果てなき大地
遠くの方に山脈が望める。あたりいったいは草原であった。風がそよぎ、雫がきらめいていた。視力は格段にあがっていた。
朝方だろうか、それにしても、体調がいい。心地がいいのだ。生まれ変わった。そう感じられた。
夢ではないようだ。先ほどまでは、どこか夢心地であった。私は今、生きている。
「闘神か」
握りこぶしを作る。どこまでも力がこもる。限界はあるのだろうか。次第にあたりの空気が熱を
手元のたばこは半分ほど燃え尽きていた。
肺に煙がただ純粋に満ちていった。
最期かもしれないのだから、これでいいか。
口元でためることも、鼻へ通すこともなく、一息に煙をのむ。そして、ゆっくりと
うまい。なんてことだ。
ベストな吸い方をしたときにしか出会えないうまさが、広がった。ラムの香り、甘みが満ちていた。
そして、ふた吸い。み吸いと至高の一服は続いた。
あっという間に終わってしまった。
最後まで、落胆させられるという瞬間は訪れなかった。たばこの味を感じられなかった時は残念な気持ちになるものだが、
さらに集中すれば、空気中に漂うわずかな煙も楽しむことができた。
無防備な時間がただ過ぎていった。だが、それも終わった。吸い殻だけが、手元に残された。
さらば。
と捨てようとしたのだが。何か
ああ、コーヒーが足りない。たばこにはやはりコーヒーなのだ。と
ちょっと待て。薄々感じてはいたのだが、なぜ俺はこの服を着ているのだ。
それはブランド物のタキシードであった。
すると不思議なことに、それを考えた瞬間。まったくその通りに洋服が変化したのである。
「どうなってんだこれ」
試しに持っていた他の服を思い浮かべてみたが、何の変化もなかった。それを着たいと念じて見てもダメであった。
特殊な服かなんかなのか。これはいったいどう扱っていいものか。いつまでもタキシードを着るわけにいかないし。外に出ない日はジャージで
どこにいったんだ。あたりを見渡すもなんの意味もなかった。奪われたのか。そう考えてもしょうがなかった。ただ一人ポツンと突っ立ち一人思案していた。そしていつの間にだろうか、私は上着を着ていたのだった。
いや確かに着ていなかったぞ!おかしいだろ!俺は脱いだぞ!いつの間に着ているもんか!
おかしい。絶対におかしいのだが。共感する誰がこの場にいようか。再び上着を脱ぐ。手を離す。地面に落ちる前にそれは空気に溶けた。まだ上着は着ていない。よし。と思ったときには、私は上着を着ていた。
再び上着を脱ぐ。宙に放り投げる。空中で、それはやはり溶けていった。まだ、上着は着ていない。と思ったそばから、既に私は上着に着られていた。
再び上着を脱ぐ。今度は地面に叩きつける。叩きつけたはずなのだが、それは浮いた。そして再び、空気に溶けていった。そして消えた上着はいつの間にか装着されていた。
再び上着を脱ぐ。と、あ、あれ?ぬ、脱げない・・・
上着はぴちりと体に張り付いていた。脱ぎ捨てすぎたか?いや、さっき地面に叩きつけようとしたのがマズかったか。と考えが頭をよぎる。するとどことなく違和感が襲った。
まて、いや、こいつはいかん。いかんぞ!この服、どうやら意思をもってしまったようだ!その瞬間。キュッ!はっきりと体が服に締め付けられた。
危機。そして思考の加速。突如として訪れたイレギュラーに対し、闘神は無意識に
ほーん?それで?その
タキシードからの無言の圧力
それでも闘神は
無理だ。
俺はあの石板でポイントを取捨選択する際、10Pのスーツセット(黒)を捨てたのだ。捨ててしまったのだ。
スーツセット?いや、こいつはタキシードだろ。
いや、今はそんな違いどうでもいい。まさか、こいつがあのスーツセットだったとでもいうのか?ということはだ。
ぞわりと、背筋が凍る。
俺がたばこを優先して、お前を捨てたこと、その事を覚えているというのか。
口には出さなかった。しかし、その思考はタキシードへと伝わる。そして、ギュギュギュっ!と締め付けが増した。
マズい!いや、そんな馬鹿な事はないはずだ!そんな
ボギュッ!締め付けは、体を
ありゃ~こりゃあ、常人の体じゃあ、骨はボッキボキだぁ~。
やりすぎなタキシードの行為に対し、少し冷静になった闘神は、ちょっぴり不真面目な考えを
