神、降臨


 一筋の紅が天をかける。50万キロ下の地上からもその姿がはっきりとうかがえた。紅の輝きが、空に一筋の線を描きながら滑らかに移動しているのである。


 それは丁度20時間ほど前のことである。朝方、空が青に染まりだした頃、上空のある一点が、突如、猛烈に輝く。異常な光に誰もが顔をあげた。

 幸い、それを引き起こした現象と地上との距離が離れていたために、被害はなかった。ただし、それを観測した各国の警戒レベルは一様に3段階引き上げられた。空で何が起こったかを観測していたためである。

 それは、望遠レンズを通して映し出された光景。空の異常を察知したと同時に各国の天文機関、または陸地観測機関はその一点を捕捉ほそく。この果てなき大地を限界まで観測するために、各々の国家が精力を注ぎ開発した望遠観測器。そこには天のガラスが見事に破壊される様が映されていた。

 ありえない事態。まずこの天のガラスこと、世界の天井は、不壊ふえの象徴。それは常識であり、法則であろうと思われていた。何者にも壊せぬ存在。この果てなき大地の決まり事であった。もし、それを壊すエネルギー源を用意できても、そのエネルギー源自体が自壊してしまうために用意不可能、故に破壊不能。そんなパラドクスが立てられる程にありえない出来事であった。

 歴史ある国家ほどに、この世界の天井を研究しているものである。己が文明をいくら研鑽けんさんしようとも、そこには届かないことは身に染みて理解していた。

 しかし、実際にそれは起こり得た。考えられる可能性。それは世界の天井を破壊した者の格が異常であること。

 この世界における力のありようは様々である。魔力やスキル、レベルの上昇。そしてそれだけではなく気や念力、呪力もあれば、技や覇力もある。一見、力とは無縁な人文、科学に携わる者さえも、他と等しく力があるのだ。力というのは、生命のあり様、世界のあり様だけ多様に形成が可能であった。そして、不可思議な力や奇縁を与える、数多あまたの宝や秘境もある。加えて、国や文明といった力もあなどることはできない。物理主義と不可知主義とが混ざり合い発展していくその力は、いつまでも国家を個人の庇護者たらしめるのだった。

 当然、国家を上回る個人なる者は存在する。だからと言って、国家が個人におびえ、すくむ訳ではない。数多あまたもの歴史ある国家がその運営を成功させているのは至って普通のことであった。

 そして、それらの力を個人が、国家が求める中で、その果てに獲得するのが格であった。格は何も個人だけのものではない。一つの共同体、そして国家が獲得する格もある。そして、その格の取得がある種おのおのが歩む道の到達点そして次なる次元の出発点となっていた。




 かの者を考えるに、あれだけの力、何らかの小手先のものや奇異なるもの、または文明の総力という次元ではない。そういったものを圧倒的にひれ伏してしまう程のクラス。もはや力の系統がどうとか言うのは問題外。ただ純粋にその格が高すぎるのだという一言に尽きる。再現不能。対処不能。

 かの者を観測した全ての国家が出した結論であった。

 問題は、その力がこちらに向くか否かである。

 空が青く染まり、その光にさえぎられ、かの者の姿は既に観測できなくなっていた。世界の上とやらはどうなっているのだろうか。果たして存在するのか、ただ無限に天のガラスが続いている可能性も考えられる。

 そしてそれが分かるのは、その日の夜であった。赤く染まった空を世闇が覆いだす頃、その優秀な望遠観測器には、かの者が、映しだされていた。


 かの者は空に座る。そして何やらごみを眺めていた。


 世界の天井のその上には空間が存在するのだと判明した瞬間。

 幸運だったのは、その観測地点に星が輝いていないことであった。かの者との間をさえぎるのは透明なガラスの天井だけである。


 そこから5時間ほど。


 そのゴミらしきものが消える。かの者の表情というのはわからなかったが、その髪は今朝とは違い漆黒しっこくに染まっていた。しかし、突如その髪がくれないに輝く。いったい何が起こるのか、それを見守る誰もが固唾かたずをのんだのだが、次にかの者がとった行動はただ、一服。たばこを吸うそれだった。


 大気が存在する!世界の天井のその上には大気が存在するのだ!

 その5分。学者だけが異様に興奮したのだった。


 一方で国家というのは、非常事態に備えるか、それとも、かの者と交信を試みるか、ただ何もしないかといった決断に迫られていた。

 非常事態に備えるならば、国家の明かりを全て消してはどうだ。そうすれば向こうは、他の国家の明かりを目指すだろう。

 いや!不自然に消しては逆に目立つ。もしそうするならば、夜が訪れる前に行動すべきであった。

 と騒ぐ国。

 かの者と交信するのならば、巨大な光源で信号を送ってみるというのが一番の手であると考える国。

 そして、怖い者知らずの馬鹿たちが、それを行ってしまうのだが、幸いにもかの者は全く下を見ることはなかった。

 もし、かの者がじっと下を覗いていれば、あちこちの地上から、チカチカと不自然に点滅する光が見えたことであろう。そしてその光は闘神の完全言語理解を持って、翻訳されるのだ。

