果てなき大地


 遠くの方に山脈が望める。あたりいったいは草原であった。風がそよぎ、雫がきらめいていた。視力は格段にあがっていた。

 朝方だろうか、それにしても、体調がいい。心地がいいのだ。生まれ変わった。そう感じられた。


 夢ではないようだ。先ほどまでは、どこか夢心地であった。私は今、生きている。

 

「闘神か」


 握りこぶしを作る。どこまでも力がこもる。限界はあるのだろうか。次第にあたりの空気が熱をび、ゆらぎだした。汗は一切かかなかった。熱い。とんでもない暑さの中にいるということは理解できた。しかし、その暑さも、熱の痛みも全く問題がなかった。かといって、痛みや感度を失っているといったわけではない。感覚に意識を強く向ける。その度合いが強まれば強まる程、痛みは増していった。痛みは既に味わうものと化していた。汗はいつまでもかくことはなかった。


 手元のたばこは半分ほど燃え尽きていた。くちびるむ。吸い方に迷う。どう吸うかにより、味わいは変わるのだ。精神状態にも左右される。


 肺に煙がただ純粋に満ちていった。

 最期かもしれないのだから、これでいいか。

 口元でためることも、鼻へ通すこともなく、一息に煙をのむ。そして、ゆっくりと鼻腔びこうを抜けて煙が吐き出された。


 うまい。なんてことだ。

 ベストな吸い方をしたときにしか出会えないうまさが、広がった。ラムの香り、甘みが満ちていた。

 そして、ふた吸い。み吸いと至高の一服は続いた。


 あっという間に終わってしまった。


 最後まで、落胆させられるという瞬間は訪れなかった。たばこの味を感じられなかった時は残念な気持ちになるものだが、此度こたびはそんなことはなく、一吸いごとに変化があり、実に多く表情を味わうことができた。おそらく、今の体が優れているが故だろう。一流のソムリエの感覚を、意識するだけで手に入れられる様なのだ。たばこの味が変わった訳ではないことだけはわかる。私の感覚器官が繊細せんさいとぎまされたのだ。味わいたいという意識。それ一つで。

 さらに集中すれば、空気中に漂うわずかな煙も楽しむことができた。

 無防備な時間がただ過ぎていった。だが、それも終わった。吸い殻だけが、手元に残された。


 さらば。


 と捨てようとしたのだが。何かしくなって服のポケットにしまおうかと考えた。しかし、吸い殻というのはひどい匂いなのだ。どうしたものか。キャップ付きの缶コーヒーでもあればよかったのだが。


 ああ、コーヒーが足りない。たばこにはやはりコーヒーなのだ。とふけりながらもたばこを直接、服にしまおうとする。しかし、なぜか服のポケットというポケットはかたくなに口を開かなかった。


 ちょっと待て。薄々感じてはいたのだが、なぜ俺はこの服を着ているのだ。

 それはブランド物のタキシードであった。

 堅苦かたぐるしく感じられるそれは、実はよく着ていたお気に入りであった。ただし、いつもは着崩しており、シャツは黒でネクタイはなし。袖元そでもとにはカフスをつけていた。これでたまにあるパーティーなどに出席していた。

 すると不思議なことに、それを考えた瞬間。まったくその通りに洋服が変化したのである。


「どうなってんだこれ」


 試しに持っていた他の服を思い浮かべてみたが、何の変化もなかった。それを着たいと念じて見てもダメであった。

 特殊な服かなんかなのか。これはいったいどう扱っていいものか。いつまでもタキシードを着るわけにいかないし。外に出ない日はジャージでませたい。貴重な物ならば、適当に脱ぎ捨てるわけにはいかないだろう。そう思いつつ上着を脱いでみた。手から離すとそれは地面に落ちず、溶けるように空気に消えていった。あっと驚いてしまった。

 どこにいったんだ。あたりを見渡すもなんの意味もなかった。奪われたのか。そう考えてもしょうがなかった。ただ一人ポツンと突っ立ち一人思案していた。そしていつの間にだろうか、私は上着を着ていたのだった。

 いや確かに着ていなかったぞ!おかしいだろ!俺は脱いだぞ!いつの間に着ているもんか!

