そういえば

カナンモフ

第1話

ポケットに手を突っ込んでみると、何か固いものに当たった。こういうのは大体が抜き忘れたボールペンやメモの塊だったりするのだが、西原雄二が今日切先を掴んだそれはれっきとした一本のUSBだった。濡れた様子はなく、歯石取り中の口内のように乾き切っていた。勿論彼は不思議に思う、俺はいつだって何かを置きっぱなしにはするけれど、流石にまだボケちゃいないはずだ、大体、これには洗濯機で回した際の弊害が出ていないようだし。預けられたにしてもそのことを覚えてるはずだろ? 彼は額に手を当てて、ミリ程度離して十字を切る。こんなことをしていても、彼はれっきとした無神論者だった。


 余り立ち止まっていたら他人の邪魔になる。ここは。スーパーのど真ん中だから。彼は調味料のコーナーの端へ寄り、マキシムだけを取ってレジへ向かう。図々しくも後ろから取った。それには。半額シールも付いている。彼はこういう性格だし、他人から、ゼミの同期にだって信頼されたことは一度だってない。はずだ。彼は軽い嘘ばかり吐いたり、食事の時は口を半開きに。したり。人に突っ込む時は強めの肩パンだったりする。要するに。いても別にいいけど、いなかったらもっと快適に過ごせるのになぁといった立ち位置、クレーンゲームで原価が安いくせにそれを少し超えるような金額でやっと落ちる商品のような。それより。少し悪いかもしれない性質の人間だった。だから。私は食品棚の調味料を少しどけ、彼の目線を追う。私と彼はちょうど同じくらいの身長だ。そのため。とても見やすかった。


 彼は犬の餌を二つカゴに入れていたが、それはいつも同じものだった。安くて、多く入っている餌。チーズもささみもない。味がないと思っているのだろうか、単一なものだと。犬にだって感情はあるだろう。彼もそれを知ってるはずだ。こうして犬連れが可能なスーパーにわざわざ来ているのだから。会計はいつだって無言。カードを釣り銭置きに置いて、店員が詰め場所に迷ったら台を叩いて急かす。ほら、店員が釣り銭を放る。ここからはよく見えないけれど、きっと目だって血走ってるはずだ。


 自動ドアが開いて外に出る。案外暗そうに感じた。もう夜になってしまったのだろうか。彼はポケットからUSBを取り出して、背後のスーパーを振り返る。スライド式、コネクタを出し入れ。通りに面したスーパーなので、辺りには二店のコンビニ、アパートが三つ、道路との垣根にはガジュマルが植えられている。それが照明代わりだと思っているのだろう、街灯は長い一本道にランタンのようにぼんやりと光るものが一つ二つ、電源がまともに管理されてないせいか未だに正確な設置数が数えられていない。道路だってコンクリ下の土塊が剥き出しになりかけているし、信号機は切り替わりまでに分単位で時間が掛かる。彼にうってつけの街だ。


 スラックスの裾が揺れる。彼は振り返る。私も引っ張られて振り返る。ガジュマルの木、自動販売機、公園。そういえば、あの公園のブランコは取り外されてたんだった。彼は揺れた、と口にした。風が木の枝を揺らしていた。匂いがした。彼は良く不要な家具を燃やしていた。ある時、燃え移ったちくわ状の木が似たような臭いを放っていた。それはマーキングの際によく使用していたもので、所有権がなくなると思うと憂鬱な気分になった。だから、枯れ木の匂いと名付けた。それと同じ臭いをしている。何かが離れていく臭い。


 彼は指を揺らす。USBをポケットに仕舞う。紺色のトレンチコートを伸ばして整える。道を歩いていく。タバコの吸い殻。どうやら危ないらしい。近づいても近づいても引き寄せられる。学ばざるを得ない。それなのに彼はコートを退けて何処からかライターを取り出し、口に持っていくと燻らされているのはタバコ。舌を出して呼吸を確保していると、真横に灰が落ちる。飛び退く。尻に草が触る。彼はしゃがみ込み、舌を見る。目を見つめる。タバコを放り投げた。


 歩く。アパートへ歩く。彼のことを悪く言いすぎた気もする。実際、私は彼の事が嫌いではない。単に、彼が私へ自身のことを卑下して伝えているのだ。私が彼の元へやって来た時、先ず、授業が始まった。鏡を使って私の姿を写し、部位ごとの名称や犬種を教えられた。当然ながら理解することは困難を極めたが、彼は私が一応の言語を学習するまで、念入りに文字カードなどを使用し教え続けた。私はフレンチ•ブルドッグという犬種で、名前はカン。自主性を重んじる教育方針なので、自身の名前は自身で付けることになっている。私自身の鳴き声はワンではなくキャンと聞こえ、それを英字にするとCAN、ローマ字読みでカン。いい名前だと思う。