 それに反応したかどうかはわからない。しかし、その中に「お前の、その、たばこ、俺、知ってる」というメッセージがいくつかあったので、間違えれば、その国は終わるとこであった。

 望遠観測器に映し出された光景。かの者の顔はそれを観測した地域の特級情報となるのだが、それと同時に観測された、かの者のたばこ、これは以前から準特級情報に指定されていたものであった。


 純白のたばこ。そこには金の文字で「Royal」。そして、金色の線が一本。最後に金鳥が金の枝を咥えた絵が刻印されている。


 このたばこを手にした国家は黄金の繁栄が約束される。ここからはるかに離れた、それも気の遠くなるほど離れた場所にて、このたばこを求め、盛んに争いが起こっている。そんな伝説がこの地域に伝わっており、そしてそれが、事実であったので、悠遠ゆうえんの諸外国政策として、この情報は準特級情報に指定されていたのである。民間には異国伝説として異邦人から。そして国家お抱えの機密を読む星読みからは、かのたばこがこの世界の重大な事項を決定する未来があるという預言。そして、そのたばこというのが、まさに闘神の吸うたばこと見目形が一致していたのだった。瞬く間に情報の階級が特級へと引き上げられる。

 ちなみにではあるが、かのロイヤルとうたわれるたばこをその目にしたものは、この闘神を観測するものの中に一人としていない。ただ、その絵姿だけは各地に存在し、把握されていた。


 そして、闘神が動きだす。それはあっという間の時間であった。空に紅の光が一筋描かれる。およそ時速10万km。即座に算出されたその速度は、各国をおののかせた。しかし、彼がこちらへ向かっていないと分かると途端に安堵あんどする。

 一方で進行方向の国々は即座に非常事態を宣言する。国家凋落を想定した最後のタイムに突入したのだ。しかし、杞憂きゆうであった。その紅の一筋は、初め、一定のスピードを保っていたが、しばらくして、紅の衝撃波が観測される。それと同時に、かの者のスピードが格段に増していく。既に時速は100万kmを記録していた。


 そして、観測の限界に達する。


 遠方の空に輝く星々がかの者を遮ったのだ。

 その姿を伺うことも拡大することも、もはや意味は無かった。この地は難を逃れたのだった。


 彼が去り、残ったもの。それは、ある一つの予言であった。


 その時、世界各地の星読みが、その気が狂うかのごとく、口をそろえこう言った。


「間もなく世界の中心に到達するものが現れるだろう。神々の時代に備えるのだ」


 それは、この世界にあまねく起こった星読みの異常。各地の星読みが、一斉にそれを宣言したのだった。


 闘神を観測した地域のみがその予言の意味を深く理解する。しかし、闘神の存在を知ることのない場所は、突然の出来事に驚き慌てたのだった。




 これは、はるか昔から全ての星読みが読み続けている預言。この世界の普遍の預言。


「世界の中心に誰ぞたどり着く。その功績をもって、神々、降臨せし。万物よそれに備えよ。覇者よ神を目指せ。神たる席はたった十席。森羅万象その可能性あり。」


 あまりの悠久の歳月に数多あまたの強者が散ってゆく。栄枯盛衰を味わいつくしたその歴史がまだかまだかと渇望かつぼうする。すたれた迷信とあざける者も数多あまたいた。老いと寿命とにうらみ泣く者も数多あまたいた。いつから、この世界があるのだろう。それを誰が知っていよう。この世界の広さもわからぬのだから。しかし、今、我らはここに生きる。過去の無念に立ちながら。その日をしかと待ちながら。あざける者も口先だけだ。その日がくれば途端にひれ伏す。その日が今日かもしれないのだから。


 そして、この日、この時、歴史が動く。


 間もなく到着。


 世界の歓喜。


 覇者はただただ、眈々たんたんと、世界をにらむ。闘志を持って。




 そしてその日から100日が経過した。

 空の上にこうはつの男が立つ。ガラス越しに見えるのは巨大な大陸であった。それは周囲を海に囲まれた大陸であった。


 神歴0年102日7時43分54秒


 あれから100日。吸い殻が示す方角へ移動し続けてきたわけなのだが、ずいぶんと時間がかかったものである。頻繁ひんぱんにそのスピードを上げ、なるべく早い到着を試みたのだが、ノイローゼになりそうなほどであった。どこまで行っても世界は続く。方角はわかっても、その距離が分からない。故にこの大陸を通り越して、しばらくのちに気が付き、引き返したのだった。

 あの時は嬉しかった。吸い殻の進行方向が180度、真後ろを差したのだから。まだその先に失われしたばこがあるという確証はない。けれども、その変化だけでも純粋に喜ぶことができた。


 途中、寝食休憩はいらなかった。体の芯から湧き続ける心地よさ、不調を知らぬ快調具合に笑ってしまったほどである。しかしその一方で、楽しみがない。たばこも20時間に一本である。途中。このガラスを突き破り、下方に見える国々を観光しようかとも思ったが、一刻も早く、失われし我がたばこを見つけたく、あきらめた。