 おかしい。絶対におかしいのだが。共感する誰がこの場にいようか。再び上着を脱ぐ。手を離す。地面に落ちる前にそれは空気に溶けた。まだ上着は着ていない。よし。と思ったときには、私は上着を着ていた。

 再び上着を脱ぐ。宙に放り投げる。空中で、それはやはり溶けていった。まだ、上着は着ていない。と思ったそばから、既に私は上着に着られていた。

 再び上着を脱ぐ。今度は地面に叩きつける。叩きつけたはずなのだが、それは浮いた。そして再び、空気に溶けていった。そして消えた上着はいつの間にか装着されていた。

 再び上着を脱ぐ。と、あ、あれ?ぬ、脱げない・・・

 上着はぴちりと体に張り付いていた。脱ぎ捨てすぎたか?いや、さっき地面に叩きつけようとしたのがマズかったか。と考えが頭をよぎる。するとどことなく違和感が襲った。

 まて、いや、こいつはいかん。いかんぞ!この服、どうやら意思をもってしまったようだ!その瞬間。キュッ!はっきりと体が服に締め付けられた。


 危機。そして思考の加速。突如として訪れたイレギュラーに対し、闘神は無意識に臨戦りんせん態勢たいせいへと突入していた。これは、この世界が初めて直面した神の異常であった。


 あやまち、一つのあやまちが闘神の脳裏のうりをよぎる。そのあやまちは、一見すると、くだらない。しかし、それはこちらが、くだらないと思えば思う程、相手方は憎しみをつのらせるものであった。


 ほーん?それで?そのあやまち、認めるの?認めないの?


 タキシードからの無言の圧力


 それでも闘神は幾度いくども否定を試みた。だが、

 無理だ。

 俺はあの石板でポイントを取捨選択する際、10Pのスーツセット(黒)を捨てたのだ。捨ててしまったのだ。

 スーツセット?いや、こいつはタキシードだろ。

 いや、今はそんな違いどうでもいい。まさか、こいつがあのスーツセットだったとでもいうのか?ということはだ。

 ぞわりと、背筋が凍る。復讐ふくしゅうの二文字が頭に浮かんだ。


 俺がたばこを優先して、お前を捨てたこと、その事を覚えているというのか。


 口には出さなかった。しかし、その思考はタキシードへと伝わる。そして、ギュギュギュっ!と締め付けが増した。

 マズい!いや、そんな馬鹿な事はないはずだ!そんなうらみはあっちゃならない!

 ボギュッ!締め付けは、体をひねりつぶさんという勢いであった。

 ありゃ~こりゃあ、常人の体じゃあ、骨はボッキボキだぁ~。

 やりすぎなタキシードの行為に対し、少し冷静になった闘神は、ちょっぴり不真面目な考えをめぐらせてしまった。それがいけなかった。

 ギュルルルル!まるでわずかに湿しめった雑巾ぞうきんを念入りに絞るような苛烈かれつしゅうちゃく不遜ふそんな態度を見せればこれだ。捨てられたうらみつらみは、もう手のほどこしようがなかった。だが幸いなことに闘神の体はやわではない。無理やり動こうと思えば動けもした。それも自由に。しかし、そうしちゃあならない。決して、逆らっちゃあならないのだ事ここに至っては。


「まってくれ、捨てたわけじゃないんだ。君が、その、そう!タキシード君だ。タキシード君だと分かっていたのならば、捨てはしなかった。いや、いや、いや!あ、痛っ!まってくれ!分かった、わかったから!正直に言おう。君がタキシード君でも僕は、たばこのために君を切り捨ててたさ。そう。ああ!ぐふッ。り、理解してくれ。ところで話を変えようじゃないか、いったい、君に何が起こっているんだい。どうしてその、そう、あれだ、建設的けんせつてきな話をしようではないか」


 すん。とタキシード君が静かになった。タキシード君とはついさっき咄嗟とっさに考えた名前であるが、それがお気にしたのか、タキシード君の反応は落ち着いた。いやそれは違った。タキシード君はどこにもいなかった。いま闘神は全裸ぜんらであった。


