紗季の母親

 紗季の部屋を出る。

 彼女の部屋だけでも広い部屋だと思っていたが、想像以上に立派な家だった。廊下も広く、部屋も数えられないほどにある。

 なんとなく、家人に見つかるのではないかと、ビクビクし、抜き差し差し足で歩いた。


「なに、ビビってるのよ。うちには私とママしかいないから大丈夫だって」


 紗季が冷たく言い放つ。

 彼女は棒付きのキャンディーチュッパチャップスを手にしていた。舌を出してぺろりと舐めると口の中に入れ、口の中でモゴモゴと転がしながら、そんなことを言ってくる。


 ママか。紗季の母親がいるのか。俺みたいなおっさんが小学生の部屋に入ったのを見られて大丈夫なのだろうか。普通に考えれば通報されて逮捕されておかしくない。

 これでビビらないでと言われるのは無理がある。


 そう思いつつ、掃除の行き届いた廊下をできるだけ音を立てないように歩いた。


 ギィィィ


 手前にある部屋の扉が開く。そこには女性がいた。

 おばさんでもなければ、母というのにも当たらない気がする。そんな印象だ。その女性は、まさに女性と形容すべき女性だった。


 肩ほどまでで綺麗に揃えられた髪型。部屋着だというのに清潔感のある服装。

 勤め人というには浮世離れしており、主婦というには所帯染みていない。それでいてただ若いというわけではなく、年齢を重ねた色気も醸し出している。

 属性の定められない、掴みどころのない印象を受ける。一目見た印象としては、「美女」であった。


「あら、紗季」


 紗季の母親が声を上げる。そして、次の瞬間に俺に気づいた。

 彼女は俺の体を上から下までめあげる。まるで値踏みでもするかのように。


「へぇ」


 意味深な声を上げると、すぐに興味を失ったように別の部屋へと移動していった。


 いいのだろうか。

 どう考えても、この状況で俺は不審人物だ。だというのに、関心も払わずに放置してしまうのか。

 ホッとする気分もあるが、それ以上に不気味なものを感じる。


「ねっ、大丈夫だったでしょ」


 紗季の声がかかる。

 その声色は今までのような蔑むものではなくなっていた。どこか怯えを感じる。いや、落ち込んでいるのだろうか。


 そんな風に俺が感じているのを気づいたのか、紗季はいら立ったような声を上げた。


「なによ、帰るんでしょ。門までは送ってってあげるから」


 そう言って、俺を玄関に案内する。玄関を出ると、門までは少し距離があった。

 飛び石でできた道があり、手入れの行き届いた植物が茂っている。俺にはよくわからないが、しっかりした庭園と呼ぶべきものかもしれない。


 俺はその道を歩きながら、ふと考えた。

 すべての人類を幸せにする。紗季はそう言った。けれど、現在、幸せでないのは、まず紗季自身なんじゃないだろうか。


「お前は私の第一使徒なのよ。私の役に立ちなさい」


 紗季はそう言って手を振る。その様子はなんとなく年齢相応に見え、少し可愛く見えてきていた。


 見送る彼女の姿を眺めながら、ふと気づく。表札には「桔川」と書かれていた。

 彼女の名乗った名前は、笹垣紗季。なぜ名前が違うのだろう。違和感があった。

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