 これは良かったのか、悪かったのかわからないが、この期間。スマホ君には散々おちょくられた。退屈な時間をまぎらわせてくれるとばかりに、その画面に映画やドラマ、本に娯楽、動画や教養など、さまざま映しだしてくれていたのだ。しかし、ドラマチックなシーンや大事なシーンをカット編集しやがるし、変な映像を差し込まれたりもした。純情な青春ドラマが、サスペンスものに変わったかと思えば、いきなりアート作品に切り替わったりもした。見事な腕前のときもあれば、思い出したくもない最悪な瞬間もあった。なかでもホラーやグロテスクといったジャンルだけは本当にやめて欲しい。安心してみることができない。

 ただ、音楽を流している時間だけはとてもよかった。その時間だけは一曲一曲しっかりと流れることが多く、たとえ途中、スマホ君の編集があっても、こちらに腕を見せつけるかのように、編曲、ミックスと鮮やかにキメめていたのだった。

 そして、ごくたまにだが、映像の方でも初めから終わりまでちゃんと視聴できる時があった。そう言った場合、その作品はスマホ君のお気に入りというか、世に大いに評価される偉大な作品のセレクションなのだが、その時は実に有意義な時間であった。中には明らかに地球の作品とは思えないものもあったのだが、まあ、いいだろう。恐らくは、この世界の作品だ。大変勉強になる。やはり、この世界は無限に広がっているという常識があるのだろう。そして、人々は世界の中心へと思いをはせる。しかし、あの作品はよくできていた。この世界の文学もあなどれないものだ。


 超高速飛行中。それでもたばこは吸えた。ガラスの天井の上にも大気はあり、そして、飛行中、その風のあおりもあったはずなのだが、まったく問題はなかった。ジッポーちゃんが頑張って、いつも通りに火をつけてくれていたし、火のついたたばこも全く風の影響を受けてはいなかった。満足である。


 これはタキシード君のおかげでもあるのだが、それをタキシード君が主張することはなかった。それが彼の美学、カッコつけである。

 ただ、このカッコつけの主因はジッポーちゃんにあるとだけは言っておこう。主人にデレデレするジッポーちゃん。それがタキシード君のしゃくさわっていた。そして、そのジッポーちゃんへの反発がタキシード君をクールなる美学の道へ進ませたのだった。


 許せない。近頃あのジッポーの野郎、炎を擬人化ぎじんかさせて美少女を作り出すすべを編みだしやがって。おかげで主人はてんてこ舞いに首ったけ。だらしないったらありゃしない。一服する訳でもないのにカチカチ、カチカチ、ライター出しやがって、冗談じゃない!だったら何だい?わいも擬人化してやろうかい?糸でもこねくり回して......いや、それは、邪道だ。プライドなんてあったもんじゃない......一体、なんだって、こんな奴にこんなことで対抗しなきゃなんないんだ!あああ!ちくしょう!


 そんなタキシード君ではあったが、ジッポーちゃんがしまわれているポケットの内側を居心地の悪い環境に変えるといった姑息こそくな手段に出ることはなかった。あくまでも、憎いが仲間。それ故のもどかしさと苛立いらだちであった。そして、そのポケットの内側は、ジッポーちゃんにしてもスマホ君にしても最高級の内装仕立てであった。実のところ、タキシード君のポケットはちょっとした異空間で、パラダイス仕様なのだが、そこまで実用的ではないため、主人には話していなかった。




 目下に大陸が広がる。はるか彼方の昔から、コンロン大陸と呼ばれてきたその大陸は、今、一つの国家により治められていた。

 その国家の名は常天連邦。60の自治を持つ州が一つの権威の元に集まり、体をなす大陸国家である。

 大陸の横幅は、約35万キロ。縦の幅もおおむねそれと等しい。本来はいびつな四角であった大陸は国家の政策により、円を描くような姿、形をとっている。

 これは参考であるが、地球の赤道が約4万キロ、土星の環を入れた直径が約38万キロである。(注:望遠鏡で観測できる、一般的な環の幅)それほど巨大な大陸を一様に見渡せたのは、ここが高度50万キロの景色であるからだった。

 巨大な大陸。それでも、ガラスの天井から眺めると、その視界を埋め尽くすほどではない。大陸の周囲が海に囲まれ、その海とを挟んでまた別の巨大な大陸が3つほど、彼方まで続いているのが見て取れる。

 

 これは途方もないはるか昔。この地に滞在したある仙人が腹立ちまぎれに割った大地の向こうから、海が流れ、生まれた大陸。


 私の求めるものはここにはない。いったいどこにあるというのだ。


 その当時から伝わる伝説に記された言葉。

 普通、そういった太古の歴史は、長い年月の先に失われるものなのだが、この世界の常として、物書き、または歴史家といった格を担う者たちがその喪失を許すことはなかった。彼らは、いくつかの制約はあれど、その当時の歴史や、己が書き物を個別の形で、永久に残すことが許される。ある物書きが残した、石碑せきひは悠久の時の流れの中で幾度となく災害に打ち砕かれ、そして、その度に蘇る。そこに浮かび上がる文字には、こう記されている。