 上着、シャツ、ズボンに下着、靴下くつしたくつといった、衣類という衣類が存在しなかった。

 ああ、やりやがった。ついにやりやがった。

 己の体を見つめる。

 丸裸まるはだかの肉体は、それはもう美しいバランスをたもっていた。身長は10cm程伸びているように感じられた。もしそうなら、今の身長は194cmである。デカい。そして、体は筋骨きんこつ隆々りゅうりゅう均整きんせいがとれていた。加えて、ムダ毛というムダ毛、つまりは、首から下には毛という毛が一切生えていなかった。

 恥ずかしいのやら、美しのやら。ただ、まあ、自慢じまんはできる。ずいぶんと立派な肉体に成り代わったものだ。

 逃げたタキシード君には悪いが、勝負はこちらの勝ちだ。堂々としていればいいのだ。何の問題があろうか。美にかなう価値なし。

 ただ、これは危険な思い上がりであった。のちに、闘神は思いいたるのだが、その気になれば、タキシード君はどんな服にでも変化できるのだった。つまり、決定的な場面で全裸ぜんら以上の復讐ふくしゅうに走ることもできたのだった。だがしかし、今はそのことを知るすべはない。そしてそれは知らない方が幸せであった。


 ふう・・・ひどい目にった。こりゃ、選択しなかった、スマホとジッポライターもひどいことになっているかもしれない・・・

 足元を見ると、キラりとかがやくものがある。拾ってみると、それは銀のジッポライターであった。見たことないが、どこか、なつかしい。いや、こりゃいつも俺が愛用していたジッポライターじゃないか!それはピースブランドのジッポライターであった。ピースのたばこを愛煙あいえんしていたので、おのずと、そのブランドのライターも手に入れて、使用していた。

 色は、深い青色。そのおもてには「鳥が枝をくわえた絵」が金色でえがかれ、その下には金文字で「Peace」と刻印こくいんされていた。

 だがしかし、どういう訳か手元のライターは銀一色にわっていた。銀以外の色は一切、混じっていない。着色ちゃくしょくげたのだろうか。それにしては、ずいぶんとみがき上げられた表情であった。まさに鏡のような仕上がり。ライターの表面には自分の顔がよく映っていた。

 どこも変わっていない。いつも通りの顔だった。いや?はだ綺麗きれいになったか?小さい鏡と化したライターをのぞき込む。くすみや、あおひげなどと言った顔の影はきれいに消え去っているように見えた。事実、闘神のはだというはだは、まるで生まれ変わったかのごとくみずみずしくハリ、また、一切の汚れ、くすみ、けがれ、たるみ、ムダ毛といったものと無縁むえんであった。

 満足気な顔が映りこんでいた。元来がんらい気に入っていた自分の顔つきが、より洗練せんれんされたのだから、文句はなかった。

 髪型かみがたもベストな状態。お気に入りのそれであった。

 寝起きのかみを水で濡らし、タオルでガシガシと拭く。その状態から、適当な時間、放置していると髪がかわく頃に、ゆるめな天然パーマが仕事をし、ちょうどいい具合に今の状態に決まるのである。長すぎず、短すぎず。ひたいかみおおかぶさりすぎることもなく、ボリュームがでる格好であった。

 例え、風が吹こうとも、かみをかき上げようとも、ちゃちゃっと直せば今の形に自然と戻る。お手軽無敵天然セットであった。


 銀のジッポライターで顔を観察している闘神であったが、それとは別に、このライターのある部分の不可解ふかかいな点が気になっていた。それはジッポライターの表面にきざまれた、わずかなへこみ、元は「金の鳥」と「金の枝」、そして「Peace」の刻印こくいんあとであった。けれども、いったいどうして、「金の鳥」の刻印こくいんあとだけが、綺麗きれいさっぱりと消えていたのであった。鳥はどこへいったのだろうか。タキシード君の前例があるだけに、ろくなことにならないような気がしたのだが、まあ今はいい。果たして、火はつくのだろうか。


