クインシー 第6章③:夜の訪問者

 月は雲に隠れ、島は深い闇に包まれていた。

 クインシーは眠れずに窓辺に立ち、外の静寂を見つめていた。


 古い木の床に敷かれた布団では、トリアが静かな寝息を立てている。

 消えかけたランプの傍らに置かれた読みかけの本のページが、ほのかな明かりに浮かび上がっていた。


 波の音だけが静寂に響く中、クインシーの神経は極限まで研ぎ澄まされていた。

 日中の穏やかな時間が過ぎ、夜の帳が下りると、スパイとしての習慣が本能的に顔を出す。


 それは彼にとって生き延びるための術であり、呪縛でもあった。

 耳を澄まし、かすかな物音をも聞き逃すまいとする。

 目は暗闇に慣れ、わずかな影の変化すら見逃さない。


 突然、入り口の方から足音が聞こえた。

 それは普通の人間には気づかないほどの音だったが、クインシーの耳には確かに届いた。

 彼の体が瞬時に反応する。


 窓際から布団の傍らまで音もなく身を移し、眠るトリアを抱き寄せる。

 訓練で叩き込まれた動きは、意識よりも早く体を動かしていた。


 暗闇の中、ナイフを取る手の動きには一片の迷いもない。

 手のひらに伝わるナイフの冷たさが、彼の警戒心を高めてゆく。

 呼吸は浅く、静かだ。


 「誰だ…?」

 クインシーの声は低く鋭く、そして緊張をはらんでいた。

 相手のどんな動きも見逃さないよう、素早く周囲に視線を巡らせる。


 返事はない。

 代わりに、戸が開かれる音が静寂を破る。

 軋むような音と共に、薄暗い部屋にわずかに影が姿を現した。

 それは、ひとりの男の影だった。


 「シルヴェスター…」


 その名を口にした瞬間、クインシーの警戒は最高潮に達した。


 シルヴェスター。

 魔術師教会エニグマの元実力者にして、トリアの守護者。


 腕の立つ者ならば、一目見ただけでその強さのほどが分かる。

 そしてシルヴェスターは、とうてい一筋縄でいくような相手ではない。


 トリアを攫って逃げた自分を、シルヴェスターが見逃すことはないだろう。 

 彼が現れた以上、苦しい戦いを強いられるのは必至だった。


 クインシーの背筋を冷たい汗が伝い、鼓動が急速に早まっていく。


 だがクインシーの予想に反して、シルヴェスターは古くからの知人を訪ねるかのように、ごく自然に小屋に足を踏み入れた。


 その動きには、どういうわけかまるで殺気が感じられない。

 口元にはかすかな笑みすら浮かんでいる。

 しかし瞳の奥にはやはり、計り知れない鋭さが潜んでいた。


 「こんな場所に隠れているとは、なかなか手間取らせてくれる」


 シルヴェスターの声は低く穏やかだ。

 ゆっくりと、しかし一歩一歩、確実に足を進める。

 その歩みは相手を威圧するでもなく、かといって隙を見せるでもない、絶妙な間合いだった。


 「…何をしに来た、シルヴェスター?」


 クインシーの声が極度の緊張に震える。

 ナイフを握る手に汗が滲み、トリアを守るように身構える。


 シルヴェスターは慎重に戸を閉め、月明かりに照らされながら静かにクインシーへと向き直った。


 逃げるか、戦うか。

 その決断を迫られる瞬間、先に口を開いたのはシルヴェスターだった。


 「戦いに来たわけじゃない、話をしに来たんだ。クインシー、お前にとって重要な話をな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る