 

 その姿はうら若き美女とも、老人、または青年、幼子とも伝わる。私が見た時はただの物乞いであった。かれは一体何者で、何を探すのだろうか。意味不明なことばかりつぶやき、誰も相手にしない

 -記す者 ハイトルク・バンカー-

 永久とわに記すこと、それを許された者に皆が聞く。いたずらに作り話を残すことはできるのか?だったら、俺の伝説でも書いておくれ。しかし、その答えは一様に決まっている。悪いがそれはできないね、私の格が落ちてしまう。純粋な言葉しか世には残せないのだよ。



 

 常天連邦のその上空。それは夜が明けて8時間ほどのことであった。突如、天が輝く。世界の天井が割れたのであった。


 ここ、コンロン大陸は100日前の事件が起こった地点とおよそ50億km離れている。そして、天のガラスの破壊が観察できたのは数十秒ほどのことであった。故に、100日前の事件を彼らは知らなかった。

 地球と海王星との距離が最大約47億km。もし、この常天連邦が国家の防衛に固執することなく、勢力を別の大陸に伸ばしていたのなら、天の異常を把握することも不可能ではない距離。何せ、この大地は途中、はばかる山脈が数多あまたあれど、平らに広がるのだから大気の邪魔させえなければ、どこまでも先を見通すことができるのだ。

 実際、常天連邦はその距離を見通すだけの装置、人材を保有していた。しかし、遠方。それも超遠方までの連絡網を必要最低限にとどめ、戦略的に拡大より生存を選択してきた歴史があった。

 そのおかげか、コンロン大陸と海を挟んで存在する大陸には多くの国家が乱立している。コンロン大陸の周囲にはないが、方々の海中にも国家はあった。


 常天大陸の民は海の外にある大陸、または方々の海域を外域と呼び、己らを内域と呼ぶ。それでも、貿易や交流は盛んであり、差別的な視点があるわけではなかった。

 ただ、もし、未知の遠方から侵略者が現れた場合、そう言った周囲の諸国がその緩衝かんしょう地帯ちたいになるのである。

 どんなに小さな国家でも国家として格がある限り、その底力はあなどれない。そしてそういう国々が侵略に対抗し、ねばる中で、常天連邦が支援、援護するのであった。

 親と子のような庇護の関係。それは常天連邦が保有する国家の格にも大きく関係し、そして、国家の地形的な外郭がいかくを固定しているからこそ高められる国力、いわば制約の力というものがあった。

 そして、それは外域の諸国にとって暗黙の了解であった。

 しかし、外域からすれば、この常天大陸の人間はどこか鼻につき、高慢ちきでエリートを気取った思想家に見えるのだった。


 そんな関係にある内外の人々であるが、今、この時ばかりは、皆が同じ立場に立たされていた。

 蒼天がひび割れる。まばゆい光線が目をくらませた。そして、紅の光がゆっくりと、しかし、実際の速度は異常、それがコンロン大陸に降りていったのであった。

 およそ30分。ガラスの天井を破壊した闘神は、頭から落ちていく。そして、足元の大気を蹴り上げ急下降。途中、くるりと一回転。堂々とした姿勢を保ち、見下みおろしながら、悠々と、しかし桁外れの落下速度で、久方ぶりの大地にふわりと降り立った。


 各国がその姿を観測する。初め、天から何か宝なるものが飛来したのではと色めくも、直ぐにそれを撤回。世界の天井を割りし者が、こちらへと降りて来る。異常に異常の輪をかけた事態。望遠レンズを通して、送られてくるその映像は、紅にまばゆく光る男の、ゆったりとしかし、威厳に満ちた姿であった。その細部、着衣に至るまでのすべてが、天を割った衝撃を全く感じさせない。加えて、その急下降で起こるはずの風のあおりを受けていないかのような振る舞い。紅の髪の毛一つさえ、風になびいていないのだ。

 それは、タキシード君の見事なる腕前、その腕は、日々向上する。そして現在、そのフォームはタキシード君の真骨頂!すなわち、「正装タキシードセット」であった。加えて、カフスや、ボタンは最高級仕様。胸元には端正なブローチ。左腕には一流職人の美と技巧が極められたかのような腕時計。(この腕時計に関しては、時間に対してプライドをもつスマホ君からの抗議があったため、タキシード君は地球由来の12進数の時計を嫌々、採用する。もちろん時間など全然あわない。そしてそれに耐えられるタキシード君ではなかったため、ねじまき式の手巻き時計にするのであった。いずれ、この時計に気付いた闘神が、「あれ?この時計動いてないじゃん、というか12進数だし...」となった時、実はスマホ君が...と泣きつく算段である。ちなみに、ただ針の止まった時計をチョイスしなかったのは、壊れた時計と言われるのがタキシード君のプライドを酷く害すものだったからである。ねじまき時計ならばねじを回さなければ動かない。壊れた時計じゃない!当たり前のことに助けられた思いであった。)それらが闘神の髪色に合わせて、おしゃれにいろどられている。この瞬間はいわば、タキシード君にとって、大いなる初舞台!