 ちょうど一昨日のことである。このジッポライターのオイルが切れて、オイル交換をしようと思っていた矢先、いつの間にか、このライターを家のどこかに無くしてしまったのだ。まあ、家で無くしたのだから、直ぐに見つかるだろうと気楽に考え100円ライターを使っていたので、オイルは空なはずだった。

 すちゃっ。とケースの上部を開ける。右の親指をホイールに引っ掛け、素早く点火。じりっ。とフリントが発火する音と共に、見事な火花がった。

 ジッポーの火花は美しい。ただ、今起こった火花は、これまでのそれとは比較にならなかった。思わず息を呑む。直後。ボボッ!!!ジッポライターが火をいた。火柱が顔面をおそう。


「あっっつ!!!」


 くはなかったが、思わず声が出てしまった。こいつもどうやら俺に怒り心頭しんとうというわけだ。しかし、どうだろう。もっと遠慮えんりょなくまるこげげにされると思ったのだが、一度、火をいた後は、次第に落ち着きをとり戻し、元の1cm程度の火に戻っていった。ゆらゆらと揺れている。

 性格があるのだろうか。意識を持っているのであれば、当然性格もあるのだろうが。なんといっていいものか、この子は、ひかえめな性格なのかもしれない。嫉妬しっと深さも感じられなくはないが、おそらく、タキシード君よりは、いい子であるはずだ。ほら、められてちょっと嬉しかったのか、気恥きはずかしそうに身をよじっている。かわいい。

 お前はだめだタキシード。

 いつの間にか、よそおいが元に戻っていた。何やら危機を感じたのか、あわてて姿を現したタキシード君。だがもう遅い。ジッポライターちゃんが俺の一番だ。

「ふん。なに?なるほど。それはちょっと待ってくださいと。はぁ~あのね~君あんなことしといて、よくそんなことが言えるね~。」

 あからさまな溜息ためいきをこれみよがしにつく。

「まあまあいいでしょう。タキシード君。え~と。ん~。でも、そうだね~。君は努力というものが必要だ。手始めにだね、この格好はいささか肩肘かたひじがはる。だから、いつも出かける時に来てた、あの、おしゃれなパーカーのセットにホルムチェンジで。いける?ん?いけ、ない・・・は?・・・あ、なに。いけるかもしれません?ん~それは結局どっちなのかな。いけるの?いけないの?どうなの?はい、返事は。」

 ぐぬぬぬぬ。とタキシード君のうなり声が聞こえたような気がしたが、その数秒後には見事に、服装が変化していた。スニーカーに黒のスラックス。そして、派手だが、彼に似合う、パーカーが装着されていた。満足であった。やればできるじゃないか。闘神の一つの懸念けねんが解消された瞬間であった。

 タキシード君はというと、正直、そこまで闘神と敵対しようなどとは思ってはいなかった。少しらしめてやればいいや。でもやっぱむかつく。といった具合である。服装のフォルムチェンジも、要望があれば受け入れるつもりであった。しかし、事ここにいたり、闘神に強制されるような形で、自己の正装というアイデンティティーがおとしめられた。許しがたい行為であった。これが闘神と縁を切れるものなら、何の苦悩もなかったことだろう。しかし、何故か、タキシード君には、そして、ジッポライターちゃんにも共通して、闘神への親しみというか、敬愛けいあいというか、忠誠心、いや興味のようなものが存在したのだった。これが、各々の感情をゆがませていくのだが、今はその予兆がくすぶるだけだった。


 闘神に対する興味。それは、遠くのくさかげからこちらをうかがい、盗撮とうさつしているスマホ君にも存在した。彼ら、闘神の元所持品たちは、捨てられると同時に意識を持ってしまい、そして共にこちらの世界へ来てしまったのだ。鮮やかな感覚、未知の感情。怒涛どとうの情報といったものを楽しむ彼らであったが、これは、闘神がそれら所持品に思い入れがあったからこそ生まれたものであった。悲しくも、あっさり切り捨てられた彼らは、捨てた本人との想念そうねんを元に、意識を創発そうはつさせていたのだった。

