郷間乂摩
会社に行くと、郷間さんの噂が聞こえてきた。
あの後、救急車が呼ばれて、郷間さんを連れて行ったのだとか。どうやら、しばらく休むことになったらしい。
それに対して、俺のことは何も言われなかった。終業時間を過ぎていたし、俺がいなくなったことは誰も気にしていないかったようだ。
俺はホッとしていた。郷間さんにはいろいろな意味で会いたくない。
あの人の仕事の穴埋めをしなければならない人にとっては大変なことだろうけど、俺は自分の仕事をこなすだけだ。
正直、気分の良さしかない。
久しぶりに、のんびりとした気分で仕事をすることができた。
スケジュール通りに仕事するだけなら、まだ楽だ。
そう思っていると、いつの間にか昼休みになっていた。
今日はゆったりとしよう。そう思って、外に出る。
気づくと、駅近くに向かって歩いていた。
こっちの方向にあるのは、チェーンのラーメン屋か牛丼屋か。いや、少し割高だが定食屋もいくつかあるな。
少し迷いながらも、天丼屋に入った。天丼は具材が豊富でいろいろな味が楽しめるし、海鮮もあれば野菜もある。シャキシャキのネギが入った味噌汁も好きだった。
食券機で注文を済ませ、席に着いた。料理が来るまでの間、しばしまったりする。
「おう、
不意に話しかけてくるものがあった。隣の席からだ。
ギョッとして、声のするほうを見ると、いたのは
なぜこの人がここにいるのだろう。心臓がバクバクと鳴る。
「ちゃんと仕事進めてるか?」
郷間さんはそう言いながらニタニタとした笑みを浮かべていた。
相変わらずの様子だ。まるで、昨日のことがなかったかのように。
「郷間さんこそ、しばらく休むんじゃなかったんですか?」
少しの間でも顔を合わせずに済む。その当てが早くも外れつつあった。
だが、元気でいることは喜ぶべきかもしれない。人として。
――お前は人間じゃないだろ。
不意に野太い声が聞こえた。ギョッとする。
郷間さんの口から小さな男が姿を現していた。その男は王冠をかぶり、蝙蝠のような翼が背中に生えていて、その腕には蛇が巻き付いている。
なんなんだ、こいつは。
「いや、なに、そんな大した症状じゃなかったんでね。病院を抜け出したんだ。俺がいないと仕事が回らないだろ?」
郷間さんは口の中の男に気が付いていないようで、そのまま会話を続けようとする。
しかし、俺は口の中の男が気になって仕方がない。
プシュゥゥゥ
男が息を吐いた。それがこちらにも漂ってくると、俺はあまりの悪臭に吐き気を催した。
マジかよ、これから飯食うってのに。
あまりの臭いに食欲なんて残されているわけがない。むしろ、吐き気を抑えるのに必死だ。
「ハハハハ」
俺のそんな様子を見た郷間さんが笑った。
「アスタロトが教えてくれたんだよ。お前、悪魔なんだってな」
郷間さんは愉快そうにそう言う。
そうか、この小さいのはアスタロトという悪魔なのか。そして、郷間さんはこのアスタロトが憑りついていることを自覚している。
俺はガタッと立ち上がった。
「ここが前払いで良かった。場所、変えましょうか?
あっ、店員さん、すみません、返金は結構なんで、ちょっと急用で店出させてください」
食欲も何もない。アスタロトがこの場で何をするかわからない。とにかく、
――うふふ。お誘いいただいたと思っていいのかしら。
不意に女性らしいねっとりとした色気を孕んだ声が聞こえる。
郷間さんの口の中の悪魔はいつの間にか光り輝くような女神のような姿に変わっていた。
変幻自在に姿を変える。これがアスタロトだというのか。
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