 ただ、闘神にしてもタキシード君にしても、こちらが望遠レンズ越しにのぞかれているなどとはゆめゆめ思っていない。派手に割った天井は注目されるだろう。それは仕方なし。それ以外は、誰もこっちに気が付かないだろうと、高をくくっていた。


 地面の模様がはっきりと見えてくる。その景色の中に見えた広場にあたりをつけて、ゆっくりと着地した。

 既に、その髪は漆黒へと切り替わっている。そして、タキシード君の装いも、漆黒へと似合うように少々手直しされていた。けれども相変わらず、正装タキシードセットである。もちろん蝶ネクタイつきの、正装のそれである。

 数人が、空から飛来したこちらを眺めている。ただ、ほとんどの人は、こちらに見向きもしない。こちらを眺めていた数人もすぐに興味を失ったようで、生活の中に戻っていった。

 ここでは、空から人が下りるというのはよくあることなのだろうか。あの羊飼いは大層驚いていたのだが。

 ここは、きわめて近未来的な都市であった。ゆとりのある街並みは人工物と自然とがうまく調和している。方々には、おしゃれな店や施設が並び、金銭の用意のない自分には立ち入ることがはばかられた。それでもベンチは無料である。そのひじ掛け付のベンチに座るのだった。

 たばこはまだ復活していない。あと3時間ほどで戻ってくることだろう。吸い殻は今、真上の天井に放置されている。その訳は、ガラス越しでもたばこが戻って来るかという検証であったが、実際はタキシード君のせいである。

 奴は頑なに吸い殻をしまおうとしない。汚物だそうだ。たしかにそれは同意である。そこで、ジッポーちゃんが私の上蓋うわぶたの開いたスペースに詰めて運ぶ?と提案してくれたのだが、それを奴は拒絶。どんなものに入れようとも、ごみはゴミ。私は主人が、ごみを持ち運ぶことを許容しない!とぬかす。

 お前がその身にしまい込みたくないだけだろうと言いそうになったが、捨てた恨みが再燃するといけないので飲み込むのだった。かといって、この吸い殻を手に持ちつつ移動するというのも、ちょっと嫌というか面倒で、カッコ悪い。これにはタキシード君もうなずいていた。見栄えに関してうるさい奴だ。それで結局、今日こんにちに至るまで、吸い終わる度にその吸い殻をその場で捨ててきたのだった。

 しかし、17時間前はさすがに違った。吸い殻が示す方角が変わったのだ。ずっと手に持ち続けながら、その地を探した。そして吸い殻がまったく動かなくなった地を完全に発見したのだった。

 終始タキシード君は見栄えが悪い、どうのこうのわめいていたが、無視である。そして、今であるが、検証のために吸い殻を置いてきたのは少し失敗であったか。どうにも今すぐ吸い殻が示す方角というのを知りたくなる。

 けれども一方で、ガラスの天井から降りるとき、吸い殻を片手に降下するのもなんともださいと思うのであった。そう言うメリハリには私も少々気を使うというか、うるさいたちなのだが、それに加えて、タキシード君の用意してくれた装いが実に素晴らしかったのでよりそれを思うのだった。結局はタキシード君と私は同じ穴のムジナなのかもしれない。

 それにしてもこの時計。実にいい時計だ。なぜか時が止まっているのだが。

 まあ、いいだろう。スマホ君がいれば時間はわかる。おしゃれとして一級品であれば十分。それに考えてみると、時間が止まっているのも乙なのかもしれない。悠久の時を生きることとなるだろう我が身としては、流れる去るものよりも、変わり続けぬものの方が大事となるのかもしれないのだから。

 時間など気にせずいこう。待ちきれぬ思いはあれど、失うようなものはないのだから。

 とりあえずのゴールが見えた安堵感あんどかん。それに酔いしれる。少々の不安はあるものの、それはその時考えればいい。何らかの手掛かりはあるのだろうから。

 心地のいいこの広場の空間がためか、この時間が途端になんとも愛しく思えてくるのだった。

 それにしても、この世界の文明はゆたかで発展している。この地域が特別なのかもしれないが、都市の構造を見ても、一つ一つが丁寧に計画されたものと思われる。加えて、規格の統一により、個性というのが失われているという訳でもない。個々の建物のデザインは見事な域で完成されているし、徐々に読めて来た看板の表記などを見てもその文化の幅が見て取れる。そしてそのすべてが目新しいものばかりかというと、そんなことはない。歴史の重みも感じられる。

 技術の方もすばらしいようだ。どうやら情報社会であるのだろう。空間に投影されたスクリーンを操っているようであった。情報神との関連が一瞬頭をよぎったが、違うだろう。皆、腕に特徴的な機械をつけている。あれがスマホの代わりという訳だ。そして、やはりというか、車は空を飛んでいた。その推進力はわからないが、魔法などがある世界である。活用できるエネルギーというのは地球とはわけが違うのだろう。