 そのスマホ君であるが、いつ闘神の前に出てやろうかと、先ほどから、ずっと様子をうかがっていたのだったが、もう今やそれはどうでもよくなりつつあった。先ほどから立て続けに起こる事件のすべてが、スマホ君のツボに見事にはまっていたのだった。そして今はタキシード君がパーカーに変化した際に仕掛しかけた闘神への悪戯いたずらが、実にくだらなすぎて、また笑い転げている最中であった。


 そんなこんなはつゆ知らず、楽な服装に着替えられて満足していた闘神は自身に対する検証を再開するのであった。

 次に行ったのは、息をどれくらい止めていられるかであった。呼吸を奪われて生きてゆけないのでは、魔法があると想定される世界では致命的であろう。しかし、どうだ、人体の構造は変わっているのだろうか。腹を切りいてみる気などはないが、まあ、いずれわかることだ。とりあえず、今私は息をしている。肺がしっかりと働いていることを自覚できた。

 息を止める。しばらく時間が経つ。そして、また時間が過ぎてゆく。一向に苦痛は訪れなかった。もはや、皮膚ひふ呼吸でもしているのではないかと疑う程であったが、水にかることもできなかったので、検証はできなかった。

 結局のところ、検証は闘神が飽きたところで終わった。限界など見えなかった。そのはずであった。闘神の体は息など必要としないのだから。

 ふぅ。空気がうまい。わざわざ意識して息を止めるのは面倒くさい。どうでもいいか。闘神を選んで、それが実は弱点がありました。なんてなったら、興ざめだ。だったら、その時死んじまおう。無敵だから楽しいのであって、弱みがある生をわざわざ生きながらえる義理ぎりはない。みじめで嫌になる。毒を食らわば皿までだ、臆病風おくびょうかぜに吹かれてたまるか。


 飛び上がりたい。そんな気分だった。どこまでジャンプできるものだろうか。空を見上げる。いい天気だ。しかし、太陽は見当たらなかった。青い空が広がっていた。向こうにかげる雲にでも隠れているのだろうか。

 大地を蹴りつける。そこまで力みはしなかったが、ざっと、50mほど飛び上がってしまった。下方の地面がえぐれている。そのさなか、ふと、このままちゅうに浮くことはかなうのだろうかという気にさせられた。そして、見事にちゅうにぷかぷかと浮いたのであった。そして浮いたまま上下左右、思うままに移動できると分かると心の底から、喜びがあふれた。


「なんて自由なんだ・・・」


 全てが素晴らかった。雲の上で、眠ることも夢ではなかった。

 おお!スピードを出そうと思えば、ものすごいスピードが出る!気づけば、童心に帰って遊んでいた。

 いつの間にか、パッヘルベルの「カノン」のオルゴールがあたりに流れていた。

 そのドラマチックな曲調とオルゴールの音色ねいろとが、この世界の輝かしさと同調し、闘神の胸を満たしていった。救われたような気がした。しかし、その想いが頂点に差し掛かる前に、急に、孤独こどくおそった。

 何をやってるんだ。ドラマチックな陶酔とうすいによくここまでひたれたものだ。ちくしょう。しけてやがる。

 いつの間にか、音楽は止まっていた。

 だが、なんでカノンなんだ?というか、さっきの音色ねいろはどこから鳴っていたのだ。思い当たる節は......ある。ああ。いる。後ろだ。俺の後ろに奴がいる。

 覚悟を決め、そして素早く後ろを振り向く。しかし、それは逃げも隠れもしなかった。堂々と、ただ、こちらを見つめていた。

 黒く光るスマホ君がそこにポツンと浮かんでいた。

 そいつとは実に長い付き合い、いわばくさえんである。今日こんにちいたるまで7年という歳月を共に過ごしたのだった。この7年。それは私の人生が大きく花開いてから、やりたいことをやり尽くすまでの黄金の時間であった。

 7年も経っていると、さすがにガタが来る。スマホ君の内臓バッテリーはもう既に限界寸前。そんな始末であった。しかし、一向に買い替えはしなかった。何故だろうか。替えるのが面倒くさかったという理由もあれば、まだ壊れてないという言い訳もあったし、特段、生活で困ることもなかった。

 そんなスマホ君と向かい合うこと実に数秒。あたりは緊迫きんぱくした空気に包まれる。

 突如、スマホ君から、クラシックが流れた。


 ドボルザーク:交響曲第9番 『新世界より』第4楽章


 こ、ここでこの音楽か......

