第26話 予感

 ドラマ化の情報がリリースされてからというもの、翔真にとっての一週間は概念が変わり、体感で伸びたり縮んだりを繰り返している。


 情報解禁から放送開始までは焦げつくようにじりじりと長く、初回が終わってしまえば瞬くスピードで速く。


 第二話の放送日はあっという間に訪れた。


『大丈夫、あの人は来てくれる』


 夜を煮詰めたように暗い高架下でソラは雨をよけながら、夢を幻を見るほどすっかり惚れ込んでしまったガイを待っている。


 年齢や仕事といった素性どころか、名前もまだ知らない。

 頼りになるのは、生まれた時代がずれていれば国が傾いただろうほどの美しい顔。

 一目見たときの記憶だけ。


 その輪郭を脳裏になぞっていると待望のガイが現れるのだが、手放しにソラは喜ばない。

 わずかに残った意地が「……遅いよ」と、その到着を拗ねたように責めさせるのだ。


 二人はそのあと、ざあざあ降りの雨の中を相合い傘で歩く。その場面を観ていたら、


「集中してるね」


 ふと暁が囁いてきた。


「え、俺?」

「息してなかったよ」

「それは盛りすぎ」


 死ぬのでさすがに呼吸はする。


「でもめちゃ熱心に観てた、平岡くんのこと」

「……平岡?」

「うん。平岡くんの演技を」

「誰が」

「翔真が」


 はぁ? と思ったが、暁は勝手に納得して続ける。


「わかるよ。平岡くんってすごい魅力的だもん」

「いや俺はドラマを観てるんであって平岡を観てるんじゃ……」


 その点は絶対に訂正しておきたい翔真を置き去りに液晶画面の中では物語が進んでいて、別れがたそうにソラがガイへ手を振っている。


 自分を見送るソラの視線をガイは背中で感じ取っていた。

 しばらくして歩いたあと振り返り、ソラが家へ帰ったことを確かめると、ガイは誰かと通話を始める。

 通話相手とは落ち合うための連絡をしていたらしい。

 雨に濡れながら自分を待っていた待ち合わせ相手にガイは走っていき、傘を傾けてやる。

 ソラから借りた傘の下で、ガイと待ち合わせ相手はキスをする。


「格好いいしね」


 どういうつもりで言っているのか、翔真は暁の横顔に考えた。


「いつも面白いことばっかり言って周りのこと楽しませるけど、本業のセンスもいい」

「芝居?」

「勘が優れてるんだと思う」


 何様って感じだけど、と暁は自身の発言に笑う。


「でも、勘なんだろ?」


 暁のように同業者でもなければ、わずかばかりも演技論を知らない翔真だが、なぜだが食ってかかりたくなった。


「センスがいいって、まぐれかもしれないじゃん」

「ガイがたまたまハマリ役なだけだ、って?」

「だってまだ平岡は駆け出しの俳優なんだし」

「芸歴は関係ない」


 きっぱりと暁は言った。


「いい意味でも悪い意味でも、実力主義の世界だから」


 ドラマを観るとき暁は照明を落として部屋をシアターみたいにするから、暁の瞳には液晶画面がチップみたいな大きさで映る。

 物語の世界。暁や平岡が構築する世界。


「たしかに平岡くんは俳優になったばかりだけど、俳優になったばかりだからこその強みがあるよ」

「強みって?」

「武器とも言えるかな」


 暁がそういう表現をするなら、角膜に投影される小さな四角は戦いの世界であるのかもしれない。


 自分自身なのか。

 暁にとっての平岡、平岡にとっての暁、といった共演者なのか。

 それぞれが武器を持ち寄って挑む相手については、わかりかねたけれど。


「平岡くんには過去がないから制限もないんだよ。現場で浮かんだアイデアも自分の引き出しから取り出したものも、何だってそのまま芝居にぶつけられる」

「暁もそうしたらいいのに」

「俺は無理」

「どうして」

「今の平岡くんみたいに、演技に無邪気になれる時期が許されたのは小さかったときまでだよ」


 自分にはもう過ぎている。

 言外にそんなことを言われると、劇中の平岡を観る目線について身勝手にも推測してしまう。


 そんな翔真の思考を察したように、明るく暁は笑ってみせる。


「あー、待って。なんか言い方が悪かったかも。これだと平岡くんがひよっこってみたいに聞こえそう」

「いや。言いたいことは、わかるよ」

「そう?」


 うん、とうなずいた。

 言わんとすることはわかる気がした。


「平岡くんを見てたら刺激になるんだ」


 画面を観たまま、染み入る口調で暁は言う。


「芝居のスタイルも全然俺とは違ってね。平岡くんって、台本の台詞と台詞の間にメモ書くんだよ」


 暁は上下の余白に書く。


「しかも書いてるのは独り言らしくて」

「独り言?」

「台本貰って、まずは相手との掛け合いを全部一通り読むでしょ? そしたらその次、平岡くんは相手役の台詞を全部スマホに録音するんだって。自分の台詞の箇所は無言のまま、読むのにかかりそうな秒数を置いてからまた相手の台詞読むらしいの。で、それを再生するときは自分が演じるキャラクターの立ち場になって、『夜明け──』の場合だとソラの台詞を聞いたときにガイの心に浮かびそうな独り言を書いておくみたいでさ」


