【Ep2】

第10話 暮らしは穏やかに

 その朝、翔真が鏡に反転した自分とタイマンを張っていると、端からひょっこり暁が姿を現した。


「高山くんー? 早く準備してー、全然余裕ないよー」

「マジ? やっべ」

「いや嘘うそ。家出るの何時?」

「八時」

「じゃあ大丈夫。今七時半」


 翔真はほっとして、洗面台のへりへ手をついてうなだれた。

 宙ぶらりんが邪魔でワイシャツの胸ポケットに突っ込んでいたネクタイが、だらんと垂れる。


「なんだよ……てかその口調何?」

「マネージャーのものまね。全然煽る気ないよね」


 アクセントの起伏がなく間延びした口調は、急かさないというより、他人行儀な聞こえだ。


「入学式だね」

「そう……」

「話聞いてないね」

「聞いてない……あ」


 適当な返しをしていた。鏡を介して暁と目が合う。怒っていない様子で微笑まれた。


「こういうの器用にできる人ってすごい」


 洗面台と壁を使って立てかけたスマホに、暁は言う。

 端末で再生されているのは男の美容師が自分の髪を練習台としながらヘアセット方法をレクチャーする動画。


「駄目だ、全然同じようにならない」


 翔真は鏡から離れると、まぶたをぎゅうっとつぶる。開く。眼輪筋ストレッチ。上目遣いの状態でずっといたのでズキズキする。


「やったげようか」


 画面の中の美容師と同じ動きをしながら暁はケラケラと笑った。

 おふざけの提案だと、翔真には通じていたけれど、


「やって!」

「えっ」

「好きにいじっていいから」

「好きにって……」

「頭貸すし!」


 はい、と翔真はお辞儀のポーズをとり、格闘したものの納得いかない髪型の修正を依頼する。いきなりつむじを見せつけられた暁は「えぇ……」と困惑している。


「他人の髪セットしたことないんだけど」

「いいよ別に」

「自分のもヘアメイクさんにしてもらうくらいで──」

「じゃあ感覚は目で見て覚えてるってことで! 頼む!」


 小さく息を吐き、観念する気配がした。


「頭上げて」

「はい」

「目は閉じなくていい」

「はい」


 ワックスでゆるく固められた髪に、そうっとした重みがかかる。

 ときどきスマホに振り返って工程を確認しつつ、暁は翔真に向き合う。それがあまりに真剣だから翔真は目を伏せ、息をするのも控えた。


「どう?」


 完成したらしい。視線は髪に留めたままたずねられた。

 鏡に向き直るとそこに映る翔真は、たった数十秒の手直しで動画に限りなく近い髪型となっている。


「お前……手先まで器用なのか」

「まぁねー、とか言っちゃって。細かい部分はうまくできなかった、ごめんね」


 とは言いつつ、本人から見てもなかなかの出来だったのか、暁は上機嫌な様子で翔真から移ったワックスを手のひらに馴染ませ、髪をかき上げる。


「仕事?」

「ううん、今日は休み。散歩でもしようかなって」

「そっか」

「家出るとき声かけて、一緒に降りる」


 わかった、と翔真の返事は暁がひねった蛇口の水音に混じった。ちゃちゃっと手を洗うとスタンドから歯ブラシを抜き、歯磨き粉を練り出す。


 慣れないミントの香りに、これが人と住むことなのか、なんて思う。暁が使う歯磨き粉は翔真の実家のとは違う。

 そこで生まれ育ち、先月までは当たり前として暮らしていた場所を実家とみなすようになったことにも、新生活の始まりを実感したり。


 同居生活が始まって一週間と少し。

 暁との生活は穏やかで楽しい。


 まだ始まったばかりだからか、宿泊行事の日のようなワクワクした気持ちがずっと続いている。


 *


 暁の準備も整ったので部屋を出た。

 エレベーターまでの共用通路を歩いていると、前髪にちょこんとリボンを結んだシーズー(犬の前髪とは)を連れたおじさんが前からやってきてすれ違う。


 離れたところからこちらを一瞥したときには、暁が宇部暁であることにおじさんは気づいている様子だったが、会釈。

 おじさんの対応はあくまで同じ階の住人として、だった。おはようございますと返す暁に翔真も続く。


 十五階建てのマンションら防犯面を考慮して事務所から用意されたのだと暁は言っていたが、選定にあたっての理由は他にもあったと思う。


 さっきのおじさんしかり、慣れているのだ。

 このマンションは芸能人御用達なんだろう。だから暁とすれ違っても驚かない。日常茶飯事だから。


 自分が知らないだけで、さっきのおじさんが有名人の可能性だってあるよなと気づいたところで、しゅるしゅるとエレベーターが降りてくる。


 わずかに緊張して唇を内側に巻き込んだが、滑らかに開いたドアの奥は無人だった。誰かがいたらと期待半分不安半分だったのが恥ずかしい。

 でもそういう、もしものシチュエーション、に遭遇したときは動揺が表れないよう気をつけよう。翔真は心に刻む。

 秩序は守らないといけない。暁のメンツも。


「なかなか似合うね」


 自分たちを乗せた箱が動き始めたころ、黒の上下にストライプの紺ネクタイ姿を褒められた。


「くたびれてる、じゃなくて?」

「え?」


 半笑いで見られる。


「スーツ買いに行ったとき、家族に言われたんだよ。社会人五年目って」

「五年目?」

「失礼だよな? まだフレッシャーズにもなってねぇよって」

「はは。それだけ様になってる、って受け取っとこ。翔真は背高いし、ガタイいいから」


 と言って慰めつつも、「五年目」のワードは暁のツボに入ったようだった。

 呟いて繰り返し、くくっと笑ったあと、パーカーの襟にかけていた黒縁メガネを装着する。


 階数表示の数字が小さくなっていき、目的の地上階への到着が静かに知らされた。


「じゃあ、入学式頑張って」

「何を頑張んだよ」

「んー、後ろにいるお母さんのほう振り向かないように?」

小一しょういちか」

「ふふ、キレッキレだ」


 それじゃあを挨拶にマンションの敷地から出ていこうとするとき、暁は周囲をチラチラっと確認した。その動作は無意識的なもの。


 駅から反対方向に進んだ暁へ振り返る。

 素顔じゃ散歩さえ自由にできないんだろうか。

 それってすごく窮屈なんじゃ──思ったけれど。


 暁からすれば、苦痛に及ばないことなのかもしれない。

 あいつとはずっと友達だけど、あいつはずっと芸能人でもある。


 ふとした暁の行動に、今さら実感させられる思いだった。

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