強欲の大罪

 複眼はまた別の景色を映す。そこにいるのは東雲しののめ雛菊ひなぎくだ。


「わかんない、わかんない。何が起きたの?」


 東雲の脳裏に先ほどの出来事が浮かぶ。

 メフォストフィレスは土下座までして騙し討ちし、その上で返り討ちに遭っていた。


「なんなの、あいつは悪魔でしょ。なんで悪魔が負けちゃうのよ」


 納得はいかないが、それでもメフォストフィレスが負けたことは分かる。それは自分たちの敗北も意味した。だから、すぐにでも逃げ出さなきゃいけない。それは理解できた。

 東雲の雑な手配での窃盗は、メフォストフィレスがフォローしていたからこそ成り立っていたことだ。向かう場所の鍵が開いているのも、警備員がいないのも、警察が来ないのも、メフォストフィレスが人心を操っているからだった。

 メフォストフィレスが破れた今、その効力は切れたのではなないだろうか。だから、東雲は逃げていた。


「あはっ、逃がす気はないんだけどねぇ」


 妙な場所から声がした。それは地面に落ちた自分自身の影だ。

 そして、その瞬間から東雲の足が止まった。動くことができない。


「あなたはあの悪魔に騙されたのよぉ。偽名なんて教えられて、でも契約はさせられて。あなたの魂は地獄に縛り付けられた。だけどぉ、メフィストフェレスはあなたを助ける義務なんてなぁい。遅かれ早かれ、あの悪魔はあなたを裏切っていたのぉ。

 でも、その前にあの人にぶちのめされちゃったけどねぇ」


 影が声を発する。しかし、東雲にはその言葉の意味がよく理解できない。


「さあ、あなたの欲望はなぁに? よぉく見せてよねぇ」


 影が次第に人の姿へと変わっていく。ゴシック調のワンピースに身を包み、黒髪の姫カットにした地雷女子。それはオノスケリスだ。


「なにこれ、これが私の影なの?」


 東雲は事態が飲み込めない。オノスケリスが自分の影が実体化した姿だと勘違いした。


「私は……」


 そう言いながら、東雲はオノスケリスの姿に見惚れる。若さに満ち、可愛く、それでいて魔性を感じさせる美しさ。それは自分自身の理想のように思えた。


「綺麗でありたかった。みんなから憧れられる存在でありたかった。自分の持ち物を羨ましがられたかった。男たちからちやほやされたかった。

 そして、私はこうなったのね」


 東雲は陶酔したようにそう言った。

 オノスケリスはその様子を見て、軽蔑したような視線を送る。


「それで、ブランド品の衣装や装飾品で着飾り、顔や身体を刃物と薬品でいじり、金で仲間を集めたんだ。私にはまるで美しいと思えないけど。

 ふふっ、あなたは強欲なのね。それに傲慢、怠惰、色欲、嫉妬もあるみたい」


 オノスケリスはワンピースのボタンを外す。そして、東雲の前でその胸元を露わにした。そこには美しい乳房はなく、その代わりに蠢くようなヒルがあった。


「なんかさぁ、私が人間なんかとキャラ被りしてるっているからぁ、ムカついてたんだけどぉ、あの子ぉ、王女様が殺すなっているからぁ、欲望を喰べるだけで済ませてあげるぅ」


 蛭のような乳房が肥大化し、東雲に襲い掛かる。


「ひっ」


 悲鳴を上げる暇もなかった。東雲は喰い千切られる。自分は死んだのだと思った。

 しかし、生きていた。ただ、すべての力を、願望を失ったように感じる。


 東雲は立ち尽くしていた。倒れ込む力も意志も失い、ただ立ち尽くす。

 サイレンの音が近づいてきていた。警察が来たのだ。それでも何の気力も起きない。


 紗季が二番目に引いたタロットカードのことを思い出す。悪魔デビルの逆位置だった。


 悪魔デビルの暗示は「暴力への警告」。それだけではない。「悪事への誘惑を断ち切る」。「トラブルは収束に向かう」。

 警察の到来は、まさに東雲に対して、あるいは彼女の起こした窃盗事件に対して、この二つの予言を成就させている。


――ふふっ。


 東雲の目の前にいたオノスケリスは次第に影へと姿を変え、その場から姿を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る