クインシー 第6章②:トリアの願い

 夕暮れの海岸。

 波が静かに砂浜に寄せては返し、オレンジ色に染まった空が広がる。

 クインシーとトリアは並んで歩いていた。


 長い沈黙が続いた後、トリアはクインシーの横顔に浮かぶ影を見つめながら、静かに問いかけた。

 「クインシー、本当にあなたはシャドウベインのスパイだったの?」


 その言葉にクインシーは一瞬、足を止めた。

 喉元まで上がってきた言葉を、一度飲み込む。

 しばらくの沈黙の後、彼は重い口を開いた。


 「そうだ。俺はシャドウベインのスパイだった。いや、今でもそうなのかもしれないな」


 クインシーは水平線に目を向けたまま、静かに語り始めた。

 長年押し殺してきた感情が、その声に滲んでいた。


 「お前たちに近づいたのも任務のためだ。組織はハロルドの技術を手に入れたがってた」


 トリアは黙って彼の話を聞いていた。


 「俺は物心つく前にシャドウベインに拾われた。そこには親なんていなかった。愛情なんてものは俺には無縁だった。俺たちはただ組織の道具として仕込まれたんだ」


 波の音が、彼の言葉の行間を満たす。


 「毎日が戦いだった。弱ければ生きていけない。朝から晩まで叩き込まれたのは、戦う術と生き延びる方法だけだ。ナイフの扱い、格闘術、暗殺術、銃火器…相手を騙し、倒すための手段」


 トリアは彼の横顔を見つめたまま、静かに歩みを止めた。


 「家族なんて知らない。友なんていなかった。周りにいるのは他人を蹴落とそうとする連中だけ。誰かを信じれば、そいつが自分の弱点になる。だから誰とも深く関わらなかった。生き延びるための掟だ」


 クインシーの声が掠れる。


 「俺は生きるために、シャドウベインに忠誠を誓った」


 彼の瞳には、夕陽のオレンジ色の光が映り込んでいる。

 トリアはそっと彼の手に触れた。


 「俺にとって、人生とは命令に従うことだった。それ以外の生き方なんて、考えたこともなかった」


 夕陽が水平線に沈もうとしている。

 クインシーは小さく息をついた。


 「でも、お前たちと一緒にいるうちに、気づいてしまったんだ。俺には何かが欠けているって」


 トリアは彼の手を握り直した。

 その手は冷たく、小さく震えていた。


 「お前やハロルドと過ごす時間の中で、少しずつ分かってきた。俺はお前たちみたいに、誰かを信じることが、愛することができないんだって」


 「クインシー…」


 トリアの瞳が揺れる。

 その名を呼ぶ声に、ある一つの想いが宿った。


 「辛かったよね、ずっと一人で。これまでのこと、全部抱え込んでたんだね」


 そして続ける。


 「でも、あなたが私に話してくれて、とても嬉しい」


 トリアは一度言葉を止めた。

 そして、思い切って告げた。


 「…あなたはもう一人じゃない、私がいるよ。あなたの側で、私にあなたを支えさせて」


 クインシーは驚いたようにトリアを見つめた。

 彼女の真摯な瞳が、クインシーの端正な顔を映して輝く。


 「ありがとう、トリア」


 その声はまだ掠れたままだ。


 「でも、シャドウベインを裏切った俺にはどこにも居場所なんてない。これからは、死ぬまでただ逃げ続けるだけだ」


 クインシーの言葉に、絶望が滲み出る。


 「俺にはもう、この先はないんだ、トリア」


 彼の恐怖と不安、そして人生への諦めを、トリアは確かに感じ取った。

 だからこそ彼女はしっかりと彼の手を握り、心を込めて真剣に訴えかけた。


 「逃げるだけじゃなくて一緒に生きていこうよ、クインシー。あなたにはまだ希望があるよ。あなたの人生にはきっと意味がある」


 トリアは真剣な表情でクインシーを見つめ、そして言った。


 「私と一緒に、あなたの未来を見つけよう」


 トリアの真摯な言葉にクインシーの心が揺れた。

 それは温かく、同時に痛みを伴った。

 動揺する内心を隠すように、彼は無理に明るく振る舞おうとした。


 「お前はほんと、変だよな。俺なんかと一緒にいたら、いいことなんて何もないのに」


 トリアは彼の手をさらに強く握り締めた。


 「それでも私はあなたと一緒にいたい。どんな過去を持っていても、あなたはもう…私の大切な人だから」


 トリアの懸命の願いに、クインシーの眼に一瞬だけ涙が浮かんだ。

 彼はそれを必死に堪え、再び夕陽を見つめた。


 「…ありがとう、トリア。でも俺には、未来ってやつが全く見えないんだ」


 その言葉が、夕暮れの浜辺に静かに溶けていった。

 波の音だけが響く中、二人は沈黙を共有していた。

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