 そう考えると、個々が異常な力を持つであろう世界にてよく、ここまで文明、文化の秩序を成り立たせたものだと思うのだったが、はたとその賞賛を思いとどめる。この世界が無限に広がることを仮定して、そのどこ、かしこにも文明文化を築く者がいるのならば、どんなに発展した文明も、世界の頂点であることを誇れない。いずこかにある大文明の影に怯え、ただ矮小わいしょうな身と己を評価するしかないのだ。彼らは、自身が観測できないその向こうからこちらをつぶさに観測している大国の影をいつまでも思わずにはいられない。

 するとなんだい。俺もこうしているうちに、監視されているのかもしれないな。二度も天井をぶち壊したんだから。

 周囲を見渡す。特になんてことのない日常の光景であった。

 老若男女、何のかたよりもみられない。

 和気あいあいとした親子が目の前を横切る。

 こちらを一切見ないという不自然も、鋭い視線といったものもない。


 私は今この場に溶け込んでいた。


 向こうにいる女学生たちがこちらを見て、あの人かっこよくない?と小さく騒いでいるほどゆるんだ日常である。


「だとしたら、あっぱれだ。やるじゃないか。」


 笑みがこぼれる。そして、そのどこかをジッとにらむ。


「どれ、散歩でもしてみるか。」


 わざと言葉を口にする。なんだ、あいつ。とこちらを見る者はいれど、それに以上にこれといった反応はない。


 ベンチから腰をあげ、適当に街中をぶらぶらと散策すること2時間。付いてくる影というのも一切なかった。というより、そんなもの全く気にしていなかった。どうでもいいからである。


 闘神にはこの世界で自身に定めたルールがある。言葉にするのならば、それはこうである。


 やられたらそこまでのこと。ふざけるな。

 圧倒的な力なのだろう?だったらその誠意ってやつを見せてみろよ。

 この力が、仮初で、弱いってんなら、そもそも生きる価値も、それにポイントを費やした意味もないわ。くそったれ。


 別に闘神の天上天下唯我独尊という説明が無敵を意味する保障はない。彼もそれについては重々承知である。だから勘違いをしているわけではなかった。ただそれは、面白い、面白くない。それだけのための意地であった。


 入り組んだ路地に入り込む。少々人込みにまぎれていたので、何か気休めにと人気ひとけのないところへ行きたかったのだ。

 そこは、ただの何の変哲もない裏路地、人気にんきがないのか、それとも穴場なのか活気のない店舗がいくつか立ち並んでいる。

 散策していると、その路地の奥まったところに寂れた面構えの二階建ての家が見えた。鈴の音がする。その音は、何故かこちらを呼んでいるような、そんな音色であった。

 次第に、その音色が、その意味が分かって来る。


 なんだ、客引きか。しかし、ずいぶんと面白いことをするもんだな。


 それは、闘神の完全言語理解が解釈した鈴の音色。


「星読みの寂れた館へようこそ。ちょっと占ってみないかい?お代はいらないよ。餞別せんべつをおくれよ。あとはご随意に。」


 初めて、闘神が星読みとまみえた瞬間であった。


 星読みは預言者の格の一つである。つまるところ、立派なその道の第一人者と言える。当然星読みのさらに上の格持ちもいるのだが、格持ち自体、この世界では尊敬されるに値する地位であった。

 そして、この星読みであるが、星読みは星読みでしか体得できない特殊な言語がある。それは、全ての事物を言語のために用いることができるというものであった。

 例えば、鈴の音色一つにしても、雑踏の足音にしても、コツコツと机をたたく音にしても、ただ道端に転がる石であっても、それを介し、言語として他者と会話ができるのだ。

 これには、その星読みの特殊言語を聞き取るための言語理解系スキルが必須であるが、一般的な教養を学べば普通手に入る言語理解系スキルで十分であった。しかし、高度な占いを聞くためには、それに合わせて、高度な言語理解スキルを用意しなければならない。

 星読みの占いはえてしてその特殊言語を用いて行われ、しゃべるということは滅多になかった。故に、100日前の事件は世界に衝撃を与えた。物言わぬ星読みが、それも喉がつぶれた星読みまで、声高々に「間もなく世界の中心に到達するものが現れるだろう。神々の時代に備えるのだ」と叫んだのだから。そして、このような、重大預言となると、星読みは丸一日、その言葉を繰り返し言い続ける。

 この事件は各地の星読みの寿命を大幅に縮めるまでに至った。それほど体力のいる事態。声高々にそれを叫んだ星読み達は、一斉に外へと駆けだし、人々の前で、歌い出したのだ。悲喜交々。様々な声色で。まるでこの世界の歴史を一幕、演じるかのように。そしてついには倒れた。

 その最中、そして、それからというもの、世界はお祭り騒ぎであった。ついにその時が来るのだと狂喜乱舞。ここ常天連邦においても、今だその興奮、覚めあらぬものであったことは言うまでもない。故にただ日常が繰り広げられているというのは実におかしい話であった。