ギュルルルル!まるでわずかに
「まってくれ、捨てたわけじゃないんだ。君が、その、そう!タキシード君だ。タキシード君だと分かっていたのならば、捨てはしなかった。いや、いや、いや!あ、痛っ!まってくれ!分かった、わかったから!正直に言おう。君がタキシード君でも僕は、たばこのために君を切り捨ててたさ。そう。ああ!ぐふッ。り、理解してくれ。ところで話を変えようじゃないか、いったい、君に何が起こっているんだい。どうしてその、そう、あれだ、
すん。とタキシード君が静かになった。タキシード君とはついさっき
上着、シャツ、ズボンに下着、
ああ、やりやがった。ついにやりやがった。
己の体を見つめる。
恥ずかしいのやら、美しのやら。ただ、まあ、
逃げたタキシード君には悪いが、勝負はこちらの勝ちだ。堂々としていればいいのだ。何の問題があろうか。美にかなう価値なし。
ただ、これは危険な思い上がりであった。
ふう・・・ひどい目に
足元を見ると、キラりと
色は、深い青色。その
だがしかし、どういう訳か手元のライターは銀一色に
どこも変わっていない。いつも通りの顔だった。いや?
満足気な顔が映りこんでいた。
寝起きの
例え、風が吹こうとも、
銀のジッポライターで顔を観察している闘神であったが、それとは別に、このライターのある部分の
ちょうど一昨日のことである。このジッポライターのオイルが切れて、オイル交換をしようと思っていた矢先、いつの間にか、このライターを家のどこかに無くしてしまったのだ。まあ、家で無くしたのだから、直ぐに見つかるだろうと気楽に考え100円ライターを使っていたので、オイルは空なはずだった。
すちゃっ。とケースの上部を開ける。右の親指をホイールに引っ掛け、素早く点火。じりっ。とフリントが発火する音と共に、見事な火花が
ジッポーの火花は美しい。ただ、今起こった火花は、これまでのそれとは比較にならなかった。思わず息を呑む。直後。ボボッ!!!ジッポライターが火を
「あっっつ!!!」
くはなかったが、思わず声が出てしまった。こいつもどうやら俺に怒り
性格があるのだろうか。意識を持っているのであれば、当然性格もあるのだろうが。なんといっていいものか、この子は、
お前はだめだタキシード。
いつの間にか、
「ふん。なに?なるほど。それはちょっと待ってくださいと。はぁ~あのね~君あんなことしといて、よくそんなことが言えるね~。」
あからさまな
「まあまあいいでしょう。タキシード君。え~と。ん~。でも、そうだね~。君は努力というものが必要だ。手始めにだね、この格好はいささか
ぐぬぬぬぬ。とタキシード君の
タキシード君はというと、正直、そこまで闘神と敵対しようなどとは思ってはいなかった。少し
闘神に対する興味。それは、遠くの
そのスマホ君であるが、いつ闘神の前に出てやろうかと、先ほどから、ずっと様子を
そんなこんなはつゆ知らず、楽な服装に着替えられて満足していた闘神は自身に対する検証を再開するのであった。
次に行ったのは、息をどれくらい止めていられるかであった。呼吸を奪われて生きてゆけないのでは、魔法があると想定される世界では致命的であろう。しかし、どうだ、人体の構造は変わっているのだろうか。腹を切り
息を止める。しばらく時間が経つ。そして、また時間が過ぎてゆく。一向に苦痛は訪れなかった。もはや、
結局のところ、検証は闘神が飽きたところで終わった。限界など見えなかった。そのはずであった。闘神の体は息など必要としないのだから。
ふぅ。空気がうまい。わざわざ意識して息を止めるのは面倒くさい。どうでもいいか。闘神を選んで、それが実は弱点がありました。なんてなったら、興ざめだ。だったら、その時死んじまおう。無敵だから楽しいのであって、弱みがある生をわざわざ生きながらえる
飛び上がりたい。そんな気分だった。どこまでジャンプできるものだろうか。空を見上げる。いい天気だ。しかし、太陽は見当たらなかった。青い空が広がっていた。向こうに
大地を蹴りつける。そこまで力みはしなかったが、ざっと、50mほど飛び上がってしまった。下方の地面がえぐれている。そのさなか、ふと、このまま
「なんて自由なんだ・・・」
全てが素晴らかった。雲の上で、眠ることも夢ではなかった。
