複眼

 ランドセルの傷と悪口が視界でいっぱいになる。それだけしか見えなくなったかのようだ。

 だが、自分の視界がそれだけではなかった。無数の視界を自分が持っていることに気づく。それは別々の場所、別々の時間を映しているようだった。


――これはまるで複眼のようだ。


 そう思いながら、別の視界を見ていく。


 紗季が教室に戻ってくると、クラス中の児童たちが紗季のランドセルに文字を書いていた。紗季は無言で彼らに近づくと、無言でランドセルをひったくった。

 そうか、こいつらがやったことか。

 紗季の表情は無表情だった。いつもの見下したような表情すら浮かべていない。


 また別の視界に移す。


 紗季が教室で仏頂面で授業を受けていた。教科書を開いてすらおらず、ノートに魔法陣を描いては、それを消し、何やら試行錯誤している。

「笹垣さん、この問題を解いてください」

 教師がその様子に苛立ち、不意に紗季に問題を解くように指した。しかし、紗季は問題を見ようともせずに即座に答える。

「250億1389万3367。こんなこと私に確認する必要ある? 低次元なことは低次元な子供たちにやらせなさい」

 教師を小バカにするような物言いだ。こんなんだから、敵を作ってしまうのだろう。


 教室で児童たちがワイワイと話している。児童たちはまばらな数しかいない。まだ朝の始業前だろうか。

 紗季は一人でむすっとしたまま座っていた。魔術書グリモワールをぱらぱらとめくって眺めている。

「笹垣さん、おはよう」

 そんな時、紗季に声をかけてくる少女があった。見たことがある。さっき通りがかった綾瀬あやせ櫻子さくらこさんだ。

 綾瀬さんに声をかけられた紗季は珍しくはにかむような笑顔を浮かべ、「おはよう」と返事をする。


 ランドセルの傷と綾瀬さんが共鳴したように感じた。新しい複眼が開く。


 綾瀬さんの裸身が見えていた。

 瑞々しく透明感のある肌、華奢で壊れそうな体。しかし、その身体から目を背けたくなる。

 その全身には無数の傷が刻まれていた。血だまりが線のように走る縫合されたような傷。それが全身の節々にある。それは生々しく痛ましい。


 この身体とランドセルの傷が共鳴していたのか。

 そういえば、綾瀬さんは全身を隠すような服装をしていた。


 その傷をつけているのは男だった。

 綾瀬さんの父親ではない。それよりかは少し若いのだろう。その男は綾瀬さんの母親の彼氏だった。

 綾瀬さんの母はシングルマザーだった。少し前に離婚し、綾瀬櫻子さんを一人で育てている。ただ、すぐに彼氏を作り、綾瀬さんは家では肩身の狭い思いをしていた。

 だが、その男はあろうことか、その娘である幼い少女にまで手をつけ、その嗜虐性の強い感情を彼女にぶつける。


 そのことを母親は知っていた。その行為が行われている物音を聞き、さめざめと泣く。

 彼氏の行うあまりにも非道な行為。娘の哀しみと痛み。裏切りと哀切。それはあまりにも悲しかった。しかし、それと同時に歪んだ感情が湧き出る。

 悲しみと嫉妬、絶望、憎悪。それは痛みとして心に刻み付けられ、その痛みに母親は快楽を抱く。彼女には彼氏の行動を止める気がなかった。


 あまりにもひどい。あまりにも残酷なことがいとも容易く行われる。

 少女には大人の男に抗う術がなかった。少女の母までが男の味方なのだ。


「大丈夫よ、私が助けてあげるからねぇ」


 だが、櫻子に救いの手を差し伸べるものがあった。悪魔である。

 誰あろう、大淫婦オノスケリスであった。

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