 丸一日読まれる予言。これはもう一つ事例がある。それは、星読み見習いが、星読みの格を得たと途端、訪れる一種の通過儀礼。


「世界の中心に誰ぞたどり着く。その功績をもって、神々、降臨せし。万物よそれに備えよ。覇者よ神を目指せ。神たる席はたった十席。森羅万象その可能性あり。」


 これを丸一日読み続けるのである。それは声に出して読まれるものではなく、星読みの特殊言語によって読まれるものである。大体は物音を鳴らすところから始まり、そして、次第に壮大に、そして人々に、それもまるで歌のように聞かせるのであった。


 星読み生まれ出づる時、その地は一昼夜お祭り騒ぎとなる。なぜならば、それを聞く各々が、自身の鳴らす音、聞こえる音、そして、目にする事物。その一つ一つが星読みのうたう歌として聞こえてくるからだ。ただ、歩いただけでその靴音くつおとが音楽へと変わる。くしゃみすらも星読みのリズムに乗り出して聞こえてしまう。大地の草木が待ってましたとばかりに踊ってみえる。そして、周囲の音とものものとが、次第に一つに同調してゆき、最後の数時間は、その一帯の皆々が一斉に奏でる楽曲となるのだ。もちろんその音楽の歌詞は先の預言である。

 そして、今日こんにち、その星読みの通過儀礼である予言の歌詞は、それまでの内容に加えて、100日前の預言が加わるものとなった。その音楽は、今までよりも興奮に満ちたものとなるであろう。今後、新たな星読みが生まれるたびに、各地がその変化に驚き、喜び、酔いしれるのだ。その時がついに来るのだと思いながら。ただし、席数は十席から九席に減っているのだったが。




 無料ならば入ってみよう。一文無しにおあつらえ向きの舞台じゃないか。


 扉がきしむ。寂れた内装。二階へおいで。と鈴が鳴く。


 階段を上がるとそこに、ただ一人。顔の上半分を紫のベールでおおったうるわしの女性がイスに座っていた。

 細い口元にさしたべにと小さなほお。その下には首筋とわずかな胸元が望める。すらりと伸びた生足は、そろえられ、そして、ももの大部分を大胆にちらつかせている。そこにえられた、しおらしい手。

 彼女の細やかな白い素肌が見えたのは、その部分だけであったが、それだけで、彼女の魅力のすべてが暴かれてしまうかのような、しかし、それだけは決してないのだ、全てはさらされないのだ。

 透明な一枚のガラスが、伸ばす手をへだてるかのように、そして、そのガラスに顔を張り付けてのぞこうものなら、向こうからはそのガラス越しに、へばり付いたみにくいこちらの顔を眺めるだろう。それだから、こちらは意地でも、彼女を凝視ぎょうしするなど、そんな愚かさをさらせなかった。釣り針に一度引っかかってしまったその欲望は釣られまいと逃げるほどに痛みむ。私は、彼女の顔をどうしてものぞいてみたかったのだから。

 そのよそおいは、淡い紫色のドレスであった。踊り子のようなその衣装は、隠すところは余る布で覆われて、見せるところは大胆にそして、危うい。

 われた、長髪のつややかな黒色に。次に、首から、ふくらむ胸元にかけて。そして、その小さな両耳に、また、手足の首と、その細い腰に、装飾がちりばめられていた。小さいながらも輝く宝石達が彼女の言葉を伝える。



 最後の輝き。


 その輝きには、これが最後。この予言をもって、私の輝かしい生は尽きますのよ。という意味にあふれていた。


 それは闘神の完全言語理解でなければ捉えられぬであったろう言葉であった。


 華やかでなければならないはずの輝きは、寂しさをたたえていた。


 悲しみに暮れることが許されているからこそ、踊ることのできる軽快なステップというのがある。けれども彼女のそれは見事に欲望を刺激する、そんないやしさがあった。


 容易に表現できるようなものではない。ただ、言えるのは、この寂れた部屋で、私と相対あいたいしてくれている、目の前の、この女性の、この最後の時間は、いわば仮初かりそめの姿。

 彼女が最も輝き、そして喜びに満ちていた、人生の時の時のその姿であった。

 

 思わず差し込んだ痛烈な感情を、こらえたが為に生まれた、あてどないいきどおり。それがただただ、虚しくて、情けなかった。

 

 鈴が鳴る


「なにを知りたいのですか」

 

 とても柔らかな音が渡る。それは、あわれまれたかのような響きであった。

 彼女をにらんだ。

 屈辱くつじょく。己の心を分かられた。そんな悔しさが満ちた。

 

