クインシー 第5章④:あなたを見捨てない

 真夜中の港に、冷たい風が唸りを上げる。

 月光が黒い海面に銀の道を描き、波のざわめきが寂寥とした空気を震わせていた。

 錆びついた係留金具が軋む音が、亡霊の囁きのように響く。


 クインシーは無言で立ち止まり、ゆっくりとトリアの手を放した。

 彼の指先が彼女の手首から離れる瞬間、微かな躊躇いを感じた。

 振り返る勇気もないまま、月明かりに照らされた自分の影を見つめながら低く呟いた。


 「ここまでだ、トリア」


 その声は掠れていた。


 「もうこれ以上お前を巻き込むわけにはいかない。ここでさよならだ」


 最後の言葉を口にしたその時、トリアが彼の腕を掴んだ。

 その細い指は震えながらも、しっかりとシャツの袖を握り締めている。


 「クインシー、あなたを一人で行かせない」


 トリアははっきりと言った。

 涙を浮かべた瞳のその奥には、強い決意を漲らせて。


 「私はあなたを見捨てない」


 その言葉が、クインシーの心を深く抉った。

 彼女の優しさは、今の彼には最も残酷な拷問だった。


 「やめろ!俺に近づくな!」


 言葉とはうらはらに、衝動に突き動かされるようにクインシーはトリアを抱き寄せ、荒々しく唇を重ねた。

 切なく塩辛い涙の味が、二人の間に広がる。


 しかし次の瞬間、トリアは両手で彼の胸を強く押し返した。

 クインシーは唇を拭い、自嘲の笑みを浮かべて呟いた。


 「本当に俺なんかと一緒にいたら、酷い目に遭うぞ…」


 彼の声には自己嫌悪と自棄が混ざっていた。


 「お前を襲うことだってできる」


 だがトリアは揺るがなかった。

 月明かりの下、彼女の表情は凛として美しかった。


 「クインシーはそんな人じゃない!」


 トリアの声が静寂を切り裂く。


 「私はあなたを信じてる!」


 その言葉に、クインシーの心が大きく揺らいだ。

 幼い頃から心に植え付けられた不信と冷酷さが、彼女の純粋な信頼の前で崩れ落ちそうになる。

 しかし彼はそれを必死で押し殺した。


 「どうしてもついてくるなら、好きにしろ」


 冷たく突き放すような言葉とは裏腹に、その指先は優しく彼女の手をほどいていた。


 「でもお前を守ってやれる保証はない」


 トリアは迷うことなく頷いた。

 その瞳には覚悟が宿っていた。


 「それでも私は一緒に行く、ここであなたを一人にはできない」


 二人は無言で波止場に繋がれた小さな漁船に乗り込んだ。

 エンジン音が静かな港を切り裂き、船は黒い波を掻き分けながら未知の暗闇へと進んでいく。


 港の明かりが遠ざかるにつれ、世界は闇と波音だけの空間へと変わっていった。

 クインシーは操舵室で黙々と舵を取り続け、トリアは船尾に立ち、遠ざかる街の灯りを見つめていた。

 潮風が冷たく頬を撫でるたび、彼女の長い髪が揺れる。


 月が雲に隠れ、世界は一層の闇に沈む。

 エンジンの響きだけが、二人の存在を確かなものにしていた。


 やがて疲れたのか、トリアは操舵室の隅に腰を下ろし、静かに目を閉じた。

 彼女の寝息がわずかに響き、クインシーはその音に耳を傾けながら舵を握り続けた。


 夜が明ける頃、水平線の彼方に小さな島影が見えてきた。

 朝焼けに染まる空の下、人気のない小島がその姿を現す。

 島の中腹には、朽ちかけた廃屋が幽霊のように佇んでいた。


 船を岸に寄せ、二人は無言で砂浜に降り立った。

 クインシーは廃屋を見上げながら、低く呟いた。


 「ここなら、しばらくはなんとかなるだろう」


 その言葉にトリアはクインシーを見上げ、小さく頷いた。

 クインシーはトリアから目をそらし、彼女の細い肩を抱きながら呟いた。


 「何も言わなくていい。ただ俺のそばにいろ…それでいい」


 それはいつ終わるとも知れぬ、二人の逃避行の始まりだった。

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