 比較的新しいアパートで、マンションのように小さなロビーが用意されている。郵便受けと管理人がいるだけの個室があり、私は102号室の郵便受けに飛びついた。前足で投函口に引っ付き、口でダイヤルを回す。左に三、右に四。動作の学習。彼は中から郵便のパッケージを取り出し、階段を登る。2階。彼の手元の縄から抜け出し把手に噛み付く。前足の片方を中心に周り、そこに鍵が投げられる。前足を離して浮き、鍵穴に差し込んで回す。これをやると食事の量が増えるのだ。着地して後ろに下がり彼が扉を開く。リーマンショックのグラフのような軌道で部屋に滑り込む。彼が言うには、現在日本は慢性的に失業者が増えているらしい。だから彼はアルバイトが出来ていない。疑問の余地あり。


 彼は私を捕まえて足を掴み、タオルで汚れを落とそうとするがそうはいかない。後ろ足を交互に跳ねさせ振り解き、キッチンへ移動。椅子を噛んで机から引き摺り出し、それを土台にシンクへ飛び込む。蛇口を噛むと彼は渋々栓を絞り、私は足を洗い流す。これは気持ちいい。何の余地もなし。上がる前にひっくり返って四つの足を出し、タオルがその溝まで拭う。そして彼のTシャツの皺に爪を食い込ませ、ロープの要領で床に落ちて皿の置いてあるリビングのテレビ横へ移動。食事の時間。湿った足で椅子に足をかけてテーブルへ登り、リモコンを前足で取って下に投げる。飛び降りて着地。床のマットに四つの丸。電源オンのボタンを押すと午後のニュースが始まっている。朝のニュースでは恥知らずな犬共が人間たちに媚を売っているため、基本的にケージの後ろへリモコンを隠している。上目遣いが気に入らない。災害時非常食のニュースが流れて一吠え、焼きささみ混じりの食事が注がれ、上の階の中年女性が天井を揺らす。中年女性は私の鳴き声に酷く腹を立てていて、一度は玄関前に『犬、出せ!』の張り紙がされていたことがあった。彼はそれを見て一枚紙を棚から引っ張り出してきたが、ババ、と書きかけてゴミ箱へ投げた。無視することが最善だったようで、張り紙のあとに何かあったわけでもなく、それからもう一年は経っている。


 彼は濡れていない方の椅子に座り、今日はささみ入りだから、とパソコンを開きながら言う。なんてこった、家に隠されていたのか。顔を埋めて食べる。手でちぎられたささみを後に残し、先ずは前菜から。起動音。新作スイーツの話。埋める。食べる。ささみ。食べ終わる。顔を上げると彼は私の脇を掴んで膝の上に乗せ、パソコンの画面を見せる。USBが水入りコップに密接して置かれているのに気づいた。好奇心だろう。私も気になっていた。彼はUSBをスライドし、右横のポートへ挿し込む。フォルダを開いて動画ファイルをクリック。


 工場のような場所が映った。灰色の塗装はところどころ錆び付いていて、四角く囲われた水の溜まり場が見えるだけで五つある。それの間を縫うように床板が設置されていて、そこに大きな袋が置いてあった。カメラは引いて、ワッフル状になっている床の全体像が見える。袋は丁度床板が交差する少し大きな足場に置いてある。画面が揺れて下に落ち、固定された。透明なラップがフレームインしたと思えば、それが画面いっぱいになった床板を歩いていく。足だったんだ。まるで蜘蛛の糸、フレーム天井ギリギリになった袋へ、その足はわざわざ遠回りをして向かっていく。足はだんだん人の形を作る。足から腰に、腰から腹に、腹から首に。頭だけが画面の外に飛び出したまま、そいつは袋のてっぺんを蹴る。別に反応はない。その動作でようやくそいつの服に目が入った。仕立てのいい、肩に沿って滑らかに伸びた生地を持つ、優しい黒色のスーツを着ていた。そいつは横に歩いて行き、暗く黄色い絞首台みたいな、凶暴そうな器具を引き摺って持ってくる。真ん中に設置した後、袋を膝まで曲げて持ち上げ、てっぺんの部分を器具に重なるようにもたれさせた。器具には斜め上に向かって長い突起が出ていて、手袋をした手が何度も上下に動かす。ゆっくりと板のような物が現れ、それは下がり続ける。袋は潰れていく。たいした音は鳴らない。スポンジを無理やり引きちぎる時に出るような引き攣った音が四回程響き、袋のてっぺんは完全に潰れた。そして、チューブで中身を絞り出す動きに似た身悶えを袋がした。アナウンサーが行方不明者発見のニュースを伝えている映像が差し込まれる。自宅のテレビからも同じ内容が流れ出した。


 『被害者は等身大の紙袋から発見され、同時に死亡が確認されました』


 「被害者は等身大の紙袋から発見され、同時に死亡が確認されました」


 画面が暗くなり、音声だけが繰り返し鳴り続ける。三回目で止まった。


 私は驚いて彼を見る。好奇心からの驚きだった。これは一体何なんだ? 同時に斜め後ろの壁、照明のスイッチに手が伸ばされていた。我々の特性として、振り返らないでも背後を確認することができるのだ。部屋の照明が切れて彼が私を掴んで何かが彼を殴打して私はそいつの顔を見たら赤ちゃんのような顔をしていて噛みつこうと跳ねて赤ん坊が手の甲で私を優しく追い返して彼はだらんと玄関へ引き摺られて私は彼の裾にしがみついて強く頭を蹴られて後ろに後ずさって扉が閉まった。私は跳ねてスイッチを押す。明るく普段の部屋だった。枯れ木の燃えるような臭いがした。二回吠える。意味がない。三回吠える。上から重い響きと扉が開く音。ニュースからは残された飼い犬たちのその後が言及されている。被害者は全員犬を飼っていて、飼手の無くなった犬たちは殺処分されるそうだ。そうだ? されるんだ! 明らかに殺されるんだ。馬鹿げてる。ピットブル、ドーベルマン、シベリアンハスキー、トイプードル、パグ、土佐犬、ブラジリアン・ガード・ドッグ。


