偽名契約

 メフィストフェレスをぶん殴った。

 奴は紗季をその腕に抱えている。殴られた勢いでその手を放そうとする。その機を逃さず、紗季を奪い返し、彼女を抱きかかえた。


「んぅぅー、旺太郎じゃない。助けにきたのね。誉めてあげる」


 その振動でか、紗季は眠たげな声を上げる。

 眠っていた。いや、眠らされていたのか。


「気になることがあるんだけどさ、紗季。あいつの名前、メフィストフェレスだよな。あの女の子、東雲はメフォストフィレスって呼んでるんだけど、どういうこと?」


 そう言うと、紗季は「あぁー」と確信を得たように声を上げた。


「そういうことよね。偽名で契約しているから地獄の管理者の名簿にも乗らないし、地上で好き勝手できたわけ」


 そうこう話しているうちに、メフィストフェレスが立ち上がる。

 俺は紗季を床に降ろし、臨戦態勢を整えた。


「メフォストフィレス、そいつら何なのよ!? 早く片付けて!」


 東雲しののめ雛菊ひなぎくがヒステリックな声を上げる。

 それに対し、メフィストフェレスはシルクハットを直しながら、片手を上げて答える。


「まあ、見ているでがすよ」


 そう言って、俺たちに近づいてきた。

 警戒する。一体、何をする気なんだ。


 バッ


「申し訳ないでげす。あっしにはあんさんらと事を構える気は一切ないのでげすよ。

 あっしではとても敵わないことは重々承知しているでやんす。この通りでげす。どうぞ許してくださいまし」


 メフィストフェレスは土下座していた。

 俺は呆気に取られて、何をしたらいいかわからない。


「ちょっと、何よ、それぇーっ!」


 東雲の抗議とも悲鳴ともつかない叫びが響いていた。


 しかし、おかしい。

 気がつくと、俺は地球を見下ろしていた。地球の海の動く様子が、大気の蠢きが、手に取るように眼下に広がっている。

 空を見上げると、とても地上では見れないほどの大量の星が散りばめられていた。


「綺麗だなぁ」


 思わず、感嘆の声を上げた。だが、これは幻術なのだろう。

 もし、メフィストフェレスが俺に攻撃を仕掛けてくるなら、どのタイミングを狙うだろうか。ちょっとカウンター狙いで反撃してみよう。


 ボカッ


 俺は山勘を頼りに拳を振るった。意外というか、なんというか、それは見事に命中する。

 幻覚はその瞬間に晴れ、俺の目の前でメフィストフェレスが転がっていた。


「キュー」


 メフィストフェレスは虫の息というべき声を発する。

 あれ? こんなんで倒せちゃうのか? 俺は警戒心を残したまま、メフィストフェレスの様子を眺める。


「メフィストフェレス、狡猾で危険な悪魔だけど、あくまでも五百年前に生まれた新参の悪魔。戦いの年季がお前とは違うようね」


 紗季が平然と呟く。戦いの年季? そんな気は全然しないんだけど。

 それに対して、状況を飲み込めないのが東雲だ。


「なんで? はっ、やばい!」


 とはいえ、少し混乱していただけで、すぐに事態の深刻さに気づいたのか、背中を見せて逃げ出した。見間違いだろうか。その瞬間、彼女の影が濃くなったように思えた。


「とりあえず、ふん縛っておくか。で、そのあと、どうする?」


 俺は紗季の用意していたロープでメフィストフェレスを縛り上げる。とりあえず、これでしばらくおとなしくしているだろう。たぶん。


桐里きりさと樹梨花きりかを探しましょう。私はあの子を救わなくちゃいけない」


 そう言われて、俺は自分の複眼を探る。樹梨花は映っていないだろうか。

 映っている。俺の複眼は樹梨花を捉えていた。

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