降ってきたときからか。


 もうその気持ちを告げることもない。

 私の時間が終わるまで、この身に抱いておこう。

 瞼の裏に焼きついた遥香の笑顔が、これからも私を幸せにしてくれる。

 それだけで、十分だ。 

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