 扉が開く、うちの扉だ。逆光に隠れてたんまり肥えた女性が現れる。彼が昔見せてくれたあたしンちに出てくる母親にそっくりの、それをもっと豪快に太らせたみたいな中年女性だった。端的に言うとババアだ。目をぎらつかせたババア。私の元へ廊下を一歩一歩踏み締め、やはりぎぃぎぃ床を唸らせる。バカ犬! と叫んでからリビングを見まわし、彼の姿を確認しようとする。これは案外チャンスかもしれない。椅子に飛び乗って机の上に乗る。私は異変を知らせようとPCの画面を前足で突いて吠える。ババアは机の前で立ち止まってから動画を再生し、微動だにせず見続ける。あっさりと見てくれるとは思わなかった私は、一旦床に着地して食事場に移動する。もちろん何も入っていない。何か食べるものがあれば多少は落ち着けたのだが。くるくる回って思考を整理する。マットに液体が付いていた。回りながら眺めてみる。灰がかってみえた。


 殺しだわ。人が潰されてるんだわ。あんた、飼い主が攫われたんでしょ。そんだけうろうろしてるところを見ると、全くもって何をすればいいかわからないみたいね。キャン! バカ! 前足をテレビに向ける。 殺処分、コイツらに聞こうって言うの、犯人の居場所を。キャン、キャン、キャン、キャン。私はこれでも結構物分かりがいい方なのよ。訪問介護士をやっているから。体を捻って転げ回る。首筋を引きちぎってやりたいのね。鼻を動かして臭いを嗅ぐジェスチャー。死体の臭いよ! 人が死ぬ時の、忌々しい臭い! ただでさえ膀胱が近いってのに老人のクレカが止まるような速度で尿が溜まってしまいそう! 殺処分カーの出発を調べるから待ってなさい。人が死ぬのを見るのはもうこりごり、あんたね、犬だからわかんないと思うけど、人って結構簡単に死ぬのよ。そりゃ何回だって言われてるようなことではあるけど、犬なんかよりずーっと脆いの。人間は頭いいように見えて直ぐボケるし、お金使うし、心なんて黒ひげ危機一髪で黒ひげが飛ぶような頻度より、何倍も頻繁にどっか行っちゃうのよ。要するにね、単純に行動できるあんたらなんかより馬鹿なの。だからおいぼれは直ぐ死ぬの! 若いやつもそう! みんな直ぐ死んじゃうの! まあそういうことよ。あと、頭打っても死ぬわ。血が出てるからそっちの心配をすべきよねぇ!


 私はまだぐるぐる回っていた。おばさんは椅子を二つ並べて貫禄たっぷりに座り、トトロに似てた。彼が居なくなった。勿論、探すしかない。行動しなきゃいけない。私は跳ねることができ、噛みつくことができ、どんな隙間だって通り抜け、反射神経だっていいし、視界も当然良好だ。そして何より、鼻がいい。この死体の臭いとやらを追えばいいのだ。玄関に向かって走る! 椅子が扉に当たって閉まる! 身体が持ち上げられてスマートフォンが目の前に。


 明日午前9時、移動式殺処分車『犬猫てんごくクン』が市役所より発車し、被害者が生前飼っていた犬たちが車内で殺処分される予定。動物愛護団体の妨害もSNS上で基盤が整い始めているようで、暴力沙汰に期待だ。

 オンラインニュース フーリガンズ 担当記者 紅林健一


 「仲間が居なきゃ成功はないわよ。織田信長を反面教師にしなさい」


 間近で聞くと、年の重みと体重の重さがそのまま加算されたような野太い声だった。マットに降ろされ下から見る。その巨大さを改めて実感する。風呂上がりだったようで、紫陽花柄の寝巻きにヘアカーラーだらけの頭、おばさんは椅子をどかして扉を開け、私に向かって声をかけた。まずは寝なさい。明日はいきなりカーチェイスよ。ほんと、ハリウッド映画みたいで興奮しちゃうわ。さっきはあんな大見得きったけど、正直私、非日常なことが好きなだけなのよ! まあ、この年齢になったら生きてて面白いことなんて他人の不幸か年金くらいよ。だからこんな面白いことに巻き込んでくれて感謝してるわ。扉が閉まる。私はケージに戻り、ブランケットをかけて目を閉じる。


 眠りながら、足を振り続けた。

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2024年11月29日 07:00

そういえば カナンモフ @komotoki

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