おお!スピードを出そうと思えば、ものすごいスピードが出る!気づけば、童心に帰って遊んでいた。
いつの間にか、パッヘルベルの「カノン」のオルゴールがあたりに流れていた。
そのドラマチックな曲調とオルゴールの
何をやってるんだ。ドラマチックな
いつの間にか、音楽は止まっていた。
だが、なんでカノンなんだ?というか、さっきの
覚悟を決め、そして素早く後ろを振り向く。しかし、それは逃げも隠れもしなかった。堂々と、ただ、こちらを見つめていた。
黒く光るスマホ君がそこにポツンと浮かんでいた。
そいつとは実に長い付き合い、いわば
7年も経っていると、さすがにガタが来る。スマホ君の内臓バッテリーはもう既に限界寸前。そんな始末であった。しかし、一向に買い替えはしなかった。何故だろうか。替えるのが面倒くさかったという理由もあれば、まだ壊れてないという言い訳もあったし、特段、生活で困ることもなかった。
そんなスマホ君と向かい合うこと実に数秒。あたりは
突如、スマホ君から、クラシックが流れた。
ドボルザーク:交響曲第9番 『新世界より』第4楽章
こ、ここでこの音楽か......
徐々に近づいてくるスマホ君。鳴り響く緊張の音楽。ジリジリとその歩みはこちらへと近づき......そして、スマホ君は・・・私の横を通り抜けて言った。
完全なる無視に固まる私。地味だが、深いダメージが心に刻まれた。
どうする。これは、追いかけていいものなのだろうか。すでに音楽は緊張したパートから緩やかなパートへと突入していた。しばらく、スマホ君の独演会が続く。よく見ると小刻みにステップしている。ノリノリだ。一体、何がしたいのだろうか。あまりにもシュールな光景が続いた。
飽きたのだろうか。いつの間にか、ポップな音楽が流れ始めていた。次々とDJのごとく、ハイテンションな音楽が流れていく。もはや・・・どうでもよかった。
いや、まて、その曲はダウンロードなどしてないぞ。
流れている音楽には聞いたことのないものまで混じっていた。こちらへ来る前にスマホ君が好き勝手にダウンロードしてきたのだろうか。
どうなのだと問い詰める。すると、突然こちらを振り向き警報音を鳴らされた。
「あ、アウト?てことなのか」
うんともすんとも何のリアクションもなかった。うなだれる。まあ、心残りというか、気になることは多々あるのだが、この調子じゃ仕方ないだろう。しょうがないか。と
突如、スマホ君が動きを見せる。ぐっと、闘神に近寄ったかと思うと、その目の前で、あるライブ中継を画面に表示した。それは、大晦日の風物詩、紅白歌合戦の中継であった。場面は、ちょうど、白組の人気アーティストが歌っているところであった。
『2024年紅白』
この文字列が痛々しく目に映った。
自分がいなかろうとも世界は回るのだ。
たばこが無性に欲しかった。
そんなに
この不思議な世界と、あの元居た世界はどこか地続きでつながっている。それだけでも、よかったと思えたし、それとは逆に、なんだか
あちらから、こちらに他の誰かがやって来るのならば、自分の時と同じように、いやそれ以上にハイスペックな選択を取得できるのだろうか。
あと、こちらからあちらに行く手段があり、もし、たどり着けたとして、この体はいかほどのスペックをあちらで維持できるのだろうか。
いやいや。それにしても、こういった考えは
まあ、仕方ない。それしか言いようがなかった。
これは
とりあえず、どこかへ向かおう。
歌合戦に合わせてダンシングするスマホ君を
特に、これといった問題はない。一瞬。いつの間にかどこかに落としてしまった、たばこの吸い殻へ想いを
仕方ない。未練はあるが、
ふと、当たりを見渡す。草原はどこまでも広がっていた。
遠くの方に見える山脈。あの方角へ飛んで行ってみよう。
全速前進
宙に浮かんだまま真っすぐ飛んでゆく。風を切り、はるか遠くに見える山の方へと闘神は向かってゆくのであった。
闘神が飛び跳ね、そして陥没した場所。そこに、たばこの吸い殻がポツンと転がっていた。それはよく見ると、ジリジリとある一定の方向へと動き続けていた。
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