 理解できないことには『なんで?』とか、イラッとすることには『うるさいな』とか、等身大の気持ちを喋り言葉で書き留めるのだという。


「そういう方法で台詞を物にする人に会ったの初めてでさー、実践するかどうかは別として圧倒されたよ」

「勉強になる?」

「すっごく。同世代の人が集まる現場は今までもあったけど、役者同士でがっつり関係性深めて作品作るっていうのはなかったから新鮮で。普段はおもしろおかしいこと言うけど、平岡くんって芯の部分では真面目な人なんだよ。芝居好きなんだろうなってひしひし伝わってきて。だから休憩時間なのに、現場にいるときは俺たちずっと仕事の話ばっかりしちゃって」


 暁は嬉々として平岡の人物像を語る。


「……よかったな、楽しそうで」


 言った直後で、えっ? と思った。

 聞かされた側はもっと驚いただろう。


「あ、ちが──」

「ごめん! ごめんごめん、ごめん。俺のドラマ観てくれてるのに、ぺちゃくちゃ喋ったら邪魔だよね」


 邪魔だったよね、と暁は言い換えた。

 もう、エンドロールが流れる時間だった。


「明日の撮影の入り早いから。俺、寝るね。おやすみ」

「……うん、おやすみ」


 暁が履くルームシューズの足音が遠ざかっていく。

 動揺は後悔になって翔真の胸に滲み出す。


 ──なんで平岡の話になると、自分はこんなふうに……


 二十数分間の本放送が終わり、画面では次週予告が流れ始めていた。

 予告でガイは、血管が浮き出て男らしい手をソラの後頭部にそっと沿わせ、ソラに当たるすれすれのところまで唇を接近させる。


 キスをするのかしないのか。


 盛り上がるところで映像はぷつんと切れて、来週までのお楽しみ感が演出されるというのが第二話の全てだった。


 キスは、するだろう。だって先週の今頃に、


 ──明日の撮影、キスシーンなんだよ


 そう言って暁がネタバレをしたんだから。確定だ。


『夜明けを君と過ごせたら』はガイとソラの性愛を描く漫画。


 ドラマはその実写版、だけれども。自分でもそのうっかり度合いには驚愕してしまうけれども。


 翌日の予定にキスシーンがあると聞かされた──そのときの、その瞬間まで。

 いや、耳にしてからもしばらくの間までは。


 ソラのキスは演じる暁のキスでもあるという笑えるくらいの当然が、翔真の中では一つのこととして重なっていなかった。


 もっと言うなら今しがたの予告で未遂をこの目にしてようやく、暁と平岡はキスするんだ、あいつらってもうしたんだ、と中坊的発想に思い当たったくらいだ。


 ソラとガイがキスやキスよりもっと全身にわたる行為に及ぶというのは、原作を読んでいる翔真だから把握済みなのに。


 ソラは暁の役と理解しているうえ、平岡という相手役のビジュアルが明らかになっているんだから、想像は視聴者の誰よりも具体的になりそうなものなのに。


 事実同士の接続が悪かった翔真の頭だが、弁明するなら暁の妙な意図を言い訳にしたい。


 ソラが出てくるーンといえばもう一人の主人公であるガイとの共演がほとんどだというのに、家にて暁が台詞を実動で練習するとき、翔真に割り当てられるのはガイ以外の役ばかり。


 だから『夜明けを君と過ごせたら』の台詞合わせに翔真の出番は少なく、なんなら最近じゃ、台詞練習そのものにお呼びがかからない。


 理由は怖くて未だ聞けていない。

 ドラマの放送日がたずねやすいだろうと思っていたのに、さっきも予告が始まる前には線香の煙のように姿がなくなっていた。


 後枠の通販番組をぼうっと観ながら、放送終了したてほやほやの第二話を思い返す。


 高架下の場面については練習をしたから既知だったが、その先。

 唯一の傘を貸すというソラにお礼としてガイが抱擁をしてやる展開があるとは知らなかった。


 ──よし、今日はここまで

 ──ガイの家に行くまでのシーンでしょ、そこを撮るのはまた後日


 と暁によって中断されたまま、台詞合わせはあやふやな終わり方となっていたから。


 そして知らぬうちに第二話は完成して世に出て、あれほど翔真に練習への協力を躊躇わせた暁のドラマはBLという意識もすっかり薄れてしまっていたのだった。




 

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