「世界の中心は、どこにある」


 この時、闘神は全く意識していなかったが、その言葉は純粋に日本語であった。

 そして、仕返しにと放った無理難題は、ただ、微笑ほほえみで受け止められるのだった。


 それでも目は背けない。

 例え、幼稚な心がつまびらかにされようと、意地は無傷。ただ、真っすぐ見つめ返したその視線の先に、ベール越しの彼女の瞳が見えた。

 わずかな悲しみが見て取れた。そして、こちらが、その悲しみに気付いたことに彼女は優しくまた、微笑み返すのであった。


 突如。その脳裏にこの世界の光景が浮かぶ。それは、今いる部屋のその屋根の上から眺めたであろう景色。周囲にあったはずの、建造物は、ことごとくない。

 見渡す限りの大地。どこまでも、向こうへと続いている。

 その景色がぐるっと360度、そのはしばしから、ぐぐぐと、起き上がり、そして、内側に曲がり出す。

 まるで、巨大なおわんの底から世界を眺めるかのような光景。まだまだ、その景色は内側に曲がってゆく。


 ああ、これが、星読みが世界を見るときのそれなのか。


 内側に曲がるその景色は、本来見えるはずのない、遠くの景色、例えば山の向こう側まで、小さいながらも見て取ることができた。空間を曲げているのだ、遠くの景色となればなるほど、その視線は上へ上へと向いて行く。おわんの底から見る景色、世界の果てはそのお椀のふちになるのだろうか、世界が内へ内へ、まるまる度に、そのふちの先から次々と新たな世界が現れる。終わりがない。そして遠くの景色はもはや、何が有るのかわからない。ただ、世界がどこまでも続くのだと言わんばかりであった。

 世界が内へ内へ、そして、閉じるように、丸まっていく。まるで丸い風船の内側から、空気の出入り口を眺めるかのような光景であった。

 世界が球状に丸まってゆき、その最後の一穴がまさに今閉じようとしたその時に、突如、そのわずかな穴に何かが見えた。


 神殿。そう言っていいだろう。桃色の空間の中にポツンと浮かぶ白い神殿。


 世界の中心


 それが何処にあるのか、世界の果てにあるのだと言う言葉はただ星読みに愚かさをさらすだけであった。

 この星読みが見る景色は、いついかなる時と場所であっても、たがわず、最後にはそれが見えるものであった。

 これは星読みにとっての常識。世界の果てに世界の中心があるわけではない。中心とは、中心たるところにあるのだ。

 この悟りを得なければ、星読みは星読みたりえることがないのだった。


 さっと、景色が元に戻る。体面に座る彼女は微笑ほほえんでいる。

「お座りになっていいのよ。」

 微笑ほほえみはただ、そう語っていた。


 目の前のひじ掛け椅子に腰をおろす。


 なるほど、これはやられた。先の光景を問いただすことなど出来ようはずもない。語り得ぬものを見せられて、いったい何を語れよう。ただ分かった。それだけだ。何が解決されたわけでもない。


 その時はちょうど、たばこが復活したときであった。

 いい時に復活したものだ。

「失礼」

 タキシードの内ポケットから、たばこを取り出す。そして、火をつけようとしたとき、彼女の顔が目に入る。


 星読みの顔は、驚きに満ちていた。ベールに隠れてはいるが、その様が手に取るように分かった。


 突如、それまで、聞こえていた、わずかな音という音、雑音、自然音らが一切、途絶える。


 手にしたたばこが、ポトリと床に落ちた。


 無音から伝わった、星読みのその言葉は闘神にとって大変衝撃的な事実であった。


 このピース・ロイヤルが、失われし、たばこたちが、この世界でどういう扱いを受けているのか、受けてきたのか、星読みのその無音の言葉から事態を完全に察してしまったのだ。


 ふざけんじゃねえ


 瞬く間に髪がくれないへと輝く。しかし、それは長く続かなかった。彼女がいたからである。

 悲しく、微笑むその口元は、この先々に訪れるであろう彼の心労をいたわっていた。


 私は、ここまでのようね


 時が訪れる。彼女の体が、砂に変わってゆく。そうなることは、出会ったときから分かっていた。しかし、それを目にすると、あの時の感覚というのが、再度、蘇る。そして、それに対して、生まれる憤りもまた同じだった。


 ふと、彼女のベールが落ちる。それは一瞬で、そして、その一瞬で彼女のすべてはちりと化した。

 その全ては、見えなかった。ベールの右端が落ち、斜めにあらわになった、その顔は、息を呑む美しさ、それしかいえない。たった一瞬の出来事であったからだ。

 けれども、その顔は、彼女のものではないとだけは、自然と分かった。であれば、誰なのだろうか。その口元はいたずらに、けれども消え入るように笑っていた。その笑みだけは、彼女のものであることは確かだった。そして、こう語りかけていた。


「残念ね、もう少し時間が許してくれたのなら、一曲、相手してもらいたかったところよ。いい男ね、あなた」


 後には何も残っていなかった。布の一切れも落ちていない。


 音という音は既に、元の通りに戻っていた。ひらけた窓から晴天がのぞく。

 老いの寂れ、もはや、そういったものしかこの部屋には残っていやしない。思い出は全部持っていってしまったようだった。


「まったく、はげまされちまったよ。ガキだな俺は。」

 溜息ためいきが漏れる。しかし、それはどことなく活力がこもっていた。


 床に落ちた、たばこを拾い上げる。そして、火をつけ、煙をふかす。

 ただよう煙は無風の部屋に滞留たいりゅうしていく。

 その煙はどことなく、はかなく、そして悩ましげに、踊っていた。

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