悪魔学入門

「あ、何か言いたいんじゃない? 喋っていいよ」


 女の子が言った。

 それを聞いた瞬間、呪縛が解けたように、彼女の言葉を待とうという意識がなくなった。


「いやっ、ええぇ……。何が起きたかわからないんだけど。

 俺、会社にいたよな。で、今どこ? あの、ここはどこですか?」


 俺は混乱したまま、どうにか状況を把握しようとする。けれど、何もわからない。口から出たのは実に間の抜けた言葉だった。


「ここは私の家よ。東京の螺片にしかたってとこ。

 そんなこともわからないの?」


 少女の顔が強張る。そして、汚物を見るかのようにその視線が険しくなった。


「お前さ、悪魔でしょ? ねぇ、そうだって言いいなさいよ」


 俺は何も言えない。俺は悪魔だ。そう実感しているのも事実だが、それ以上にこの状況は受け入れられなかった。

 すると、女の子の強気な表情が崩れ、少しだけ泣きそうになったように見える。


「ウソでしょ……。やっとの思いで魔術書グリモワールを読み解いて悪魔召喚に成功したと思ったのに。

 こんな、おじさんを呼び出しただけだっていうの……」


 その目からは涙が溢れてくる。

 それを見て胸がギュッと締め付けられた。アワワと慌てつつ、どうにか宥めようとする。


「あ、そうだよ。俺は悪魔なんだ。といっても、ついさっきそう自覚したばっかりなんだけどさ。

 ははっ、おかしいか、こんなおっさん」


 俺がそう言うと、ニタァと女の子は笑った。


「でしょ。でも、おじさんは何の悪魔なわけ? 名前を教えてよ」


 そう言われて少し詰まる。答えていいものか。

 しかし、状況としては少女の部屋におっさんが一人で上がり込んでいるというものだ。できるだけ堂々としておきたかった。


「俺は大炊おおい旺太郎おうたろう。サラリーマンだ。悪魔歴は五分くらい」


 それを聞き、少女は訝し気な表情をする。


「何それ? 暗号なの?」


 しかし、気を取り直したのか、その嗜虐的な瞳を俺に向けると、宣言するように語り始めた。


「私は笹垣ささがき紗季さき。この世界を救うために生まれた天才的悪魔使いなのよ。私がすべての人類を幸福に導くの。悪魔王女とでも呼びなさい」


 荒唐無稽な言葉のように思える。

 しかし、その言葉を発した悪魔王女――紗季からは理知的な美しさを感じた。俺は稲妻に打たれたように彼女に魅せられていた。


     ◇   ◇   ◇


「けどさ、俺は悪魔が何なのか、よくわからないんだよね。成り立てだから」


 何の気なしに呟いた一言だったが、それに対し、悪魔王女こと紗季は信じられないものでも見たかのような表情をする。


「本気で言ってんの? 信じられないんだけど」


 紗季は俺のことを足元から頭まで舐めるように見つめると、すぐに、納得したようにうんうんと頷いた。


「成り立てっていうのは有り得ないけど、覚えてないっていうのならあるのかも」


 そして、人差し指を頬に当てて、思案するように言う。


「そもそもさ、悪魔って何なんだ。紗季は召喚なんてやってるみたいだけど、悪魔のこと知ってるのか?」


 それを聞いて、紗季は不機嫌な表情を露わにした。

 しかし、すぐに表情をにこやかなものに切り替える。


「しょうがないな、教えてあげる。

 悪魔の成り立ちは二つあると言われてる。堕天した天使か、堕落した神かね」


 そう言った彼女の瞳から光が失われる。


「堕天使は神への反逆者よ。神の威光に異を唱え、その剣を神に向けたるもの。

 その罪深さゆえに、天使としての純粋さを失い、神の裁きで呪われた肉体を持ちたるもの。

 堕天使はいつしか悪魔と呼ばれた」


 暗い瞳のまま、紗季はせせら笑う。


「そして、天界の意志を統一した神は全知全能を名乗るようになる。唯一神とね。

 そうなると、同じように人々に信仰される神を許せなくなるのよ。神は神に戦いを挑み、破れた神は悪魔へと堕落させられた」


 ここで一呼吸した。そして、俺に冷たく澱んだ眼差しを向ける。


「あなたはどちらなの? 何ていう悪魔なのかしら。

 ねぇ、大いなる旺太郎」


 ここでようやく俺の顔を踏みしめていた足をどけた。俺はようやく立ち上がる、というかその場に座り込む。

 紗季の顔が俺の顔に近づいてきた。そして、その手で頬から顎にかけてを撫でる。

 しかし、そんなことを言われても俺には見当もつかない。知らないことだった。


 俺がキョトンとしていると、やがて、紗季は溜息をついた。


「そう、わからないの。でも、仕事だけはしていってね。

 あれをやっつけてよ」


 そう言うと、天井に張り付いている悪趣味な建築物とカラス人間を指差した。

 いや、あれはただの装飾品ではない。動いている。

 あまりに違和感が大きいため、頭の中で飾りに過ぎないと勝手に処理していたんだ。


「え、いやです。気持ち悪いから」


 俺はかぶりを振った。

 すると、紗季はジロリときつい視線を向けてくる。

 そして、手に持った本――魔術書か?――を開くと、呪文のようなものを唱えた。


絶望の名において命じるエロイ・エロイ・リマ・サバクタニ敵対するものサタンの放った魔を撃ち滅ぼしなさい」


 彼女と魔術書が輝く。おかしな話だが、俺にはそう見えた。

 そして、その瞬間に力が溢れてくるのを感じる。天井に張り付いた悪魔を滅ぼさなければならない。奇妙な意欲モチベーションが湧いてくる。


 しかし、俺に一体何ができるというんだ。

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