クインシー 第6章:過去との対峙

クインシー 第6章①:島の生活

 朝もやが島を包む頃、クインシーは目を覚ます。

 潮の香りが古びた廃屋の中まで漂い、耳には遠くで鳴る波の音が届く。

 古い板張りの床がきしむ音と共に、トリアが朝食の支度を始める気配が伝わってくる。


 つい数週間前まで荒れ果てていたこの家は、今では二人の生活の基盤として形を整えつつあった。


 割れた窓ガラスは取り除かれ、代わりに古い帆布が風を遮る。

 雨漏りしていた屋根はクインシーが修理し、床や壁も応急処置が施され、トリアが繰り返し掃除をしたことで、埃と荒廃の臭いはほとんど消えていた。


 壁際には、海岸でトリアが拾った綺麗な貝殻が飾り付けられ、山で摘んできた野花が古い瓶に活けられていた。

 それらの飾りが、質素な部屋に小さな命の輝きを与えていた。


 クインシーは時折その飾りに目を留めては、胸が締め付けられるように痛む。

 ――こんな平穏な暮らしが、自分に許されるわけがない。

 シャドウベインに追われる今、後ろめたさが絶えず彼の心を苛む。


 トリアは積極的に島の人々の中に溶け込んでいった。

 彼女の笑顔が島民たちの心を徐々に開いていく様子を見るたび、クインシーの心は複雑に揺れ動いた。


 最初は二人を警戒していた島民たちも、今ではトリアの明るい笑顔、誠実で献身的な姿勢によって打ち解けてきていた。


 トリアは農作業や漁の準備を手伝い、島の子供たちと共に遊んだ。

 島の人々は、新鮮な野菜や魚、日用品や衣類など、生活に必要なものを彼らに分け与えてくれた。


 それが逆にクインシーの不安を深めていく。

 信頼を寄せられるほど、自分の正体が露見した時の反動は大きい。

 ゆえに彼自身は、必要以上に島民と関わろうとはしなかった。


 朝日が昇るにつれ、島の生活が動き始める。

 漁師たちの船出の声が聞こえ、畑に向かう人々の足音が砂利道を伝う。


 クインシーは黙々と力仕事をこなす。

 農家の畑を耕し、漁師たちの網の修理を手伝い、時には彼らと共に漁に出る。

 体を動かし続けることで、一時でも暗い思考から逃れるように。


 仕事が終わり日が沈み始めると、クインシーは一人で浜辺に向かう。

 砂浜に腰を下ろし、波に足跡が消されていく様を見つめながら、クインシーは自分の行く末に思いを巡らせる。


 潮風が髪を揺らし、波が規則正しく砂浜を打つ。

 波の音を聞きながら遠い水平線を見つめることが、いつしか彼の日課となっていた。


 シャドウベインのスパイとして背負った咎。

 裏切り者の十字架。

 そして今、一人の少女の人生を狂わせた罪。


 そんな自分に、果たして未来などあるのだろうか。

 波音はすべてを飲み込み、彼の問いかけには何一つ答えを返さない。


 時折、遠くに船影を見つけると、全身が強張る。

 それがシャドウベインの追っ手なのか、ただの漁船なのか、必死に目を凝らして見極めようとする。


 黄昏が深まるにつれ、不安はより強く彼の心を締め付けていく。


 この穏やかな島での暮らしは、所詮は幻に過ぎない。

 いつか必ず、シャドウベインの魔の手が伸びてくる。

 この平和な島、罪のない島民たちは、おそらく大きな混乱に巻き込まれる。

 縁もゆかりもない、行く当てのない二人を受け入れた、ただそれだけの理由で。


 そんな予感が、日々彼の心を蝕んでいった。


 やがて夜風が冷たくなり、彼はゆっくりと立ち上がる。

 家路につく足取りは重い。


 窓から漏れる灯りの中、トリアが食事の準備をしているのが見えた。

 今日一日の出来事を思いながら、島民たちが分けてくれた野菜でスープを作っているのだろう。

 クインシーはしばらくその光景を眺めていた。


 この静かな日々は、いつか終わりを迎える。

 けれど今、一時の穏やかさにどうしようもなく縋り付いている自分がいた。

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