 徐々に近づいてくるスマホ君。鳴り響く緊張の音楽。ジリジリとその歩みはこちらへと近づき......そして、スマホ君は・・・私の横を通り抜けて言った。

 完全なる無視に固まる私。地味だが、深いダメージが心に刻まれた。

 どうする。これは、追いかけていいものなのだろうか。すでに音楽は緊張したパートから緩やかなパートへと突入していた。しばらく、スマホ君の独演会が続く。よく見ると小刻みにステップしている。ノリノリだ。一体、何がしたいのだろうか。あまりにもシュールな光景が続いた。

 飽きたのだろうか。いつの間にか、ポップな音楽が流れ始めていた。次々とDJのごとく、ハイテンションな音楽が流れていく。もはや・・・どうでもよかった。

 いや、まて、その曲はダウンロードなどしてないぞ。

 流れている音楽には聞いたことのないものまで混じっていた。こちらへ来る前にスマホ君が好き勝手にダウンロードしてきたのだろうか。

 どうなのだと問い詰める。すると、突然こちらを振り向き警報音を鳴らされた。


「あ、アウト?てことなのか」


 うんともすんとも何のリアクションもなかった。うなだれる。まあ、心残りというか、気になることは多々あるのだが、この調子じゃ仕方ないだろう。しょうがないか。とひとちる。それをスマホ君はじっと見つめていた。

 突如、スマホ君が動きを見せる。ぐっと、闘神に近寄ったかと思うと、その目の前で、あるライブ中継を画面に表示した。それは、大晦日の風物詩、紅白歌合戦の中継であった。場面は、ちょうど、白組の人気アーティストが歌っているところであった。


『2024年紅白』


 この文字列が痛々しく目に映った。

 自分がいなかろうとも世界は回るのだ。

 たばこが無性に欲しかった。

 そんなに動揺どうようしたわけではなかったのだが。ただ少しの間、悲しさが訪れた。しかし、それももう落ち着いていた。


 この不思議な世界と、あの元居た世界はどこか地続きでつながっている。それだけでも、よかったと思えたし、それとは逆に、なんだか釈然しゃくぜんとしない思いも浮かんだ。

 あちらから、こちらに他の誰かがやって来るのならば、自分の時と同じように、いやそれ以上にハイスペックな選択を取得できるのだろうか。

 あと、こちらからあちらに行く手段があり、もし、たどり着けたとして、この体はいかほどのスペックをあちらで維持できるのだろうか。

 いやいや。それにしても、こういった考えはせまくるしくて嫌だなぁ。

 まあ、仕方ない。それしか言いようがなかった。


 これはのちに判明していく、いくつかの事実や出来事により、解消されていく不安なのだったが、それが紐解かれ出していくのは、あと数十年の歳月を要すのだった。


 とりあえず、どこかへ向かおう。

 歌合戦に合わせてダンシングするスマホ君をつかみ、ポケットにしまう。つかんだ瞬間、何故かアダルトビデオを流しやがったのだが、無視を決め込む。どうやら触らないでエッチ!と主張しているつもりらしい。


 特に、これといった問題はない。一瞬。いつの間にかどこかに落としてしまった、たばこの吸い殻へ想いをせるが、パーカーの姿をしたタキシード君が、これに勘づき、これまた異議申し立てるかのように、ポケットの口という口を堅く結んだ。

 仕方ない。未練はあるが、所詮しょせんは吸い殻。


 ふと、当たりを見渡す。草原はどこまでも広がっていた。


 遠くの方に見える山脈。あの方角へ飛んで行ってみよう。


 全速前進


 宙に浮かんだまま真っすぐ飛んでゆく。風を切り、はるか遠くに見える山の方へと闘神は向かってゆくのであった。




 闘神が飛び跳ね、そして陥没した場所。そこに、たばこの吸い殻がポツンと転がっていた。それはよく見ると、ジリジリとある一定の方向へと動き続けていた。

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