クインシー 第5章③:裏切りの刃

 追い詰められた獣の本能が、クインシーの体を支配していた。

 一瞬の閃光のような素早さ。

 それは幾度となく死線を潜り抜けてきた者だけが身につける、研ぎ澄まされた反応だった。


 メンバーの中で最もか弱く、皆が守るトリア。

 クインシーの体が瞬時に彼女に飛び掛かった。

 ジャケットの内側から引き抜かれたナイフが、月光を反射して一筋の弧を描く。


 誰も予測できないスピードで、クインシーの腕がトリアの首に回された。

 その刃が彼女の喉元にぴたりと添えられる。


 「動くな!」

 クインシーの声が、部屋中に響き渡る。

 「一歩でも近づいたら、こいつを…!」


 その声は震え、生への必死な執着だけが滲んでいた。

 額から流れ落ちる汗が、トリアの肩に滴り落ちる。


 ロイとニコラスが前に出ようとするが、ユージーンが片手で制止する。

 ハロルドは真っ青な顔で、親友の豹変ぶりを信じられない様子で見つめていた。


 「クインシー…」

 ハロルドの声が震える。

 「お前まさか、本当に…」


 その声に、クインシーの手が一瞬震えた。

 しかし次の瞬間、より強くナイフを喉元に押し付ける。

 生き延びるためにはこうするしかない。

 そう自分に言い聞かせながらも、親友の声に心は引き裂かれそうだった。


 トリアの体が小刻みに震えている。

 しかし彼女が感じたものは、単なる恐怖ではなかった。

 信頼していた仲間の突然の裏切りと、その奥に潜む、言葉にできない痛み。


 「クインシー、どうして?」

 トリアの声は小さく、しかし確かな強さを持っていた。

 「私たち、仲間じゃなかったの?」


 その問いかけが、クインシーの心を更に深く抉る。

 口の中に血の味が広がる。

 自分が唇を強く噛みしめていたことにさえも気付かなかった。


 「巻き込んですまない、トリア」

 クインシーの声が掠れる。

 「俺にはもう、他に方法がないんだ」


 一歩、また一歩と後退する。

 ナイフを持つ手が震えようとするのを、必死に抑え込む。

 仲間たちの表情が、彼の心にいくつもの深い傷を刻んでいく。


 ロイの冷たい怒り。

 ニコラスの殺気。

 ユージーンの深い失望。

 そして何より辛い、裏切られたハロルドの悲しみに満ちた瞳。


 「下がれ!全員下がれ!」

 クインシーは最後の威嚇を発した。

 「こいつがどうなってもいいのか…!」


 必死さとはうらはらに、深い絶望をにじませる声。

 皆との暖かな日々は、もう二度と戻らない。


 扉に向かって少しずつ後退しながら、クインシーは自分が越えてはならない一線を越えてしまったことを痛感する。


 腕に抱えたトリアの体温が伝わってくる。

 その温もりは、冷たい皮肉となって彼を責め立てる。


 出口まであと数歩。

 暗い廊下が、彼を待ち受けている。

 そこから先は、完全に孤独な逃亡が始まる。

 生き延びるため、ただそれだけのための。


 クインシーの目に、一瞬だけ涙が光った。

 それは月明かりに反射して、小さな宝石のように輝いた。

 しかしその輝きは、すぐに闇に溶けていった。


 後ろ手に扉を開け、クインシーはトリアを連れたまま廊下へと姿を消した。

 チームTRANSCENDAのメンバーたちは、動けぬままその場に立ち尽くすしかなかった。

 作戦室に残されたのは、重苦しい静寂と、永遠に失われた信頼だけだった。

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